Mr.エレクトの独り言 2005年04月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「レコード珍宝館」その1「美輪明宏/白呪(びゃくじゅ)」

<解説>今回より、私が昔、配布していたフリー・ペーパー、「トゥーマッチ通信」紙上にての、「レコード珍宝館」と言う企画ページを、順次、ここに再掲載イタシマス。句読点や漢字変換以外、文章には殆ど手を加えず、記述にある情報等、現在と異なる場合は、<追記>として、最後に記載してありマス。今回は、創刊号(1996年10月25日発行)より・・・。

「レコード珍宝館」その1「美輪明宏/白呪(びゃくじゅ)」

エレックレコード ELEC-5007 ’75.2月発売作品
A-1/祖国と女達(従軍慰安婦の唄)、2/悪魔、3/ボタ山の星、4/よいとまけの唄、5/亡霊達の行進、B-1/陽はまた昇る、2/別れの子守唄、3/妾(わたし)のジゴロ、4/私はドヂな女、5/さいはての海に唄う。

「美輪(旧・丸山)の唄は面白いよ」。そう、ある人に教わった私は、中古レコード屋で、まず「華麗な世界」と言うLPを入手した。既に洋楽のサルマネ的日本のロックに飽き飽きし、歌謡曲に走っていた私ではあったが、耳慣れぬシャンソンの日本語カヴァー等、いかにもゴージャスなアレンジの、このアルバムは、生々しい音、詩、唄の好きな私には、今ひとつピンと来なかった。だが、エレックレコード(URCと並び、’70年代初期の日本のインディーズのハシリ)の倒産寸前に出され、人目につかずひっそりと消えて行った本アルバムこそは、私を美輪の唄、更には、思想に傾倒させるに至らせた重要な作品である。内容的には、戦争亡者の人間こそ悪魔であると、悪魔が叫ぶA-2やA-1、5等、ポーズで無い実体験に基づく戦争批判の詩。土方の母を題材に、外見や肩書き、地位や名誉等に惑わされぬ生き物の尊さ、肉親の愛を弱者の立場から謳ったA-3や4。男に尽しては裏切られる、コミカルかつユーモラスな女を唄ったB-3、4。そして極めつけは、愛する人の死、別れ、そして自分の生と死、うちひしがれた人間を、その場しのぎでない永遠不変の愛で激しく包み込むかの様なB-1、2、5等。一見(聴)、凄絶で血なまぐさいA-1、2にせよ、もちろん、その他の曲すべて(B-4こそカヴァーであるが)を美輪本人が作詩作曲したこのアルバムには、美輪の思想と、性別、人種、地位、貧富の差・・・そんなちっぽけなものを超越した、“人間愛”と言うものが謳われている。楽曲において、特に斬新さや優れた所がある訳で無く、むしろシンプル。小谷充のアレンジも派手さこそは無いが、何と言っても、やはりその歌唱力、表現力に負う所が大きいのだろう。唄う資格の無いプロ歌手、下手だろうが上手かろうが、その前に歌うべき言葉(思想・主張)を持たぬ、自称ロッカーやアーチストがはびこる中、本アルバム、そして美輪明宏の存在は、正しいがゆえ意義深い。この様な優れたアルバムのCD化、再発を望む・・・等と私は言わない。その時期さえ来れば必ず、私自身の手で再発させて頂くつもりだ(数曲、ベストCDには収録されてマス)。

<追記>結局、5年くらい前に、このアルバムはCD化再発されマシタが、やたらとエコーをかけまくった様な音色にされてしまっており、失望させられたものだ。そんなに聴きざわりが重要なのか?一体、どこを見て、何を聴いてるんだ。

<追記の追記>追記にて言及されているのは1回目の再発CDに関してで、2回目の再発CDは聴いておりマセン。あしからず。

(つづく)

奴隷失格

大人・・・と言うと、語弊があるので・・・。

人を上から見下して、他人を自分(世間一般)の価値観のみで縛り、導こうとする者は、いつでもそうだ・・・。

自分の進む道を決めた人間の、その行く先が気にいらなければ、他にも道はあるのだから、無限の可能性を潰すな、あるいは、お前には無理だと、引き止める。

そのくせ、自分の生き方を決めかねている人間に対しては、早く決めろ、いつまでも子供で居るな、と急かす。

うるさい!!強制するな。そして、矯正するな。

自己の価値観を主張するのは良い事であると、私は考えているからこそ、この様なブログをやっている訳だが、それは、私はこう思う、私はこれが好きだ、私はこう生きたい、と宣言しているだけの話だ。

決して、人に指図している訳では無い。

日々、自分にとって最適、快適、素敵な生き方を、模索し、発表しているだけなのだ。

だから、あんたはあんたで、やはり自由に探せば良い。

共感するも勝手、反発するも勝手。

真の大人とは、自立している人間の事を指すのであり、支配者に奉仕するためだけに生きる、社会の歯車や、この世の家畜などでは無い。

飼い主になんて誉められなくても結構デス!!

社会不適応者で悪うゴザンシタ!!

あたしゃ、出来損ないのポンコツ・ロボットなんス!!

奴隷失格の駄目人間なんデス!!

欲しいのは、自由と刺激だけなんス!!

他には何にも要らないんデス!!

私にとって、生きているって事は、そう言う事なんス!!

檻も鎖もまっぴらゴメンなんデス!!

あっかんベ~・・・だ!!

「嫌い」以外はみんな「好き」

あんたら、好きなもの、多過ぎ!!

「嫌い」なもの以外、全部「好き」なんぢゃねえの?

本当に“好き”って、どう言う事?

幸せマニア。

幸福マニア。

好き好きマゾ先生。

あれも好き、これも好き。

欲しい欲しい病。

毎日が誕生日。

だから、違いがワカラナイ。

飢えには上がある。

舌には下がある。

目でも潰せば、ワカルカナ?

★<補足>「好き好きマゾ先生」→「好き好き魔女先生」と言う、子供向けのテレビドラマが、大昔にあったのよ。そのパロディね、念のため。

モノは言いよう。

モノは言いよう。

この世に、死なない人間、否、殺せない人間は居ない。

Aと言う価値観のナイフで刺しても死なないBが、Cと言う価値観のピストルでは、いともたやすく撃ち殺される。また、Cと言う価値観のピストルなど恐れもしないDが、Aと言う価値観のナイフには、いとも簡単に屈服する。

この世には、普遍的な価値観、完全に正しいと言い切れる善悪の基準など無いのだから、これは当然の結果である。

問題は、誰の価値観を尊重するか、あるいは、どこに基準を置くか?と言う事だ。

ある種、本当に存在意義のある人間などひとりも居ないと言えるし、また、その逆に、存在意義の無い人間などひとりも居ないと言える。

あるとすれば、望んで、誰からも好かれない人間になろうとする変人のみが、かろうぢて、“存在意義の無い人間”の勲章を手にする事が出来ると言えよう。

そう考えると、人は、何を目指しても、死ぬ時には死ぬし、殺される時には殺されると言う事になる。

しかし、だからと言って、何もしないでいても、これまた、やはり死ぬし、殺される。

要するに、こう言う事だ。完全なる人間など存在しないし、誰からも批判され得ない人間など存在しない。自分以外の人間に基準を求める限り、人は死に、殺され続ける。

しかも、面白い事に、生きようとすればするほど、殺される率も高くなるのだ。

ゆえに、人は時として、生きるために自分を殺さねばならない。

では、この世において、真に“自分を生かす”とは、どう言う事なのか?

それは、他人の価値観に自分を当てはめる事では無い。

表現者であれば、自分の価値観を世に提示する、自分の存在意義を世に知らしめる事。

表現者で無ければ、自分の価値観を持つ事、自分の存在意義を知る事。

もちろん、それらは、私個人の価値観であるからして、貴方は貴方、自分で自由に決めるのだ。

否、決めなくとも良い。

人間は、無理してまで、“生きる”必要など無いのだ。

この世から、あるいは他人から必要とされようがされまいが、自分自身が、この世に存在したいと思うなら、そうすれば良いし、その逆に、自分自身が、この世と言うステージを必要としないのであれば、自らが、その幕を下ろす事も、また自由。

自分の中に基準を持たずして、自分自身で意味を見出さずして、本当に生きているとは言えない。

出会いの不思議

出会いとは、すべて偶然である。

そして、その出会いが、良い出会いであれば、その偶然は“奇跡”と呼ばれる。

また、意図的に、その偶然が起きる率を高める事も可能であり、その率を高めた上での出会いを、“必然”と呼ぶ。

運命は、変えられる。ただし、運命に身を任せた場合の結果を知る事は不可能であるがゆえ、本当に変わったのかどうかは、知る由も無い。

若いと言う事は、その偶然の出会いを計るものさしを持たないと言う事である。何故なら、その偶然が奇跡であったかどうかと言う事は、その後の人生における、偶然の出会いの数、及び、各々の質を比較検討して、初めて認識し得るものであるからだ。

また、出会いの少ない者は、その偶然の出会いを、必然だと思いこみたがる。しかし、先にも述べた様に、必然とは、意識して得るものであり、そう言った意味でも、確かに、その偶然の出会いは“奇跡”であろうが、とても“必然”などと呼べるしろものでは無い。

宝くぢを思い浮かべて欲しい。券を買えば買うほど、当たる確立も増す。そうして宝くぢが当たった(当てた)ならば、それが“必然”である。しかし、その逆に、券を一枚も買わねば、死んだって当たるはずもなかろうが、例えば、偶然、誰かにもらったり、拾った券が当たったとしたら、それは“奇跡”と呼んで差し支え無い。

さて、それらを踏まえた上で、他人同志の集まりである、ロック・バンドにおける、“奇跡”と“必然”について語りたいと思う。(つづく)

まっとうな生き方

好きな事を一生懸命やる以外に、他にまっとうな生き方なんてありゃしない。

他人に迷惑をかけるのが好きだと言う人は困るが、自分の人生を自分の意志で自由に決定出来ない世の中は、あまり良い世の中だとは言い難い。

もしも、貴方が、自分の好きな事をやろうとした時に、障害となるものがあったとしよう。

それが、この世の歪みである。

そして、大抵それは、ある明確な意志の下にカタチ作られている。

好きな事を好きなだけ出来ないなんて、そんな理不尽な事があってはいけない。

多くの人間は、自らを棺桶のサイズに当てはめ、自分の墓を掘る様な生き方をしている。

墓なんて要らない。野垂れ死に歓迎。

立派な墓石を建てるために、人間は生きているんぢゃない。

自分の好きな事を一生懸命やっていれば、その結果が如何に悲惨であろとも、決して後悔なんてしないはずだ。

結果を求める生き方は、人を不幸にするだけだ。

しかし、この理不尽なる世の中においては、結果を出す者だけが報われる様に出来ている。

そして、結果とは、自分以外の他人の評価によってもたらされる。

自分にとって最高なものが、他人にとっても最高であれば、それに勝る喜びは無いであろう。

しかし、自分にとって最高なものよりも、他人の評価の方が重要だとなると、ちと困りものだ。

そんな風潮が、自分のこころを捻ぢ曲げる事さえも良しとしてしまうのだ。

常に監視カメラで見張られ、番号札を首にぶら下げ、家畜の様に管理されたがる。

ロボット一体、一丁上がり!!

死へ向かう列車

本来は、本音を語るためゆえの場において、建前しか言わないのは、何故?

乾いた大地に、水をしみこませるかの如く、甘言は囁かれる。

喉が乾いてやまない者には、毒水さえも、天使の奏でる福音の調べに聞える事だろう。

それが、死神の接吻だとも知らずに。

ああ、今夜も、生まれたばかりの自由な魂が、まだ目も開かぬ無垢な情熱が、手足をもぎとられ、死へ向かう列車の指定席に磔にされるのが見える。

死に逆らわずして、何故に生きていると言える?

反逆せずして、何故に表現者を名乗れる?

破壊せずして、何を創造出来る?

ああ、今日も。そして、いつだって、面白くねえ!!

バンド分裂考

ライヴハウスによって出音は違うが、同ぢライヴハウスでも、ミキサーの人が異なると、えらく音色や音圧が違うもんだ。

先日、某ライヴハウスに出向いたのだが、前回は、ドラムの音がなんだかシャカシャカして、某バンドの野獣ドラマーの猛獣っぷりが、半減させられており、小屋に対し憤慨したが、今回はバッチリだった。とは言え、そのバンドの演奏自体は、少々荒い部分もあったのだが、小さくまとまってしまうよりは、全然オッケーである。本気でやっていれば、いやでも上手くなるのだから、やり初めのうちから、型にはまる必要は無い。

公務員みたいなバンドや、コスプレみたいな音楽には、もう、うんざりしきってるんだ。

また、当日は、他のバンドの音も、いつになく重く、ハードであった事からも、多少は、室内の空気の違いと言う要因もあろうが、やはりミキサーの力量では無いかと思われる。出演者には、その件も、すぐに指摘したので、次回からも、あのミキサーを指名すべきだろう。そうでなければ、自腹を切ってまでライヴハウスに出演する意味が無い。メジャーなバンドであれば、レコーディングに特定のミキサーを指名する事は、当然の行為なのだから。

しかし、色々と考えさせられる事の多い一日であった。

バンドの面白さと言うのは、やはり、そのメンバーでしか有り得ない組み合わせの妙であり、そのうちの誰か一人が欠けても、その善し悪しは別として、違う生き物になってしまう。メジャーなバンドでも、あるメンバーが抜けるや、人気が下降する事も、決して珍しくない。しかし、他人同志が集まって、創作行為に限らず、何かをすると言う事は、その関係を持続する事の難しさに直面する事も多く、それが良い方に働く事もあれば、馴れ合いに溺れ、緊張感を失くしてしまう事も多いゆえ、そのバランスと言うのは、はたから見るより、実際には、相当な苦労と困難があろう事は想像に難くない。

まあ、完全に、特定のあるバンドの事を指して言っているのだが、こう言う事は、外部のものが気安く口出し出来る事では無い。夫婦喧嘩はなんとやらである。

ホント、バンドって難しいなあ。・・・って言うか、共同作業って難しい。だけど、だからこそ、価値があるとも言える。

人間の一生も、そうかも知れない。輝いている時期は短く、その渦中では、自分でそれを自覚出来ず、失くしてから初めて、振り返って見て初めて、その価値が解る。人間は、日々、驚くべき数の細胞が死滅して行くと聞いた事があるが、まさしく、その通りであろう。初心や、純粋なこころを保つ事は、ほぼ不可能に近い。バンドと言う共同体に関して言うなれば、常に新鮮でいられる関係性を保つと言う事は、もはや奇跡に近い所業である。しかし、だからこそ、偶然の出会いには、奇跡的な価値があるのだと言う事も、失って初めて解るのだ。

ファースト・アルバムは大名盤で、それ以降は駄作ばかりと言うミュージシャンが多いのも、さもありなん。その原因は、若さゆえのきらめきやひらめきに代る魅力を、自らの力で生み出すための、技術を培う努力を怠ったからに他ならない。

ありあまる才能や、無限の可能性も、水や養分をやらなければ、開花するどころか、発芽する事も無く、ただただ腐敗し、死滅してゆくのみなのだ。

要するに、維持する労力、継続するための努力と言うものも、困難であるがゆえに重要であり、しかし、だからと言って、ただ惰性で活動を継続したり、関係を持続すれば良いって訳でも無いと言う事だ。

“偶然”を“必然”に変える事が出来る者のみが、今日を明日につなげる切符を手に出来るのだ。否、そうでなけりゃあいけない。

まあ、なるようになるしかないさ。観客は、その都度、喜んだり、がっかりしたりするだけだ。

現実は非情。この世は無常。

所詮、いかなる出会いも偶然に過ぎないのだ。

ならば、理由はどうあれ、いずれ別れが来ると言う事も、必然の出来事なのである。

不幸を生み出す人間

人間とは愚かな生き物だ。

自分で自分を不幸にしている。

支配する側は、おそらく気が付いているはずだ。

子供の頃から、ず~っと、感ぢて来た違和感が、ここに来て絶頂を迎えつつある。

幸せの形に自分を当てはめる人生。

肉体だけが成長し、感受性は死んで行く。

人の上になんか立ちたくない。

誰も居ない場所に立ちたい。

誰にも支配されず、誰をも支配しない。

自分を自分で支配する事、すなわち自立。

まず、自分のために生きよ。

自分を大事にしない人間に、他人を幸せになんて出来ない。

大人を信ぢるな。他人を信ぢるな。私の言う事など、真に受けるな。

あなた、料理がお上手ね~。

でも、美味しくねえんだよ!!

D・O・L・L!!

本日、発売される、音楽雑誌DOLLに、いぬん堂監修、’70~’80日本のパンク/ニュー・ウェイヴCDカタログみたいな記事が載りマシテ、私も5点ほど、書かせて頂きマシタ。

いや~、しかし、他の皆さんも、いずれも濃い文章ばかりで、圧倒されてしまいマスがな。詳しくは、書店にて・・・。

当時流行の音楽を、今の若者が聴いて、どう感ぢるのかは知らないが、まあ、出来る事ならば、「人と違っても良いんだ」、更に、「人と違って当然なんだ」と言う事を、もっと知って欲しい。

仲間外れが怖くて、本当の自分を偽る事も、たまにはあるだろう。

でも、独りになった時まで、本来の自分を偽る事は無い。

表現とは、創造とは、本来、独りで行なうものだ。

独裁者にならずして、良い作品など作れない。

目の前の誰かのため、目に見えぬ誰かのため、あるいは、押し付けられた規則、植え付けられた既成概念に縛られて、何かを創るのであれば、それは自己表現とは呼べない。

縛るべきは、己が信ずる規律によって。貫くべきは、己が殉ずる美意識によって。

思うママ、好きな様に、自由にやるが良い。

人は、決して、“自分を殺し”、誰かの犠牲になってはならない。

自分の幸福(エゴ)が、他人の幸福につながる様な、“自分を生かす”、生き方をしなければいけない。
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