Mr.エレクトの独り言 2003年11月20日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

雑記

ミュージシャンは、色々なジャンルの音楽を聴いた方が良いと言う意見もあれば、むやみに影響されちゃうから、聴かない方が良いと言う意見もある。

「葉隠れ」だか「五輪の書」だかには(どっちか忘れた・・・)、弟子は、師の真似し易い部分ばかりを真似て、師の本当に素晴らしい部分は真似しない。と、書いてある。真似しないのでは無く、真似出来ない。要するに、本当に素晴らしい所は、真似するのが難しいから、簡単に真似出来る所だけ真似すると言う意味だ。

芸術は模倣から始まると言う言葉もあるので、始まりにおいては、それもいた仕方ないであろう。うわべのカッコ良さに対する表面的な憧れが、後には内面への傾倒に結びつく場合も、ままある。

ある気持ちを表現したい時に、色々な音楽を知っている事は、絵の具の色の種類が多い様に、非常に役立つ。表現したい感情や想いの幅が広ければ広いほど、絵の具の種類は必要になって来る。

しかし、ただ単に、パズルの様に美味しい音だけをつなぎ合わせ、曲をでっちあげるために、色々な音楽のサウンドのみを拝借するのは如何なものか。

パンクは、何故にあの様に激しい音を出すのか。プログレは、何故にロックン・ロールの世界に安住しないのか。フリー・ジャズは、何故にああも混沌かつ抽象的なのか。いくら外見、音色、サウンドを借用しようが、そのスピリット、その音を出すに至った必然性が無ければ意味が無いのではないだろうか。

下手過ぎて真似にもならず、特殊に見えるものは、真のオリジナリティーでは無い。すべてを知った上で、自分なりの色、すなわちサウンドを描けてこそ、真に個性あるミュージシャンと呼べるのではないだろうか。
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自主制作とは?

自主制作盤、自主制作レコード、・・・良い響きだ。

自分のものさし、基準、価値観、主張に基づいて制作されるレコード、音楽は、メジャー、マイナー問わず良い。

自主制作がマイナーなのでは無く、“自分のものさしを持つ者”が少数なのだ、この国では・・・。

永ちゃん

私は、自己表現とエンターテイメントを、はっきり区別して考えている。音楽においては、どちらかと言うと自己表現の方が好きだが、実はエンターテイメントにも多大な理解を示しているので、単に変人ぶりたい人と一緒にしないで欲しい。

矢沢永吉は好きだ。なれそめは中学生の頃、「ザ・スター・イン・ヒビヤ」と言う、日比谷野外音楽堂でのライヴ盤のミュージック・テープを友人から借りたのがきっかけだが、当時はニュー・ミュージックがブームであり、私も当初はアリスとか松山千春なんかを聴いていたが、だんだんもの足りなくなり、甲斐バンドとか、吉田拓郎、永ちゃん等を好む様になった。・・・とは言え、現在はアリスや松山千春の良さも再認識している。また、ロックに飽きて聴きはぢめた歌謡曲、私の大好きな梶芽衣子(さそり主演時期の「芽衣子のはじき詩」「やどかり」各LP)なんかも、そのネガティヴかつダークさで一般受けはしないが、完全なるフィクションと言う意味合いにおいて、エンターテイメントと定義している。

「永ちゃんがウォーホールを知ってたら、あんなに売れなかっただろう」と言うのは、私の名言だが(←自分で言う)、実際、永ちゃんが「文化がどうの」とか「芸術がどうの」と言う事にこだわりを持ってたら、あんな風に一般受けする歌詞を歌ったり、イメージを演出する事に対し、自らが疑いを持ったであろう事は否めない。私は何も、それが悪いと言ってる訳でも、ポピュラー・ソングを否定している訳でも無い。逆に、矢沢永吉と言う男のピュアさを誉めているのだ。

本当は文化的に優れたものを知ってるくせに、商売と割り切って、明らかにレベルが低いと解かっているものを提示し続け、さも文化的な匂いを振りまくインチキ野郎とは大違いだ!!現在は情報網も発達し、良いものが目に耳に入りやすくなり、ビートルズが神様だった、永ちゃんの時代と違い、演る側も大変かも知れない(その割には観客も見る目が無い様にも思うが)。越えなければならない基準は高くなっていると、私は思う。なにせ、良いものを見聞き出来る環境にあるのだから、もっと音楽的に研究や探求、追求がなされても良いのでは無いだろうか。観客がダメ出しをしない以上、ミュージシャン、(すなわち観客よりも音楽が好きであると公言しているに等しい)演奏者側が、自らをジャッジすべきでは無いのか。

永ちゃんの楽曲を、ギターでポロンポロンと弾いて見ると、実に全身を使って曲を創ってる事が伝わって来た。音楽に対して、ものすごく誠実なものを感ぢた。

金のために音楽を演る。これは悪い事でも何でも無い。問題なのは、金のため(あるいは売れるため)に、音楽のレベルを意識的に下げる事である。「金儲けのため、金持ちになりたいがために死ぬほど良い曲を書こう。最高に良い曲を創ろう」、これは間違いでは無い。目的は人それぞれ違うが、その方法が問われているのだ。

真のエンターテイメントとは、客を喜ばせる事であり、客を騙す事では無い。持ちうる能力のすべてで、お客様をもてなしてナンボでは無いだろうか。

本気論

ボクシングは好きで、嫌いぢゃ無いけど、例えばテレビでやってても、どっちかと言うとバラエティ番組を見る。それほど見たい番組が無い時に、「ボクシングでも見るか・・・」と言った程度だ。

しかし、やはりスゴイ。これほど手抜きの許されぬ、“本気でやる以外に無い”スポーツがあるだろうか?否、もちろんスポーツは皆、対戦形式のものも、新記録に挑戦する個人競技も、皆、本気でやっているだろう。そして勝てば、結果さえ出せば良し、ただし、言い方を変えるなら、結果を出せなければ駄目であると言う、シビアな世界でもある。オリンピックに出場しても、4位ぢゃあ、まるで誉められない。世界の4位って言ったら、恐ろしくスゴイと思うのだが・・・。ボクシングにせよ、負けた男は、果たして本当に負けたのだろうか。

音楽の世界は、もっといい加減であり、しかし見方を変えれば、実にシビアなものでもある。本気なんて何の取り柄にもならないらしい。売れなければ、すなわち多くの人に好まれなければ駄目だときている。そんな世界で、誰が本気になどなるものか。まあ、売れるために本気になるとも言えるが、あまりにも音楽以外の要素がもてはやされ過ぎる。

スポーツはスポーツマン・シップと言う精神がある様だが、音楽にはミュージシャン・シップと言うものは無いのか?はっきりとした勝ち負けの基準が無いから、がんばっても無駄と言う事か?

どんな分野であれ、本気である事が尊敬に値する国、もっと言えば、本気でやる事が当たり前で、本気で無いものは陶汰される国って無いのだろうか?