多くのお金があれば、もっと大きな事、色んな事が出来る。
また、インターネットによって、知りたい事も、簡単に、ある程度知る事が出来る。
どんなささいな目標でも、突き詰めればキリが無いし、追い求めれば終りは無い。
自分を変える事も必要かもしれないし、変えた方が良いかもしれない。
しかし、何故、何のために変えなければならないのか?と考える。
それが、自分の価値観なり基準なり主義主張のためならば、それは当然であろうし、真っ当な努力であろう。
だが、それが、外部の環境、すなわち社会構造だとか、支配体制であるとか、言わば誰かの利益のために作り上げられた価値基準に抑圧された結果だとするならば、それは面白くない。
誰もが、自らが望む方向に全力を発揮する事によって報酬や満足を得、更に、それが社会全体の活性化につながる。そんな世の中を夢見る事は、ただの空想、夢想、妄想、絵空事なのであろうか?
人は、まず、自分のために生きるべきであり、それが他人のためにも役立った時、初めて、人として成り立つのでは無いだろうか。
それが成人であり、大人なのでは無いかと、私は考える。
自分のためにだけ生きているうちは、まだ子供であり、人では無い。
ただし、支配者は、人など必要としていない。この世に人が増えたら、困るのは彼らなのだ。ゆえに、ある程度の安心と引き換えに、人から独立心を奪うのだ。
とは言え、能力が無いなら別だが、まずは、自分の能力を試す“機会”を得る所から始めなければならないのだから、挫折するなと言う方が無理な話ではある。
私達は、そろそろ気づくべきでは無いだろうか。差別され抑圧されているのは、女性や障害者、その他の、社会的弱者だけでは無いと言う事を。
それとも、先祖を怨めとでも言うのかい?
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