Mr.エレクトの独り言 2005年08月06日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

広島パンク~ハードコアの歴史⑤

さて、精神病院の慰問を終え、遂に、廿日市中央公民館における「Sound Packed Family Ⅱnd LIVE」が1981年12月26日(土)に開催された訳だが、この日の出演者の中には興味深い人材も数人居た。

まず、ハード・ロック系のコピー・バンド、“EDDIE”は、’90年代にLORAN(ローラン)と言うバンドでメジャー・デビューする事になるギタリスト、三村が在籍していた。奴は、私同様、五日市高校出身の一個下の、いわゆるギター小僧であった。ちなみにLORANは、全然ハード・ロックでも何でも無い、どちらかと言うと地味なロック・バンドだった。

そして、確かヴォーカル以外が女性ばかりの“Fave Rave”と言うバンドには、やはり’90年前後にエピック・ソニーよりデビューする、KABACHI(カバチ)と言うバンドのヴォーカリスト、SHINこと山○真(本名:マコト)氏が在籍していた。その日、可愛いムスコを観るために、いかにも金持ちそうな山本氏の母親が来ており、口の悪い私達は、その母親をステージ・ママと名付け、噂話のネタにしていたものだった。また、彼にとって、このバンドはヘルプ的なもので、他にやっていたブラッディーと言うバンドが、後にストリート・パンクス・カバチとなり、自主制作アルバムを製作した後に上京、改名してデビューした訳だが、こちらもやはりデビュー時には、ルースターズの後期の様な、ネオアコ(?・・・よく解らん)系にサウンドが変貌していた。

なお、他の出演は、ヤブキの三人委員会、ナカガワのTHE SCHIZOID MEN、コモリとイイダ在籍のステンドグラス、その他色々。もちろん、いずれもパンクのパの字も無いバンドばかりである。せいぜい、この日のトリを務めた、筆者/ヤブキ/ナカガワ/他によるSUCCESS(RCとアナーキーのコピー)が、わずかにパンクに足をひっかけていたに過ぎなかった・・・。

ちなみに、ライヴ終了後、筆者のバンドに無理矢理引き入れたドラマーは、「これで高校時代の想い出作りは終わった」と言い放ち(←ホントに、こんなセリフを言ったんだよ)、受験勉強に精を出すためにあっさり脱退。同バンドは、その日をもって、あっけなく解散とあいなった。

★当日のチケット。
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そして、明けて1982年。色々と急展開する年である。まずは、年末恒例の「ニュー・イヤー・ロック・フェス」を1時間に編集したものが1月に放映され、そこで観たスターリンの「バキューム」によって、それまで嫌いだったスターリンを好きになり、前後して買い始めたDOLL誌(過去に述べたが、当時は書店売りどころか、広島市内でも扱っている店はほとんど無かった。)の広告を見て、通信販売で買い求めた「TRASH」を聴いてしまってから、筆者の価値観は大幅に変えられた(詳しくは過去の連載にて)。

★当時、クラッシュこそ洋楽だが、その他、フリクション、モッズ、スターリンなどの日本人アーティストのレコードは主に筆者が買い、ピストルズやダムドなどの洋楽アーティストは主にヤブキが買っていたように思う。その後もヤブキは、輸入レコード店で、エクスプロイテッドやクラス、ディスチャージ、ディスオーダーやカオスUK等を見つけては買って来て、そのお陰で筆者は、その頃の初期UKハードコアを、ほとんど聴く事が出来たのだった。★

更に、その年の初め、ヤブキ(Vo/B)とナカガワ(G)は“浮世絵”と言うバンドを結成。これはTHE MODSのコピーと、ダムドの曲を更に速く演奏すると言う、ハードコア前夜を地で行くバンドであった。当時も今も、ピストルズっぽいバンドやクラッシュ路線、ラモーンズ的なバンド等は後を絶たないが、ファッションや思想では無く、楽曲自体や演奏そのものがパンクの攻撃性を体現していたダムドを選ぶと言うのは、なかなかのセンスであろう。ちなみに、浮世絵はベーシスト加入によりヤブキがヴォーカルに専念。“LSD”と名を変える(もちろんADKのとは無関係)。同時期、筆者は、高校の同学年のメンバーを集め(と言うか、同ぢ中学出身の幼なじみが、所属しているバレー部の仲間を連れて来ただけなのだが)、“(東京)ペニス”と言う、スターリンの影響丸見えなバンド名にて、再びRCサクセションのコピー・バンドを始めてしまったが、やはりスターリンの魅力は捨て難く、4月にはヤブキとナカガワを誘い、“金属バット”と言う(←しかし、書いてて情けなくなって来る様なバンド名ばかりなり・・・)、スターリンのコピー・バンドを結成するが、各々のバンドが忙しいため、これはすぐに自然消滅してしまった。

その後、筆者のバンドは、その名前が各地で多大なヒンシュクを買い続けたため、止むを得ず“THE STOIC”と改名し、毎年6月に行われる、五日市高校の文化祭出演まで、地元の小さな公民館にて行われた社会人バンド主催の自主コンサートやら、広島市内にある木定楽器店と言う楽器店にある10坪弱のスペースでのミニ・コンサート、その名も「木定ミニコン」や、演奏中に浮浪者(当時はホームレスなんて言葉は無かった)も飛び入りした、広島名物の大きな祭り「フラワー・フェスティバル」に出演したりと、なんだかんだで色々と演奏出来る場所を探し廻り、時には「Jr.ROCK」と言うコンテストにテープ応募して落選したりと、同世代の地方の高校生バンドなら共感してもらえそうな地道な活動を続けていたが、先の「フラワー・フェスティバル」と同日に、やはり広島市内のライヴハウス“QUEST”にて毎月(かな?)行われていた、「無名人コンサート」にも出演。その中から、LSD以外にも、同世代のパンク寄りのバンドである“尾行された密輸グループ”(ARBのコピーとかやってた?)なんかと知り合ったりする事となる。

<追記>そうそう。やっぱ、当時のバンド練習って、誰かの家の中で大音量でやってたよね。練習スタジオなんて想像もつかなかったしね。しかし、近所迷惑甚だしかったろうな~・・・。

(つづく)

★1982年5月。GASはまだまだ登場しないが、広島パンク・シーンに無くてはならない存在だった、ライヴハウス“QUEST”(正確にはライヴ・スクェア・クエスト)と出会う。しかし、広島にシーンめいたものが出来上がるのは、まだまだ先の話だ・・・。

★浮世絵デビュー・コンサートのチケット(上は’80か’81の甲斐バンドのチケット)。
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修羅地獄

修羅地獄・・・修羅地獄・・・。生きて行く身の最果(さいは)ては、泥にまみれて・・・行くばかり・・・。
「修羅地獄/梶芽衣子」

俺は「KILL BILL」なんて興味無え!!当然、観てもいない。

さて、深夜の出品ノルマを終え、メールのやり取りを小一時間済ませ、やっと自由時間・・・て、もう朝やんか~!!

朝なんて来なけりゃ良いのに・・・って、嘘ぴょん。夜は暗いから怖いしね。でも、やっぱ夜は集中出来るよね。今の仕事のペースで勉強してりゃあ、東大も夢ぢゃ無いね。

・・・と、言う事で、下らない独り言はこのへんでやめにして・・・。

あっ、そういやあ、また水道が止まるよ~。

東京砂漠・・・。

まあ、もう少し頑張って、連載でも更新するか・・・。

昼までに更新されてなかったら、バタンQ!!したと思っとくれ!!