Mr.エレクトの独り言 2005年04月05日

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

モノは言いよう。

モノは言いよう。

この世に、死なない人間、否、殺せない人間は居ない。

Aと言う価値観のナイフで刺しても死なないBが、Cと言う価値観のピストルでは、いともたやすく撃ち殺される。また、Cと言う価値観のピストルなど恐れもしないDが、Aと言う価値観のナイフには、いとも簡単に屈服する。

この世には、普遍的な価値観、完全に正しいと言い切れる善悪の基準など無いのだから、これは当然の結果である。

問題は、誰の価値観を尊重するか、あるいは、どこに基準を置くか?と言う事だ。

ある種、本当に存在意義のある人間などひとりも居ないと言えるし、また、その逆に、存在意義の無い人間などひとりも居ないと言える。

あるとすれば、望んで、誰からも好かれない人間になろうとする変人のみが、かろうぢて、“存在意義の無い人間”の勲章を手にする事が出来ると言えよう。

そう考えると、人は、何を目指しても、死ぬ時には死ぬし、殺される時には殺されると言う事になる。

しかし、だからと言って、何もしないでいても、これまた、やはり死ぬし、殺される。

要するに、こう言う事だ。完全なる人間など存在しないし、誰からも批判され得ない人間など存在しない。自分以外の人間に基準を求める限り、人は死に、殺され続ける。

しかも、面白い事に、生きようとすればするほど、殺される率も高くなるのだ。

ゆえに、人は時として、生きるために自分を殺さねばならない。

では、この世において、真に“自分を生かす”とは、どう言う事なのか?

それは、他人の価値観に自分を当てはめる事では無い。

表現者であれば、自分の価値観を世に提示する、自分の存在意義を世に知らしめる事。

表現者で無ければ、自分の価値観を持つ事、自分の存在意義を知る事。

もちろん、それらは、私個人の価値観であるからして、貴方は貴方、自分で自由に決めるのだ。

否、決めなくとも良い。

人間は、無理してまで、“生きる”必要など無いのだ。

この世から、あるいは他人から必要とされようがされまいが、自分自身が、この世に存在したいと思うなら、そうすれば良いし、その逆に、自分自身が、この世と言うステージを必要としないのであれば、自らが、その幕を下ろす事も、また自由。

自分の中に基準を持たずして、自分自身で意味を見出さずして、本当に生きているとは言えない。

出会いの不思議

出会いとは、すべて偶然である。

そして、その出会いが、良い出会いであれば、その偶然は“奇跡”と呼ばれる。

また、意図的に、その偶然が起きる率を高める事も可能であり、その率を高めた上での出会いを、“必然”と呼ぶ。

運命は、変えられる。ただし、運命に身を任せた場合の結果を知る事は不可能であるがゆえ、本当に変わったのかどうかは、知る由も無い。

若いと言う事は、その偶然の出会いを計るものさしを持たないと言う事である。何故なら、その偶然が奇跡であったかどうかと言う事は、その後の人生における、偶然の出会いの数、及び、各々の質を比較検討して、初めて認識し得るものであるからだ。

また、出会いの少ない者は、その偶然の出会いを、必然だと思いこみたがる。しかし、先にも述べた様に、必然とは、意識して得るものであり、そう言った意味でも、確かに、その偶然の出会いは“奇跡”であろうが、とても“必然”などと呼べるしろものでは無い。

宝くぢを思い浮かべて欲しい。券を買えば買うほど、当たる確立も増す。そうして宝くぢが当たった(当てた)ならば、それが“必然”である。しかし、その逆に、券を一枚も買わねば、死んだって当たるはずもなかろうが、例えば、偶然、誰かにもらったり、拾った券が当たったとしたら、それは“奇跡”と呼んで差し支え無い。

さて、それらを踏まえた上で、他人同志の集まりである、ロック・バンドにおける、“奇跡”と“必然”について語りたいと思う。(つづく)