Mr.エレクトの独り言 2003年11月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

言葉、歌詞考

私は、どちらかと言うと言葉の人だった。だから、ロックにせよ、歌謡曲にせよ、言葉のセレクト、用い方、歌詞には非常にコダワリをもって接してきたつもりだ。しかし、ここの所、言葉に対しての不信感と言うか、無力感を如実に感ぢ始めている。

数ヶ月前に、イスラエルの舞踏グループ「シアター・クリッパ」の人達と、来年も木幡と共演する、やはり舞踏家である工藤丈輝氏の共演に、木幡がバックの演奏で参加した舞台を観たのだが、舞踏初鑑賞の私にとっても、これは実に素晴らしいものであった。抑制の効いた、緊張感あるステージ、想像力を刺激するパフォーマンス。舞踏ゆえ、当然なのだが、言葉、言語は一言足りとも登場しなかった。

そして、終演後、初対面の工藤氏に、私は様々な言葉を用いて賞賛を口にしたのだが、自分がいかにうわっつらだけの薄っぺらい人間であるかを、ことさら宣伝しただけの様な気がして、とても恥ずかしくなった。

マラソンで一位になる、あるいは完走するだけでも、実際に行なうのは楽では無い。しかし、「私はマラソンで一位になった」と言う言葉を口にする事は、実にたやすく、嘘でも言える。しかし、いかに巧みに言葉を弄しても、実際にマラソンを完走した人には敵うべくも無い。

うわべの、浮わついた、うつろいやすい言葉と言うモノは、しょせん代用品でしかない。現実に肉体を酷使、あるいはこころをすり減らした人間同士でないと通ぢない事もある。

逆に言えば、だからこそ、言葉に対して、もっと責任を持つと言うか、慎重に接する必要がある。

その言葉の持つ表面的な意味合いでは無く、何故、その言葉を選んだのか。その言葉を用いるに至った必然性。動機、意義、意図する所に注目したい。

はぢ(恥)まり・・・

音楽を始める人よ、必要に迫られた衝動、衝動に基づく必然性が無いならやめとけ。

始まりは下手でも良い。否、下手で当然。やり始めは、人の真似でも何でも、とにかく、強く“やりたい気持ち”があれば、それで良し。

だが、持続するのは楽ぢゃ無い。もちろん、ただ続けるだけなら可能だが、そこに価値、意味、意義は無い。

真に、当初のスピリットを持続しているのなら、演奏技術は向上するはず。あるいは、表現の幅は増すか、更に深く、表現したい真の姿に迫ってゆくはずだ。

仮に、変わらない事を目標にしていたとしても、現実に体力は衰え、情熱も冷めていくのが普通なのだから。

趣味なら良いのだ。こちらも素直に楽しめる。

日本は中途半端に裕福で、中途半端に貧しいからイカン。

こころの飢えに気づかない。



★この日記、怒ってばっかで、自分でもたまに、みっともないかな~と、思ったりもする。でもな~、やっぱどうしても納得出来ないんだよな~。

復刻ブームについて・・・

昨今は、昔の音源がどんどん再発されたり、発掘されたりしているが、私は、基本的に、これを良しとしている。いつの時代のものであろうが、それが良いものであるなら(否、どんなものであれ)、触れる機会を増やす事は悪くない。中古レコード屋を経営してはいるが、廃盤レコードのプレミア価格が暴落したって構わない。

だけど、当時感ぢた良さのすべては、絶対伝わらないと思う。別に、自分の時代が良かっただなんて言いたいのでは無い。私にしても、日本のハードコア・パンクの台頭は、地方に居ながらも雑誌の記事やレコードの通信販売、テープの交換等で味わう事が出来たが、東京のバンドのライヴを観る事が出来たのは(スターリンはツアーで広島にも来たが)、1984年に上京してからがやっとだった。ビートルズの登場の意義や、パンクの誕生、日本のグループ・サウンズ全盛期等にせよ、当時味わった人とは、やはり、印象にかなりの落差がある様に思う。

スターリンを例にとっても、大暴れしてる頃に実際ライヴを体験した人、私の様に通販で買った「trash」の“悪意”にショックを受けた人、メジャー・デビューLPの「STOP JAP」にハマッタ人、再結成から溯った人、日本のパンクの元祖として接した子達・・・と、様々である。仮に本質が変わっていなければ、いつ聴いても同ぢはずだが、純粋に表面的な音の傾向で音楽を聴く人もいるから、時期が同ぢでも、人それぞれである。

私が、“いぬん堂”と言う復刻レーベルに敬意を抱いているのは、ただ単に、骨董品を再生するのでは無く、自分が感動した気持ちごと、音楽を現代、そしてこの先も、きちんと残そうと言う意欲が感ぢられるからだ。もちろん、先に述べた通り、自分の受けた感銘が誤解無く伝わるとは限らない。否、むしろ伝わらない事の方が多い。しかも、レコードやライヴ音源を発掘、復刻するに当たり、当時のライヴ日程を苦労して調べあげて掲載した所で、売り上げがなんぼも上がる訳では無い。しかし、やる。100の誉め言葉よりも、1の行動。リスペクトの表明を口にするのは簡単だが、行動するのは困難である。これは、もはや、音源の復刻と言うよりは、“いぬん堂”社長、牛戸氏の自己主張の表明であり、価値観の提示であり、ある意味、牛戸氏の新譜とも言える。インディーズだろうが、メジャーからリリースしようが、この先メジャーになろうが、なるまいが、そんな事はどうだって良い。世界中の誰ひとりとして意義を認めなくても、本人が認めればそれで良し。(まあ、それぢゃあ、やって行けないから、売れないと意味が無い。・・・趣味なら良いけどね。)

問題は、何故、わざわざ昔の音源を持ち出さなければならないのかと言う点だ(その点、前述の“いぬん堂”は現行のアーティストも出しているので、単なる懐古主義の復刻専門レーベルでは無いと言える)。これほど、自称ミュージシャン人口が多い現代において、一体どうして・・・。要するに、若い子は、よっぽどの変り者を除き、現代のパンク等で満足出来るだろうが、30代以上の人達が聴くもの、現在聴けるモノが無いのだ。否、私は「ある(居る)」と言いたいが、それが何を指すかは解かっていると思うので(本当は、他所のレーベルの宣伝をしている余裕など無いのだが)、今回は止しておく。結局、感受性の強い思春期に聴いたモノを聴くしか無いと言うのは、聴く側が成長して無いのか、それとも、アーティスト側が成長して無いのか・・・。

日本は、社会人になると、生活様式がすっかり変ってしまうため、真剣に音楽を聴き続ける人が少ない。ゆえに、どうしても、リスナーとアーティストの足並みは揃わない。もちろん、揃わなくても良いのだが、若い頃好きだったアーティストが、気づいたらもっと凄くなっていて、今の自分を恥ぢた・・・と、言う話なら良いが、大抵は昔は良かった・・・となる。でも、それは、まだ良い方だ。“一緒に年老いていく”なんて、冗談ぢゃ無い。それなら若い子に乗り換えた方が良い・・・けど、やっぱ世代の違いは大きく、どうしても若いバンドには共感し得ない。結局は自分が若い頃に聴いていたモノを聴くしか無くなる。

復刻は悪くない。そもそも、復刻の必要が無くなる程、良い音楽が溢れていれば、何の問題も無いはずなのだ。

友川かずき(1987~1988年頃)

初めて、友川かずきのライヴを観たのは、吉祥寺のMANDA-LAⅡだった。客の人数は20人弱。その日は、元・頭脳警察のTOSHIサンがドラムで、女性(だったと思う)ピアニストとのトリオ編成だった。

感動した。これだ、と思った。私が、音楽に対して、常に求め続けたモノ。真剣勝負の気迫、まさしく「生きてるって言ってみろ」と、抜き身の刃を突きつけられた気分。効果音的なドラムも良かったし、かき鳴らされるアコースティック・ギターの激しい音色を、美しく昇華させるピアノも良かった。・・・が、やはり友川かずきの詩、唄、歌、肉声。全身を硬直させ、魂を絞り出すかの如き、その姿は、私のこころに、日本人アーティストに対しての希望を再び灯して余りあるモノであった。凄絶な曲の後での、ユーモラスかつなごやかなしゃべりも、全く気にならなかった。私が、あまりに必死にステージを睨み続けていたせいか、「鬼の様な顔してるんだな・・・」と、友川氏がポツリとつぶやいた。全く脈絡の無いセリフだったので、ドキッ・・・とした、「自分の事か・・・」と。自分でも、恐い顔をしていたと思う。観ているこちらも本当に真剣だった、でも、そこからはリラックスして楽しむ事が出来た。私は思った、「こんな人がまだ居たんだ」・・・と。そして、こころに決めた。「よし、次から、毎回観に来よう」。

しかし、その期待はあっさり裏切られた。

次に観た友川氏は、すっかり泥酔しており、おしゃべりも超ネガティヴ。有名人に対する愚痴を言ったり、更にはライヴの時間も短かったり・・・と、期待を大幅に下回る出来だった。

当たり外れがあるってのは、やっぱり違うよな・・・。少しずつ集めた、友川かずきのレコードは、どれも良い出来だったので、レコードは聴いていたが、ライヴには、しばらく足が遠のいた。

何処かに居ないのか?死ぬ気で、本気で、徹底的に、全身全霊、音楽と心中するかの如き情熱的なアーティストは。

足りないんだよ、そんな程度ぢゃあ。今にも死にそうな俺のこころを癒す事なんて出来ないんだ!!

行川和彦サン

インディーズ・イシューと言う音楽雑誌に、木幡のインタビューが載るかも知れないので、バック・ナンバーを買って読んでいたら、行川和彦サンが、連載記事で、私がエレクトタイムスで書いた事や、この日記で訴えてる事とそっくりな事を言っていた。プロ意識について、客をなめたバンドの態度、エンターテイメントはもてなし・・・等。内容が、あまりに似ているので驚いた(以前に一冊読んだ時に、似た事を言ってるなとは感ぢたが、今回、数冊読んでみて、言葉使いも類似しており、もしかして、私が真似したのでは、と疑われているかと思うとイヤなので、誤解は一秒でも早く解きたいため、慌てて、この日記を書いているのだが・・・)。さすが、ハードコア・パンクを好きな人だけの事はある。きっと、音楽が好きゆえに、同ぢ不満を感ぢているのだろう。数年前の、フールズ・メイト誌での、マリア観音のインタビュアーも行川氏だったし・・・。招待券、贈らなきゃ。

<2005年6月21日の追記>
結局、同誌にインタビューは掲載されなかった。行川氏に関しては、つい最近、あるレコードの解説文を読んで、ああ、やっぱり自分と性格が似てるんだな~と、再認識イタシマシタ。

友川かずき①(1987~88年頃)と長谷川きよし(同年頃)

セカンド・アルバム「肉声」収録の、「おじっちゃ」を初めて聴いた時は、本当に驚いた。ジョニー・ロットンも、町田町蔵/INUの「メシ喰うな」も、奇形児の「迷信」も比較にならない。これは本当にヤバイものと出会ったものだと思った。アパートの隣に住む住人には絶対聴かれてはならないと思った。危ない奴と思われてしまう・・・、と。

その頃は、インディーズもすっかりブームとなり、大資本が参入。結局、単なる商業市場と化してしまっており、ハードコア・パンクも音楽性が(悪い方に)変化して来て、ライヴハウスへ観に行きたいものが無くなって来ていた。それで、歌謡曲、日本の古いロック等の探求から、友川かずきにたどり着いた。三上寛もその頃に知った。三上寛の、URCレコードからのアルバム、「ひらく夢などありゃしない」を聴いて、スターリンの「trash」は、これのパンク版である事にも気づいた。

長谷川きよしも観に行った。目が見えないのに、否、目が見えないからこそか、あの、弦が200本くらいあるのでは?と思える様な、目まぐるしくも多彩なギターの音色は感動に値する。音楽的傾向が好みとは少しずれていたので、その後、観る事は無かったが、あのギター・プレイは一生忘れられない。

そして、友川かずきだ。初めてライヴに行ったのは、1987年か88年だったと思う。まだマリア観音とは出会っては居なかった。

追伸

俺は本当に涙が出るよ。昔は好きだった、あの人、この人。

オマエ等、皆、ウソツキだ!!なんで、皆、適当な所に収まってやがるんだ。

オマエ等が負けるから、後の奴も皆、負けるんだ!!

チクショー!!

すべての年老いた人間よ・・・

好きなバンドやアーティストが、駄目になるのを見るのは悲しいものだ。やめてしまったり、解散してしまうのも悲しいが、それ以上に、明らかにつまらなくなる、レベルが落ちる、否、意識的に下げるのを見るのは・・・。

始めた頃は、皆、情熱的で、輝いているのに・・・。後になって、自分が若い頃に作った歌を聴いてみろ。嫌な大人になりたくない・・・と、歌った自分が、今や、その、嫌な大人の仲間入り・・・。なんて、笑い話にもならないよ。

結局、目標が小さ過ぎるからだよね。ちょっと人気者になりたいとか、ちょっとお金が欲しいとか、そんなんだったら、なりふり構わず、最初からカッコつけなきゃ良いのに。森で遭難した時、遠くの建物目指して常に歩けば、いつかはたどり着く可能性も無きにしもあらず。でも、目先の目印ばっか目指してたら、いつまでたってもたどり着くどころか、ここが自分の居場所、行き場所、安息の地だと思い込み、死の宣告にも等しい、求刑ならぬ休憩ばっかり。とりあえず身近な友達、とりあえず手近な異性(or同性)、とりあえず結婚、とりあえず就職、とりあえず安心、とりあえず満足、とりあえず満腹。とりあえず臨終。

足りないよ。人生は短すぎるよ。なのに、もう棺桶に足つっこんでどうすんだ。死人の歌う歌では癒されないよ。冒険心、探求心、闘争心、挑戦、追求、何も無い。自分が死んでいるのにさえ気づかない。

堕落してしまうアーティストを許すな!!闘い続けるアーティストを支援せよ!!

どこが良くて、何が好きで、そのアーティストを好きになったのか、忘れたのかよ。

本当は、誰でも良かったのかい?

失意の日々・・・

しかし、何だね。いつも、こう思うのよ。一度、マリア観音/木幡東介のライヴを観たら、みんなビックリして、「これだ~!!」って思って、次から毎回来る様になるって・・・。でも、全然来てくれないね~。これほど、人のこころを打つ音楽は無いと思うんだけど・・・。音楽を聴く事って、くぢけそうなこころを癒したり、死にかけたこころを蘇らせたり、捻ぢ曲がりそうなこころを正すためぢゃないの?こころが動かされる事は良くない事、避けるべき事なのか。それとも、元より何とも感ぢないのか・・・。いや、そんな事は無いだろ~。ただ音楽を聴きたいだけなら、ロボットに演奏させりゃあ良い事で、何で人間が演奏する必要があんのか。衝動に基づく必然性を追求して行けば、演奏も突き詰めて当然。否、そうでなきゃおかしい。ここまでやらなきゃ・・・。でも、やればやるほど、実像にリアルになればなるほど、人は来なくなる。一体、皆、何を求めて、何を良しとしてるのか、全然解んないよ。

貴方のこころには、嵐の吹き荒れる日は無いのか、
貴方のこころには、渦を巻く激流は無いのか。
貴方のこころには、やり場の無い憤りは無いのか。

苦しみのたうつこころの乱れから、どうして目をそらして平気でいられるのか・・・。ワカラナイ。

きっと、皆、音楽に求めるものが違う、否、音楽になど、何も求めてないのかも知れないな。

ワ・カ・ラ・ナ・イ。

ザ・スターリン③(1982年初頭)

そして、通信販売で購入した、スターリンの自主ファーストLP「trash」が、我が家に届いた。ジャケット画は、既にDOLLの広告で見ていたとは思うが、曲名なんかは、「電コケ」とか「スターリニズム」に入っていない曲は、すべて初めて目にするものだった。もちろん、曲なんて「バキューム」しか聴いた事無かった。いきなり「解剖室」に「天上ペニス」に「撲殺」に・・・と、いかがわしくも怪しげな曲名の数々・・・。そそくさと針を下ろす。グワシャ~ン!!と、ガラスを砕き割る様な音・・・。

第一印象、音が悪い、なんだか暗い、スピードが異常に速い・・・。とにかく、何て言うのか、意識的に、聴き手をいや~な気持ちにさせる事を目的としているかの様な、強烈な“悪意”を感ぢずにはいられなかった。「解剖室は空いたか ばらばらになって早くでろ・・・ホラ ホラ ホラ オマエの番だ!!」・・・実家に居て、音がうるさいと注意されたのは、一にも二にも、この曲のみ。「コラコラって、何を怒ってる歌を聴いてるの?」と、階下の母親にインターホンで言われた。しかし、とにかくハマッた。今までに触れたものとは明らかに違った。歌を唄う、音楽を演ると言う事は、理解を求める、あるいは、理解し合うためのコミュニケーションの手段のひとつだと言う、おぼろげに思いこんでいた幻想を打ち砕かれた。これほどまでに聴き手を拒絶する音楽、しかしノイズやアバンギャルドの様に難解では無く、だのに、ここまでストレートに自分の心中に迫ってくるものは無かった。アナーキーもモッズもクラッシュもダムドもピストルズも、皆、何かを訴えかけてはいたが、ジョニー・ロットンも、客を拒絶するまでには至って無かった。背後には、遠藤みちろうの世代に特有の、敗北感、絶望感が関係しているのだとは思うが、前向きなパンクとは、明らかに違う何かがあった。あえて挙げるなら、RCサクセションのLP「シングルマン」には近いものを感ぢるが・・・。

他のものが聴けなくなるほど、スターリンにハマったのは、やはり、その特有の暗さ、孤独感、悪意、憎しみ、絶望感、やけくそな激しさ・・・等であろうか。歌詞に使われてる言葉にも、かなり刺激を受けた。その半年後、スターリンはメジャー・デビューし、アルバム「STOP JAP」が発売される・・・。(つづく)

前年(1981年)の後半、スターリンのTAMが在籍していたチフスのシンが、ガーゼを結成。ハードコア・パンクの登場は、地方にいながらも、DOLL誌によって知った。宝島も買ってたけど、まだこの当時はパンク系の自主制作盤だとか、インディーズ・シーンだとかは、ほとんど取り上げてなくて、地方在住者にとって、DOLLは唯一の情報源、まさしくパンクのバイブルだったのだ。

音楽グルメ論

これだけ、音楽に関してあれこれうるさい私だが、食に関しては、実に無頓着と言うか、とてもグルメとは言い難い。そもそも好き嫌いが多く、肉は牛・豚・鶏、すべて駄目。野菜も今でこそいくらか食えるが、子供の頃はキュウリとモヤシしか食わなかった。一体何を食べて生きてきたのか、と言う感ぢだが、ゆえに小学校の給食に関しては、実に苦痛であった(後に「給食地獄篇」として紹介予定)。COCO一番のカレーをマズイと言う友人がいるが、私なんか、肉さえ入ってなければ全くノー・プロブレムで食ってしまう。まあ、なんせレトルト・カレーを何の不満も無く日常的に食えるので、それ以前の問題であるが・・・。

人はメシを食うために生きるにあらず。人は生きるためにメシを食うのだ。

と、言いきるとカッコ良いが、単なる味音痴とも言える。でも、音楽に関して異常にこだわるのは、やはり少ないこづかいでレコードを買わなけりゃあならなかった、中学生や高校生の頃の怨念があるのかも知れない。高校2年の頃、姉から広島市内に中古レコード屋がある事を教わり、定価の半額で買える嬉しさから、ちょこちょこ買いに行く様になった。フリクションの10インチのライヴだとか、陣内のロッカーズのLPだとかを買った記憶がある。で、2回に1度は、洋楽LPの試し買いをしてて(金も無いのに・・・)、ストゥージズの「FUNHOUSE」はダムドが1曲カヴァーしてたので買ったけど、たいていは、ほとんどジャケ買いで、ポップ・グループのセカンドもここで買った。他にはMX-80サウンドだとか、ボンゾ・ドッグ・バンドとか・・・、良く理解出来ないものも多かった。でも、めげずに買ってて、ある日、パンク~ニュー・ウェイヴ系と思わしきモノクロのジャケとクリア・ヴィニール盤、超ヤバイ、処刑シーンの写真等を掲載したインサートが挿入されているレコードを買った。これがなんとホワイトハウスで、A面の頭から、B面の終わりまで、ただただ「ピ~・・・」と、発信音が入っているだけのシロモノ。これには本当に激怒した。高校生が、なけなしのこづかいはたいて買ったレコードの内容が、こんなサギの様な・・・、と言うより、こんなレコード、何のために作る必要があるんだ!!・・・と。

持ってるお金の限度だけでは無い。例えば、明日にも死ぬとしたなら、「死ぬ前に○○亭の○○が食いたい」とか、「死ぬ前に一度で良いから○○を食ってみたい」と、食通、グルメの人、否、そうでなくとも、たいていの人は考えるだろう。だけど、食に関してこだわらぬ私などは、食よりも音楽。日々、寝起き時とか、いつもたいてい身体がだるい時が多く、ゆえに、常に人生の短さ、はかなさをリアルに実感せざるを得ないため、一秒でも嫌いな音楽のために無駄な時間を過ごしたく無い。ゆえに、一刻も早く、自分の好みを見極める必要に迫られていたとも言える。

美味しい食べ物を食べた時、「あ~、生きてて良かった」と感ぢる様に、好きな音楽を聴いて、「あ~、生きてるって素晴らしい」と感ぢたいし、もっともっと良い音楽を聴きたい。「あ~、いつ死んでも良い」と思わせて欲しい。

ギターを弾こうよ

永ちゃんの楽曲を、ギターでポロンポロンと弾いて見ると、実に全身を使って曲を創ってる事が伝わって来た。音楽に対して、ものすごく誠実なものを感ぢた。・・・と数日前に書いた。

いつぞや、マリア観音の木幡の楽曲を、当時のメンバー(キーボードの小森)の作った楽譜を元にギターで弾いてみた事があった。・・・そこには、まるで灼熱の太陽が身体に宿ったかの様に、身体から吹き出す程の爆発的なエネルギーがみなぎっていた。

ギターを弾ける人は、色んなアーティストのコピーをして見ると良いかも知れない。頭だけで作った曲と、こころから湧き出た曲の違いが解かるかも・・・。

嫉妬

人の妬みは恐ろしい。

何ひとつ本気でやる事の出来ない怠け者が、一生懸命生きてる人間を、何とかして自分のレベルまで引きずり下ろそうと躍起になってる。

何かを、闘って勝ち取ろうと努力している人間を、嘲笑する事でしか、自分を正当化出来ない人間は・・・

以下、自粛・・・

雑記

ミュージシャンは、色々なジャンルの音楽を聴いた方が良いと言う意見もあれば、むやみに影響されちゃうから、聴かない方が良いと言う意見もある。

「葉隠れ」だか「五輪の書」だかには(どっちか忘れた・・・)、弟子は、師の真似し易い部分ばかりを真似て、師の本当に素晴らしい部分は真似しない。と、書いてある。真似しないのでは無く、真似出来ない。要するに、本当に素晴らしい所は、真似するのが難しいから、簡単に真似出来る所だけ真似すると言う意味だ。

芸術は模倣から始まると言う言葉もあるので、始まりにおいては、それもいた仕方ないであろう。うわべのカッコ良さに対する表面的な憧れが、後には内面への傾倒に結びつく場合も、ままある。

ある気持ちを表現したい時に、色々な音楽を知っている事は、絵の具の色の種類が多い様に、非常に役立つ。表現したい感情や想いの幅が広ければ広いほど、絵の具の種類は必要になって来る。

しかし、ただ単に、パズルの様に美味しい音だけをつなぎ合わせ、曲をでっちあげるために、色々な音楽のサウンドのみを拝借するのは如何なものか。

パンクは、何故にあの様に激しい音を出すのか。プログレは、何故にロックン・ロールの世界に安住しないのか。フリー・ジャズは、何故にああも混沌かつ抽象的なのか。いくら外見、音色、サウンドを借用しようが、そのスピリット、その音を出すに至った必然性が無ければ意味が無いのではないだろうか。

下手過ぎて真似にもならず、特殊に見えるものは、真のオリジナリティーでは無い。すべてを知った上で、自分なりの色、すなわちサウンドを描けてこそ、真に個性あるミュージシャンと呼べるのではないだろうか。

自主制作とは?

自主制作盤、自主制作レコード、・・・良い響きだ。

自分のものさし、基準、価値観、主張に基づいて制作されるレコード、音楽は、メジャー、マイナー問わず良い。

自主制作がマイナーなのでは無く、“自分のものさしを持つ者”が少数なのだ、この国では・・・。

永ちゃん

私は、自己表現とエンターテイメントを、はっきり区別して考えている。音楽においては、どちらかと言うと自己表現の方が好きだが、実はエンターテイメントにも多大な理解を示しているので、単に変人ぶりたい人と一緒にしないで欲しい。

矢沢永吉は好きだ。なれそめは中学生の頃、「ザ・スター・イン・ヒビヤ」と言う、日比谷野外音楽堂でのライヴ盤のミュージック・テープを友人から借りたのがきっかけだが、当時はニュー・ミュージックがブームであり、私も当初はアリスとか松山千春なんかを聴いていたが、だんだんもの足りなくなり、甲斐バンドとか、吉田拓郎、永ちゃん等を好む様になった。・・・とは言え、現在はアリスや松山千春の良さも再認識している。また、ロックに飽きて聴きはぢめた歌謡曲、私の大好きな梶芽衣子(さそり主演時期の「芽衣子のはじき詩」「やどかり」各LP)なんかも、そのネガティヴかつダークさで一般受けはしないが、完全なるフィクションと言う意味合いにおいて、エンターテイメントと定義している。

「永ちゃんがウォーホールを知ってたら、あんなに売れなかっただろう」と言うのは、私の名言だが(←自分で言う)、実際、永ちゃんが「文化がどうの」とか「芸術がどうの」と言う事にこだわりを持ってたら、あんな風に一般受けする歌詞を歌ったり、イメージを演出する事に対し、自らが疑いを持ったであろう事は否めない。私は何も、それが悪いと言ってる訳でも、ポピュラー・ソングを否定している訳でも無い。逆に、矢沢永吉と言う男のピュアさを誉めているのだ。

本当は文化的に優れたものを知ってるくせに、商売と割り切って、明らかにレベルが低いと解かっているものを提示し続け、さも文化的な匂いを振りまくインチキ野郎とは大違いだ!!現在は情報網も発達し、良いものが目に耳に入りやすくなり、ビートルズが神様だった、永ちゃんの時代と違い、演る側も大変かも知れない(その割には観客も見る目が無い様にも思うが)。越えなければならない基準は高くなっていると、私は思う。なにせ、良いものを見聞き出来る環境にあるのだから、もっと音楽的に研究や探求、追求がなされても良いのでは無いだろうか。観客がダメ出しをしない以上、ミュージシャン、(すなわち観客よりも音楽が好きであると公言しているに等しい)演奏者側が、自らをジャッジすべきでは無いのか。

永ちゃんの楽曲を、ギターでポロンポロンと弾いて見ると、実に全身を使って曲を創ってる事が伝わって来た。音楽に対して、ものすごく誠実なものを感ぢた。

金のために音楽を演る。これは悪い事でも何でも無い。問題なのは、金のため(あるいは売れるため)に、音楽のレベルを意識的に下げる事である。「金儲けのため、金持ちになりたいがために死ぬほど良い曲を書こう。最高に良い曲を創ろう」、これは間違いでは無い。目的は人それぞれ違うが、その方法が問われているのだ。

真のエンターテイメントとは、客を喜ばせる事であり、客を騙す事では無い。持ちうる能力のすべてで、お客様をもてなしてナンボでは無いだろうか。

本気論

ボクシングは好きで、嫌いぢゃ無いけど、例えばテレビでやってても、どっちかと言うとバラエティ番組を見る。それほど見たい番組が無い時に、「ボクシングでも見るか・・・」と言った程度だ。

しかし、やはりスゴイ。これほど手抜きの許されぬ、“本気でやる以外に無い”スポーツがあるだろうか?否、もちろんスポーツは皆、対戦形式のものも、新記録に挑戦する個人競技も、皆、本気でやっているだろう。そして勝てば、結果さえ出せば良し、ただし、言い方を変えるなら、結果を出せなければ駄目であると言う、シビアな世界でもある。オリンピックに出場しても、4位ぢゃあ、まるで誉められない。世界の4位って言ったら、恐ろしくスゴイと思うのだが・・・。ボクシングにせよ、負けた男は、果たして本当に負けたのだろうか。

音楽の世界は、もっといい加減であり、しかし見方を変えれば、実にシビアなものでもある。本気なんて何の取り柄にもならないらしい。売れなければ、すなわち多くの人に好まれなければ駄目だときている。そんな世界で、誰が本気になどなるものか。まあ、売れるために本気になるとも言えるが、あまりにも音楽以外の要素がもてはやされ過ぎる。

スポーツはスポーツマン・シップと言う精神がある様だが、音楽にはミュージシャン・シップと言うものは無いのか?はっきりとした勝ち負けの基準が無いから、がんばっても無駄と言う事か?

どんな分野であれ、本気である事が尊敬に値する国、もっと言えば、本気でやる事が当たり前で、本気で無いものは陶汰される国って無いのだろうか?

屠る言葉!!

某ショップで買物してたら、また、あの忌わしき「贈る言葉」パンク・ヴァージョンの様な、青春パンクの懐メロ・カヴァーが聴こえて来た。

いい加減にしてくれよ。「必要に迫られた衝動」も、「衝動に基づく必然性」も無いくせに、お手軽な事、やってんぢゃ無えよ。まだ、ハイスタのコピーやってる方が全然信用出来るよ。

ザ・スターリンのコピー・バンド、コケシドールを知ってるか?その首謀者2人は、そもそも、“スターリン”や“あぶらだこ”が好きだと言うだけで、徳間に就職しちゃったぐらいなんだから、ある意味、20年前からスターリンのコピーをしてたんだよ。否、コピーと言うよりは、真のトリビュートと言うべきか。今時、スターリンのコピーを演るのが馬鹿なら、20年前から馬鹿なんだよ(コケシの皆さん、ゴメンナサイ。でも、私も同類なんで許してネ)。20年前に既に感染していた病気が発病、コケシドールの玉ネギ畑に白い花が咲いたんだから、そこいらの、話題作りのためのノー・リスペクトなお手軽カヴァーとは、その意味合いにおいて、全く別物なんだよ。

矢沢永吉のカヴァー、トリビュートCDも2種類出てるけど、どこがトリビュートなんだよ。原曲の良さ、台無し。永ちゃんも、自分の分身である楽曲を貶められて、良く平気でいられるな~。大槻ぐらいかな?真面目に取り組んでたのは。純粋に、トリビュートしようと言う気持ちが感ぢられて、非常に好感が持てた。カヴァー自体の出来はあんまし良くなかったけどね。(←それも、問題なんだけどね。永ちゃんの楽曲は、そう易々とはカヴァー出来ないよ。)

古代エレクト帝国国王、エレクト13世の誇大妄想記

昔々、ある所に、エレクト帝国と言う国がありマシタ。そして、その国王、Mr.エレクト13世は、とても音楽好きで知られておりマシタ。特に、素手でライオンと殺し合いをするかの如き、常に死と隣り合わせている様な、本気の真剣勝負的な音楽をたいそう愛しておりマシタ。そして、宮殿では、毎晩の様にライヴが行われ、国王を楽しませておりマシタ。この国では、国王の意向から、身分、性別、年齢他に関わらず、貴族的(妥協を許さず、自らに使命を課す・・・)な音楽家に対しては、宮殿での演奏を定期的に許され、莫大な褒賞が保障されておりマシタ。しかし、その逆に・・・。

今日の出演バンドは4バンド。

1番目のバンドに対し国王は、「駄目だ!駄目だ!オマエ等何年音楽演ってんだ。なめてんぢゃねえぞ。俺を喜ばせるにはそんな余裕こいた演奏してちゃ駄目なんだよ!!オマエ等、才能無え。音楽に限らず、何に対しても本気で出来ねえ奴に用は無え!!今日付けで国外退去!!ただし、キーボードの奴は見所あるから、別のバンド組んで、また来いや!!」。

2番目のバンドは新人、「う~ん、オマエ等、なかなか見所あるよ。テクニック的にはまだまだ全然駄目だけど、そのハート、そのパッションが気に入った。一人頭50万円やるから、1ヶ月特訓して、また来い」。

3番目のバンドは、国王の超お気に入り、「うんうん、オマエ等、ますます良くなって来た。うん、最高!!素晴らしい!!もっとやれ、もっとだ。もっと死ぬ気で、もっと死ぬほど、もっと死ぬまで、うんにゃ、本当に死んだって構わねえ。もし死んだら国葬にしてやっかんな。ぢゃあ、今日もメンバー4人で1000万円くれてやる!!また1週間後に来いや。そろそろ新曲も聴かせてくれよな」。

そしてトリは隣国よりの来日バンド、「なんだよ、おめえら、わしを、この国をなめとんか!!そんな、なまぬるい演奏で、わしを満足させられると思ってんのか!?喧嘩売ってんのか!!帰ったら、オマエ等の国の国王に言っとけ!!オマエ等の国ぢゃあ、こんなもんで充分楽しめんのかも知れねえけどよ、うち(我国)ぢゃあ、こんな腑抜けた音楽演るやつぁ、即刻打ち首もんだっちゅうの!!早く荷物まとめて国へ帰んな!!・・・しかし、あんにゃろう、今度こんなフニャチン野郎寄越したら、宣戦布告とみなして、オマエ等の国、滅ぼしたる!!」。

狂ってマスな・・・。夜中にこんなアホな物語綴って・・・。でもね、どのレコードを買うかとか、今日はどのCDを聴くかとか、今度は誰のライヴを観に行くかとか考えると、結局は誰もが自分国の国王なんだよ。基準は人それぞれ違えど、あなたの家のCDプレイヤーに、今後2度と入れてもらえないだろうCDは、あなたの国では処刑されたと同ぢでしょ?

音楽で世の中は変るか?

音楽で世の中を変える事は出来るか?と、言うのは、永遠の命題だが、ついさっき答えが出た。て言うか、思い付いた、あるいは、閃いた。

そもそも世の中ってのは、自然災害等の避け難い変化を除き、そこに存在する人間によって形作られるもので、“世の中”イコール“人のこころ”と思って差し支え無いだろう。それで、自分はどうだったかと考えると、音楽で特に感銘を受けたパンク・ロック、すなわちスターリンやジョニー・ロットンによって、自分が変えられたとは思わない。むしろ、こころの奥底で共鳴したと言うか、気づかされた、目覚めさせられた、一番適切な言い方をするなら、“呼び覚まされた”と言う感ぢだろうか。考えてみれば、納得出来ない他人の意見には頑として耳を貸さないこの私が、何故かパンクだけは素直に受け入れたのだから。

それを踏まえて考えると、音楽で世の中を変えるには、現在幅を利かせている、表面的な感動や物質的な欲求のみを満足させる様な音楽では無く、本当にリスナーのこころを打つ様な音楽を演らなければ駄目だと言う事か。しかも、それが通ぢる人間に対してのみ有効なのだから、まずは同ぢ魂を持つ人間を探す、出会う、見極めなければならない。人間の、この短い一生のうちに・・・。

また、音楽で世の中、つまり人を変えると言う事は、言わばオセロ・ゲームの様なものかも知れない。こころの底からの感動も知らないまま、こころの底からの欲求にも気づかないまま、ちまたに溢れる表面的な感動、次から次へと押し寄せる物質的な欲望に挟み撃ちされ、それらを盲目的に追い続け(本当は追われ続け)、一生を終える人間が、現実的には、ほとんどであろう。そう言う意味では、人の感受性に最も訴えやすい、音楽と言うジャンルの担うべき役割は大きく、その責任は重大であり、音楽で世の中を変えるためには、そもそも音楽のあり方自体を考え直す必要があるだろう。

現在、パンク・ロックは一般的に充分認知されている様に見える。しかし、現在流行している様な、スタイルのみのパンク・ロックで、人に感動を与える事など出来るのだろうか。人のこころは、いつからそんなにお手軽で安っぽくなったんだ。表面的に、いかにもパンクなサウンドをやってても、パンクの振りをしても、私は違和感を感ぢて仕方無い。本当にこころの底から感動している人間はいるのだろうか?表現は模倣から始まるとは言うものの、一体パンクの何処を見て、何に感動、共鳴したと言うのだろうか。パンクと言う名称は、ある日生まれたが、パンクはある日、パンクに“なるもの”ぢゃない。元からこころの中に“あるもの”だろ。抑圧され、虐げられ、押し潰された少年少女の死にかけたこころを、今流行のパンク・ロックとやらは、本当に目覚めさせる事が出来るのか?

音楽で世の中は変るか?音楽を演るのは人間であるゆえ、人間を変える、否、目覚めさせるのは、とどのつまり人間でしかない。音楽はあくまでも表現手段であり、音楽を演る事を目的とするだけの(バンドやる事が目的のバンドみたいに・・・)音楽は、単なる娯楽に過ぎない。

本気とは?

本当の事って、時代や国によって、更には人それぞれ違ったりする、うつろい易いもの。

本音って、自分でそう思いこんでるだけで、本能に基づく本性とは違うし、人間としての本音は、生き物としての本音では無い。

でも、本気って言うのは、嘘だろうが建前だろうが、間違いだろうが勘違いだろうが、正気だろうが狂気だろうが、明確な基準を持って、推し量れる。・・・と、私は思う。そして、本気を生み出す元は“必要に迫られた衝動”であり、“衝動から来る必然性”である。

必然性も無いのに本気の振りしても駄目。楽してるくせに本気の振りしても無駄。

本気なんて、なろうとしてなるもんぢゃ無い。本気に“なってしまう”もの、あるいは、本気に“ならざるを得ない”ものだ。

本気とは、恋する気持ちに良く似ている・・・。なんちゃって。

演るか、殺られるか・・・

「エレクトさんは、そんなに音楽好きなら自分でやりゃいいぢゃん?」・・・と、言われる事がたまにある。しかし、私が演りたいと思う様な音楽、つまり自分で聴きたい、自分が最も良しとする音楽の道においては、既にマリア観音が厳然と存在しており、もう、これだけレベルの高い“うた”、楽曲、及び演奏を聴かされれば、いやでもあきらめざるを得ないし、これほどの音を創り出すためには、ちょっと“音楽が好き”な程度では無理な事くらい、私にも解かると言うものだ。また、人間には向き不向きと言うものがあるしね。とにかく、この日記でいつも訴えている、私が求めるタイプの音楽を、マリア観音は、ほぼ100%の割合で実現し、更に未知なる領域を垣間見せてくれているのだから、私は演奏する事とは別の、自分の得意分野で応援、あるいは支援する以外には無い。更に言うなら、マリア観音に関しては、私が、他アーティストによる同傾向の音楽に抱く、「ちょっとここがなあ・・・」と思う様な自分の好みからくる細かな不満さえも、不思議な事に殆ど無い。まあ、その辺は、これからも「エレクトタイムス」で発表するとして、また木幡には、私が音楽的物差しを持って無い部分である、ドラム・ソロや多重録音のインストもの等、音楽的充実度、演奏的な部分での魅力もあるので、私と好みが合わない方でも、機会があれば是非、死ぬまでに一度は接して頂きたいと切望する。

マリア観音は届く。私の、一度は死にかけた“こころ”に・・・。

金儲け指南!!

今回は、金儲けの方法を、皆様に指南イタシマス。・・・と、言うより・・・、

お金より好きなものがある人は、絶対、お金儲けは出来マセン!!

タイトル間違えた。金儲け指南では無く、
金儲け“至難”・・・デシタ。

かあさんおかたをたたきましょ!!

実家に居た頃、母がたまにこう言った。「たまには肩でも揉んでよ・・・」と。しかし、何だか照れくさい。そんで適当にちょいちょいやると、「全然効かんよ、そんなんぢゃあ・・・」とダメ出し。で、やけくそで思いっきり力を入れると、「痛い痛い、そんなに強くしちゃ・・・」。ぢゃあどうすれば良いの・・・と途方に暮れると、「ここ、ここ、ここよ・・・」。そこを揉む。「ああ、そこそこ、もっと強く・・・」。先ほどと同ぢくらい、力を入れても、今度は良いらしい。

音楽もそんなもの。ただ激しくやりゃあ良いってもんぢゃ無い。きちんとツボを押さえないと、単なるノイズにしかならない。

まずは揉む力が無いと駄目だし、更に気持ち良いツボを知らなきゃならない。ポピュラー・ソングに留まらず、ノイズ・ミュージックを好きな人でさえ、やはりそれなりのツボはあるはず。

「うるさい」と「激しい」は違う。

闘う音楽!!

闘うとは・・・?大きく二つに分けると、他者との戦い、そして自己との闘い。

何か、あるいは誰かに対して反抗、反逆、反旗を翻す。しかし、これは言葉を弄する事で何とか誤魔化せる。実際に踏み絵を踏まなくても、更には踏む機会などないうちに終わる場合もある。具体的に言うなら、いくら反戦を訴えても、実際に現在起きている戦争に対し、自分の身の危険も顧みず反対意見を述べているのならともかく、安全な場所で、安全な立場で何を言っても、そもそも相手に届きもしない。単なる愚痴や陰口と一緒だ。何も変りはしないし、本気で変えたいとは思ってないに等しい。もちろん、歌わないよりは、言わないよりはマシだが。

自己との闘い。こちらはキツイ。まずは、ほっとけば衰える、駄目になる、腐って行く、一秒一瞬毎に死に向かっていく己の肉体と精神。時間を止める事は出来ない。何もしなければ現状維持する事さえ出来ない。いくらか努力して、やっと昨日の自分を保てるのだ。ましてや、時の流れに逆らい、昨日より今日、今日より明日となると、まさしく宿命とのデッド・ヒート。このはかない人間の一生の間に、一体何が出来るのか?しかし、やる人間とやらない人間が居る。

なぜだろう。その答えは明白だ。それは、闘う事で勝ち取る喜びを知っているか、知らないかの違いなのだ。もっと美味しいものが食べたい、もっと色んな事を知りたい、もっと気持ち良くなりたい。向かう先は違えど、進歩する人間と、亡びの途に身を委ねる人間は、そこが違う。

私の様な、小学校の朝礼で倒れ・・・否、倒れるまで我慢するでも無く、さっさとしゃがみこんでしまう様な軟弱者には、ただ生きている事さえ苦しくてたまらないのだ。今日も生きるため、今日を生き抜くため、今日を無駄にしないため、音楽は必要不可欠、超必需品なのだ。

それも、すごく良く効くヤツ。闘う音楽。闘うための音楽。生きるためのテーマ・ソング。死んでた人間が生き返る程のキッツーいヤツ。

ザ・スターリン②(1981年後半)

初めてスターリンの存在を知ったのは、高校生の頃。高校の時の同級生Tの中学時代の友人の家が、下校する(駅まで行く)道の途中にあり、Tに紹介され親しくなり、しょっちゅう遊びに行ってた。その彼とはバンドもやったりなんかして、彼は後に広島のハードコア・パンク・バンド自我に参加し、自殺レーベルの20センチEP「自殺オムニバス」にも参加している、ベースのYABUKIクン(以下、Y)。ちなみに私、広島出身デス。言い忘れたけど。・・・で、そのYの母親は自宅で内職しており、こづかいに余裕があったのか、週刊女性雑誌(当時は週刊女性、女性自身、女性セブンの3種)を数種買ってて(3種共だったか?)、スターリンは、その記事で変態スキャンダル・バンドとして紹介されていたのデシタ。1981年の秋頃だったかな?で、すぐ好きになったかと言うと、実はそうでは無くて、すごく嫌悪していたのデスよ、これが。何でかと言うと、何て言うのか・・・「すごく卑怯な」感ぢがしたのデスね。音楽以外の大暴れとか、スキャンダラスな事で有名になっている事が何だか許せなかった。でも、その数ヶ月後、翌年の年始だかに、恒例の「NEW YEAR ROCK FES」がTVで放送されて、スターリンは「バキューム」で登場した訳デスが、これでコロッと見方が変ったのデス。まずはその歌詞、と言うか、そもそも「バキューム」と言う題材を歌にする事自体が、少年にはかなりのカルチャー・ショックだったし、ちゃんと演奏してるって言うか、「バキューム」を聴いた事ある人なら解かると思うけど、サビの所で「バ・キューム!!」って、変にポップなロックで、今考えたらラモーンズなんだけど、嫌いだったのが一転、すんごく好きになりマシタ。

その前後、前出のYが広島市内でDOLLを売ってる店を見つけてきて(当時は書店扱いでは無かったので、普通の本屋では全然扱ってなかった)、バック・ナンバーとかも買ったりして、その時のDOLLの最新号が第4号くらいぢゃなかったかな?で、早速、高円寺のBOYに電話して、発売されたばっかりの、スターリンのファースト・アルバム「trash」を、通販で購入した訳。ちなみに、EP「スターリニズム」は、もう売り切れだった。

その頃は、既にアナーキーからクラッシュを知り、広島でも深夜放映されていた「ファイティング80’s」でモッズのファンになり、Yがレコードを買って来たおかげで、ピストルズやダムドも聴いてたかな。パンク的には・・・。

そして「trash」が届いた!!この続きはまた次回・・・。

頭痛い・・・

ああ、頭痛い・・・。二つの意味で。ひとつは肉体の額の中身がズキズキして、風邪ひいたか・・・。もう一つは金が無くて頭痛い。自営業ってのは、何時間働いても収入ゼロの場合もある。うう・・・。

本当の事って何?自分にとって本当の事でも、他人にとっては本当の事では無い場合もある。自分にとって都合の良い事が他人にとっては都合悪かったり、その逆に、自分にとって都合の悪い事が他人にとって都合良かったり。だから、いくら自分にとって本当の事でも、世の中には通用しない場合も多々ある。だけど、通用しないからって、やめてしまうのもおかしい話だ。世の中に通用しようがしまいが、自分にとって本当の事は本当の事なのであり、自分にとって本当だと思える事を他人に伝えようとするのが真のコミュニケーションと言えるのではないだろうか。もしも間違いに気づいたならば、改めるべきだが。

繰り返す。通用しないからやめるってのはおかしい。

て言うか、そもそも、通用しなくて当然と思った方が良い。だからこそ、少しでも接点があったならば、それは奇跡とさえ思える程に嬉しい事なのである。

森田童子(1982年)と友川かずき(1987年~88年)

高校の頃、ラジオで森田童子を初めて聴いた。その存在を知ったのは音楽雑誌、うんにゃFM雑誌で見たのかな?そう、当時、エアチェック熱が高まって、FM番組情報誌も、買うか立ち読みするかムニャムニャしてたのデス。丁度、「夜想曲」と言うアルバムが発売された頃で、その番組でも、そのアルバムからのみの選曲デシタ。そのせいか、今でも「夜想曲」が一番好きデス。その時聴いたしゃべりもデスが、何と言うのでしょう、こころの内面を偽る事無く誠実に外界に伝えようとする、その真剣さに惹かれマシタ。今で言うひきこもりっぽい人だなと思ったけど、この世の残酷にして殺伐、無情なる人間関係その他を考えると、こう言う人の方がまともに見えて来マス。極めてナイーブなんだけど、表現に命を賭けるプロフェッショナルな姿勢も伝わって来て、とても好きになりマシタ。あんなにか細い繊細な歌声なのに、実に硬派な人だとも思いマス。

友川かずきは上京してから知ったのデスが、初めて買ったLPが「肉声」で、聴いた事ある人なら解かると思いマスが、「おじっちゃ」にはホント、ぶったまげマシタ。INUの「メシ喰うな」や、奇形児の「迷信」以上の衝撃でしょうか。アパートのとなりの部屋の住人に聴かれたら、危ない奴だと思われちゃう・・・と、本気で心配した記憶がありマス。そんで、ある人にこれをテープにとって聴かせたのデスが、その人はジャニス・ジョップリンとか、ハード・ロックとかもすごく好きなんだけど、宗教上の関係から、なるべくクラシックを聴いてて(でも、我慢出来ず、たまにジャニスもこっそり聴いてた様デスが・・・)、その人がこう言ったのデス。「この人(友川かずきの事)はナイーブな人だねえ・・・」と。私にとって、ナイーブとは、森田童子の様な、内に秘めた思いを、はかない声で必死に伝えようとする、繊細なイメージの人の事を指すと思っていたので、そのセリフにはものすごくショックを受けマシタ。そうか・・・、声を張り上げて叫んでる、いかにも激しく強そうなこの人も、森田童子と同様に、傷つきやすいこころを、今にも消えてしまいそうな自分の存在意義を必死に守るために声を張り上げているのか・・・と。うわべの印象は違えど、感受性の強い人ほど、ささいな事にも傷つき、ゆえに自分を守るために必死で声を張り上げるのだ。「誰か助けてくれ!俺はここにこうして生きているんだ!!」・・・と。「RAW POWER」の頃のイギー・ポップも同様。

どうやら私は、ナイーブな人の演る音楽が好きな様デス。

森田童子はライヴを観る事が出来なかったけど、友川かずきは何度か観に行ったので、その感想は後日・・・。しかし、あのオッサンもなあ・・・。

甲斐バンド(1978~79年)

中学生の頃の後半期は、甲斐バンドに夢中になって、コンサートにも行ったり、NHK-FMの「サウンドストリート」も、毎週聴いておりマシタ。少し前から、エアチェック(要するにラジオとかの電波、すなわち放送を録音する事)にも興味を示し始め、主に深夜放送とかの、AMラジオから流れて来る音楽を聴く様になるのデスが、いわゆる“ニュー・ミュージックの嵐”直撃世代ですわ。初めて自分で買ったレコード、シングルは松山千春の「季節の中で」、アルバムはアリスの「武道館ライヴ(2枚組)」。甲斐バンドが一番好きだったけど、ワルに染まりかけの友人から借りた矢沢永吉の「ザ・スター・イン・ヒビヤ」のテープ、再デビューしたての長渕剛「巡恋歌」、吉田拓郎etc・・・。つまり、歌謡曲をバカにし始める年頃なんす。ザ・ベストテンは毎週見てたけど。でも、そのうちニュー・ミュージックもなんだかなあ・・・と、なって来て、ほんで甲斐バンドはロックだと言う事で、甲斐よしひろは、ラジオでも偉そうな事バンバン言うし。今、聞くと超キザなんだけど。そして、1980年の年始にたまたまFMラジオから録音したスタジオ・ライヴがきっかけでRCサクセションを好きになるのですが、それは後日として・・・。

甲斐バンドを聴かなくなって数年後、実に驚くべきショックを私は受けたのデス。「何だよ!!甲斐の曲は(詩も)洋楽のパクリばっかぢゃんかよ!!」・・・と。まあ、今となっては、騙された気持ち半分、でも、やっぱ、かなりのめり込んでたからね、「しょうがねえなあ、甲斐のオッサンはよう・・・」と、愛憎入り交ぢった、実に複雑な心境なのデス。

外は雨・・・

今日も雨・・・。朝まで降るのかしら?・・・なんて、まるで日記みたい。日記だけど。

実に久しぶりにポップ・グループを聴く。高校生の頃、中古レコード屋で買ったセカンド・アルバムの、なんて曲だか忘れたけど、ノイズの激流を、ハンマーを叩きつける様なビートでぶった切り、そこにイコライジングされたヴォイスが乗っかるやつ。その曲だけを繰り返し良く聴いてた。今、聴いてるのはファースト。ふむふむ、たまに聴くと、なかなか良いね。おそらく毎日は聴かないと思うので、朝まで何度も繰り返し聴いて、脳にダウン・ロードしておこう。

強い意志が込められた音楽を聴くと、こころも安定しマスね。
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