だが、それ以前にも、パンク系の自主イベントが全く無かったと言う訳では無い。“広島ROCKERS”と銘打たれた自主イベントが、少なくとも2回は行われている。また、バンド個々で言えば、パンク・バンドはいくつか存在したし、音楽性が近いバンド同志の、“横のつながり”は多少なりともあった。しかし、意識的にハードコア・パンク(ザ・スターリンを含めない)と言う音楽のみを標榜したのは、GASや、自我と言うバンドの前身である、EXECLAYT(エクスクレイト)が最初であったし、“縦のつながり”の始祖と言う意味からも、広島ハードコア・パンク・シーンの元年は1983年であると言い切れる。
ところで、私には、今でも時々考える事が二つあり、ひとつは、私が1年遅く生まれていたら(GASの主要メンバーはだいたい一学年下で、自我はだいたい二学年下)、それらのGIGに出演者として参加出来ただろうに、と言う事と、もうひとつは、高校卒業後、1年間、広島でフリーターをしていたお陰で、GASや自我を観る事が出来たが、もし、すぐに上京していたら、BAKI在籍時のエクスキュートや、再結成では無いカムズや奇形児を観る事が出来たのにな~・・・と言う2点だ。結局、私が上京したのは、1984年の5月なので、その直前にカムズや奇形児は解散してしまっており、上京後、住居を決めてから一旦帰省した際に、BAKI在籍時最後のエクスキュートのライヴが行われていたのであった(既にあまりライヴをやってなかったので、その事実も、後年になってやっと気づいた・・・)。まあ、今更そんな事考えても仕方無いのだが・・・。
とは言え、なんせ、そもそもハードコア・パンクと言うものが、日本で、特に地方都市の広島で、ある程度知られる様になるのは、1980年にアナーキーがデビューし、1981年のザ・モッズや、ザ・スターリンの登場の後、1982年頃のDOLL(当時は書店では扱ってなく、極一部のレコード店や楽器店でしか置いてなかった)に、ガーゼやエクスキュートの記事が掲載されて以降だと思って間違い無いので、私なんかは、まさにハードコア・パンク登場の衝撃を、思春期にリアル・タイムで知った世代である。ゆえに、今回は、アナーキーがデビューした1980年から話を始め、広島の高校生バンドが、どの様にパンクやハードコアの影響を受けて変化していくかを、自分の実体験を基に、記してみようと思う。もちろん、私より上の世代に、ピストルズのコピー・バンドや、極まれにパンクっぽいオリジナルを演るバンドが居たかも知れないが(注:文末)、現在と違い、パンク人口も少ない上、社会人になってまでバンドを演っている人達や、高校生でオリジナル曲を演奏するバンドと言うのは、本当に数える程であったし、知り得ぬ事は書けぬゆえ、あえて、1980年を広島にパンクが伝来した年、1983年をハードコア・パンク・シーン誕生の元年と定義する次第である。
(つづく)
(注)後に詳しく記すが、1983年に第一回が行われた、“広島ROCKERS”と言う自主イベントの主催バンド、ストリッパー(自主レコードを出している京都かどっかのバンドとは同名異バンド)は、その当時、私より上の、おそらく大学生くらいの世代だったので、もしかしたら、1980年以前から活動していたかも知れないが、私の記憶では、ザ・モッズに影響を受けたと思わしきオリジナルを演っていたので、やはり、1980~81年前後からのスタイルであろうと推測される。
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