Mr.エレクトの独り言 2005年05月11日

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

童話教育「子無きジジイの子育て奮闘記」⑥

さて、父と子の討論も、もはや佳境。父子水入らずの闘争の結末や如何に・・・?

ムスコ「早く~!!各国の人生ゲームとやらを用意してよ~ん!!」

チチ「おっ、そのボケ良いぞ・・・。違うわい!!各国ぢゃのうて、苛酷な人生ゲームぢゃっちゅうとんのやって。」

ムスコ「ちぇんちぇい、それ、どうゆう事なよのさ?あっちょんぶりけ。or ちゅうりっぷのあっぷりけ。」

チチ「うぉっほん。それでは発表イタシマ~ス!!」

私は、まるで巻き物をひろげる様な手つきをした後、おもむろにこうつぶやいた。

チチ「いやなら出てけ!!コンニャロ!!アンニャロ!!クソヤロ!!バガヤロ!!・・・むっほん!!」

ムスコ「え~!!そんな~!!戒厳令も敷かずして、イキナリの空襲警報並のビックラコンすぎる出来事及びポツダム宣言並の大ショックのパ~でございまする~。よよよ・・・。」

チチ「それ、ちょっと、面白い・・・。ウォッホン。ええか、ムスコよ。よう聞きタモレ。我が家、すなわち我国では、わしが実権を握っとるわけであって、そのワシの言う事が危険・・・もとい、聞けんっちゅうんなら、お前が出てけ!!と言われようと、文句のひとつも言えずに、絶対服従するか、自由な新天地を求めて、出て行くしか無いって事よ。生殺与奪権は、あくまでも、ワシの手にあるっちゅう事ぞえ。」

ムスコ「ええ~!!そんなファッショな政策が許されてよいものなの~!?ぼっくん、断固抗議するからね~!!」

チチ「偉い!!よう言うた!!それでこそ、ワシのムスコ。ええか、ムスコよ。ワシは、もしもおめえが、黙って出て行くつもりなら、寝たふりしてる間に出て行ってくれ~!!と、ジュリーを気取るつもりぢゃったし、その逆に、もしも、もしも、もしもだぜよ、おめえが、ワシの命令に絶対服従しようもんなら、そん時ぁ、そん時ぁ、テツヤ、そん時ぁ、お前、死ね!!・・・と、母に捧げるバラードが聴こえて来るかも知れんかったぞなもしかして。」

ムスコ「チチギミ!!拙者、チチギミについて、大層、誤解しておりマシタ!!」

ひしと抱き合い、将来を誓い合う、チチとムスコ。ああ、涙無しでは語り明かせぬ今宵、今宵の月も久しからずや・・・。

そこへ、再び、ママン登場。

ママン「あらあら、二人とも、そんなこんなでもう午後8時。ご飯も出来たし、食卓に全員集合~!!ってか?」

チチ&ムスコ「わ~い!!おなかすいた~!!」

そして、いつもと変わらぬ一家の団欒。ああ、この家族に幸あれ。

(おしまい)

イキアタ・リバッタリー著「ヘンな親子」より。


「あとがき」

スミマセン・・・。何も考えず、書きマシタ。テヘヘ・・・。

虚無の根元

まあ、要するに、私の望みは、あらゆる束縛から逃れ、自由になる事であるのだ。

そして、それならば、世間との関係を一切・・・とまでは行かないだろうが、出来るだけ断ち切れば良さそうなものだが、何故だか、そうしないのだ。

否、そう出来ないと言うべきか・・・?

つまり、言うなれば、私にせよ、自由になりたいと言いつつも、自分ひとりが実感し、満喫すれば良いだけの“自由”を、結局の所、他者との比較によって見出していたり、他者との関わりの中から、得ようとしていると言う事だ。

そんなものの、何処が自由だ?何が自立だ?

そう考えると、私が自由になれない理由は、独りになりたいと口では言いつつ、本当の孤立には耐えられないせいであるとも言える。

これではまるで、自ら両腕を差し出す、脱獄囚である。

一体、何のために・・・。

それゆえに、虚無感を覚えない方が無理と言うものではある。

自由になりたければ、独りで勝手になれば良いのだ。

もしかすると、私は、社会や他人の中にある、私の自由を阻むものと闘っているのでは無く、私自身のこころの中にある、私自身が自由を拒む、その根元と格闘しているのかも知れない。

そして、もしかすると、その根元を断ち切る事の出来た人間の事を、狂人と呼ぶのかも知れない。

なんせ、彼らは、あらゆる束縛から、自由である・・・様に見えるからな。

逮捕されたり、精神病院に収容させられたりしなければ・・・の話だが。

幸福成就狂騒曲

どうやったら、幸せになれるのか?

と言うより、幸せだと思える様になるのか?・・・と、言い換えた方が良いか?

すなわち、自分が自分を幸せであると思うだけでは済まさぬ空気が、この世には充満しているがゆえ・・・。

とまあ、それは置いといて。

更に言うならば、幸せになる必要なんかあるのか?とも言えようし、私が、貴方が、人類すべてが幸せになる必要はあるのか?アンド、幸せになる事は可能なのか?・・・テコト。

限られた土地や資源を奪い合うが如く、幸せも奪い合わねばならぬ類のものなのか?

また、すべての人が、幸せになる必要があるのか?

持つ者と持たざる者、努力する者としない者、差し出す者と奪う者・・・。

最近、何となく感ぢる・・・。

手前自身、手前の家族、手前の家系、それらを幸福に、裕福にしようと努力する者こそが、幸せになるべきであり、そのために、他人、他人の家族、他人の家系、他国の人、それらを踏みつけ、虐げ、搾取する人間こそが、幸せを手にする資格があるのでは無いか?・・・と。

もちろん、私が、そうなりたいと言うのでは無い。

要するに、努力もせず、「幸せになりたい」などと言う事自体、単なるわがままであり、極めて自己中心的な欲求では無いのか?と言う事である。

また、他人を思いやるだとか、他人を傷つけまいとする、他人に道を譲る、そんな甘い考え、生半可な精神で、本当に幸せなど得られるのだろうか?・・・とも思う。

とは言え、そう言う行為に幸せを感ぢるのであれば、それはとても素晴らしい事であろう。

幸せの形状は、ひとそれぞれである。

なのに、幸せの定義、種類が少ない、こころ貧しき人間社会では、多くの人間が幸せになろうとすればするほど、その逆に、不幸せな人間も増えるのだ。

面白い。実に面白い仕組みである。

ウフフフフ・・・。

他者との比較によって得られる満足の度合いが幸せであるならば、その競争(狂騒)から逃れたい。

幸せと言う名の、エゴイスティックな欲望を捨て去り、自由になりたい。

一億総表現者時代

インター・ネットの隆盛は、社会に様々な変化をもたらしたが、特に顕著なのが、個人がホーム・ページを持ったり、プログにて日記を公開する事により、自分の意見を述べたり、表現活動をする事が、かなり容易になったと言う点であろうか。

それまでは、少数の人間にしか読まれぬ、顧みられぬ表現行為は、よほどの強い信念か、資金力が無い限り、陶汰されていくのみであったのに。

基本的に、私は、何らかの表現行為をしなければ生きていけない様な人間の事が好きである。

とは言え、ただ生きていると言うだけで、満足出来る、存在意義を認められていると感ぢ、充足感を得る事の出来る人間は、間違い無く、幸せな人生を送っているがゆえ、何らかの表現行為をしなければ生きていけない人種と言うのは、明らかに、不幸せであり、自分を理解して欲しいと願っており、自分なり社会の現状に不満を持っている、あるいは、こころに傷や欠陥を持つ者である。

・・・と言うのも、かなりの暴論ではあるが、そう考えると、あらゆる人が表現行為を気軽に行なえる現代と言うのは、かなり幸せな時代であると言えよう。

そうなると、自殺や人殺しも大幅に減ると思えたりもするのだが、そうでも無いのだろうか?

それは、逆に、ネットの書き込みが、自殺を肯定、促進したり、余計な争いを生み、殺人の引き金を引くからだろうか。

何にせよ、意外に、こころに傷を持つ人間、こころが不安定な人間、こころが病んでいる人間と言うのは多いものなんだなと感ぢる昨今ではある。

しかし、まあ、表現行為なんて、しょせんゴマカシでしか無く、死んだこころは再び息を吹き返す事など無く、失ったものや、本当に求めてやまないものが得られる訳では無いのだが、かと言って、何もせずにいる事も、また苦しいがゆえ、無駄と知りつつ、一縷の望みを託してしまうのだろう。

“完全な理解”など、絵空事だ。

ところで、そもそも、人間と言うのは、何故に、この様に傷つき、捻じ曲がり、歪み、病んでしまうものなのだろうか・・・。

表現行為にさえも、虚しさを覚え始めた今日この頃。

そろそろ、根本的なメスを入れるべき時が来ているのでは無いだろうか。