この世に、死なない人間、否、殺せない人間は居ない。
Aと言う価値観のナイフで刺しても死なないBが、Cと言う価値観のピストルでは、いともたやすく撃ち殺される。また、Cと言う価値観のピストルなど恐れもしないDが、Aと言う価値観のナイフには、いとも簡単に屈服する。
この世には、普遍的な価値観、完全に正しいと言い切れる善悪の基準など無いのだから、これは当然の結果である。
問題は、誰の価値観を尊重するか、あるいは、どこに基準を置くか?と言う事だ。
ある種、本当に存在意義のある人間などひとりも居ないと言えるし、また、その逆に、存在意義の無い人間などひとりも居ないと言える。
あるとすれば、望んで、誰からも好かれない人間になろうとする変人のみが、かろうぢて、“存在意義の無い人間”の勲章を手にする事が出来ると言えよう。
そう考えると、人は、何を目指しても、死ぬ時には死ぬし、殺される時には殺されると言う事になる。
しかし、だからと言って、何もしないでいても、これまた、やはり死ぬし、殺される。
要するに、こう言う事だ。完全なる人間など存在しないし、誰からも批判され得ない人間など存在しない。自分以外の人間に基準を求める限り、人は死に、殺され続ける。
しかも、面白い事に、生きようとすればするほど、殺される率も高くなるのだ。
ゆえに、人は時として、生きるために自分を殺さねばならない。
では、この世において、真に“自分を生かす”とは、どう言う事なのか?
それは、他人の価値観に自分を当てはめる事では無い。
表現者であれば、自分の価値観を世に提示する、自分の存在意義を世に知らしめる事。
表現者で無ければ、自分の価値観を持つ事、自分の存在意義を知る事。
もちろん、それらは、私個人の価値観であるからして、貴方は貴方、自分で自由に決めるのだ。
否、決めなくとも良い。
人間は、無理してまで、“生きる”必要など無いのだ。
この世から、あるいは他人から必要とされようがされまいが、自分自身が、この世に存在したいと思うなら、そうすれば良いし、その逆に、自分自身が、この世と言うステージを必要としないのであれば、自らが、その幕を下ろす事も、また自由。
自分の中に基準を持たずして、自分自身で意味を見出さずして、本当に生きているとは言えない。
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