Mr.エレクトの独り言 2005年07月11日

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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広島パンク~ハードコアの歴史④

★今月発売(2005年8月号)のDOLL誌に、元GASのZOMBIEこと、畑中氏(現・Yoshi)への、「GASヒストリー・インタヴュー」が掲載されているので、併せて読んで頂きたい。当時の広島、否、地方におけるパンクやハードコア・パンクのおかれていた立場等が、なお一層、リアルに伝わるのでは無いだろうか。個人的には、同誌掲載のファミリー・トゥリーにより、不明だった点が、更に明らかとなった。また、当連載は、筆者が当時、知り得た情報を基本としているので、記憶違いや事実誤認も、多少含まれているであろうが、ご容赦頂くと共に、正しい情報をご存知の方は、遠慮無くご指摘頂ければ幸いである。ちなみに、筆者の友人である自我のヤブキ氏とは、先日、電話にて久々に連絡を取り、当時の秘話を取材したので、それらも交えつつ、話を進めたいと思う。それでは、続きをどうぞ・・・。★

さて、例の、高校生による自主コンサート企画団体“SOUND PACKED FAMILY”(以後、SPF表記)であるが、早速、1981年末に、第2回を開催する事が決定した。今回は、第1回目を行なう前に、確か、「甲斐バンドのコピーをやるからヴォーカルをやらないか?」とヤブキに誘われた筆者が、その時には断ったのだが、後に、やはりバンドをやりたくなり、既に“BEM”を再編し、“三人委員会”を結成していたヤブキに声をかけ、ヤブキ(ヘルプG)、同級生のギタリスト、ナカガワ(ヘルプB)の2名に、筆者同様に大竹中学~五日市高校進学の河内(Dr)を無理矢理参加させ、アナーキーとRCサクセションのコピー・バンド“SUCCESS”を結成し、出演する事となった。ここで注目すべきは、①当時は、バンドをやると言うよりは、まず最初に、高校の文化祭や町のイベント等、ライヴ出演が決定してからメンバーを探したり、バンド練習を始めると言うパターンが多かった。②既に演奏経験のある楽器担当者が、いくつかのバンドを掛け持ちでやる事が多かった。これらは、要するに、ピアノやフォーク・ギター以外のエレキ楽器をやってる人間も少なかったゆえに、人材不足と言うか、一部のやる気ある人間が、それまで楽器(特にドラマー)などやった事の無い人間を、無理矢理引き入れる場合が多かったと言う事でもある。

★ちなみに、1981年夏、THE MODSの1stアルバムが発売され、前後して、セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ、ダムドなどの、いわゆる三大パンクバンドを知り、好んで聴くようになる。また、同年秋、ヤブキ宅にて、彼の母が愛読していた女性週刊誌数誌に掲載されていた記事で、スキャンダラスな変態バンドとして紹介されていた、ザ・スターリンの存在を知る。★

そして、バンド練習であるが、当時は、2時間いくらの練習スタジオと言うのは少なかったと思うし、あったとしても、その存在すら知らなかった。もっとも、そもそもそんな所は、プロが使うものだと思っていたし、そんなお金無かったよね。自分達も、ヤブキ宅のガレージだったり、公民館の会議室を借りたりしてた。とは言え、ガレージったって、シャッター一枚だからね、近所迷惑甚だしいよ。それで、少しでも音を小さくしようと思って、スーパー・マーケットに行って、タマゴを入れるパッケージ(プラスチックぢゃ無く、へんな素材のやつ)を大量にもらって来て、ガレージの天井に張り巡らしたりなんかして・・・。

しかし、問題はそれだけぢゃ無い。前回の会場が使えなくなり、今回は廿日市中央公民館を借りる事になったのだが、騒音による近所からの苦情に備えての配慮等、問題は山積みで、同所で何度か集まって会議もした。そんで、やっぱ高校生中心なんで、大人の責任者が必要だって事で、とあるレコード・ショップのあんちゃんにお願いしたら、既にチケットに店名まで入れて印刷していたのに、何かあった時に責任取らされるのはゴメンだと断られたり、会場は公的機関だから、お金を取るとマズイってんで、無料コンサートにしたり、何だかメンドクサイ事がいっぱいあったな。だから、当時は、団体のリーダーだったコモリは、筆者にとっては、すごくやり手に見えたんだけど、後年、地元の人間に話を聞くと、コモリは派手に花火を打ち上げるだけで、メンドクサイ根回しや後始末は、コモリのバンドでドラムをやっていたキモトと言う男がこなしてたトノコト・・・。まあ、人それぞれ、役割分担ってのがあるからな。

そして、そのコモリが、第2回SPFコンサートの直前に、とある場所でのライヴを決めてきた。これには、コモリやイイダ、前述のキモト(Dr)他による“ステンドグラス”、筆者によるバンド、そして、“Big to Great”と言うふざけた名前の、確か、ナカガワ他による即席編成グループの、全3バンドが出演した。その場所とは?“ゆうわ病院”と言う精神病院での慰問クリスマス・コンサートであった・・・。しかも、アナーキーとRCのコピーをやるはずの筆者のバンドは、とある患者に脅され?横浜銀蝿のコピーを1曲、やむを得ず演らされる羽目となる。よって、筆者が、思春期を過ぎて人前で初めて歌ったのが、「つっぱりHIGH SCHOOL R&R(登校編)」である事は、“吉田豪”風に言うなれば、今もって筆者の“男の勲章”(by嶋大輔)なのである。トホホ・・・。世間(あの施設は違うが・・・)では、アナーキーも横浜銀蝿も十羽ひとからげな、1981年12月20日の出来事であった・・・。

★ちなみに、筆者が1981年に行ったコンサートは、RCサクセション’81.4.23/広島見真講堂(ブレイク後、初の来広)、同’81.10.7/広島郵便貯金ホール。THE MODS’81.11.14、広島WOODY STREET(当時、広島にあった、キャパ100名程度の広さのライヴハウス)。この日のライヴは印象に残ってて、中盤過ぎるまで客は大人しかったんだけど、後半、森山が「NO REACTIN」と言う曲をやる前に、ちょっと皮肉っぽく同タイトル(訳:反応無し)を繰り返しMCしたのがきっかけで、急激に盛り上がると言う一幕があり、まだ、コンサートを楽しむマニュアルさえも無い時代の、ほのぼのとしたエピソードではありマスね。また、情報の少ない地方都市においては、レコードが発売される事以上に、ライヴ体験と言うのは刺激的で、同ライヴ後に、ザ・モッズのコピー・バンドが、いくつか生まれたであろう事は、想像に難くない・・・。★

(つづく)
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