Mr.エレクトの独り言 2005年05月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

禁未来小説「ドラへもん」その③「パパの思惑」の巻

夕方、パパも帰宅し、いつもなら、家族三人水入らずの夕べの一時・・・。

パパ「ほう、ドラへもん君と言うのかね。まあまあ一杯やって・・・。」

ドラ「ウフフフ・・、こりゃまた話の解るオヤジさんで・・・。おっとっと、こぼれちまわあ・・・。もったいねえ。」

どうやら、この下品極まりない家庭教師の事を、パパも気に入ってしまった様子。でも、ボクはどうしても納得行かなかった。

そして、その夜。ドラへもんはすっかり酒に酔って、ボクの部屋の押し入れ(一応、そこに寝泊まりする事になったらしい)の中で高いびき。そこでボクは、歴史は夜つくられる・・・とばかりに、微力ながらも、パパとママに対してレジスタンスを決行したんだ。

のひ太「ねえ、パパにママ~!!ボク、あんな奴と一緒に暮すのゴメンだよ~!!あのダミ声も、下品な言葉使いも、もう耐えられないよ~。」

パパ「まあまあ、のひ太。確かにドラへもん君の声や言葉使いはそうかも知れない。しかしな、彼こそが、今後、我が家に足りない重要なポジションを担ってくれるはずなんだぞ。」

のひ太「ええ~!?どう言う事?」

パパ「いいか、のひ太、よく聞け。どうもパパはやさしすぎて、お前を駄目にしてしまうきらいがある。本当はもっと厳しくのひ太を教育しなきゃあならん立場だと言うのに、父親失格なんだよ、パパは・・・。」

のひ太「ううん!!そんな事無いよ!!パパはやさしくて素敵なパパだよ!!」

パパ「あははは、そう言ってくれるのは嬉しいがな。まあいい。今日はもう遅いから、のひ太ももう寝なさい。そのうちきっと、のひ太にも、ドラへもんの良さが解る時が来るよ。」

のひ太「そのうちって・・・。ボクは今、いやなのに・・・。」

ママ「はいはい、のひ太さん。ぢゃあ、また明日、愚痴はママが聞いてあげるわよ。」

結局、ボクの抗議は受入れられなかった。あ~あ、ホント、やんなっちゃうよ。大人は子供の事なんて、何も解っちゃいないんだ。ボク、家出でもしようかしら・・・。

これが、奴とボク、ドラへもんとのひ太が繰り広げる200日戦争の幕開けを告げる、第一日目の出来事であった。

(つづく)

自己表現における狂気

狂気とは、正気を失った状態であるが、確かに、一般的、及び医学的には、そうであろうとも、私が自己表現において求める狂気とは、あくまでも正気の延長線上にあるものであり、正気、及び常軌を完全に逸脱した状態の事では無い。

何故かと言えば、正気や常軌を完全に逸脱した行為と言うものは、他者からの、ある一定の判断基準を全く受け付けず、自己の表現内容に対する責任や覚悟が無くとも成り立つ行為であり、従来の価値基準に基づく評価そのものを否定し、一瞬にして、さも自分が別格な存在であるかの様に見せる事も可能であり、要するに、それが真の狂気であるのか?と言う検証作業さえも、はなから拒否し、自分を何か特別な存在に見せるためだけの演技であったり、見せるに値しない本当の姿を覆い隠す手段として用いられている事が多いからである。そもそも、本当に狂っているのであれば、前もって定められた場所において、何らかの目的のために表現行為を行なう事さえ困難なはずであるのだから。

私の考える、自己表現における狂気とは、人間が本来持ちうる感情のいくつかが極端に増幅された状態であったり、ひとつの思い、その思い込みが異常に繰り返される事によってもたらされる、“過ぎた”状態の事を指す。

私は、その様な、考え過ぎ、思い込み過ぎ、悩み過ぎ、落ち込み過ぎ・・・、自己の内面に対しての感情移入過多な人間による、トゥーマッチな表現が大好きである。

ゆえに、その思い、その苦悩、その傷口、その病状が、深ければ深いほど、重ければ重いほど、なお良し。

そう。私はそんな、“生きにくくてしょうがない”困った人達、“ただ生きる事さえ苦しくてたまらない”繊細な人達の演る音楽が、大好きなのである。

自己と真剣に向き合う事を放棄した様な、人間としての感情、正気を失った、人間として壊れた生き物、更には、壊れたふりをする人間には興味が無い。

正気であり続ける事、現実と向き合い続ける事、宿命を背負い続ける事、自己の内面を見つめ続ける事、そして、それを誰かに伝えようとする事。

狂気とは、私の求める自己表現の形態とは、そんな、正直過ぎる程の、純真なる感性の延長線上にしかあり得ない。

ご来場感謝!!

■木幡東介(マリア観音)・ワンマンライヴ「日本絶滅動物記 其の5」
[日時]2005年5月27日(金)
[会場]吉祥寺シルバーエレファント
[住所]武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話]0422-22-3331
[開場]19:00
[開演]19:30
[料金]前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合]エレクトレコード新宿店 03-3362-6181

★お陰様で、無事に終了イタシマシタ。ご来場、誠にありがとうゴザイマシタ!!(^^)/

禁未来小説「ドラへもん」その②「ママに抗議」の巻

のひ太「ねえ、ママ~!?どう言う事さ~?なんであんな奴がうちにいるの~?」

ボクは、ママに対し、早速の猛抗議を開始した。

ママ「あら?だって、のひ太サン自身が言ってたぢゃない。ボクだって、家庭教師の一人や二人居れば、勉強だってバリバリするのに~・・・って。」

のひ太「え~!?そんなの言葉のあやって言うか~。もしボクが仮にそう言ったとして、あいつはないんぢゃない?あんな下品な・・・。」

ママ「あら?だって、あの方、のひ太サンの指名を受けてやって来たとか何とか言ってたわよ?」

のひ太「ええ!?ぢゃあ、あいつはママが連れてきたんぢゃないの?」

ママ「ええ、そうよ。私はてっきりのひ太サンが自分でやる気を出して見つけて来たとばっかり思ってたのに・・・。変ねえ・・・。」

のひ太「ぢゃあさあ、ママ~。あんなやつ追い出しちゃおうよ~。ボク、ああ言う下品なタイプ、超苦手~!!」

ドラへもん「おう!!てめえら、黙って聞いてりゃあ、好き勝手言いやがってよう!!」

何と、ボクがママと夢中で言い争っている間、気づかないうちに、奴は階下に降りて来てたんだ。

ドラ「わしゃあのう、ハッキリ言うて、おめえらのオヤジ殿に依頼されて、“複浪博士の未来塾”ちゅうとこから派遣されて来たっちゅうの。」

のひ太「え~・・・パパったら、なんて人選ミス!!」

ドラ「ちなみに、ワシを選んだのは、おめえらのオヤジぢゃ無くて、未来塾の世話複浪博士こと、校長の世話氏やけどな。おめえの様なクソガキにゃあ、ワシの様なタイプがぴったりちゅうとったが、あ~あ、めんどくせえな~・・・。せやけど、それがワシの使命なら、やってやってやりまくらにゃあならんちゅう事よ。そう、ワシはのひ太に“指名”されたんぢゃ無く、のひ太を教育する“使命”を背負って、ここに来た。よって、おめえのねぢ曲がって腐りきった根性が治るのが先か、ワシが裸足で逃げ出すのが先か、二つに一つ、オール・オア・ナッシングの200日戦争の火ぶたが、今ここに切って落されたっちゅう事かのう?」

のひ太「うへえ、マジキモ~い!!ママ~・・・。ボク、こんな奴と一緒ぢゃあ、勉強なんて出来ないよ!!」

ドラ「うっせえ!!おめえなんぞ、どうせ勉強なんかしやしねえし、した所で間違いだらけの嘘だらけで、世の中に対して何の役にも立ちゃしねえんだ!!それをワシが矯正しちゃろうっちゅうとんのやから、黙ってワシの言う事聞いとりゃええんぢゃ!!こんボケが~!!」

ママ「あらあら、実に頼もしい家庭教師サンです事。のひ太サン。ドラちゃんの言う事良く聞いて、ママの老後をシアワセにしてちょうだいね。」

ああ・・・。どうやらママは、この下品な猫型ロボットの家庭教師を気に入っちゃった様子。今後のボクの人生、一体どうなるのかしら・・・?

(つづく)

自由と言う名の匿名のもとに・・・

更につづき・・・

しかし、ここまで述べた事は、あまりにもっともな意見なので、私としては面白く無い。そこで、もう一歩踏み込んで、色々考えてみた。

まず、論争においては、相手に対する好き嫌いの感情を抜きにしなければならない。そうでないと、あの無礼なコメンテーターの様に、本音は「おまえが嫌い」だと言う事を言いたいだけなのに、もっともらしいことばかり言うから、視点、すなわち自分の立ち位置を明確に出来ない論調となるのだ。

自分が好きな相手でも間違ってる事はあるし、嫌いな相手でも正しい事はある。また、自分の事を好きな人間だから正しいとか、自分の事を嫌いだから間違いと言うのも、これまたオカシイ。物事の基準と言うのは、好き嫌いとは全く別な所にある。もちろん、正しいから好き、間違ってるから嫌いと言う判断なのであれば、その順序からして問題無い。

そう言う意味では、相手の意見に対し、反対の事ばかり言うのだから、反論と言う言い方は当たっているが、何を言っても反発するのでは、マトモな論争になどなり得ない。

ただ、これは言っておきたいが、有名人の発言に対し、その内容や質に関わらず、ありがたがる人間が多いと言う現実は、忘れてはならない。ゆえに、その意見が少数だからとか、無名人だから、と言う理由で、頭ごなしに否定するのも、これまた良くない事である。実際には、有名人であるがゆえに本当の事を言えなかったり、大多数の側になればなるほど、本音を言えなかったりするのだ。

そもそも、匿名での発言を認めている場において、匿名である事は非難するに当たらない。今回の件は、ただ相手を嫌いと言うだけで、自分の立ち位置を明らかにせず、あげ足を取るだけのためと言われても仕方ない、反論するためだけの反論であった事と、他人の家に土足で上がり込むかの様な、失礼なもの言いが問題だったのである。

すべての人間が、何もかも知っていて、何ひとつ間違いを犯さない訳では無いのだから、正当な批判や反論と言うのはあって良い。しかし、その間違いを指摘したり、自分の考えとの違いを論ぢるのは自由だが、相手の人格まで否定したり非難したりするべきでは無い。

否、それをしても良いが、公の場で相手を辱めるのであるから、発言者にも、それなりの責任と覚悟が要求されるべきだろう。

ネット社会での匿名発言の良い所は、誰にも気兼ねせず本音を言えると言う事であるが、どうも、自分だけは安全な場所に居ながら、他人を傷つけるためだけに用いられている事が多いようだ。

匿名も良いだろう。自由な発言も良いだろう。だが、正当な理由も無く、ただ単に相手を貶めるためだけの発言と言うのは、批判する価値すら無い、低俗な行為である。

自由であると言う事は、無法な行いや無礼なふるまいをすると言う事とは違うのだ。

モー争の掟

(ネット上の論争に関しての話題のつづき・・・)

問題なのは、責任の所在を明らかにしない事なのだ。

推測が間違っているとか、あるいは、考え方そのものが間違っていたとしても、別に謝る必要も無いし、改める必要など無いが、発言者は、それをきちんと背負うべきなのだ。

ゆえに、反論者は、自己の立場(個人のプライバシーでは無く)を明確にし、狂犬の様にただ噛み付くだけで無く、論争のルールに乗っ取ってコメントする必要がある。

しかし、また逆に、信者的盲目的な擁護もイカン。自分の好きな人も、時には間違うし、自分の嫌いな人だって、時に正しい事を言うものなのだ。

要は、好き嫌いと事の善し悪し、正しい事と間違いとは、きちんと区別するべし・・・テコト。

掟氏の取り巻きが、これまた無自覚・無責任に、筋の通らぬ理屈で、ひとりで闘う人間の意見を踏みにぢってはいけない。もちろん、非礼な態度は責められてしかるべきだが。

とは言え、なんで日本人(外人の事は知らぬが)は、まともな論争が出来ないかね~?あんなコメント、闇討ちと一緒だよ。そんな無礼な奴に対してさえ、掟氏は、ちゃんとしたルールの基に反論を展開しているのに、リングに上がる事もせず、ただ遠くの暗闇から石を投げつけるだけなんて、フェアぢゃ無い。

つうか、そもそも、モー娘(略す時も「。」を付けるの?)と言うか、アイドルの楽しみ方自体が、ファンの妄想プレイな訳で、別にそれは悪い事では無いし、現実の人間や社会相手にそれをやったら単なる犯罪者となってしまうが、おそらく、全盛期の新日のプロレスと一緒で、ファンをどれだけ妄想に浸らせてくれるか?と言うのが、事務所やブレーンを含めた、アイドル・タレントの力量なんだと思うし、きっとモー娘。ってのは、そこいらへんの在り方が、真実ぢゃ無いとは解っちゃいるけど、過大な妄想を許容、否、提供する事の出来る極上のエンターテイメント性、一級品のアミューズメント性を有してたんだろうな。

・・・なんて、知りもしないくせに偉そうに言ってると、どっかから石でも投げつけられそうなので、このへんで止めておくが、そもそも、現実を楽しめる程、ヘーワでシアワセな世の中だったら苦労しねえんだよ。妄想こそ、人間だけに許された、最高級の娯楽なんだ。娯楽ってのは、ありきたりな日常の生活から、どれだけ逸脱出来るかって事だ。嘘をどれだけ楽しむか、楽しめるか?ってのが、娯楽の本質よ。

そして更に、その嘘を如何に解き明かすか?有象無象の情報から如何に真実(妄想)を導き出すか?と言うのが、おそらくモー娘。の楽しみ方であり、アイドルマニアの醍醐味なんだから、掟氏の論が妄想であったとて、それは非難するに当たらない。むしろ、あれこそが正しい楽しみ方・・・と言うより、盲目的及び受動的では無い、積極的かつ主体性のある楽しみ方なのである。

覆面レスラーの素顔をあれこれ想像するのは楽しいが、試合の会場以外のプライベートな場所で、乱暴者が無理矢理、レスラーの覆面剥がしをする事は、プロレスを本当に楽しむと言う事とは絶対に違う。

ましてや、その乱暴者の方は、手袋と覆面で、てめえの素性だけはしっかりと隠しているだなんて・・・。

★「自由と言う名の匿名のもとに・・・」につづく・・・

子供の教育

少し、追記。

間違った子供は、断固叩き潰せと言ったが、あくまでも、礼儀知らずの自覚無き人間に対して・・・と言う事であり、子供と言うのは、基本的に未熟なものなので、一度にあれこれ言い過ぎると、本当に潰れてしまうから、注意が必要だ。

例えば、あれもこれもと、すべての批判を一度に浴びせると、よほどの負けん気の強い人間で無い限り、それをはね返す事など出来ず、ふてくされたり、無気力な人間になってしまう。

ゆえに、根本的な問題点を指摘する事によって、その後は、成長しようとする子供の自覚に任せるか、特に目立つ問題点のみを指摘し、そこが改善されたら、次はこれ・・・と言う具合に、大人にも、子供の成長を待つ余裕が必要だ。

そうすれば、子供だって馬鹿ぢゃ無い。自分で勝手に育っていくさ。

教育とは、大人が子供達を、大人の言いなりになるロボットにする事では無い。まだ人間とは呼べぬ未熟な生き物を、自分で物事を判断出来る、“人間”にする事である。

だから、子供にも一言。おまえらをロボットにしようとする、ニセの大人には、徹底的に反抗せよ。

おまえらは未熟な人間だが、決してロボットなんかぢゃ無い。ましてや、奴隷や家畜なんかでも無いのだ。

★「モー争の掟」につづく・・・

大人の戦争

ちょっと寝て、深夜の仕事始めのウォーミング・アップに、リアルに生きている人達のサイトやブログを見て、自分に渇を入れるのが、最近の習慣であるが、あるブログにて、非常に興味深いやり取りがあったので、取り上げてみたい。

ロマンポルシェの掟氏のブログ、「掟ポルシェの赤黒い日記帳」(各自で検索すべし)において、掟氏によるモー娘ネタに噛み付いてきたコメンテーターがおり、掟氏はこれに丁寧に反論し、「大人げないけど・・・」と、自らを定義。他のコメンテーターからも、「相手にするな」との意見があった。

ちなみに、私はモー娘には全く興味無く、討論されている題材については、もちろん、どうでも良いのであるが・・・。

しかし、世間で言われている“大人”とか、“大人げない”と言う定義は、明らかに間違っている。本当に大人であれば、子供が間違った事をしでかしたならば、それを実力でねぢ伏せる必要がある。

とは言え、最低限の言葉と言うか、会話すら出来ぬ相手であれば、本当に時間の無駄であるから、さっさと駆除した方が良いが、道場破りを追っ払えない者に、道場主は務まらない。

また、正しいとか間違っているとかの定義と言うものも怪しいものだし、むやみに自分の意見を押し通すのは醜いが、自己の立場や、発言内容についての根拠は明確にすべきであり、“ケンカの仕方”と言うものはあってしかるべきである。

まあ、私も結構いい加減なので、このブログも、ツッコミ所満載だとは思うし、コメントを受け付けない設定の身で、実に偉そうな話であるが、私の場合は、何者かに植え付けられた既成概念や、今ある自分の考えを疑わない人達にいちゃもんをつける事によって、窮屈な世の中をちょっとばかし換気したいだけなので、コメントなんか受け付けたら、真面目な方からのご指摘をいっぱい頂きそうで、いちいち面倒臭いのである。

そう考えると、忙しい身でありながら、揚げ足取りのコメンテーターに対し、論争のルールから、情報の吟味の仕方、意見を発する者の最低限の責任と言うものを、きちんと伝えようとする、掟氏は偉い。芸風はあんなだけど、彼は、実に“大人”である。

本当の大人とは、出来るだけ多くの情報や知識を吟味し、しかし最終的には、自分のポジションを認識した上で、自己の価値観に基づく意見を責任持って発する事が出来る人間の事を指す。

ニセの大人なんか何人居ても意味無いが、本当の大人に噛み付くのならば、これはもはや戦争なのであるから、本気で立ち向かう覚悟が必要なのだ。

明らかな大多数に加勢して、少数意見をよってたかって叩き潰す行為が、顔の無いネット・ピープル達はお好きな様だが、本当に大人なのであれば、数が多かろうが少なかろうが、自主性の無い自己に対し、無自覚・無責任な子供の意見は、大人の威厳を守るためにも、速やかに公開処刑すべし。

数が正義の世の中では、ひとりで闘う者は孤立しがちである。「大人げない・・・」と言いつつも、大人が負うべき責任を全うしようとする掟氏を、私は断固、支持するものである。

しかし、私のブログでは、引き続きコメントは受け付けない。私の使命はニセの大人を叫弾する事であり、子供を直接指導する事では無いゆえ。

子供は、物事を見極める目さえ養えば良い。そのために感受性があるのだから。

★「子供の教育」につづく・・・

木幡東介・ライヴ告知

いよいよ、今週金曜日デス。

■木幡東介(マリア観音)・ワンマンライヴ「日本絶滅動物記 其の5」
[日時]2005年5月27日(金)
[会場]吉祥寺シルバーエレファント
[住所]武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話]0422-22-3331
[開場]19:00
[開演]19:30
[料金]前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合]エレクトレコード新宿店 03-3362-6181

★皆様のご来場、こころよりお待ちイタシテおりマス。(^^)/

★なお、お引っ越しされた方で、最近、DMが届かなくなったと言う方は、御一報下サイませ。

★後程、前回のライヴの簡単なレビューを、↓にて掲載イタシマス。

2005年4月16日(土)木幡東介(マリア観音)ライヴ

遅ればせながら・・・。

この日は、武蔵小金井アートランドと言う、フリー・スペースでの自主企画ワンマン・ライヴ。

アートランド自体が、運営している佐久間サンと言う方の、舞踏のワーク・ショップ等、音楽に限らず、幅広いジャンルの表現者に舞台を提供する場所であるので、その存在意義からも、ロックのライヴハウスよりは、木幡には合っているかも知れない。

とは言え、音楽ライヴ用の機材が揃っている訳では無いので、殆どの機材は、持ち込みとなる。マリア観音の場合は、随分前のバンド時代に、東高円寺文化フォーラムと言う、やはり、その意味合いがアートランドに近い存在の地下スペースにて、夜間は合宿練習、月に1・2度は自主企画ライヴを行なっていたので、その時に使用していたスピーカーやPA機材があるのだ。ちなみに、アートランドでも有料のPAオペレーターさんが居るのだが、今回は、PA・ミキサーの操作等も、ステージ上の木幡自身が行なった。

また、今回のライヴで特筆すべき点は、通常、エレキ・ギターの弾き語りと言っても、ステージに演奏者用のモニターをも兼ねたスピーカーを左右に設置するのみで、音的にはしょぼいものになりがちなのだが、この日は、客席の後方にも2台の大きなスピーカーを設置し、サラウンド効果?と言うのか、音が部屋を満たす感ぢで、非常に心地良いリスニング環境を生み出していた。

また、弾き語りとは言え、唄以外にも、自作のSEにギター・ソロを重ね併せるパフォーマンス等では、一般に想像されている木幡のパブリック・イメージには無い、非常にメロウかつ哀愁漂うギター・プレイを、久々に聴く事が出来、サウンド・内容共に、実に充実した演奏を味わう事が出来た。

また、“弾き語り”と言う表記も、実際には、もっと色んな要素を含んでいるがゆえ、今後は、“ギター・パフォーマンス”に変更する事も、既に決定している。

今週は、シルバー・エレファントでの「日本絶滅動物記」があるが、こちらは毎回、観せる要素の多いステージで、アートランドでのライヴとはまた違った雰囲気となるが、私も詳しい内容は知らされていないので、今から楽しみである。

虚無真理狂

人は誰も、本当の意味での真理など求めていない。

人は皆、自分の存在を肯定してくれる“基準”を求めているだけなのだ。

真実はいつも残酷だ。

現在の自分に満足している人間は、真理など求めない。求める必要が無いのだ。

満たされていない人間にとっては、今のこの世界が狂っているのだと思いこまない限り、こころの整理、収まりがつかないのである。

私を含め、人は、真理を語る時、こうあって欲しい、そうあって欲しいと言う、自分にとって都合の良い論理を述べているに過ぎない。

ただし、決して、それが悪いと言いたい訳では無い。

本当の“真理”であれば、それは、今の自分を否定するものであったり、自分を変える努力をしなければならないものであったりもするはずである。

しかし、真理を求める者は、苦しみ多き者。

これ以上、苦労を増やしたくないために、救いを求めているのだからして、死ぬ事以外に、自分を救ってくれるものが、他に無いとは思いたくないし、救いなど無いと悟った者は、とっくに死んでしまっているだろう。

人にとって、真理とは、救いであり、まだ見ぬ希望であり、“願い”なのだ。

金が欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しい、異性が欲しい、家族が欲しい、子供が欲しい、生き甲斐が欲しい、自由が欲しい、刺激が欲しい、安定が欲しい・・・。

そもそも、真理とは、不変であり、普遍的なものであるはずなのに、実に自分勝手、自分本意、自己中心的な欲求なのである。

それもそのはず。人は誰もが、自分の存在と価値を認めてもらいたい生き物なのだ。

子供の頃、甘えたい時期に、充分甘えさせてもらえなかった人間は、その欲求が強い。

ゆえに、甘え損ねた人間は、真理・・・すなわち、自分自身の存在意義を求めてやまないのだ

だが、その要求は、永遠に満たされる事は無い。

しかし、生きている以上、その苦しみから逃れるためには、無理を承知で求め続けるしか無いのだ。

だから、そう言った人間は、自分に目を向けさせるため、他者に働きかけるために、各種の表現行為をするのである。

誰もが苦しまない世の中とは、誰もが何も求めない、真理など必要の無い世界の事だ。

何故なら、すべての人が満たされ、満ち足り、真理を求める必要など無いからである。

禁未来小説「ドラへもん」~その①「奴とボク」の巻

ボクの名は、のひのひ太。勉強もスポーツも駄目な、何をやっても長続きしない、ひ弱な小学生。

あの日、あいつは突然、ボクの前に現われたんだ・・・。

ボクがいつも通り小学校から家に帰ると、二階にある一人っ子のボクの部屋に、奴は居た。

ボクが勢い良く部屋の扉を開けると、いびきをかいて寝ていたそいつは、なんとも下品なダミ声で、開口一番、こう言った・・・。

奴「お~う、おめえがのひ太か!!こんの野郎、見るからに駄目そうな顔してやがるぜ。おう!?この駄目人間がよ~!!」

ボク「な・な・な・・・何だよキミ~!!ボクの部屋に勝手に入ってさ~・・・」

すると、奴は面倒くさそうに身体を起こし、首の後をかきむしりながらこう言った。

奴(小声で)「たく・・・、うっせえなあ、こんガキャア・・・」

奴「ああ、ほんぢゃあ、改めて自己紹介と行くか?」

そのずんぐりむっくりな体型に似合わぬ、正座っぽい?姿勢をするなり、奴いわく・・・。

奴「あいよ、おこんばんわ~・・・とくらあ!!わしゃあのう、ドラへもんちゅう、チンケな猫型ロボットよ。のひ太サンよ~、ほな、今後もよろしゅうタノムわ。」

今思えばそれが、奴、ドラへもんとボクとの、初めての出会いだった・・・。

(つづく)

ソドム「聖レクイエム」

最近、久しぶりに、ソドムの「聖レクイエム」(OKレコードから出たCDの方)を聴いている。しかも、かなりのヘヴィロテで。

当時は、通信販売(もう上京してたか?)でオリジナルのカセット・テープを購入して聴いていたが、上京してからすぐに観に行った時のソドムは、既にバースディ・パーティもどきになっていた(・・・とは言え、当時はバースディ・パーティを聴いた事無くて、ずいぶん後に、マリア観音の木幡宅にて、レコードを聴かされて知ったのデシタ)。

ハードコア・パンク時代のソドムは、実にシンプルかつオーソドックスなハードコアで、同ぢシンプルなハードコアでも、白(KURO)の様な暴力的な所は無く、洗練されており、実にあっさりスッキリしているのだが、ナチュラルで流麗なコード進行が特徴で、非常に聴きやすく、そこが好き嫌いの分かれる所であろうが、私は好きで、当時もしょっちゅう聴いていた。

ギズムの様に暗く無く、ガーゼの様に凝った曲調でも無く、エクスキュートの様に激しくも無く、カムズの様に突き抜けた爽快感も無く、クレイの様に重い構造美も無いが、ソドムには、他のバンドに無い魅力がある。

しかし、改めて聴き直すと、ドラムも下手だし、微妙にずれてるのが気になって仕方ないが、ギミックが無いと言うか、このストレートな疾走感が実に心地良い。

ソドムと言うバンドは、その後、ポジパンやハウスやら何やらに、音楽の形態を目まぐるしく変えて行くのだが、その流行にミーハーな敏感さ、好きなものにすぐ飛びついちゃうピュアな精神が音楽にも現われていて、それが、解りやすく取っ付きやすい楽曲の基なのだろう。

若さゆえの一瞬の気の迷い。若気の至り。それらは、例え勘違いであろうが、嘘が無い分、美しい。

徒花ならば、潔く散れば良し。

突き詰めるならば、命の続く限り・・・。

悪のバイブル

★健全な方は読んではいけマセン!!

簡単に、悪(あく)と言うが、そもそも人間とは、本能的に己の快楽を求めるものであり、自分の利益になる事や、喜びにつながる事しかしないものだ。

それが例え、家族、あるいは他人のためにする行為であれ、自分以外の誰かのために何かをする事によって、自分が幸福を感ぢ、こころを満たす事が出来るから、そうするのである。

トナルト、その動機が、仮に人間の本能に基づくものであったとしても、その行為によって、他人に迷惑をかけるのが悪で、他人をも喜ばせる事が出来るのが善であると言う言い方も出来る。

しかし、こっちを立てればあっちが立たず。身近な人間をシアワセにすれば、どこかの誰かに必ずそのシワヨセがくる。

トナルト、まずは自分、そして身近な者をシアワセに出来たとして、どこの誰をも傷つけず、迷惑をかけないためには、どこからも奪わず、誰とも競わず争わず、自分の力で喜びを生み出す事が必要となる。

今の世の中で、経済的にも文化的にも貧しく、比較する事以外の価値観や発想にも貧困な私達に、それが可能だろうか?

否。結局は、狭い自室を快適にするためのエアコン程度の事しか出来ないのだ。部屋の外の温度を更に上げ(下げ)、室外の環境を悪化させながら・・・。

そもそも、私達の、自分(及び、自分の身近な人間・空間のみ)を満足させようとする気持ち、すなわち、自己の快楽を求める人間の本能そのものが、悪を生み出す諸悪の根元なのだ。

真の善行とは、自分が如何に苦しかろうが、自分が何の喜びも得られなくとも、他人のシアワセのために何かをする事である。自分のこころも肉体をも犠牲にせずして、良い行いもクソも無い。

だが、本能を“悪”としてしまうのも、おかしな話である。

現状では、意識的に他人を困らせ傷つける事が“悪”で、自分や身近な人をシアワセにするために、知らず知らずのうちに人を困らせ傷つけるのが“善”と言う事になっている。

しかし、本当の悪とは、人間レベルの損得などでは無く、生き物としての悪、すなわち種族としての人類における間違った行為、人間が本来あるべき姿からの逸脱ではないだろうか?

要するに、人類にとっての真の悪とは、人間の本能に逆らう事、人間としてのあるべき生態に背を向ける事なのだ。

ちなみに、人間の本来あるべき姿とは、子孫を残し、種族を繁栄させようと努力する事や、殺し合ってでも、自分の家系の血を絶やすまいとする事である。

さて、貴方は・・・?

贅沢な一生

現在、朝の9時半。

今日(深夜から早朝にかけて)は、えろうぎょうさん仕事が出来マシテン。そうなんよ。この時間に、身体のコンディションを良い具合に持っていくのが、至難の技なんよね・・・。

ああ、時間が欲しい。

もっと無駄な時間を過ごしたい。

無意味に時間を使いたい。

ん?待てよ。テコトは、無駄に時間を費やすのは、贅沢な事なんだよな?

時間を有意義に使う事が、本当の贅沢だと思ってたけど、逆か・・・。

時間をどぶに捨てたい。

時間を湯水の様に、ぢゃんぢゃん使いたい。

時間を消費して、消費しまくりたい。

虚無感から目をそらしたい。

贅沢に歳をとりたい。

そして、死ぬ前に、こうつぶやくのだ・・・。

「ああ、わしの人生は贅沢三昧で幸せぢゃった。時間を無駄に、粗末に、適当に、乱暴に、無為に、使って使いまくってやったわい。」

「しかし、何の生き甲斐も、達成感も見出せなんだのう・・・。もっと、ありあまる時間を有効に、人生を有意義に生きれば良かっ・・・

「いぬ屋敷Vol.23」潜入レポート⑤「オシリペンペンズ」

2005年3月21日/池袋手刀
「いぬ屋敷」Vol.23
悪性新生物の間「春期狂育委員会」

オシリペンペンズ、及び、ヴォーカリストのモタコ氏については、以前に、かなりのスペースを割いて紹介したので、くどく語る必要は無いが、今回は、彼らに批判的な意見に対して、検証してみたい。

おそらく、批判的な意見の大多数を占めるのが、ライヴ時におけるパフォーマンスについてであろう。

あの様な、ハプニング性のあるパフォーマンスを嫌うミュージシャンは多い。何故なら、通常は、苦労して創った曲を、何度も練習し、その成果を観せるのが、ミュージシャンとしての真っ当な在り方であるからだ。私もこれは否定しない。

だが、皆が皆、そうである必要は無い。

日頃の鍛練、訓練の成果に対する評価と言うものが、全く無いのであれば、それは問題だが、その様な、“積み重ねた信用”に対す評価も、世間ではきちんと為されているのだから、ある種、それとは異なる魅力として、ああ言ったパフォーマンスの存在も許して欲しい。

いずれにせよ“表現”とは、混じり物の無い純粋さ、差し出す命の重さによって比べるべきなのだ。

死ぬ思いで曲を創り、決して余裕があるとは言い難い生活をしながら練習スタジオに入り、やっと獲得した30分前後のステージにおいて、音楽を愛する、その情熱のすべて、持ちうる能力のすべてを出し切って演奏したならば、それは、必ず認められる。ただし、売れる売れない(評価する人数)とは別問題だが。

そして、ライヴ時における突発的なパフォーマンスも、その言葉、その表現に嘘が無く、その問いかけが本気であれば、それは決して非難されるべき事柄では無い。仮に、ミュージシャンとしては失格でも、表現者として見れば、ここにもまた、優劣は存在するのだ。

とは言え、実際に、ペンペンズの楽曲は、3日やそこらで誰でも演奏出来るものとは違うし、モタコ氏の歌詞は、もしも適当に創っているとしたならば、恐ろしく天才(天然)的であるし、面白いか面白くないかと問われれば、明らかに、そこらのお笑い芸人のそれよりもレベルは高い。そして更に、アドリブで、その場を白けさせる事の無いトークを連発すると言うのは、本当に至難の技なのである。

問題は、貴方が、それを楽しめるかどうか?と言う事なのだ。

どんな音楽も、どんな表現も、つまる所は、自分がそれを受入れられるかどうかと言う点こそが重要なのであり、他人や世間の評価がどうであろうと、関係無い。

モタコ氏は、「これどうや?」と、問うているのだから、貴方は、貴方自身の考えで、それに応えれば良いのだ。

うわべに惑わされ、目をそらしていては、物事の本質など、何も見えては来ない。


「いぬ屋敷 Vol.23」潜入レポート<やっと完結>

本当の恋

ある日、警察署に、ひとりの女性が駆け込んだ。

いわく、男に監禁され続け、今やっと逃げ出したそうだ。

警官が慌てて自宅に乗り込むと、男は死んでいた。

そして、近くには、ついさっきまで看病していた痕跡が・・・。

そう。逃げた女性は、つい先程まで、男を看病していたが、ついに男が息絶えたゆえ、やっとの事で、長い監禁生活から解放されたのだ。

聞くと、別に手錠をかけられた訳でも無く、ロープで縛られた訳でも無く、買物もトイレも自由に行かせてもらえた様だ。

それでは、何故、今まで逃げなかったのか?

その女性いわく、男のやさしさと甘い言葉に騙され、ついつい、婚姻届けに捺印してしまったため、今の今まで、別れる事が出来なかったと言う。

そして、男が老衰で死ぬまで、60年もの間、男の家に監禁されていたそうだ。

女性は、現在83歳。

しかし、監禁罪を適用しようにも、夫は既に死んでいる。

「違うのよ~。私が訴えたいのは、国よ、国。」

女性は、国を相手どり、女性を家に監禁してしまうかの如き、結婚と言う制度に対して、訴えを起こしたいと言う。

何と、その女性は、結婚した後に別れる事も可能な、離婚と言う便利な制度がある事を知らなかった模様。

それで?と警官が問うた。

「おばあちゃんは、監禁されている間、つらかったの?」

女性いわく、「そうねえ、つらい事も多かったけど、まあまあ幸せな方だったかしら?」

「でもねえ、今更、自由に恋愛の出来る年齢(とし)ぢゃ無いし・・・。」

そう言うと、女性は、昂ぶる感情を押さえきれぬかの様に、床に泣き崩れて、こう叫んだ。

「わたしは、もっともっと、本当の恋がしたかったのよ~・・・。」

(おしまい)

★皆様も、国家の仕組んだ、結婚と言う名の“恋愛詐欺”には気を付けましょう。

Mr.エレクトの「戦争論」②

自分の価値観とは相反する価値観を持つ者は、この世から消し去るしかない。

とは言え、それでは、ここでも戦争が起きてしまう。戦争反対、人殺しは悪だと言いつつ、こちらまでそれをしたのでは、元も子も無い。

かと言って、言論で戦争を止めるのは無理である。

自分勝手な正義のために戦う人達を、やはり自分勝手な正義では説得出来ない。

ところで、戦争をする人達は、何も人を殺すのが好きな訳では無いと思われる。もちろん、一部の人間は、その様な欲求を満たすために参戦しているかも知れないが・・・。

結局、経済のためや、あるいは何らかの利益、すなわち名誉であるとか地位であるとか、地球上での立場、権力誇示・・・と、少なくとも、何らかの“得”があるからやるのだと言う事は想像に難くない。

トナルト、善悪がどうのこうのとか、人権がどうのこうのとか、道徳がどうのこうのとか、正義がどうのこうのとか、そんな言い分など、一生通ぢないかも知れないが、仮に、戦争をすればするほど、損をする様になれば、いやになって、しぶしぶでもやめざるを得ないのでは無いだろうか・・・。

そこで、何が出来るだろうか?と考えると、国交や経済交流の無い国との間では無理だが、アメリカに戦争を止めさせたいのであれば、アメリカに利益をもたらす輸入品、アメリカ製の商品、アメリカ産の原料が使われているもの、すべてを買わない、使わない、選ばない様にしたらどうだろう?要するに、困らせるのだ。戦争をすればするほど、貧乏になるのだ。そんなに野蛮な国ならば、さっさと滅んでしまえば良いのだ。

もちろん、私も知識薄なので、それが、あちらにどれだけの影響をもたらすのか、こちらにどれだけの不便があるのか不明だが、現在使っているものは仕方無いとして、今後は国産品か、他所の国の製品のみを使う様にすれば良い。

また、アメリカ人の音楽も、既に買ってあるものは許しても良いが、これ以上買ってはいけない。すると、音楽は無関係だとの反論もあるだろうが、ミュージシャンも、戦争なんかしてる国で、のうのうと金儲けなんかしていてはいけないのだ。今こそ、その知名度を利用して、国内で反戦活動をするなり、外国に亡命するなり、戦争が終るまで活動を休止すれば良いのに、何もしないのだから。

もう、1円足りとも、武器を買うお金を与えてはいけない。ひとりがふたり、ふたりがさんにん、と、血を流さぬ不買運動を行なうのだ。アメリカのやり方には口出し出来ず、商品や原料を輸入するのは、国や大企業の勝手。でも、私達は買わない。本当に戦争が悪い事であるなら、そんな事している国は、こっちで仲間外れにしてしまえ。いつまで他人に期待してるんだ。今すぐに、自分でやれる事を始めれば、精一杯やれば良いのだ。

戦争する事も許されず、武器も買えない身分であるからこそ、私はそう感ぢる。

戦争を必要以上に忌み嫌いながら、結局は、戦争の親玉である、世界のご主人様に奉仕するのは如何なものか?

戦争やってるからと言っても、良いアメリカ人も居るさ。そりゃあ、どこの国だって同ぢだ。だけど、その人達にも、もっと自国の事を恥だと思わせなけりゃあ駄目だ。だいたい、他所の国から言われる前に、その国に住んでる者が、何とかすべきぢゃないか。

人殺しによって築いた城を破壊したい・・・。

御都合主義の生贄

またもJR西日本の脱線事故について・・・。

事故車両に乗っていた車掌2人が、救助活動をせずに、出社してしまった件だが、私の意見は、彼らに同情的である。

根本的に問題とすべきなのは、事故や、突然のアクシデントが起きた時に、自身の考えによって、通常の業務を変更する事が許されていなかった点である。

車掌らが、自分自身の考えで、どちらにするか迷ったあげく、救助活動を放ったらかして、出社したなら、それは世間のみならず、会社(JR西日本)からも非難されてしかるべきであろう。だが、今回の件は、会社側が、出社を促したのだから、その命令を出した会社が悪い。

もしも、車掌らが、会社の命令を無視して、人道的な立場から、救助活動をして、会社をクビになったら(もちろん、今回の件では、世間がそれを許さないだろうが・・・)、誰が、彼らの再就職を保障してくれると言うのだ。

野次馬の悪い所は、英雄的行為ばかりを求めるくせに、ヒーローの、その後の面倒までは見ないって事だ。

まあ、先に( )で述べた様に、会社の命令に逆らって、救助活動をしたところで、クビになる様な事は無かったろうし、そんな事したら、JR西日本は、もっと信用を落しただろうが、あの軍隊の様な会社に勤めていて、あの事故の直後に、会社からの指示に逆らってまで、自らが救助活動に参加なんて、出来なかったと、私は思う。

もちろん、警察やら救助のプロフェッショナルの到着が遅くなる山奥であるとか、民間人の救助活動の手伝いが望めない場面で、事故現場をそそくさと立ち去ったならば、それは批判するに値するであろうが・・・。

要するに、事故後の対応マニュアルが無いと言う事と、無いなら無いで、居合わせた車掌自身に、行動をケース・バイ・ケースで自由に決定出来る権限を与えてなかった事が問題なのである。

ロボットがご主人様の言いつけに従って、何が悪い?

しかし、ボウリングの件はアカンで。まだ電車の中に閉ぢ込められて居る人達が居る時点で、明日でもあさってでも出来る催しは、自粛すべきであったろう。救助活動の手伝いをせよとまでは言わないが・・・。

まあ、会社がらみの催しでも無く、退社後の、個人としての自由時間ならば、束縛も出来ないが、それはそれで、会社にとっては、非常に良く出来た優良社員(←もちろん皮肉)であろう。

死んだ人達は二度とは戻らないがゆえ、今回の事件を、JR西日本はもちろん、私たちも、これを教訓として、一片残らず食い尽くす事でしか、死者への供養の方法など無い様に思われる。

怒りのエネルギーを、無駄に消費してはいけない。

本当に憎むべき諸悪の根元から、目をそらしてはならない。

二つのものさし

音楽を計るものさし。

良いか悪いか、

好きか嫌いか、

二つの難関をクリアしたものを聴きたい。

色々あっても構わない。

色々な人が居るから。

しかし、俺はあんたぢゃない。

要らないものは要らないよ。

こころの声

ある日。

ううあああ・・・

死にたい・・・

嘘ぴょん!!

死にたくないも~ん。(^^)/

翌日。

ぐぐぐああ・・・

殺したい・・・

嘘ぴょん!!

半分冗談だも~ん。(^^)/



半分はネ!!(^^)b

Mr.エレクトの「戦争論」①

優等生は読まぬ事。

大人に教わった事、学校で教わった事は、本当に、役に立たない事ばかりである。

戦争や人殺しを、いけない事だと教える理由は、現時点での勝者を守るための詭弁に過ぎない。

そもそも、てめえらは、これまでさんざん殺戮を繰り返し、他人の土地や財産を奪っておきながら、いざ、てめえが地位を確立した途端、今後は人を殺しては駄目、物を奪っては駄目だなんて、調子良すぎるにも程があるぜ。

そう、人を殺しちゃ駄目だなんて理屈は、被支配者が支配者の権力を脅かす事が無い様、今ある地位や財産を守るために、奴等の仕組んだ策略に他ならない。そんなに、人殺しや強奪は許さないと言うのであれば、まずはてめえらの、不正に得た蓄財を手放してからにしやがれってんだ。

なんせ、このままぢゃあ、本当の意味での、自由競争なんて成立しねえ。ハンディキャップ・マッチならまだしも、これぢゃあ、胴元と子がレースしてる様なものである。

また、現在、戦争をしている国家、及び国民(の大半)は、悪い事をしているなんて、これっぽっちも思っていない。むしろ、自分達は正しいとさえ、思っているはずだ。

そもそも、自分(自国)の価値観と相反する価値観は、この世から消し去るしか無いのだ。

それなのに、いつかは正義感に目覚めて転向するのではと願ったり、説得によって改心させる事など不可能であると割り切る事が出来ない理由も、私達が、子供の頃にさんざん、人を殺してはいけません、戦争は悪い事デスよと、さも、それが正しい事であるかの様に教え込まれたせいである。

正義は勝つ、真心は通ぢる、真実は不変だ、愛情は伝わる・・・。

否。正義は数、真心など通ぢぬ、真実は残酷だ、愛情は伝わる者にしか伝わらない。

現代に生きる私達は、いきなり殺されもしないかわりに、少しずつ奪われ、いつの間にやら、奴等に植え付けられた正義感と言う首輪と鎖でつながれているのだ。

牙を抜かれ、反抗出来ぬ様に・・・。

人を殺して得た土地や財産によって肥え太った、殺戮者の末裔達に搾取されている気分はどうだい?

要するに、俺達は、人殺しどもに支配されてる奴隷ってコッタ!!

アハハハハ!!

悪の繁栄に荷担する正義感・・・。

本当の正義ってなんだ?

この地球は、誰のものなんだい?

ひとのふしぎ

しかし、なんで、つかれたり、ねむくなったりすんのかね?

がまんしきれず、よこになったら、ねてしまう。

まるで、からだがしんでいくようなきぶん。

めのまわり、くびのうしろ、わきばらからせなかにかけて、はらのおくふかく・・・が、だんだんくさっていくような。

あたまのなかがしろくなっていくようなかんかく。

すっきりしない、このかんかく。

あたまのなかの、くさったみずが、こぼれそうになる。

たもてない。

りせっとできない。

まんせいてきに、だるい。

童話教育「子無きジジイの子育て奮闘記」⑥

さて、父と子の討論も、もはや佳境。父子水入らずの闘争の結末や如何に・・・?

ムスコ「早く~!!各国の人生ゲームとやらを用意してよ~ん!!」

チチ「おっ、そのボケ良いぞ・・・。違うわい!!各国ぢゃのうて、苛酷な人生ゲームぢゃっちゅうとんのやって。」

ムスコ「ちぇんちぇい、それ、どうゆう事なよのさ?あっちょんぶりけ。or ちゅうりっぷのあっぷりけ。」

チチ「うぉっほん。それでは発表イタシマ~ス!!」

私は、まるで巻き物をひろげる様な手つきをした後、おもむろにこうつぶやいた。

チチ「いやなら出てけ!!コンニャロ!!アンニャロ!!クソヤロ!!バガヤロ!!・・・むっほん!!」

ムスコ「え~!!そんな~!!戒厳令も敷かずして、イキナリの空襲警報並のビックラコンすぎる出来事及びポツダム宣言並の大ショックのパ~でございまする~。よよよ・・・。」

チチ「それ、ちょっと、面白い・・・。ウォッホン。ええか、ムスコよ。よう聞きタモレ。我が家、すなわち我国では、わしが実権を握っとるわけであって、そのワシの言う事が危険・・・もとい、聞けんっちゅうんなら、お前が出てけ!!と言われようと、文句のひとつも言えずに、絶対服従するか、自由な新天地を求めて、出て行くしか無いって事よ。生殺与奪権は、あくまでも、ワシの手にあるっちゅう事ぞえ。」

ムスコ「ええ~!!そんなファッショな政策が許されてよいものなの~!?ぼっくん、断固抗議するからね~!!」

チチ「偉い!!よう言うた!!それでこそ、ワシのムスコ。ええか、ムスコよ。ワシは、もしもおめえが、黙って出て行くつもりなら、寝たふりしてる間に出て行ってくれ~!!と、ジュリーを気取るつもりぢゃったし、その逆に、もしも、もしも、もしもだぜよ、おめえが、ワシの命令に絶対服従しようもんなら、そん時ぁ、そん時ぁ、テツヤ、そん時ぁ、お前、死ね!!・・・と、母に捧げるバラードが聴こえて来るかも知れんかったぞなもしかして。」

ムスコ「チチギミ!!拙者、チチギミについて、大層、誤解しておりマシタ!!」

ひしと抱き合い、将来を誓い合う、チチとムスコ。ああ、涙無しでは語り明かせぬ今宵、今宵の月も久しからずや・・・。

そこへ、再び、ママン登場。

ママン「あらあら、二人とも、そんなこんなでもう午後8時。ご飯も出来たし、食卓に全員集合~!!ってか?」

チチ&ムスコ「わ~い!!おなかすいた~!!」

そして、いつもと変わらぬ一家の団欒。ああ、この家族に幸あれ。

(おしまい)

イキアタ・リバッタリー著「ヘンな親子」より。


「あとがき」

スミマセン・・・。何も考えず、書きマシタ。テヘヘ・・・。

虚無の根元

まあ、要するに、私の望みは、あらゆる束縛から逃れ、自由になる事であるのだ。

そして、それならば、世間との関係を一切・・・とまでは行かないだろうが、出来るだけ断ち切れば良さそうなものだが、何故だか、そうしないのだ。

否、そう出来ないと言うべきか・・・?

つまり、言うなれば、私にせよ、自由になりたいと言いつつも、自分ひとりが実感し、満喫すれば良いだけの“自由”を、結局の所、他者との比較によって見出していたり、他者との関わりの中から、得ようとしていると言う事だ。

そんなものの、何処が自由だ?何が自立だ?

そう考えると、私が自由になれない理由は、独りになりたいと口では言いつつ、本当の孤立には耐えられないせいであるとも言える。

これではまるで、自ら両腕を差し出す、脱獄囚である。

一体、何のために・・・。

それゆえに、虚無感を覚えない方が無理と言うものではある。

自由になりたければ、独りで勝手になれば良いのだ。

もしかすると、私は、社会や他人の中にある、私の自由を阻むものと闘っているのでは無く、私自身のこころの中にある、私自身が自由を拒む、その根元と格闘しているのかも知れない。

そして、もしかすると、その根元を断ち切る事の出来た人間の事を、狂人と呼ぶのかも知れない。

なんせ、彼らは、あらゆる束縛から、自由である・・・様に見えるからな。

逮捕されたり、精神病院に収容させられたりしなければ・・・の話だが。

幸福成就狂騒曲

どうやったら、幸せになれるのか?

と言うより、幸せだと思える様になるのか?・・・と、言い換えた方が良いか?

すなわち、自分が自分を幸せであると思うだけでは済まさぬ空気が、この世には充満しているがゆえ・・・。

とまあ、それは置いといて。

更に言うならば、幸せになる必要なんかあるのか?とも言えようし、私が、貴方が、人類すべてが幸せになる必要はあるのか?アンド、幸せになる事は可能なのか?・・・テコト。

限られた土地や資源を奪い合うが如く、幸せも奪い合わねばならぬ類のものなのか?

また、すべての人が、幸せになる必要があるのか?

持つ者と持たざる者、努力する者としない者、差し出す者と奪う者・・・。

最近、何となく感ぢる・・・。

手前自身、手前の家族、手前の家系、それらを幸福に、裕福にしようと努力する者こそが、幸せになるべきであり、そのために、他人、他人の家族、他人の家系、他国の人、それらを踏みつけ、虐げ、搾取する人間こそが、幸せを手にする資格があるのでは無いか?・・・と。

もちろん、私が、そうなりたいと言うのでは無い。

要するに、努力もせず、「幸せになりたい」などと言う事自体、単なるわがままであり、極めて自己中心的な欲求では無いのか?と言う事である。

また、他人を思いやるだとか、他人を傷つけまいとする、他人に道を譲る、そんな甘い考え、生半可な精神で、本当に幸せなど得られるのだろうか?・・・とも思う。

とは言え、そう言う行為に幸せを感ぢるのであれば、それはとても素晴らしい事であろう。

幸せの形状は、ひとそれぞれである。

なのに、幸せの定義、種類が少ない、こころ貧しき人間社会では、多くの人間が幸せになろうとすればするほど、その逆に、不幸せな人間も増えるのだ。

面白い。実に面白い仕組みである。

ウフフフフ・・・。

他者との比較によって得られる満足の度合いが幸せであるならば、その競争(狂騒)から逃れたい。

幸せと言う名の、エゴイスティックな欲望を捨て去り、自由になりたい。

一億総表現者時代

インター・ネットの隆盛は、社会に様々な変化をもたらしたが、特に顕著なのが、個人がホーム・ページを持ったり、プログにて日記を公開する事により、自分の意見を述べたり、表現活動をする事が、かなり容易になったと言う点であろうか。

それまでは、少数の人間にしか読まれぬ、顧みられぬ表現行為は、よほどの強い信念か、資金力が無い限り、陶汰されていくのみであったのに。

基本的に、私は、何らかの表現行為をしなければ生きていけない様な人間の事が好きである。

とは言え、ただ生きていると言うだけで、満足出来る、存在意義を認められていると感ぢ、充足感を得る事の出来る人間は、間違い無く、幸せな人生を送っているがゆえ、何らかの表現行為をしなければ生きていけない人種と言うのは、明らかに、不幸せであり、自分を理解して欲しいと願っており、自分なり社会の現状に不満を持っている、あるいは、こころに傷や欠陥を持つ者である。

・・・と言うのも、かなりの暴論ではあるが、そう考えると、あらゆる人が表現行為を気軽に行なえる現代と言うのは、かなり幸せな時代であると言えよう。

そうなると、自殺や人殺しも大幅に減ると思えたりもするのだが、そうでも無いのだろうか?

それは、逆に、ネットの書き込みが、自殺を肯定、促進したり、余計な争いを生み、殺人の引き金を引くからだろうか。

何にせよ、意外に、こころに傷を持つ人間、こころが不安定な人間、こころが病んでいる人間と言うのは多いものなんだなと感ぢる昨今ではある。

しかし、まあ、表現行為なんて、しょせんゴマカシでしか無く、死んだこころは再び息を吹き返す事など無く、失ったものや、本当に求めてやまないものが得られる訳では無いのだが、かと言って、何もせずにいる事も、また苦しいがゆえ、無駄と知りつつ、一縷の望みを託してしまうのだろう。

“完全な理解”など、絵空事だ。

ところで、そもそも、人間と言うのは、何故に、この様に傷つき、捻じ曲がり、歪み、病んでしまうものなのだろうか・・・。

表現行為にさえも、虚しさを覚え始めた今日この頃。

そろそろ、根本的なメスを入れるべき時が来ているのでは無いだろうか。

童話教育「子無きジジイの子育て奮闘記」⑤

ムスコ「それにさあ、教師を負かせば101点だって、チチギミはしつこく繰り返し言いんしゃるけっども、だからって、結局、百点満点のテストは百点満点であって、更にほめられ行為をプラスされる事が無きにしもあらずとしたトコロで、101点と赤ペンで書き添えられる事は、ネバー・ナッシングぢゃ無いの?」

チチ「あああああ、101点っちゅうなあ、ものの例えよ。ええか、ムスコよ。ワシがガキの頃はのう。授業中だろうが何だろうが、納得行かねえ事、疑問に思った事は、すぐに教師に問うて、答えられなくて困り果てる教師をいぢめてタノシンぢょったもんぢゃて・・・。」

ムスコ「ええ~!!そんな事したら、超ヒンシュクの超嫌われ者になっちゃうよ~。」

チチ「私は、それで学校を退めマシタ。」

ムスコ「でしょ?でしょ?でしょ~ん!?」

チチ「まあ、そん時はそん時よ、それによ~、あのエジソンだって、小学校をクビになって、自宅でママにお勉強を教わってたんだゼイ!!ベイベエ!!」

ムスコ「エジソンと、チチギミから生まれたぼっくんを一緒にしないでよってばサキカラーゲ!!ジュッパヒトから揚げ!!」

チチ「まあ、ええわい。おめえが百点なんぞで浮かれとるうちに、ワシはワシで、おめえに対し、苛酷な人生ゲームを用意した。」

ムスコ「何?何?それって、新しいゲーム・ソフト?もしも糞ゲーだったら、実のオヤジとは言え、勤続20周年記念の灰皿で、頭を殴打しちゃうよ。」

そこにママン登場。

ママン「あらあら、パパとバカボ・・・ぢゃなくて、チチギミとムスコったら、そんなに興奮して、何を語り明かそうとしているの?」

ムスコ「あ~ん!!ママン!!ぼっくん百点取ったのに、チチギミったら、全然誉めてくれないどころか、無理難題ばっか、ふっかけハイスクール・ロックンロールなんだペッチャ!!」

ママン「あら、それは面白そうでゴザイマス事。~オホホホホ・・・。」

そう言い残すと、ママンは台所へと去って言った。

居間に残されたチチとムスコの今後は?そして、チチギミいわく、苛酷な人生ゲームとは、一体如何なるシロモノなのであろうか・・・?

その続きは、また今度・・・。

「いぬ屋敷Vol.23」潜入レポート④「中学生棺桶」

先日のいぬ屋敷にて、「Vol.23のレビューも終らぬうちに、もう24デスね」・・・とツッコミを受けるも、これはあくまで、自分のための記録なのだから、良いんデス!!・・・と、開き直りつつ・・・。

2005年3月21日/池袋手刀
「いぬ屋敷」Vol.23
悪性新生物の間「春期狂育委員会」

④「中学生棺桶」

中学生棺桶についてコメントするのは初めてであるが、実は私、このドゥーム・ロックと言うものに、縁がありマセンので、音楽的な善し悪しについて言及するほどの理解がありマセン。よって、今回は、バンドとしての中学生棺桶の在り方、表現者としての、リーダー・奇娘葉蔵氏について語ってみたいと思いマス。まあ、いずれにせよ、いつも通りの勝手な解釈満載デスが、どうぞヨロシク。

まず、もっとも着目すべき点は、葉蔵氏の作風は、己が裸のこころや感情を嘘偽りなくさらけ出すタイプの自己表現とは大きく異なり、かと言って、まったくの別人格を表に出した、完全なるエンターテイメントでも無いと言う事である。つまりは、要するに、彼がやろうとしている事は、伝えたい思想なり主張を、己が美意識に基づいた“作品”を構築する事によって、具現化しようとしているのではないかと思われる。

少し難解な言い回しになったが、簡単に言えば、自己表現を“素顔”とし、エンターテイメントを“別人の仮面”と定義するならば、彼は、自己のメッセージなりを伝える手段として、自らの美意識を刻み込んだ仮面、作者とは切り離されてはいるが、しかし“己が分身”の如きものを作ろうとしていると言う事だ。

すなわち、もっと簡単に言えば、彼は、涙や孤独や怒りと言った。極めて個人的な感情を、実はストレートには表に出していない。そんな、哀しさ、悔しさ、怒り、憤り、等はあくまでもこころの内に秘め、それらネガティヴな感情を、前向きな創作のエネルギーに転換していると言う事なのだ。ゆえに、彼らを指して、妄想うんぬんと言うのは当たっていない。彼らは、実にリアルな、非常に現実的な創作活動をしているのだから。

「神頼みの似非不良に抗う」・・・とのキャッチ・コピーが、それを雄弁に物語っている。

そして、手っ取り早い人気獲得のためや、売れるために、安易にそうしているのであれば、私には興味の無い話であるが、どうやら、そうでは無く、あくまでも自己の美意識を優先していると言う事は、作風にそぐわぬルックスのメンバーには覆面を被せる等、活動方針の徹底ぶり、その他、いくつかの言動からも明らかである。

とは言え、それが良い事であるのか、悪い事であるのか、と言う事は、個人の価値観の違いなので、何とも言えない。

言うなれば、中学生棺桶の音楽は、葉蔵氏の美意識が吹き込まれた、怨念で練り上げた粘土人形であり、怒りの刃で彫られた木彫りの人形なのである。

涙を流す事は簡単だ。しかし、彼らは、その涙をインクに変え、絵を描いているのだ。

そして、それは、あくまでも、作者の手を離れた“作品”でしかなく、あくまでも、ただの音楽でしか無い。

しかし、そこには、間違い無く、ひとりの人間の美学が在る。

次回、⑤「オシリペンペンズ」に続く・・・

童話教育「子無きジジイの子育て奮闘記」④

チチ「そもそもぢゃ。教師に出された質問なりテスト、すなわち、あらかぢめ答えが用意されている、敷かれたレールに、疑問無く乗っかって、それを優秀にこなしたからって、何が偉いものか!!おめえの言う百点とは、ただ単に、出された餌を残さず綺麗に食べる牛や豚と一緒だっちゅ~の(←ゼスチャー付)!!」

ムスコ「だっちゅ~の・・・て、古ッ!!」

チチ「うぉっほん・・・(外したか?)。古いも新しいも無え。ええか、ムスコよ。ワンパクでも良い、たくましく育って欲しい・・・てな、テレビCMから生まれた流行語があったが(←またも古い)、ワシはあえて、こう言おう。反発しても良い、たくましく育って欲しい・・・と。」

ムスコ「ぢゃあ、何?チチギミは、テストを白紙で出せとか、突拍子も無い解答を書き込めとでも言うの?」

チチ「チャウわい!!わしが、そう言うストライキ的な、何も努力せずして何かを得ようとする輩を嫌いなのは、おまんもよう知っとうぜよ?ええか、ワシが言うとるのは、百点満点の百点を超えろと言うコッタ。まあ、仮に百点取れんでもええわい。出された問題に全問正解する事ぐらい、日本中の何人ものお子様がクリアし得るんやから、そんなものは勉強以外に取り柄の無い優等生やロボット三等兵に任せとけってコッタ。おめえが本当にワシのムスコであるならば、出された問題を解くだけに飽きタラズ、さっきも言うたが、設問の不備を突くも良し、あるいは、テスト問題作成者の用意した模範解答を超える、予想もしない答えを出せって事よ。そこまでやって、初めて百点満点を超える101点を獲得出来るのぢゃ、フォッフォッフォッ・・・テコト。」

ムスコ「無茶苦茶や!!このオッサン!!無茶やて、そんなん!!イッツ・オンリー・リフジンやて~!!ホンマのトコロ。」

チチ「なんや?リフジンってな、李婦人って事かいな?まあ、ええわ。ええか、ムスコよ。負けと思うな、思えば負けよ(だったかな?)って言葉もある様に、ワシがおめえを学校へ行かせとる理由は、何者かに仕組まれた無意味なレースに強制参加させられ、他の生徒と競い合わせる事が目的ぢゃあ無え。うんにゃ、もちろん、学校や教育の真の目的はそこにある。ワシら庶民を競い合わせ、ワシらが人より抜きんで少しでも上に行こうとすればするほど、もっと上の方で、ワシらを操っている奴等が、更に肥え太るってな仕組みよ。だ・か・ら・こ・そ、おめえまでが、そんな馬鹿げたレースに参加して、百点とったのなんのと、人間が本当に“生きる”と言う事とは無縁の喜びに浸っている様が、わしには許せんと同時に、無性に哀しかったんよ。そう、ワシがおめえを学校に行かせとる真の理由は、おめえを教師や学校と闘わせるため、ひいては、このリフジンな社会構造とケンカさせるためよ。」

ムスコ「だったら、学校なんか行かなきゃ良いぢゃん・・・。毎日、遊んでいられるしさ・・・。」

チチ「それで自由になったのかい?それで自由になった~つもりか~い?」

(つづく)
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