Mr.エレクトの独り言 2005年06月
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

PLASMATICS!!

1ヶ月前、急にPLASMATICS(プラズマティクス)の事を思い出した。ご存知の方も多いだろうが、1970年代後半に登場した、世界最高に下品でおバカなバンドである。

元ストリッパーの女性ヴォーカルは、乳頭にビニール・テープを貼っただけの、胸丸出しな豹柄レオタードや、時には身体に泡を塗りたくっただけの恰好で登場し、エレキ・ギターをチェーンソーでぶった切るわ、ステージ上で車を爆破するわの無茶苦茶なステージングで一世を風靡、否、世界中をあきれさせたキワモノ・バンドである。後期~ヴォーカルのウェンディのソロ時代はメタル色が強くなっていくのだが、初期は、超短絡的かつ性急なビートと微妙なポップ感がブレンドされた、ハードコア・パンクのハシリとでも言うべきサウンドで、これまた馬鹿馬鹿しくもカッコ良いのだ。

日本において、その立ち位置が近い存在にあるのは、初期のザ・スターリンや、センチメンタル出刃包丁などであろうか。音楽的には、再結成カムズ~ヴァージン・ロックスなどは、ハードコアからハード・ロック・サウンドへの転換も含め、モロこの路線である(実際、パクリ曲もある)。

しかしまあ、何と言っても、PLASMATICSは、とかくイロモノ扱いされやすいバンドであるが、イロモノ結構。呼び名やカテゴリーなど何でも良いのである。真面目なバンドや真面目な音楽家は、とことん真面目な音楽を追求すれば良し。それはすれで素晴らしい。だが、こんな下らないバンドだって居ても良いぢゃないか。偽パンク、いんちきパンク、史上最低最悪のバンド、大いに結構。中途半端なのが一番良く無いのだ。

PLASMATICSは、その馬鹿さ加減において本物であり、本気のアホーマンス・バンドである。痛快、爽快、最高にクレイジーなのだ!!

テナコトを考えてた矢先、国分寺の超山田堂にて、PLASMATICSのTシャツを発見!!即ゲットした事は言うまでもありマセン。しかし、ネットで調べると結構色んなデザインのTシャツが売られてて、なんだかんだで、今もPLASMATICSのファンは多いのね。

でも、まだレコードやビデオは引っ張り出していないので、実際には想い出だけで楽しんでいる今日この頃。しかし、ウェンディのソロ時代のビデオはカッコ良かったな。バックのミュージシャンもバカ・テク揃いで。その後、ウェンディは、同バンドをでっち上げて売り出したストリッパー時代からのマネージャーと結婚し、ショー・ビジネスから引退後は、森の中で静かな余生を過ごしてたんだけど、結局、ピストルだかライフルだかで自殺しちゃうんだよね。

お行儀の良いパンク、ジャンルとしてのパンク、フォーマットやルールに縛られたパンク、ある一線を決して超える事の無い安全な表現すべてに唾を吐きかけ、笑い飛ばす。

世界一の大馬鹿バンド、PLASMATICS最高!!

「レコード珍宝館」その2「成田賢/汚れた街にいても」

<解説>前回より、私が昔、配布していたフリー・ペーパー、「トゥーマッチ通信」紙上にての、「レコード珍宝館」と言う企画ページを、順次、ここに再掲載イタシテおりマス。句読点や漢字変換以外、文章には殆ど手を加えず、記述にある情報等、現在と異なる場合は、<追記>として、最後に記載してありマス。今回は、第二号(1996年12月25日発行)より・・・。

「レコード珍宝館」その2「成田賢/汚れた街にいても」

日本コロムビア(マッシュルーム・レコード) CD-7041-Z ’72発売作品
A-1/愛ある限り、2/遠い愛の日を夢見て、3/今日からエトランゼ、4/やすらぎの世界、B-1/淋しそうな若者たち、2/花結び、3/できることなら、4/人間の醜さがひき起こした奇怪な美しさの裏にひそんだ不快な感情を題にした詩、5/汚れた街にいても、6/春だもの。

元GS(グループ・サウンズ)、ビーバーズのツインVoの一人であった成田が、’70年代初期、ソロになって出した2作目のアルバム。1作目に関してはここでは触れぬが、本作は一見すると優男(やさおとこ)な成田の外見同様、いかにもロックっぽい荒々しさや、いかにもポップスっぽい華やかさもなく、しかも堺正章風な、線が細く軽い声質ゆえ、毛嫌いされるか見過ごされがちだが、しかし、その一見素朴で穏やかな第一印象の内に熱い魂を秘めた、実は非常に激しいアルバムである。構成としては、絶望(A-1)~逃避(A-2~4)~出会い(B-1)~葛藤(B-2~3)~憤り(B-4)~希望(B-5~6)と言ったストーリー性溢れるもので、詩の面から具体的に述べるなら、偽りの愛、不毛な愛のはびこるこの世の中にあって、真実の愛、真に人間らしい生き方を、時には傷つき、悲しみ、憤りにまみれながらも求め続けんとする成田のメッセージを表現。しかし、それがストレート過ぎて、ヒネクレ者のたわ言と映らぬのは、本人の作品の合間に配された安井かずみ他による詩の効果であり、それら他人に作品を提供する立場である職業作家と、自己表現者である成田との決定的な違いは(どちらが優劣と言う事では無く)、過去、現在を巧みに描写する彼らと違い、成田の詩には、願いはもちろん、憂いや憤りにさえ前向きな意志が感ぢられる点だ。楽曲、演奏的にも、大野雄二のノリの良いファンキーかつ、時に眩惑的なアレンジ(一曲除く)が非常に良くハマッていて、成田のナルシスティックな唄心を巧みに引き出しており、是非ともアルバム一枚を通して聴いて欲しい作品である。特に、「ルパンⅢ世」のテーマ・ソングや、「巨人の星」(梶原一騎原作)が大好きな人にはオススメである。男とはロマンチストなのだ。

<追記>同作品は、後にCD化されたが、現在廃盤の様である。この手のマイナーなアイテムは、すぐに廃盤になってしまうので、次の再発時には、是非とも即ゲットすべし。成田は本作発表の後、主にアニメや映画の主題歌で活躍する事となる。

(つづく)

禁未来小説「ドラへもん」その④「開戦前夜」の巻

押し入れで高いびきのドラへもんを尻目に、ボクはある事をこころに誓った。

そうさ。絶対に、こんな下品な家庭教師、しかも単なる猫型ロボットなんぞの言いなりにはならないぞ・・・ってね。

あの様子だと、恐らく、ボクをスパルタ式に教育しようってんだろうけど、フン!!そう上手くは行かないって事さ。ボクは駄目な子供だけど、これでも人間なんだ。自分の生き方は自分で決めるさ。

そして、ボクは、この日から日記を書き始めた。何をやっても長続きしない三日坊主のボクだけど、これは不思議と続ける事が出来た。それが今、皆さんが読んでる、この物語の元となった「ボクとアイツの200日戦争」と言うノン・フィクション小説なんだ。

さて、明日に備え、そろそろボクも寝るとするか。

ボクの未来は、誰のモノでも無いはずさ・・・。

「おやすみなさ~い!!」

(つづく)

出張買取り

何故か出張買取りのラッシュ。

とは言え、廃業した某中古レコード屋サンから廻ってきた仕事。

先日は、世田谷のデザイナー宅へお邪魔。’90年代前半頃に限定されたサンプルCDが500枚、これらはおそらく、ご本人がデザインを担当されたものだろう。そして、’80年代半ば頃のアナログ・シングル盤が500枚、割と良くあるアナログLPが250枚、テナトコ。まあ売れそうなCDが50枚くらいと、シングルが20枚程度で、残りも責任持って引き取る事に・・・。

昨日は、やはり世田谷の50代後半?の方の、アナログ・レコードLP約600枚。こちらは普通に買っていたものらしいが、殆どが極普通の物。松田聖子やジャーニーやフュージョン系や・・・。ましなものでは、ルー・リード国内盤帯無しくらいで、後はまあまあなものが50枚程度。駐車場で箱詰めし、駅前のコンビニまで取っ手の無い台車(板車?)で運搬。やはり、すべて引き取る条件ゆえ、非常に苦しい思いをして運ぶ。運送料がもったいないので、250枚ほど○○投棄する。(ホントにクズ盤なので、ご安心を・・・。)早起きした割には、微妙な成果。

極普通なアナログ盤の買取りは、断る業者も多いらしく、今後も、この様な敗戦処理は増えるだろう。う~む、今後は、お金をもらって引き取る事にするか・・・。いや、それでも要らねえか・・・。

発売当時に数多く売れた物は、世の中に現存数が多く、その割に欲しがる人が少ないゆえ、ホントに価値が無い。聴きたい人はCDを買うし・・・。決して内容が悪い訳では無いのだが、それが現実である。

ビートルズは当然として、例えばドアーズの1st等、過去にそれなりに売れてて、高くはならないが、今も売れるアナログ・レコードと言う物もある。レコードの価値と言うのは、そこに刻まれた音楽の善し悪しと比例する訳では無いが、長く売れ続ける音楽には、やはり普遍性と言うか、何らかの良さがあるのであろう。

今回は、何とも、とりとめの無い話になったが、しかし、改めて考えると、単に針がレコードの溝の形状によって振動するだけで、ホーンの音やギターの音や、更には人間の声まで、あんなにリアルに再現すると言うのは、何度考えても不思議なものである。

広島ハードコア・パンク~予告編

広島のハードコア・パンクの元祖、GASの初期ソノシート等が、遂にCD化されるらしい。そこで、以前、ちらっと触れておきながら、まったく手付かずであった、広島のハードコア・パンク・シーンについての記憶を書き留めておこうと思う。

高校卒業後、1年間、広島でバイトしてから上京したため、初期のGAS(狂平氏Vo時)を観る機会は3度あった。

詳しくは、また後日・・・。

(つづく)

ガードレールに金属片

ニュースなんぞ見なけりゃ良いものを、ついつい見てしまう。

ガードレールの継ぎ目に挟み込まれた金属片で中学生らが大怪我のニュースには驚いたが、それより何より、調査したら全都道府県でいくつも同様の金属片が見つかったと言う続報には、2度ビックリ。ミステリー・サークルでは無いが、誰が一体!?と言うか、何て暇な・・・と、あきれてしまった。

しかし、どうやら、自動車がガードレールに接触事故を起こした際に、ガードレールの継ぎ目に車体の一部をひっぺがされたものが、くっついたママになっていると言うのが原因らしい。確かに、ちぎりとられたと言う言い方がピッタリする様な形状である。

しかしのしかし、またしかし、今まで誰も、危険を感ぢて撤去しようとしなかったと言う事もそうだが、それ以前に事故が起きなかったのが不思議である。今後も、予期せぬ事故、そして、その種は、すでに蒔かれているのかも知れないね。

ところで、どっかのセンセイが、犯人像を推理していたが、以下・・・。

「単独犯の場合、社会に怒りや不満を持った者が行った可能性がある。複数犯ならネットや口コミを介して愉快犯的に広がったことが考えられる」

・・・トノコト。

え~!!んなアホな!!

社会に怒りや不満を持った者って・・・。違うでしょ!!こんな事してる人間が居たら、ただの馬鹿か暇人だ。

いや、居るのかね?社会に怒りや不満を持って、こんな事してる奴が・・・。

居るとしたら、社会に対してなんかぢゃなく、自分以外の他人すべて、人間ってやつが憎いだけだろう。

とは言え、こんな一銭にもならない事をする奴がいるとすれば、社会に怒りや不満を持って当然かもね。だって、そんな奴は社会にとって必要無いし、こんな事でしか自己主張出来ないなんて、どうしようも無い。

まあ、犯人の居ない事件に対してこんな事言うのも無意味なんだけれども・・・。

社会を形作っているのは人間なんだから、諸悪の根元、その張本人を突き止めない事には、不特定多数の人間を無差別に傷つけても意味が無い。

なんせ、その張本人は、誰あろう、自分自身かも知れないのだから・・・。

まあ、仮に、その事に気づいたとしても、死ぬなら一人で死んでちょうだい。他人は巻き添えにしないでね。

関東地獄地震

水曜日は店が休みなので、朝から昼過ぎまで寝て、夕方の出張買取りのため起きるが、明日に変更とのメール。よって、夕方まで寝てコマスが、地震によって何度も揺り起こされる。

“自信”が無いのも、それ以前に“自身”が無いのも困るが、地震は怖いにゃ~。

何が起きても揺らぐ事の無い、自分自身への自信があれば良いが、あまり硬直し過ぎると、ポキッと折れるので、それもマズイ。

ああ、来るのだろうか。関東大震災並の地震は・・・。

そう言えば、コナイダ、やはりヤフオク再出品作業のため、ネット喫茶に行き、長年の宿願であった、永井豪「バイオレンス・ジャック」完全版を全巻読破終了す。

う~む、身も蓋も無い暴力と殺戮と破壊の嵐の渦、そしてそれらと対比させるかの様に描かれる、人間の美しさと、そのもろくはかない存在。

残酷にして凄惨な描写がリアルであればあるほど、美しいものが更に尊く感ぢられるのは、単なる錯覚であろうか?

しかしまた、美も醜も糞も無く、現実は容赦無く弱者をひねり殺し、叩き壊し、滅ぼし尽くす。

美意識無き力を行使するのも人間ならば、美しいものを大切にしようとするのも人間。しかし、美しきものを守る事さえままならず、あっけなく亡び去るのもまた人間。

美があるから醜はあり、醜があるから美があるのか。

否、美も醜も無いのだ。美を美と感ぢる何か、醜を醜と認識する何かがあるのみ。

そしてそれは、生き物が生まれつき備えた感覚なのか、あるいは、生後に植え付けられた価値観なのか?

美しく生きようとも、醜く生きようとも、人は必ず死ぬ宿命(さだめ)。

美とは、一瞬、死を忘れるための“気休め”でしかないのだ。

死者は醜く腐り果てるのみ。

よって、外見や内面の質を問わず、生命ある事こそが美なのだとも考えられる。

ゆえに、とどのつまり、生き物にとっては、生こそが“美”であり、死こそが“醜”そのものなのかも知れない。

更には、いつか必ず死ぬからこそ、滅びるからこそ、守らなければならない程に弱く、はかないからこそ、美しいのものなのだとも言える。

それゆえ、生に美学はあれど、死に美学など無いのだ。

立場上の都合

人は、どうして、自分の立場でしか物を見る事が出来ないのか?

また、どうして、自分の立場でしか物を言えないのか。

見えないのか、見ようとしないのか。

自分にとって、都合の良い事を言うのはたやすい。

しかし、それがいかなる現実であろうとも、自分の立場を危うくする様な事は、口が裂けても言えない。

もしも誰かが、その人自身にとって都合が悪いと思われる事を言ったとしたならば、それは、そちらの方が自分にとって都合が良いと判断したからに過ぎない。言わば、自首や自白と同様である。

トナルト、要するに、他人の言う事とは、すべて、その人自身にとって都合の良い意見でしかないと言う事になる。

そして、それが自分にとっても都合の良い意見である時、人は共感するのである。

ゆえに、もしも、それが自分にとって都合の悪い事であるにも関わらず、それを認めると言うのは、非常に勇気の要る事でもあり、また、逆に言えば、単にそうする方が都合が良かったり、気持ちが良かったりするだけの話である。

エレクトさんよ~!!あんた一体、何が言いたいの!?

まあまあ、あわてなさんなっ・・・テコト。

要するに、他人の言葉や、目の前の現実に対しては、常に自分なりに決定を下し、常にどちらか一方を選択するしかないのだ。

だから、本当に必要なのは、他人の意見に耳を貸す事では無く、“自分で決める”ための能力なり基準を持つ事である。

目に映る物は不完全。耳に入る音は未完成。

物を見るのは頭。音を聴くのはこころ。





・・・てのは、全部、嘘!!(^^)/

言葉の不思議

言葉とは不思議なもの。

そしていい加減なもの。

たとえ嘘でも、「本音を言えば・・・」と前置きすれば、信ぢてしまう人が居る。

その逆に、冗談めかして「アイ・ラヴ・ユー」と言えば、信憑性に欠けるらしい。

言葉に限らず、表情、身振り、手振り、etc・・・。

何にせよ、表面的な事だけで判断するのは難しい。

かと言って、他人のこころの中までは覗けない。

せめて、それまでの自分の知識と経験、これまでの相手の言動と行動、等から推測するしかない。

あ~あ。

しかし、カレー・ライスって、どうしてあんなに美味しいのかね?
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