C.O.PことCORRUPTION OF PEACEとは、広島から上京して活動を続けていたGASを脱退した山上氏(G)と村田氏(Ds)が、広島時代のGASにもギターで参加していた自我と言うバンドのギタリストである後藤氏をベーシストとして迎え、そこへ当時高校生だった日本在住アメリカ人のKEVIN氏をヴォーカリストに加えて結成されたバンドである。
なお、同バンドは先日、突然の再結成ライヴを行ったかと思うや、各種オムニバス参加作品を除けば唯一の単独作品である1985年12月に発売された1stアルバム「CONFUSION」に、ボーナス・トラックとしてライヴ音源を数曲プラスしたものがCD化され、更には今後もライヴ活動を継続して行くとの事。そこで私は、いずれは書こうと思っていた彼らに対する思いを、この機会に発表する事にした。
まず初めに、彼らは実に不遇・・・と言うか、長らく正当な評価を受けていなかったバンドであり、活動時期が短かかった事もあるが、今にして思えば自主制作レーベルから発売された日本のハードコア・パンク・バンドによる初のフル・アルバムであったにも関わらず、そのアルバム発表前後には既に解散してしまっていた事から、ライヴ活動による人気獲得の相乗効果も得られず、更にはアルバムのジャケット・デザインがモノクロ写真を使用したいわゆるハードコア・パンク然としたものではなく、カラフルなイラストが使用された当時としては画期的かつ斬新なものであった事も災いし、長年に渡って新品/中古レコード市場においてもハードコア・パンク好きなリスナーから購入を敬遠され、なかなかその内容の良さが認知されにくい状況が続いていたのであった。
・・・ところで私はと言えば、CD化される以前から、本アルバムをレコードからMDにダビングしたものをしょっちゅう聴いてたし、当時も、同郷である広島出身のGASや自我に思い入れが強かった事もあり、東京で行われた彼らのライヴには情報を知り得る限りすべて足を運んでいた程のファンであったので、突然の解散を残念に思った事はもちろん、その後の世間からの評価・・・と言うか、そもそもの彼らに対する認知度の低さには常に歯がゆい思いをしていたがゆえに、今回のCD化~活動再開をきっかけとして、彼らのカッコ良さがもっと多くの人に伝わる事を真に願う次第なのである。
さて、それではライヴに通っていた者として、当時の状況を振り返って説明するならば、基本的なライヴ活動は事務所・・・と言うか、メンバーの一部がそこで働いていた関係で、彼らのアルバムを発売したレーベルでもあり、その活動を強力にバック・アップしていた原宿のパンク・ショップ“JIM’S INN”企画によるイベントが主で、その中でも特に鹿鳴館で行われた数回のライヴでは、今回のCDのボーナス・トラックでも聞かれる通り、他のバンドに比べて外人客の数がとりわけ多かったのは事実であった。ただし、その理由としては先にも述べた通り、彼らの人気や評判が世間一般に広く認知されていたゆえにではなく、あくまでも極一部の人達に知られていたに過ぎない状況であった事からも、あの外人客達の殆どは、おそらくヴォーカルのKEVIN氏の友人であったり、あるいはJIM’S INNの常連客であったのではなかろうかと推測される。また、実際に彼らの演奏が素晴らしかったと言う事はもちろんであるが、彼ら外人客は日本人の様に人目を気にする事なくライヴをエンジョイする事に慣れているせいか曲が終わる度に大声で歓声(奇声?)を上げたりするため、当時の他のハードコア系のライヴと比較し、やはり会場内が異常な盛り上がを見せていたと言う事も、これまた紛れも無い事実であった。
ゆえに、もしもC.O.Pが、あのまま活動を続けていたなら・・・否、運命に「もしも」は無いが、そのサウンド・スタイルやファッション・センス等から、彼ら同様にUSタイプのハードコア・パンクの先駆者と称されている、かのLIP CREAMとも人気度や知名度において双璧を成すバンドになっていたであろう事は想像に難くなく、私は今でもそれが残念でならないのである。
次回は、そんな彼らのカッコ良さを、そのサウンド面から分析してみたいと思う・・・。
(つづく)

上の画像は、1983年5月19日、WOODY STREETにて行われた、“ストリッパー”(レコードも出している京都のストリッパーとは同名異バンド)のライヴ告知フライヤー。おそらく、5月8日に同所で行われた「広島RockersⅡ」にて受け取ったものと思われる。
そして秋。1983年9月24日、やはりWOODY STREETで行われる“ストリッパー”のライヴの前座に、後藤氏のやっているバンド、“エクスクレイト”が出演すると言う。「観に行こうで~」と、ヤブキに誘われた著者は、二つ返事で同意。この日、“自我”の前身である“エクスクレイト”のライヴを初めて観る事となった。
ところで、改めて考えてみると、ストリッパーと言うバンドは、この時代に既にワンマン・ライヴを何度かやっているのだろうから、かなり活発に活動していたんだなと思い知らされる。確か、ずいぶん後に東京の新宿LOFTにも出演しているはずだ。また、フライヤーに使われている写真からも想像出来る通り、ヴォーカリストがギターも弾くと言う、いわゆる、ザ・クラッシュ~ハートブレイカーズ~ザ・モッズ辺りの音楽性だったものと思われる。(著者は、同バンドを3度も観てるはずなのに、全然覚えて無いのであった・・・。)
さて、肝心のエクスクレイトであるが、メンバーである後藤氏及びヴォーカルの瀬川氏に対しての著者の印象はと言えば、彼らは、とにかくスリムでスタイリッシュで、この日もそうだったかは25年近くも前の出来事ゆえ定かではないが、革ジャンにブラック・ジーンズと言った当時のUKハードコア・パンク風なファッションが、実にサマになっていた事が思い起こされる・・・。
そして、いよいよライヴが始まった。音源が残ってないので、あくまでも断片的なメモと記憶から説明するしかないのだが、この日観たエクスクレイトの音楽は、まごうかたなきハードコア・パンクであり、しかも、全曲がオリジナル曲であった。半年前に観たGASは、まだスターリン等のコピーをやっていたゆえ(←ただし、この時期、既にオリジナル曲も演っていたかも知れないが・・・)、少なくとも著者にとってのエクスクレイトとは、広島で初めて観た、“オリジナル曲のみを演奏する”ハードコア・パンク・バンドと言う事になるのであった。
また、もう少し具体的かつ詳細に、その音楽性を解説するならば、楽曲のテンポはカムズほどの超性急なものではないが、チフスのソノシート音源をもっとハードにし、かつ初期ガーゼのポップさを少し抜いた、ひたすら前に突き進む様なサウンド、そして間奏にはシンプルな初期ディスチャージ風ギター・ソロ・・・テナトコであった。その辺りを、歴史的な面から見て考えれば、時期的には、ADKレコードから発売されたハードコア・パンク第二世代を集めたオムニバスEP「NEO PUNK DISORDERLY」収録バンド等の音に近いものだったのではないだろうかと推測される。
なお、自我の1stソノシートでは“AN”と表記されているヴォーカルの瀬川氏は、GASの狂平氏の様にドスの効いた迫力ある声ではなく、どちらかと言えば線の細い声質で、そのせいもあったのか、彼らにはジャパコア特有のバイオレンスチックな荒っぽさはなく、更に言えば、この時にはまだ演っていなかったが、同ソノシートに収録された楽曲からも伺いしれる通り、辛辣ながらも個人的な視点に立って書かれたニヒリスティックな歌詞のイメージとも相まって、スピーディかつ攻撃的なサウンドでありながらも、エクスクレイト(及び自我)は、どこかクールだったと言う印象が、筆者の記憶には強く残っている。
思うに、後藤氏は、どちらかと言えば純粋に音楽志向であったと言うか、パンク・ロックやハードコア・パンクの持つアティテュードやメンタリティよりも、むしろ、その刺激的で破壊的なサウンドにこそ、その魅力の本質を見出していたと言う事なのではないだろうか。その後の自我や、現在も活動中のBAREBONESの楽曲や演奏を見聞きする度、筆者には、そう思えてならないのである。
更に、実は、この日のライヴ前には、バンド名を“エクスクレイト”から“自我”に改名する事が既に決まっており、同時にベーシストも脱退すると言う事から、ライヴ終了後にヤブキが誘われ、同バンドに参加。よって、正確に言えば、この日から“自我”が活動を開始する事になるのであった。
(つづく)
え~、時は1983年、夏の事でありマシタ。
ある日の事。私と一緒に、あるいは別個にバンド活動をしていた高校時代の友人らが、今度、新たにバンドを結成してライヴを演ると言う。・・・って、ライヴと言えば聞こえは良いが、ライヴハウスに出る訳ではなく、夏祭りみたいなものに出るトノコト。そこで、暇な私も見物に行く事に・・・。
1983年7月30日、大野公民館前(野外)「のーりょー祭」での出来事。
さて、彼らの組んだバンドの名前は、“SKIN-HEAD”と言うものであったが、私の記憶では、メンバーの誰一人として坊主頭はおらず、もちろん、Oiパンクなぞ演ってるはずも無い訳でありマシテ、しかも、演奏曲はスターリン2曲とモッズ2曲をコピーすると言う、両バンドの立ち位置を正確に把握している者であれば、絶対にあってはならない組み合わせなのでありマシタが、当時の一般ロック・ファンの認識とは、およそ、そんな所でありマシタ。
しかし、そこで私は、歴史的に貴重なバンドを目撃する事とあいなったのである。
当日の出演バンドは、ハートノイズと言う、以前にも登場した佐野元春のコピー・バンドの他は、SKIN-HEAD以外に、もうひとつ、パンク・バンドが出演している事が、私のノートには記されているが、それが、今回の主役となる、“CORE”であった。
そのバンド名の由来が、“ハード・コア・パンク”の“コア(CORE)”からであろう事は、当ブログをご覧の皆様とて、想像に難くないであろう。
また、この日の資料は、どうしても見つからなかったのだが、当日には、全出演バンドの演奏曲目を書いたチラシかパンフが配られ、COREの演奏は5曲記載されており、1~2曲目と4~5曲目は見覚えのあるタイトルだったので、時期からして、おそらくガーゼやカムズのコピーであったはずだ。そして、残りの3曲目だが、これは推測するに彼らのオリジナル曲で、「こけティッシュ」と言う、コケティッシュとティッシュ・ペーパーをひっかけたと思わしき曲名であった。ご存知の通り、駄洒落好きな私は、そのセンスにいたく感心し、それゆえ、そのタイトルだけは、記憶の片隅にしっかりと刻みこまれていたのだ。
・・・でも、どんな曲だったかは、全然覚えてないんだよね~・・・。(^^;)
ところで、私の友人の説明によると、COREのドラマーは、大竹駅(私の地元ね)のすぐそばにある、宝石屋の息子だと言う。ちなみに、その宝石屋とは、3階建てくらいの細長いビルの1階にあり、3階を見上げると、窓からドラム・セットが見える事から、以前から私達の間では話題の的になっていたのだ。そして、その宝石屋の息子こそが、GASの初代ドラマー(~最後期にも再び参加)である、福重氏なのであった。
なお、観には行かなかったものの、翌月、大竹市総合市民会館にて行われた、「大竹市勤労青少年ホーム ’83LAST! SUMMER CONCERT」にもCOREは出演しており、何故か、私の手元にパンフレットが残されていた。更に、同パンフの、COREの紹介ページには、「大竹で数少ないパンク・バンドです。よろしく。」とのメッセージの他、メンバー全員の、おそらく本名であろうフル・ネームが掲載されており、そのお陰で、COREのギタリストが、元GASの初代ギタリスト氏であった事も判明したのである。
よって、最近になって初めて解った事なのだが、要するに、COREとは、GASを抜けた彼ら、初代ドラマーの福重氏と初代ギタリスト氏の二人が新たに組んだバンド・・・と言う事になるのであった。
念のため、当日の共演バンドを記しておくと、アディアプトロン、ウイザード、足跡バンド、CORE、CRAZY TRAIN、OSB、紫姫舞、OFS、栄町エキスプレス、居候、以上10バンド。CORE以外には、パンク・バンドらしき出演者は居ないが、割とロック系のバンドが多く、強いて挙げるならば、アディアプトロンはキーボード3名にドラム1名、うち3名がヴォーカルと言う編成で、なかなか異色な存在と言えるだろう。
★以下は、文中に登場するパンフレットの表紙と目次ページ。

(つづく)
★次回、いよいよ、“自我”の前身である、エクスクレイトのライヴを観る事に!!