と言うか、実際には如何に不幸であっても、他人や世間からは不幸だと思われない様に振る舞う事が、人なら誰しも、今も昔も当然の行いであるからして、客観的には、他人の内面の幸福度を正確に計る事が困難であったと言う事も事実ではある。
ところで、持たざる者、他人より劣る者と言うのは、実に解り易い不幸の条件であるが、果たして、本当にそうであろうか?
不幸な状態とは、他人や世間の価値基準で判断されるべきものなのだろうか?
豪華な邸宅に住み、一見、幸せに見える一家も、夫婦仲が悪く、子供は非行に走り、実際には家庭崩壊していたならば、どうだろう?
また、その逆に、片親のため、ずっと貧乏で、学生時代はアルバイトに明け暮れて、遊ぶ暇は無かったが、その貴重な労働体験を、社会に出てから大いに生かす事の出来た少年を、単純に不幸であると決め付けて良いのだろうか?
幸福であるとか、不幸であると言う基準は、本来、個人個人の胸の内にあるものであり、それを他人や世間様から見て、可哀相だとか、うらやましいと思った所で、本人にとっては余計なお世話でしかない。
そう考えると、はたから見て幸福に見えるが、実際は不幸を感ぢている人と、はたから見れば不幸極まりないのだが、本人は幸福感いっぱいの人と、どちらが本当に幸せなのだろうか?
いかんいかん。またも自分の価値観で人の幸福度を計ろうとしてしまった。
つまる所、こう言う事だ。一見不幸に見えて実は幸せな人と、一見幸福に見えて実は不幸。そのどちらが良いか?と言う問いに対する答えさえ、個人個人違うのだ。
単純に考えれば、一見幸福に見え、実際にも幸福なのが一番なのであろうが、それすらも、人によっては、あまり幸せそうに見えると、他人から妬まれたり恨みを買うので、傍目には、なるべく質素に見せたいと言う考え方もあるだろう。
トナルト、自己の価値観に基づいた、理想の幸福の形態に、如何に近づくか、それが何処まで達成出来ているかと言う事が重要となってくる。
すると、今度は、理想や願望の大きさ、欲望の量が少ない者は良いが、掲げた理想があまりにも高いと、その多くが叶わぬゆえ、余計に不幸度が増すと言う現象も起きる。
更に更に、持たざる者ならば、そもそも得る物も少ない訳で、高望みも許されず、それで満足するしか無いが、逆に、能力や実力があればあるほど、望み通りの報酬を得られないがゆえに不満を感ぢると言う、持たざるがゆえにでは無く、持ち得るがゆえに不幸であると言う、なんとも皮肉な状態がもたらされる事となる。
もはや、持たざる者が不幸であった時代は終りを告げた。否、元より、それは幻想であったのだ。本来、すべての人間が、自分の気持ちひとつで、不幸にも幸せにもなれる可能性を持っているのだ。
そう考えると、これからの時代は、多くを望まぬ者、元より持たざる者こそが、幸福に最も近い位置にあるのでは無いか?
と言うか、現在流行中の、誰もが欲しがる幸福の形状なんか要らねえよと思わぬ限り、不幸は続くものと思われる。
いつまで続く、幸福ファシズム。
とは言え、誰しも、私も、幸福になりたいと思うし、自ら進んで不幸になりたいなどとは、露とも思ってやしない。
要するに、不幸が多様化したのでは無く、幸福の在り方が多様化しない事こそが問題なのだ。
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