Mr.エレクトの独り言 2005年03月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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煩悩

本年度3月21日の日記、「死の間際・・・」において、以下・・・

「自分の意志で生きてなくて、なんで生きている事を実感出来ようか。

誰かに生かされているなんて、冗談ぢゃねえ!!

自分の意識が消滅すると同時に、この世はすべて無に帰せしめられるのだ。」

・・・との、記述をした。

こう言う事を言うと、必ず、「自分一人で生きている気になるんぢゃない」とか、「他人への感謝を忘れちゃいけない」との、お叱りを受ける。

当然、それを承知で書いた。

それらの批判を承知で、わざと、意識的に、あえて書いた。

私も人の子。親から生まれ、育てられ、多くの人に助けられ、ここまで生きてきた。そんな事ぐらい解かっているし、感謝もしている。そんな事は当たり前だ。しかし、それを今更、あえて口に出すつもりは無い。行動の伴なわぬ言動など、何の意味も価値も無く、そこにあるのは、自己満足と自己欺瞞のみであるとの考えからだ。

感謝しているこそ、自分の好きな様に、自由に生きたいと思い、そうする事、この世で自分を最大限に生かす事こそ、真の恩返しなのではないだろうか?・・・と、私は思うのだ。

感謝の気持ちを表す方法はひとつなのか?見返りを期待して、私に親切にしたのか?今までの恩は貸しなのか?私は、何かを借りてしまったのか?

そんな約束した覚えは無い。

もし、そのつもりで助けたのであれば、要らないから返すよ。

私が他人に親切にする時は、何かを返してもらいたいからでも無ければ、自分の言いなりにしたいからでも無い。

「あなたが、あなたの自由に生きる事が出来る」様に、その手助けをするためだ。

“貸し”でもなければ、他人のこころを“買う”のでも無い。

この世に存在する、苦しみ、苦悩、葛藤、その殆どの原因は、他人の得ているものを自分が持ってないと言う理由から発せられる。そして、それらの多くは、真の自分を偽らなければ手に入らないものである。

確かに、何かを努力して手に入れる行為は素晴らしく、美しくもある。しかし、それは本当に貴方の欲しいものなのか?持っていないと恥ずかしいからだとか、他人から、世間から認められないから・・・と言う理由からではないのか?

いつまで、私たちは、得ようとしなければならないのか?いつまで、私たちは、それを求め続けなければならないのか?いつまで、私たちは、欲しがり続けなければならないのか?いつまで、私たちは、無駄なもの、不要なものを買わされ続けるのか?

要らねえよ!!そんなもの、欲しくもねえんだよ!!

誰もが、それを欲しがると思ったら、大間違いだ!!

俺は誰かの奴隷ぢゃなければ、家畜でも無い。自分の欲しいものは自分で決めるさ。

そして、死ぬまでに、それが手に入らなくたって構わない。

本当に欲しくもないものを手に入れたって、こころから満足なんて出来やしないんだ。

とは言え、確かに、迷う。しかも、しょっちゅう。

だから、苦しい、悔しい、狂いそうになる。

殺したい!!この自分の煩悩を!!

死んだって、お前の言いなりにはならねえ!!
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盲従

100パーセント信頼出来る人間、すべての思想が一致する他人など、存在し得ない。

居るとすれば、どちらかがどちらかに依存、盲目的に服従している状態である。

例えば、美輪明宏。あの人の思想、発言、行動、そのほとんどは、私にとって、かなり納得の行くものであり、その生き方、在り方には、感動さえ覚える。しかし、あの人は、霊魂の実在を主張する。この点が、私の思想とは相容れない。・・・とは言え、私とて、見た事無いから信ぢない、否、まだ知らないだけで、本当はあるのかも知れないので、その真偽の程は定かでは無い。しかし、いくら美輪明宏を賞賛するあまりとは言え、見た事無いものさえも信ぢてしまう事は出来ないと言う事も、また事実である。

もちろん、90パーセント信用出来る人は、残りの10パーセントも信用出来そうだと言う事は言える。・・・が、それは、あくまでも推測に過ぎない。

更に、初めは顔だけが好きで、そのうち性格も好きになると言う具合に、徐々に傾倒していく場合もある。しかし、これこそ、盲目的な服従である。・・・ただし、望んで隷従するのであるから、その事が悪いと言っている訳では無い。

極真空手の大山倍達の思想や発言にも、行動が伴なっているゆえの説得力、糞リアリズムがあり、実に納得出来る。しかし、やはり、苦労した時代にお世話になった、ある政治団体の事を決して悪く言わないどころか、弁護、擁護したりもする。これには、やはり納得行かない。

しかし、誤解しないで頂きたい。私は、美輪明宏の事も大山倍達の事も、大好きであり、尊敬している。ただし、決して、100パーセントでは無いと言う事だ。むしろ、100パーセントの傾倒は、その人に対して、失礼な行為だとさえ思える。

「貴方の言う事ならば、何でも信ぢるわ」
「貴方ためなら何でもするわ」

そこに在るのは、ただただ依存依存依存依存・・・。

自分を持たない者の、手っ取り早い悩み解決法。奴隷志願者の信者的発想。

リスクを負わぬ尊敬、思考停止の安住願望。

・・・虫酸が走るぜ。

他人の良い所は、手本であり、見本にするべきであるが、あるスポーツ選手を好きでも、その靴下の匂いまで好きになる必要は無い。否、貴方が、それを好きになるのは構わない。

「私はいやだ」・・・と言うだけの話だ。

組織の長となってしまった後の大山倍達の気持ちは解らないが、美輪明宏の良さは、決して人の上に立とうとしない事だ。そんな人間の前で、その人にひれ伏すと言う事は、失礼極まりない行為である。

本当に好きなら、その人を超えるべきである。

だからと言って、別に、女装しろと言う訳でも無ければ、牛と闘えと言う訳でも無い。表面的な部分を真似しろと言ってる訳では無く、人間としての生き方、在り方として・・・と言う意味でだ。

そう言う意味では、私もまだまだ、好きになり方が足りない様だ。

一般的に使われている、「好き」と言う言葉は、しょせん、届かない者への憧れであり、行動しない自分への言い訳に過ぎない。

だから、本当は、好きだと言う資格さえ無い。

引越し貧乏ならぬ、貧乏の引越し

ああ、忙し~!!

昨日は、元・高円寺店にて、引越し荷物を深夜2時まで箱詰めし、3時に新宿店に来て、ヤフオク関連のメールやらなんやらで、もう既に2時間近く経過。当然、今日は出品なんぞしてる暇無いんやけど、ヤフオクの仕事は、一日に一回はパソコンに向かわなけりゃならんから、毎日大変だ。ホント、体内にパソコンを内蔵したいくらいだよ。

そして、本日は、朝11時より、高円寺店の荷物を、新しく借りた倉庫へと移さにゃならん。一日ぢゃあ無理なので、今日はその第一弾って訳。早よ寝にゃあ、もう朝5時になるよ~!!まあ、荷物の半分くらいは箱詰めしてあるから、今日は出来るだけ運んで、後の残りは、また近日中に箱詰めぢゃ~!!

確定申告も、当然の如く、まだ終了してない。

あ~あ・・・。

ちょっと、トイレ行って来るから、誰か代りに・・・。

命の重さ(改訂版)

★一部、誤解を受けそうな記述がありマシタので、改訂イタシマシタ。

自分の命よりも大事なものがある人間。私は、そんな人間が好きだ。そして、私もそうなりたいし、常々、そう在りたいと思っている。

ただし、私にとっては、それは別に、恋人であるとか、我が子であるとか、妻、親、兄弟、先祖、あるいは、友人、恩師、同志、等の他人、すなわち自分以外の人間を大事にすると言う意味では無い。否、他の方々は、それでも構わない。要するに、命を捨ててでも、命と引き換えにしてでも守り通したいものが、生物や物質に限らず、あるのか否か?・・・と言う事だ。

自分の命(生命)よりも重いものが無い人間。その様な人間の命(魂)は、例外無く、軽く、安っぽい。

人の命は地球より重いだの、人の命は平等だのと言った言い分はデタラメだ。

命は使うもの。

誰かのため、あるいは、自分のため、自分の信ずるもののために使ってこそ、命の意義が、この世に生を受けた意味があると言うものだ。

だからこそ、命と言うものは、死ぬ時には出来るだけ使い切っている事が望ましい。

ゆえに、死の瞬間、命がたっぷり残っていたならば、それは恥ずべき事であり、生命体としては敗北に等しい結果である。

しかし、突然の病死、不慮の事故と言う事態も、充分考えられる。

では、どうすれば良いか?

答えは簡単。毎日、死ねば良い。

そう、毎日、疲れ果ててくたばっちまうまで、命を使い切る様な生き方をすれば良いのだ。

そうすれば、いつ死んでも、命の火がくすぶったまま死ぬ様な、ブザマな姿をさらす事も無いはずだ。

また、命を使うと言う事は、命を粗末にする事とは違う。むしろ、命を頻繁に、そして懸命に使う者ほど、命の尊さ、美しさを知っているものなのだ。

だが、これも、私がまだ元気だから言える事かも知れない。実際に死が近づけば、死の訪れを実感する様になれば、やみくもに死を恐れ、死を忌み嫌い、死の恐怖から逃れようと、後生大事に命を神棚にしまい込むかも知れない。

そんな予感がしないでも無いのだ・・・。

だから、お願いだ。私が、死を恐れる様になったら、誰か私に言ってくれ。私が今言った様な事を。

そして、死に脅える私をののしってくれ。あの時、あんな偉そうな事を言ってたぢゃないか!!・・・と。

生きる事を忘れた命など、もはや命とは呼べない。

そう・・・。人間は、こころが年老いたならば、命を使う事をやめたならば、命を粗末に扱う事しか出来ないのであれば、命の尊厳を守るがゆえにこそ、潔く命を手放し、速やかに死ぬべきなのだ。

「いぬ屋敷Vol.23」潜入レポート②「ビル」

2005年3月21日/池袋手刀
「いぬ屋敷」Vol.23
悪性新生物の間「春期狂育委員会」

②「ビル」

さて、ビルとは、自主レーベル“いぬん堂”の社長、石戸(牛戸)氏が、以前にやっていた、ザ・スターリンのコピー・バンドであるコケシドール解散後、コケシドールのギタリスト・久保偽札犯氏及び、同バンドの初代ドラマーでもあった堀内氏をベーシストとして引き入れ、結成したバンドである。

そして、ドラマーは、ミヤマGt.の桃次郎氏か、久保氏がコケシドールと並行してやっていたバンドのドラマーが、各々のスケジュールの都合に合わせてヘルプ参加している様だ。

また、ミヤマGt.は、単独で活動する他、コケシドール解散後、いぬん堂(石戸)氏をヴォーカルに迎えた、“いぬん堂+ミヤマGt.”と言うユニットもやっていたが、両バンドが忙しくなった今、今後も活動するのだろうか?・・・と、それは置いといて。

現在の段階で、ビルは、その方向性を試行錯誤している様にも見えるし、明らかな目標に向けて確実に成長している様にも見える。しかし、これは一重に、ライヴ終了後恒例(?)の、「エレちゃんの駄目出しコーナー」なる、私の的確な指摘あっての成果であろう事は、誰が言わなくとも、私自身が自画自賛してやまない事実である。

・・・久保はん、アドバイス料ちょうだい!!(^^)/

ところで、先日、別のライヴにて、桃次郎氏抜きのビルと、ミヤマGt.が対バン(対決)したのだが、その件も含め、この2バンドを比較した方が、両バンドの異なる持ち味を上手く説明出来そうなので、いずれ、「ザ・対決シリーズ(?)」(1回目は「ブルースビンボーズVSオシリペンペンズ」、2回目は「三上寛VSセンチメンタル出刃包丁」デシタ・・・)にて取り上げたいと思う。

★以前の予告では、TTGこと、竹島蹄山グループと対決させる予定であったが、元コケシドールの分派であり、ベーシストの堀内氏が兼任と言うだけの共通点で、彼らを比較するのは、非常に安直かつ困難である事から、予定を変更イタシマシタ。なお、TTGは駅前旅館(元・肉弾)と比較すると面白そうなので、現在、脳内検証中でありマス。お楽しみに。

~③「あざらし」に続く・・・。

修行

もう、朝10時過ぎ・・・。

昨日は昨日で、昼間は寝て、夕方、やっと確定申告のための下準備に取りかかる有り様。

そして、本日27日から29日までは、元・高円寺店の引越し第一弾のため、今から14時まで寝て、某所を経由し高円寺へ・・・。高円寺にたどりついた後、片づける気力が残っているのか・・・?

ああ・・・。

もしや、これは、何かの修行なのか・・・?

この世は、あの世、あるいは、何処かに行くための訓練所、合宿所だとでも言うのか・・・?

何故、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日・・・。

繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返す・・・。

理想と言えば聞こえは良いが、不要な見栄や、無意味なプライドのために、俺は命をすり減らしているのではないのか・・・?

虚しい・・・。

肥え太るのは、いつだって支配者のみ・・・。

「いぬ屋敷Vol.23」潜入レポート①「ブラン」

2005年3月21日/池袋手刀
「いぬ屋敷」Vol.23
悪性新生物の間「春期狂育委員会」

レポート①「ブラン」

この日は、ライヴ開演前から、半分くらいの人がしゃがみこんでおり、いつもとは客層が違う&色んな種類の人達が集まっている様だ。パンクス、暗い人、オッサン、お嬢さん(年齢色々)・・・。

トップ・バッターはブラン。

今回は、3日で2回もブランを見ているので、非常にクリアに、彼らを把握出来た。

日本語の歌詞による、ねばりつく様な独特のメロディと、密度の濃い演奏が彼らの持ち味で、そのアクの強い、うねるようなサウンドは、一度ハマると病みつきになるだろう。

ギター&ヴォーカルのアダチ氏は、日常会話としてフツウに使われている、例えば、“コントロール”と言う英語を、半ば強引に、日本語的なアクセントに基づく旋律で歌う。先にも述べたが、その揺るぎない独自のメロディ・ラインが、そのママ、あの強靭なサウンド・スタイルに反映されているのだ。ベースのめぐ嬢は、女だてらにベースをぶいぶい鳴らし、こちらもやはり、その小柄な体型からは想像出来ぬほどの力強さを見せつける。また、今回は少なかったが、めぐ嬢の、急所をぐさりと突き刺すかの様なMCも、痛烈に印象的である。そして、ドラムのクリテツ氏は、フロントの2人を支えると言うよりは、こちらも自我を主張し、トリオにおける理想的なエネルギーの集中、均衡、一体化を促進する事に努めている様に見える。

ブランの、その確信的なサウンドには、情緒不安定な迷いが無く、ひとつの目標に向い、3人が遠慮し合う事無く、しかし、誰かが誰かにもたれかかる事も無く、個人個人が、全力を出す事によって到達する一体感を形成する事に成功している。これらは、3人の力量、相性が合致しないと成り立たない成果であり、バンド・マジックと言うか、成熟した“個”の集まる集団であるがゆえの、当然の結果であろう。

そして、アダチ氏のアクの強さ、めぐ嬢の気の強さ、クリテツ氏の我の強さが、それぞれブレンドされ、更に増幅された“濃さ”こそが、ブランの最大の特色であり、魅力である。

また、一聴して、ブランだと解る音色が、このバンドにはあり、その色合いが、フィットするかしないか、その熱波に身を預ける事が出来るかどうかが、貴方がブランを好きになれるかどうかの、評価の分かれ目になるのではないだろうか。

そう言う意味では、彼らは、既に完成されたバンドであり、本当に良いバンドと言うのは、メンバーの誰かひとりが欠けたら、その善し悪しは別として、まったく別の生き物になってしまうと言う事からも、ことブランに関しては、“今、観る”事を、強くオススメする次第である。

ブランは間違いなく、良いバンドであるが、その是非、好き嫌いは、貴方自身が判断するべき事であるのだ。

ちなみに、私は、「結構好き」である。

~②「ビル」に続く・・・と、思う。

音楽体力論

健全な肉体には、健全な精神が宿ると言う。

最近、その説の正しさをひしひしと感ぢている。

まあ、健全と言うのが、一体、如何なる状態を指すのか?・・・と、それを検証し始めると、また連載になってしまうので、今日の所はやめておくが、要するに、脳も筋肉、こころも筋肉、使わなければ衰え、放って置けば腐ってしまうと言う事だ。

若い頃には魅力的だったミュージシャンが、齢を取るとともに、ひらめきを忘れ、きらめきを失くしていくのは、つまる所、体力の低下がほとんどの要因であろう。

体力が低下すれば、精神力や集中力も、自ずと低下するものだ。

精力的と言う言葉があるが、やはりいつまでも現役で活躍している人は、その精神に健康な体力があるのだろう。

もちろん、体力だけのバカも居るが、生まれついての才能がどれほどあっても、それを表現、体現するためには、やはり体力が決め手の様な気がする。

だって、精神力がいくらあっても、足も動かぬ、目も見えぬ、指も動かぬ、頭も回転せずでは、クオリティの高いものなど出来ようはずが無い。

風邪引いてたり、身体がだるいと、何をする気力もなくなるでしょ?

資産家や大地主の家系に生まれたならともかく、庶民の武器って言ったら、体力だけだと、昔から相場が決ってるしな。

フフフ、まるで牛や馬、家畜だな。

ぐぅ~・・・・・!!しかし、も少し楽にならんかね。

この重力、この鎖、この空気、この虚無感。

この世はとっても住みにくいでござるよ。

生き写しの楽曲

自己表現における作曲とは、自らのこころの形状、その起伏や色合いを、音符の並び具合によって表そうとする作業である。

よって、正直であればあるほど、その楽曲は、その人自身の生き様を反映し、こころの有り様が生き写しとなる。

とは言え、純粋な気持ちを、歪曲する事無く、濁らせる事も無く、楽曲に宿らせるには、こころの震動を音像に変換する翻訳技術と言うものも、必要不可欠である。

ところで、私の、音楽に対する評価を、段階によって表示するならば、悪い方から、「殺す」「殺したい」「大嫌い」「嫌い」「好きぢゃない」「どうでも良い」「良い」「非常に良い」「ちょっと好き」「割と好き」「結構好き」「大好き」「忘我の境地」・・・となる。すなわち、私にとっては、「良い」音楽よりも、「好き」な音楽の方が勝るのだ。

だって、考えても見よ。人類の歴史において、いくら素晴らしく価値のあるものであろうとも、人間ひとりの短い人生、自分の残り少ない人生において、本当に重要なもの、必要としているものに勝るものなど、あろうはずが無いではないか。

そう、私にとって、音楽の善し悪しを決める基準は、それが自分にとって必要かどうか?それに尽きる。

さて、それでは、私にとって、「良い」に勝る「好き」な音楽とは如何なるタイプの楽曲を指すのか?

その前に、まずは、「大好き」に至らぬ楽曲を、構造上の問題点から分析しよう。

安定した人生を望む者、こころの躁鬱の度合いや感情の爆発と落ち込みの落差が少ない者。これらは、例外無く、その楽曲も安定しているか、起伏が少なく、振幅の度合い、揺れ幅、変化が少ない。具体的に述べるならば、ある一定のテンポで曲が開始されたなら、最後までそのテンポで曲が進行し、サビの部分で、多少の激しい素振りや、メロディの豊穣さが垣間見られるものの、基本的には、終始安定した、“良く出来た楽曲”の体を成している。そして、決して、苦しい領域に足を踏み入れたり、燃えたぎる情念の業火、刹那の感情の暴発に身を委ねたりはしない。

では、私の好きな音楽とは?

当然、その逆に、どこまでもエスカレートする意識の暴走に身を任せ、テンポは一定せず、感情が爆発する部分では猛烈なテンションの高まりを見せ、落ち込む時にはとことん暗く、地獄の底に激突するぐらい、猛スピードで急降下落下する、そんな激情的なこころの振幅が、何ら制御する事無く、楽曲の構成に生かされている様な、“頭で創る”のでは無く、“こころの揺らぎ”を生かした楽曲。そして、どろどろと音を立て、熱く煮えたぎる溶岩の様に、今にも溢れ吹き出しそうな、こころの内をさらけ出すかの様な音楽の事を指す。

激しい音楽とは、ただ大音量で演奏する事でもなければ、ただ声を枯らして叫び続ければ良いと言うものでは無い。こころの内のもやもやした苦しさ、抱えきれない程の狂おしい葛藤、それらの量であり、大きさ、そしてそれらを、“何らかの形状や基準に当てはめる”のでは無く、思うママ、感ずるママ、こころの命ずるママに、吐き出しているかどうかと言う点が最も重要である。

更に、例を挙げるなら、通常では出せない程の高い声の音域を使用したメロディ、演奏しきれない程のスピード、その他、そもそもが作曲の時点で、自らをわざわざ死地に追い込む様な楽曲を創る事自体、すなわち、自らを鞭打ち、生死の臨界点を覗き込むかの様な、自虐的な、ゆるやかな自殺行為に等しい表現方法、そんな、生き死にを体現するかの如き音楽が好きだ。

また、その表現内容が、純粋であればあるほど、混ぢり気が少なければ少ないほど、その表現行為の純度が高いと言えるのであり、そして、純度が高いと言う事は、その人間の本質そのもの、魂、こころの形に、極めて近いと言う事でもある。

純度が高い音楽は「良い音楽」である。そして、その「音楽」が、私の必要とするものであった時、そこで初めて、「好きな音楽」と呼べるのだ。

ゆえに、「好きな音楽」の種類を、「好きな人間」の種類と言い換えて、まず問題無い。

死の間際・・・

ああ!!もうこんな時間!!

仕事してたら、もう朝だ!!

昨日はさすがに寝てしまったから、今日はバリバリ仕事が出来たダス。

ほんでも、今日は昼過ぎから出かけにゃならんとよ。

ところでさ~。結局は、こう言う事よ。

死の間際には、何が一番大事だと思えるのか?何を残し、何を手にしていたいのだろうか?それとも、誰かにそばに居て欲しいのだろうか?

それを思い描けば、今、何を大切にして生きれば良いか、明確に解るはずだ。

もちろんそれは、人それぞれ違う。

私にとっては、自分の意識だ。自分が自分足り得る、自分が自分らしいと思える、あるいは思い込める自分。誰にも指図させず、誰にも強制されず、誰にも矯正されぬ、ありのママの自分である事。

それに勝る至福は無い。

自分の意志で生きてなくて、なんで生きている事を実感出来ようか。

誰かに生かされているなんて、冗談ぢゃねえ!!

自分の意識が消滅すると同時に、この世はすべて無に帰せしめられるのだ。

週刊マイ・ルール・ガイド

人はそれぞれ、胸にルールを秘めている。それが、マイ・ルール・ガイドであり、マイ・ルール・ブックである。

そして、それは、国によって、地域によって、人種によって、性別によって、年齢によって、時代によって、場合によって、ある時には大きな隔たりをもち、またある時には細かな違いをもって現われる。

いちいち気にしてられないが、いちいち気になるし、いちいち気にしなきゃならん。

そして、許せない、許さない。自分は自分、他人は他人だと見て見ぬ振り出来ぬ。

もちろん、自分が被害を被るのは困る。迷惑千万。

しかし、時に自分も、他人を苦しめる、抑圧する、圧迫する、排除する、貶める。

欲するのは、己が満足。

あっちを立てればこっちが立たず。

共通する部分で共闘し、異なる部分では、お互い独りになれば良い。

人々を支配する者達は、欲望に忠実であり、それを手に入れる力がある。

私達、奴隷階級は、一体何に縛られているのか?

自分で自分を縛る。否、何者かに操られている、このもどかしい感覚。

こころを縛る“善”とやらが、絵に描いた“正義”とやらが、この世の悪鬼を肥え太らせる。

正義の味方に、鬼は倒せない。

人を喰った話

一体、人間は、どうなりゃ良いのか?

どんな人間になれば、いつでも、どこでも、どの国でも、どの場面でも、“正しい”と言えるのか?

ある国では、猫は超かあいいけど、食べたりしない。しかし、またある国では、猫は食べちゃいたいくらい、かあいいらしく、本当に食べちゃうそうだ。しかも美味しいらしい。

猫殺し~、ああ、猫殺し~。

と、またまたまたまたある国では、何と人間を食べちゃうらしい。

人喰い~、え~、人喰い~。

夫婦喧嘩は犬も喰わぬが、○喰い人種は○も喰う。

美味しくない物を食べるはずは無いゆえ、きっと美味しいのであろう。

豚や、鶏や、牛や、馬や、羊の肉、その他、それらが不味ければ、きっとよっぽど喰うものが無い人以外、誰も喰わぬだろう。

この国では、猫も人も喰ってはならぬと言う。しかし、鯨は喰って良いらしい。否、むしろ食べたくてたまんないらしい。

何故なら、やはり美味しいから。

美味しければ食べてよい。

ルールはいつも、後から出来る。

基準となるのは、欲望のみ・・・。

ブログ・デビュー

ブログに移行すると、以降、新たに、更に多くの人々が来訪する事になると言う。

人間には種類があると言う事を、また一から説明しなければならないのか・・・。

“違い”を決して認めない。

“個人”を決して許さない。

“孤独”を忌み嫌う。

“孤立”を哀れむ。

貴方と私は別の人間なんだから、違って当然、違って正解。

異なる意見があるからこそ、この世は面白いのではないか。

対立歓迎、戦争歓迎、それが人間の本能であり宿命よ。

ああ、メンドクセ~!!

そのうち、過去の日記も移植するので、それを勝手に読んでくれ。

自分を殺す

自分特有の思考、嗜好、主観を排除し、対象物を客観的に把握、批評出来る能力があると言う事は、実に素晴らしい。なぜなら、そのためには、数多くのものさしを持つ必要があり、色んな角度からモノを見る事が出来なければならないからだ。

しかし、自分を殺してまで、それをするなら、プロフェッショナルな意識も感ぢようが、ところで貴方は、殺すだけの自分、すなわち自分のものさしを持っているのだろうか?

ただただ、生まれてこの方、遠くからモノを見て、一度もそれに触ろうとしなかったのではないか?

人を外から見て、その外見、容姿、洋服、身なり、身分、雰囲気、行動、言動・・・等、確かに、ひとのこころは外部に現われる。しかし、そのこころの内まで覗いてみようとした事があるだろうか?

人を知ると言う事は、ただ、表に現われるデータを収集し、それを分析するだけでなく、そのこころの内、実際のこころの有り様に目を向けなければ、本当に、他人の事なんて知り得ないのではないだろうか。

ああ、あれはアレね。それはソレだよ。

人間は生き物である。モノぢゃ無い。とは言え、確かに単純に分析できる部分があると言う事も否めない事実ではある。

しかし、それはただの情報である。実際に処方出来るクスリでは無い。

自分より他人の事ばかり興味のある奴は、自分自身に興味の無い人間、自分に魅力を感ぢていない、あるいは、挫折を知らない、自身に失望や絶望した事が無い人間なのではないだろうか?

私は、他人の研究ばかりする人間(私も時々するが・・・)より、自分自身の事を考えて思い悩んだり、自分の考えを発表したりする人の方が好きである。

・・・ちょっと、ウザイけど。

可能・昨日・苦悩

しかしなあ、そうは言うけど、若い頃は随分悩んだよ・・・。だから、早く見極めたかった。

こんな自分の生きる道、

そんな自分を“生かせる”道を。

理想で飯は喰えないが、理想のためには飯を喰わなきゃならん。

それって、ある意味、理想をオカズに飯を喰ってるとも言えないか?

欲望なら叶うかも知れないが、理想は叶わぬから理想なのだ。

だから、叶わぬからと言って、理想を捨てる事は無い。

そもそも、日記を公開するなんちゅう事自体、オカシイのよ。だからと言って、掲示板やチャットとも違う。これは、ある種の“作品”なのだ。

だから、イヤなら見なきゃ良いし、閉ぢる自由もある。

だけど、公開している以上、誰かに聞いて欲しいと言う、真っ当な欲求が無いはずが無い。

しかし、これはあくまでも“独り言”・・・。

記録では無く、日記である以上、自分なりの考え、すなわち独自の視点が貫かれていなければ意味が無い・・・と、私は思う。

日記なんだから、主観で良いのだ。主観で。インターネットと言うのは、音楽や絵画、小説の様に、“日記”と言う表現ジャンルを生み出した。日記と言うのは、従来ならば他人に読ませるものでは無かったはずだ。

“自分”を抜きに、客観的に語るなら、それは評論であろう。

誰かの代りに何かを言うのは、私の役目では無い。

「自分はこう思う」で良いのだ。否、そうでなけりゃあ、面白く無い。

ブログに移行しても、観客と対話するためのコメントは、受け付けない設定にする。

なぜなら、自分の知人しか楽しめない様な、身内向けの閉ざされた内容にはしたくないし、ここは、外で受けた影響を吐き出す場所であり、そもそも、私は、独りでやる創作活動が好きなのだ。

創作者とは、イコール、独裁者であるべきである。

誰かと一緒に居ると、私は自由になれないのだ。

ここで独裁者になるぶんには、誰にも迷惑かけてないだろ?


★現在、以下にて、日記公開中!!(^^)/
http://www3.azaq.net/d/03/erectrec.html

自由執念

昨日、当方経営の、エレクトレコード、中古レコード・CD販売ショップが、10周年を迎えマシタ。同業者の人から聞かされて、初めて気づいたよ。

いや~、しかし、始めた頃は良かったな~。景気も良かったし、今の様にCD復刻が盛んぢゃなかったから、まだアナログ離れ出来ない人も多かったしネ。

しかも、未曾有の不況&ネット・オークション全盛が、ダブル・パンチとなって襲いかかって来た。

いや、しかし良く頑張って来たよ。誰も誉めないから、自分で自分を誉めるとしよう。

そして、これまで、お買い上げ頂いた皆様、誠にありがとうゴザイマシタ。

とにかく、音楽自体、あるいは骨董品としてのアナログ盤が、三度の飯より好きな方々のお陰でありマス。

今後、店舗販売と言う形態を継続するかどうかは、時代の流れから見ても、非常に厳しいけど、やっぱ自分にはこれしか出来ない・・・って言うか、これしかしたくない。

やりたい事をして、金を稼ぐのが、一番好き。

好きな事をやるためなら、多少のいやな事もガマン出来る。

死んだら何も残りゃしないってのに、良くぞこの歳まで、虚無感を振り払い続けて生きてきたってもんだ。

寿命はあと10年だけで良いから、その10年間、眠らずに生きる事が出来たらどうだろう?

その10年は、20年分に値するのだろうか?

しかし、あたしゃ、深夜に働く運命なのかね~・・・。

10周年って言ったって、別段何も変らない。

今日もまた、10年と1日目が始まるだけ・・・。

継続は、“血”から・・・なり。(^^)b


★現在、以下にて、日記公開中!!(^^)/
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Mr.エレクトの進路指導室

自分の人生を決めつけてしまう事は、道を狭め、可能性を放棄する事だと言う、言い方がある。

しかし、本当の意味での可能性とは、例えば登山なら登山で、如何に困難な山を征服出来るか、スポーツならば如何に記録を伸ばせるか、商売ならばどれだけ儲けられるか・・・と、まずは道を選んだ上で、その道をどこまで極められるか?どれほどの高みに登れるか?と言った、未知なる結果に対しての、それを実現でき得るかどうかと言う、予知し得ない余地の事を指すのではないだろうか。

一つの道を選んでしまう事は、他にあるかも知れぬ幾多の可能性を殺す事。

本当にそうだろうか?

ぢゃあ、一体、いつ決めるんだ?

いつまでに、あるいは、どの時点で、それを決定する事がベストなのか?

3歳からピアニストを目指す子供も居れば、50歳にしてスキーを始める者も居る。

もったいない?

放っとけや!!他人の人生だ!!

助言に耳を貸す余裕は必要だとしても、自分の人生を決めるのは、最終的には自分自身。

駄目なら駄目で、自分で選んだ道なら、あきらめもつく。

自分で決める事が出来る事こそ、自由の証しであり、人間の特権であり、私にとっては至上の悦楽である。

舗装された安全な道を行く奴に限って、他人の人生にケチつけやがる。

予期せぬ事が起きるから、人生は面白いのだ。

たまに事故でも起きないと、“ただ、生きて”しまうんだよ!!


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間違いだらけの医者選び

健康な医者と、病気の医者、どちらが良い?

感染する病気は、当然、困るとして・・・。

風邪を引いた事の無い医者は、風邪を引いた患者の状態を医学的には判断出来ようが、その患者の本当の苦しさを理解出来ようはずも無い。せめて、それに似た症状を思い出し、推測すると言った程度であろうか。

ましてや、精神の病いの場合、現実に実感する事は、ほぼ不可能である。

とは言え、現代は、色んな研究書や、本人の手記なども発表されているから、“知る”事くらいは出来る。だが、健康な精神、健康な気持ち、健康な状態のママ、こころに軋轢を加える事と、既にこころが疲労しきっている所に重しを乗せるのとでは、雲泥の差がある。

患者の病状を診断し、ただ、それを伝えたところで、知ったところでどうなると言うのだ?

登山の途中で遭難している人間に、「この道は違うから、あちらの道を行きなさい」と諭したところで、もう既に手遅れなのだ。

せめて、ここから転がり落ちぬ様にふんばり、寒さに震えながら、助けを待つしかないではないか。

道を間違えた事くらい解ってる。

やり直したい気持ちが、一片たりとも無い訳では無い。

しかし、この生き方を、実はそんなにキライぢゃ無い。この先に、いかなる地獄が待っているのか、ちょっと覗いてみたい気もする。

分析屋サンは、俺にどうしろと言うのだ?

人として正しい道を説いてくれているのか?

だとしたら、あんたの言いなりになってやっても良いぜ。

ただし、人生が2度あればの話だが・・・。


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自由が欲しい

「自由が欲しい」と思う。

「自由に生きろ」と言われる。

しかし、どれほど自由な精神があろうとも、狭い部屋、短い時間では、発揮しようが無い。

まず、パンツを履き、靴下を履き、服を着て、身だしなみを整え、靴を履いて、やっと外に出る事が出来・・・た時にはタイム・オーバー。

ぢゃあ、素っ裸で外に出れば良いかと言うと、そんな訳には行かない・・・。

屋外も、結局は部屋の中と一緒であり、やはり制限がある。

また、どれほど遠くに行きたいと思っても、これまた限度がある。

自由な行動をしている人間には自由な精神があり、不自由そうに見える人間には自由な精神が無いのかと言うと、決してそんな事は無いのだ。

“自由”を行使するためには、自由な精神を発揮出来る“場”や“時”が、元からある、あるいは与えられている、恵まれた状況がなければならない。

それらが無い場合は、まず、その“場”と“時”を得なければ始まらない。

果たして、この俺に、自由な日々は訪れるのだろうか・・・?

だが、想像する事ならば、いくらでも出来る。だからこそ、こころの中の部屋、こころの中の時間は、無制限、無限大に自由でありたい。

・・・と、私は願う。

願いを持つ自由。・・・それぐらいは許してくれよ。


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お金持ちの貯金箱

またひとつ、お金持ちの貯金箱が設置された。歳末助け合いの募金箱とは、その性質を全く異に、否、正反対の箱である。

その入り口は、地下室へとつながっており、連日連夜、そこにゾロゾロと、何も知らぬ人々が吸い込まれていくのだ。

その、カラオケボックスの如き、“宴の間”は、観客は元より、出演者、企画者が、日頃、額に汗して稼いだ、なけなしの金を絞り取る場所であり、人間の汗、涙、血、怒り、喜び、嘆き、苦悶、快楽、衝動、情熱、夢、希望、未来・・・、それらすべてを換金し、一滴残らず吸い取るためにのみ存在している。

音楽の善し悪しなど関係無し。ここでも、通用するのは貨幣、紙幣、マネーのみである。

出演者は、音楽をより良くする事よりも、毎日お金を稼ぐ事のみに一生懸命である。しかし、仕方無いのだ。人前で演奏するためには、音楽スタジオで練習するだけでも、お金が必要なのだから・・・。

それならば、いっその事、動員が無いバンドは出演させないと言われた方が、まだマシだ。動員を増やすための努力と言うのは、必ずしも音楽的な向上のみを必要とせず、宣伝活動等、音楽自体とは無関係な努力を求められるが、より多くの人に見せたいと考えるならば、それは当然の行為なのだから・・・。ただ、それのみ追い求め、音楽をおろそかにする事が、良く無いのだ。

お金持ちの貯金箱とは、すなわち、営利のみを追求するライヴハウスの事を指す。

昔は“小屋”と呼ばれていた様な気がするが、最近は“ハコ”と呼ぶ様になったのは、金のタマゴを生むニワトリ小屋が、間接的では無く、もっと直接的に、もっと露骨に、もっと手軽に集金出来る便利なシステムに変ってきたからだろうか?

毎日とは言わない。一ヶ月に一日でも二日でも良い。売れる売れない、動員数、資金力の有無、それらに関わらず、本当に素晴らしいと思える(その基準はひとそれぞれ違うが)ミュージシャンを応援する、“粋”な計らいをしても良いぢゃないか。

だが、その様な、ミュージシャンに優しい、音楽に恩返ししている様な店は、たいてい資金難で窮している場合が多い。

ライヴハウスがいくら増えても、誰もが気軽に人前で演奏が出来る様になっても、良い音楽なんて増えやしないし、ましてや、全体的な質はどんどん落ちていくだけである。

いつだってそうだ。ブームと見りゃあ、儲かると見りゃあ、すぐ飛びつきやがる。音楽よりお金が好きな奴等のせいで、エネルギーは無駄に消費され、何もかもが台無しになる。すべてが目茶苦茶に、すべてが荒らされ、すべてが汚され、すべてがぶち壊しになる・・・。

あの趣味の悪い装飾、内装、構造、態度、姿勢・・・。まるで、そのいやらしいこころが透けて見える様だ。

こっちはニワトリやモルモットぢゃ無えんだ。人を家畜か奴隷扱いしやがって。

いくら壁や床が綺麗でも、そんな“ハコ”、下品極まりねえんだよ!!


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