何と言うのか、人生において、出会いと言うのは非常に重要かつ大切なものである。
生まれてから今まで、たった一人で育った人間など居ない様に、人は少なからず外部の人間や環境に影響を受けて成長、進歩、変化をしていくものである。
子供の頃、築地の料亭で、あまりにも美味い天ぷらを食った者は、もう普通の天ぷらは物足りなくなってしまうだろう。もちろん、築地の美味い天ぷらの味ゆえにではあるが、しかし、これが仮に、無理矢理連れて行かれて、天ぷらをいやいや食べさせられたならば、果たして美味しく食べる事が出来ただろうか?そう。美味いどころか、嫌いにさえなったかも知れない。
そう考えると、幼少期の出会いと言うのは重要で、まだ多くの知識や経験を積んでいないため、その中から比較検討せねばならず、しかも、本質的な事柄以外の要素も多分に加味されるゆえ、正しい(と言うと語弊があるが)判断が出来ない場合もある。
私は、多少の個人差はあれど、感受性の強い十代後半までを、まだ自分のものさしを持たぬ、受け身的な吸収の時期であると考える。
そして、二十代とは、それまでに得た知識や経験を基に、自らの力で、自分の生き方や価値観を模索、形成していく年代ではないだろうか。ゆえに、更に奥深く追求する者も居れば、更に幅広く見聞を広める者、逆にそれまでとは全く逆の方向へ進む者も居るだろう。
要するに、ある種、十代で開いた目(芽)で、自分の咲くべき花の形、種を蒔く場所を探すのが二十代であると思うのだ。
よって、十代後半までの出会いとは非常に重要であるが、それはある種、生育環境によって与えられたもの、すなわち、ある一定の空間(親や友人)から、そう遠くへは行けないがゆえ、運命と言うか、血(地)の呪縛からは逃れられない部分もあると言う事である。
しかし、二十代は違う。そこから如何に道を極めるか(見極めるか)、そこからどれだけ遠くへ行けるかと言う、自分の力によって人生(運命)を切り開くべき時期に当たる。
もっと解りやすく言えば、十代は所持金を決定する時期、二十代はその所持金で如何に遠くまで行けるか?と言った所であろうか。
とは言え、実際に遠くへ行く必要は無く、十代に受けた衝撃や感動を掘り下げる者も居れば、血の呪縛から逃れられず、親や先祖の望む道、あるいは似た道を行く者も居る。
ところで、私は世の例外にもれず、十代の頃に音楽を好きになった訳だが、二十代になっても、まとも(?)な人生に背を向けて、ひたすらそれを追い求め続けた。何故なら、私は、定職だとか家庭だとか安定だとか集団に所属するだとか言う事に関しては、チリとも興味がなかったゆえ。・・・否。拒絶したいぐらいに嫌いだった。
私が欲しかったのは、明日(未来)では無く、真に自分が生きていると感ぢられる“瞬間”だけだったのである。
一見、私は十代から進歩していない様に見えるかも知れない。しかし、実際には大きく違う。感受性の強い十代の頃に受けた刺激、それらをただ受け身的に求め続けているのであれば問題であるが、これはあくまでも、自発的に、その道を追求し続けた結果なのである。
だから私は、三十代には迷う事など何も無く、自分の好きなものを選びとる事が出来る様になった。
言うなれば、自分の好物を見極めるプロフェッショナルとでも言おうか・・・。
ゆえに、私とて、安定を求めているに過ぎないと言う言い方も出来る。
ただし、社会的に見た場合の、生活様式や人生設計の安定では無く、あくまでも自分のこころの安定と言う意味でだ。
だから、色々欲しい人が居ても良いし、あちこち行きたい人が居ても良い。そう言う人達にとっては、それが安定した状態であるに過ぎないのである。
人それぞれ人生の目的は違うのだ。他人の価値観に振り回されるのはゴメンだし、他人に指図するつもりも無い。
十代での受け身的な出会いは人それぞれに違いがあり、二十代での自発的な探求や追求によってもたらされる出会いも、また様々である。ゆえに、人生の目的が違ってくるのは必然なのである。
人生を豊かにするには、如何に良い出会いをするかと言うのが重要な課題はあるが、そこには多分に、自分の才能以外の要素が含まれてくる。十代で良い出会いが多かった者は運が良かったに過ぎないが、二十代で良い出会いを増やすには自発的な努力が必要不可欠なのである(そう言う意味では、運も才能のうちであり、努力するのも才能であると言う言い方も出来る)。
もしも貴方が、人生において、自分の持つ真の実力を試したければ、すべての出会いを拒否すべきである。
偉そうにしてみても、人間なんて、しょせん運命の手のひらの上であがくだけ。
ゆえに、如何に己の運命に逆らうか、すなわち、外部や他人からの影響を出来るだけ少なくし、如何に自分の意志で決定する事柄を増やすか、自分なりの価値観を築き上げるか、それこそが、真に生きると言う事の意味であり、意義なのではないだろうか。
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はあはあ・・・ぜいぜい・・・。
エレベーターの無い5階ゆえ、ちょっと外出するにも超疲れるわい。
とは言え、そのせいで家賃も格安なのだが、その格安の家賃を何ヶ月溜めりゃあ気が済むんぢゃい!!
・・・って、なんとかぎりぎり、通常家賃と更新料を支払って来た所でガス。危うく○ヶ月遅れの家賃が、更に一ヶ月遅れる所ぢゃったわい。
・・・って、あっちの家賃とか、別方面の支払いをするための金が無いっちゅうの!!今、ほぼゼロやねんて。
その遅れを引きずったまま、また来月が始まる。
毎月、ゼロからの(マイナスからやっちゅうの・・・)スタートの繰り返し。今月も、あの奇跡のレコードの残金25万でなんとかしのげるかも知れないが、再来月からどうせえっちゅうねん。
大幅な営業方針転換をしなきゃあ、やっていけへんわ。
うち、ほんまどないしょ・・・。
いややわ~。なんぞええ知恵あらしまへんか?
どすえ。
そうそう。ブログ以前の日記初期に記した、松田優作コスプレ野郎だが、コナイダ、久々に当店にやって来やがったんだよ~!!
でもさ、それがね、ちょっと聞いてよ、奥サンってば。
ドアが開くも、なかなか店内に姿を見せず、荷物置き場でもたもたしている客がいるので、何をしてるのかと振り返ると、何と、あの忌わしき、松田優作コスプレ野郎では無いか。しかも、相変わらずのアフロ・ヘアー&グラサン&何センチあるか解らない靴をジーンズで隠した、擬似長身・・・。
「やっべ~!!また来やがったよ~!!」
私は、憂鬱な気分が更にどんより暗くなるのを感ぢた・・・。
しかし、奴は店内をちろちろ見るや、こう言ったのだ。
「店長は居ないの~」と。
あっ!!そうか!!あの時はオール・バックみたいな髪型だったけど、今日は普通にしてるから、私が店長だと言う事に気づいてないんだ!!
そこで私は、「店長は今、居マセン」とか、「店長はもう帰りマシタ」と、雇われている人間の振りをした。
しかし奴は、「ここは3人でやってんの~?(当店で店番しているのは私と店番Hの二人のみ)」とか、「あのレインボーの髪した彼は?(店番Hの事)」と、微妙に疑心暗鬼な様子。
私は顔を伏せ、なるべく目を合わさぬ様に、キワドイ質問も軽く受け流す。
そのうち、無言で帰り支度をする奴。
しかし、荷物置き場に置いてあるカバンの中から煙草を取り出し口に咥える(もちろんウィスキー?の小瓶も必携)。
ああ、そこで言わなきゃ良いのに、私は、「店内は禁煙デスよ~」と、それでも何とか、雇われている人間らしく弱々しく?可愛く?注意。
やば~・・・。ばれちゃうよ~!!
でも、奴は大人しく店を出て行ったのデシタ。
ウヒヒ・・・。バンザ~イ!!もう来るな!!
もう来る・・・もう来ないよネ?
お待たせイタシマシタ。眠いけど、そろそろ続きを書かなくちゃ・・・。
さて、時は1982年5月27日、THE MODSが、昨年11月の“NEWS BEAT TOUR”(だったかな?)に続き、広島にやって来た。前回はライヴハウスだったが、今回は見真講堂と言う、中ホールである。この時のコンサート・パンフはカセット・テープで、メンバーの喋りの他、3rdアルバム「LOOK OUT」からも2曲程度が収録されていた。広島でのモッズの人気はうなぎ上りで、ヤブキとナカガワのやっていたLSD以外にも、モッズのコピー・バンドの存在もちらほら耳に入ってきていた。ちなみに、この日のライヴも、観客がステージ前に詰め掛け、森山が、「コンサートが出来なくなるから・・・」と、ファンを諭す一幕もあった。若気のいたりで、筆者もステージ前に押しかけた一人なのだが、そのせいで座席に置いていたテープ・レコーダーを係員に没収されたため、この日の録音テープは残っていない。(コンサート後、レコーダーは返してもらったけどネ。)
★当日と、同年11月25日のチケット。

さて、そんな折、筆者のバンドや、ヤブキらのLSDは、ライヴハウス“QUEST”が主催する「無名人コンサート」なる、同所における企画ライヴに、お互い別々の日に出演したのだが、常連の出演者に凄いバンドが居ると言う噂を聞きつけ、ヤブキとナカガワが偵察に行って来たらしい。なんでも、そのバンドは“カリスマ”と言う名前で、QUESTは昼間は喫茶店も兼ねているため、縦長の店内には、まずステージがあり、そして客席には両脇に四角いテーブルが並べられており、そのテーブルとテーブルの間の通路が後方の壁まで続き、言わば花道の様になっているのだが、ダイノと言う、そのヴォーカリストは、演奏中に感極まって、ステージから客席(と言うか通路)の後方まで走り廻って歌うと言う、今なら誰も驚きもしないパフォーマンスをやらかしたと言う事で、二人は興奮冷めやらぬ様子であった。筆者は内心(筆者はRCのコピーをやりながらも、地面を這いずり廻るパフォーマンスを得意としていたので・・・)、それがどうしたと言う気持ちだったが、今考えれば、単なる思春期の馬鹿さ加減の比べ合いであろうか・・・トホホ。また、その日の共演が、“外海しげる(仮名)”と言う名の弾き語りで、「原爆を持ってきてくれ」と言うオリジナルの反戦ソングを演ったと言う。これには、流石のヤブキらも失笑を隠せず、後に我々の間で、「原爆を持ってきて~く~れ~」と、ギターをかき鳴らすゼスチャーをしながら歌う、外海の物真似が流行する事となる。
そして、同年8月4日、QUEST主催の「無名人コンサートS(スペシャルの意)」が、広島市青少年センターと言う大ホールで行われる事が決定。筆者のバンドは、高校の文化祭(うちは6月にあんのよ)を終え、メンバー・チェンジ(・・・と言うか、一部のメンバーを入れ替え、ギターがドラムに、ドラムがギターにと言う、恐れ知らずなパート・チェンジ)を行い、出場する事となるが、ここでヤブキらのLSDも驚くべき変貌を遂げる。そう、主にモッズのコピーをやっていたLSDであったが、6月にメジャー・デビュー・アルバム「STOP JAP」を発表したばかりの、ザ・スターリンのコピーで出場すると言うのだ。
しかもなんと、その直前の7月30日に、本家のスターリンが“STOP JAP TOUR”で広島ウッディ・ストリートに来ると言うのだから、これはもうスターリン熱が高まらない訳が無い。(でも、既にアルバム「STOP JAP」は嫌いで、「TRASH」しか聴いてなかったけどネ。)
そんなこんなで、次回はスターリンの広島でのライヴと、「無名人コンサートS」の事なぞを書こうと思う・・・。
(つづく)
★ところで、アナーキーって、1981年か82年に広島に来てるんだけど、筆者は知らず、行けなかったのデス。でも、仲野茂が失踪して、客にかわるがわる歌わせたライヴだったらしいよ。アナーキーの本に書いてあって、後から知ったんだけどさ・・・。
人間ってのは基本的に、「幸せになりたい」と言う事で、その望みが一致すると思うのだか、よくよく考えると、「幸せになりたい」と言いつつ、「幸せを得たい」とか、「幸せにして欲しい」と言う考え方で生きている場合が多い様な気がする。
本当に、ただ幸せになりたいだけならば、自分が幸せに“なれ”ば良いだけなのに、自分以外の他人に何かを求めるから、いつまで経っても幸せになれないのではないだろうか。
幸せの形は、ひとそれぞれ違って良いのだから、誰かの基準に合わせる必要は無いし、平均も糞も無いはずだ。
幸せ幸せってうるさいよ。
幸せになんかなろうとするから、いつまで経っても幸せになれないんだ。
だって本当は、「幸せになりたい」んぢゃ無く、「他人より幸せになりたい」だけなんだからさ。
よく、顔のシワには人生が刻まれると言うが、喜びも悲しみもほどほどの人間は、顔にシワなど出来ず、つるつるなのだろう。
だから、出来るだけしわくちゃになりたい。
傷ついたり、怒ったり、笑ったり、泣いたりしながら・・・。
・・・つうのは嘘。
幸せとは、一日のうち、こころの底から笑えた時間の長さで計られる。
嘘の笑顔で金銭は得られるが、本当の幸せは得られない。
一日中、笑顔でいられるならば、金など要らないのだ。
しかし、金が無ければ笑顔も消える。
笑顔が消えれば、不幸になる。
不幸になれば、笑顔も消える。
時間が無いので早口(早書き?)にて。
マリア観音、いぬ屋敷、屋根裏でビル他のライヴ・・・とライヴが続き、北海道の“あざらし”からMDが届き、中学生棺桶の葉蔵氏&広末ちゃん兄弟が新作MDを持って来店。それらのレヴューはそのうちするかも・・・。
昨日、そろそろCDの在庫が溜まってきたのでいくつか出品す。二つのブラウザを同時に開け、ヤフオクとアマゾンの相場を見比べつつ、価格を検討。片方に出したり、両方に出したり工夫する。しかし、色々と面倒な事が多い出品作業(価格調査含め)であるが、次々と合理的な方法を編み出す自分に、あ~、頭良くて良かった!!と、しばし感動(イヤミでゴメン)。・・・って、単に超横着と言うか、無駄な事は一切したくない主義なだけなのだが。
最近、飲み物に悩んでいたので、近所のコンビニに販売機が置いてある、アルカリイオン水を試してみる。最初に3リットル用のペット・ボトルを315円で買い、50円でイオン水を満タンに出来るのだ。しかも、イオンカードなるものがあれば、イオン水は永遠に無料らしい。飲んでみたら、なかなか良い。冷えてないのが難点と言えば難点だが、そのうち、冷蔵庫を修理して復活させよう。でも、常温でも全然オッケー。せっかく近くにあるんだから、もっと早く活用すれば良かった。そして、まるで山から水を汲みにふもとの村へ下りるが如く、今日もイオン水を汲んで参りマシタとさ。
あと、最近太り気味だったので、食事も改める。一回にあまりドカ食いしないで、腹八分にする。みのもんたは腹六分と言ってたが・・・。すると、何だか身体の具合も多少良いような気になる。
いつぞやの、超激レアなレコードの購入者が決定。60万を2回に分けて支払って頂く事になり、とりあえず初回に35万受け取る。しかし、喜んではいけない。この金は借金返済になど廻らず、業務運営等に必要な経費ですべて消えてしまうのだ。更に、新宿店の契約更新のために、今月は通常家賃に一ヶ月分上乗せの約25万(電気水道費込み)支払わなければならないのだが、もう25日だと言うのに、そっちの資金繰りは全然目途が立っていない。
今回は運良く危機を救われたが、そんな馬鹿高いレコード、毎月どころか10年に一回も入荷しないんだから、再来月からは一体全体どうすんだよ・・・。
フフフ・・・。フフフフフ・・・。
全然足りね~よ~!!どうせいっちゅうんぢゃ~!!
さて、今から、更にレコードを出品せねば・・・。
しかし、最近はヤフオクでの取引き上のトラブルが多かった。ホント、疲れた・・・。そろそろツキも落ちてきたか・・・。
そう言えば、HOT WAX誌主催の、日活アウトロー映画等のレイト・ショーに、一回は顔出さないとな。レイト・ショーって何時から?
鬱の研Qはオワリ。
これから月末にかけて、金欠地獄に突入す。
全然足りんのヨ。
他人を説得するのは難しい。
暴力や権力によって、無理矢理に強制(矯正)すれば、それはファシズムになってしまう。
更に、他国にファシズムを行使すれば戦争になる。
また、個人同士であっても、議題に関しての正当さや的確さよりも、上下関係や力の関係がそこに加われば、まともな議論など出来ず、その場では納得した様に見せて(見えて)も、こころの底から納得した訳では無いので、必ずどこかで歪(ひず)みが出来る。
私は、他人に対して干渉したり、何かを強制するのは嫌いだ。
それは、私の父(強制)であり、母(干渉)への反逆でもある。
支配するのもされるのもまっぴらゴメンだ。
ゆえに、支配したがる人間も、支配されたがる人間も嫌いだ。
しかしながら、自分のこころの奥底に、間違い無く存在する、人を支配したい気持ち、征服欲、権力欲・・・。
そんな人間の本能、そしてオス(♂)の本性。そいつらを抑えつけるのは、生易しいものでは無い。
だから私は、決して自由気ままに生きてなどいないのだ。
自由なんて、決して美しくも素晴らしくも無い。
自由に生きる事。それは、自分本位な生き方をする事。
本当は、他人を支配したくて、この世を征服したくてたまらないのに・・・。
これは、自分のこころの中だけでは、とても解消解決出来ない、私の人生における命題なのである。
ファシズムへの反逆とは、すなわち、自己の本能との闘いなのだ。
しかし、ファシズムを行使する瞬間とは、きっと言葉では言い表わせぬ程の快楽を得られるのだろう。
夜毎、十字架に磔にされ、屠られていくのは、俺のこころの中に潜むファシズムである。
そしてそいつは、殺しても殺しても、際限無く、こころの底から立ち現われるのだ。
そいつが人間としての正しい生き方なのか、それとも悪魔の囁きなのか、今の俺には理解しようも無いが・・・。
マチゲータ!!
“死にたい”んぢゃなく、“死にそう”の間違いだった。
そうだよ。要するに、生きたいと強く感ぢたいのに、それを妨げる何らかの障害が存在すると言う事が、一番の問題なのだから。
そもそも、死にたい気持ちってのは、こころの片隅に何パーセントかは常にあるものだけど、なんちゅうの?こころの体力が持たないと言うか、身体もそんなに健康ぢゃないけど、こころを保つ何かが悲鳴を上げている感ぢ?
「もう駄目だ!!耐えられない。こころの安定を保てない・・・」ってね。
やっぱ、精神にも体力が必要ッス。
しかし、色々と面白い事もある。特に、自分のこころの動きに関しては、なかなかに興味深い事も多く、まさしく人体実験と言うか、身をもって知る心理学とでも言うべきか・・・。
と言うのが、「もう死にそう~」・・・と考えつつも、時折顔を出す、「あいつが悪いんだよ!!」と言う自分本意な気持ち。しかし、すぐに、「いやいや、自分が悪いんだ。あいつは別に悪くないよ」と、理性的な感情が、それを抑える。しかも、最終的に自分は、それらの悪しき感情を抑えつけるだろう事が解っていながら、意図的に無意識を装ってチラリと覗かせる所が、何と言うのか、出来レースと言うか、我ながら良い子ぶりっ子してんぢゃねえよ!!ってな複雑な気持ち?
とは言え、何にせよ苦しい・・・。
誰かのせいに出来たら、どんなにか楽だろう・・・。
やっぱ、良い人ぶってんのかな?
ここ数年、寝る前に、いつも頭に浮ぶのは、十字架に磔にされた、俺の姿だ・・・。
俺は一体、どんな罪を背負い、いつまでその呵責に苦しまなければならないのだろうか・・・。
しかし、面白い。
って、面白がってばかりだね、この人。
でも、面白いんだから仕方ない。
だってさ、平和主義者のジョン・レノンを馬鹿にしたら、やっぱ平和主義の、ジョン・レノンのファンに殺されちゃう~!!ってんだから。
面白い。
まあ、でも、平和のためには戦う事も必要で、時には人も殺さなきゃいけないってのも事実。
て言うか、そもそも平和主義者が存在出来ると言う事自体、平和な証拠だよね。
逆に、平和主義者を見つけ出しては殺すって言うのも面白いかもね。
だって、平和主義者は居ても居なくても、この世を平和にする力なんて無いんだからさ。だって、彼らには、戦争している人間を止める事など出来ないし、戦争を止めさせるには、戦争をしている人間と戦争しなければいけないんだから・・・。
むしろ、人を殺したり戦争している人達の方が、この世を平和に出来るわな。
否、平和っちゅうか、世界を安定させる事が出来ると言うべきか。
でも、その安定した世界に住む人々がすべて幸福とは限らない。
同様に、現在の不安定な世の中から戦争だけが無くなったからとて、それが全人類にとって幸せな状態なのかと言えば、必ずしもそうでは無いだろう。
だから人間は、地球、そして世の中を、自分にとって住みやすく変えて行くしかないのである。
要は、殺し合い以外に、その手段を思いつかないと言う事が問題なのだ。
トナルト・・・。(ここでもう一歩踏み込む。)
この地球上から、戦争とか人殺しをする様な人間を、片っ端から皆殺しにして抹殺してしまえば、戦争や人殺しの無い平和な世の中になるってコッタ。
よって、それを実現出来る人間こそが、究極の平和主義者だと思わない?
そんで、最後は自殺すんのね。だって、そいつ自身が、この世で最後の、ただ一人生き残った人殺しなんだからさ。
誰かに殺させたら、そいつがまた、最後の人殺しになっちゃうしね。
しばらく、ペシミった話題が続きマス。
いや~、悲しいね~。ああ、つらいつらい。あ~んあ~ん(泣)!!・・・グッスン。
どう?僕って、実に人間らしいでしょ?やっぱ人間ともなれば、憂鬱や悲嘆のひとつくらい暮れてみなきゃね?これで僕も、堂々と胸を張って生きていける立派な一人前の人間様だ。ああ、ホント、人間って良いな~。人間万歳だね。アハハ・・・。
ハハハ・・・。あ~ん(泣)!!
あ~あ、首でも吊って死にたいよ・・・。
なんちゃって(^^)/
死ぬわけないぢゃん。
でも、そうか。解ったぞ!!首吊りとか、死とかを頭に想い浮かべると、それより今の方がマシだと思えて来た。
すなわち、頭とか身体の一部が痛いときに、別の部分を自ら強くつねったりして、更なる痛みで元の痛みを忘れさせようとする事ってあるぢゃん?あれと一緒で、今よりもっと不幸で悲惨状況を思い浮かべる事によって、「今のママの方が全然マシ」、あるいは「現状の方が全然幸せ」と、改めて感ぢる事が出来るのだ。
これが、落ち込んでいる最中に、自分が幸せを感ぢる状態を想像したとしよう。すると、「あれがこうでなかったら、今の苦境は無いんだ」とか、「俺が不幸なのはあいつのせいだ」と、現在のつらい状況に対する苛立ちが余計に増してしまい、更に、その原因を自分以外の外部に求めてしまうってコッタ。
だから、悲しい時は、「あの頃は良かった」なんて、過去を振り返ったり、「いつかきっと良い事がある」なんて、保障の無い未来の幸せに想いを馳せるより、今よりも更に悲惨な、もっと破滅的な状態を想い浮かべれば良いのだ。
そう。「もっと地獄を!!」・・・の精神である。
しかし、ここでふと思った。
・・・テコトは、首吊りを想い浮かべたその時、自分が置かれている状態によっては、現在感ぢている苦しみと比較した結果、こんな想いをしてまで生きているよりは、首吊りでもした方がマシだ・・・と、思える場合もある訳で、そんな時に人は死を選ぶんだろうな。・・・と、その瞬間の心境がリアルに実感出来、過去に自殺した人の心中を少しばかり垣間見た気になって、少しばかりゾッとしたりなんかしたりもして・・・。
ああ、しかし、この悲しい気持ち、切ない想い、つらい心境、苦しいこころ・・・。こんな感情を抱けるのも、人間ならではだもんな。言わば人間である事の醍醐味っつうの?いや~、人間っぽいね~。うんうん、それでこそ人間ってもんよ。ああ、人間で良かった~!!人間大好き!!アハハハハ!!
ハハハ・・・。あ~ん(泣)!!
しばらくこればっか続くと思われ・・・。
超久々に、ステッペン・ウルフなぞ聴いてみる。実は、上京したての頃、パンク以外の洋楽のレコードも少しは集めており、ドアーズやジャニス・ジョップリンなどに混ぢって、ステッペン・ウルフもちょこちょこ買っていたのだ。
いや~。やっぱ肉ばっか食って、広い土地でバイク転がしてる人種は違うね。この馬鹿っぽさ、豪快さには、小さな悩みも吹っ飛ぶね。
吹っ飛ばねえよ・・・。
今日は今日で、キッスの1stアルバムなんぞ聴いてみる。へ~、ストリート・スライダーズのブギっぽい曲って、キッスの影響なのかな?怒鳴る様な歌い方もハリーっぽいし。
そう言えば、コナイダ、初期のボブ・ディランのLP数枚、ビートルズのLP数枚、ジョン・レノンのLP数枚、ストーンズのLP数枚が入荷したので、ちょっとボブ・ディランでも勉強しようかとも思ったが、結局、時間が無く、このビルの1Fで週末だけやっているレコード・フェアの売り場に品出ししてしまった。一応、ジョンだけまだ値付けしていないので、近日中に何枚か聴いてみたいと思う。
なんせ、自慢ぢゃ無いが、ジョンのアルバムを一枚通して聴いた事が無いのだ。エヘン!!
エヘン虫は無視して・・・。
ジョンのタマキ○・・・ぢゃ無えや、ジョンのタマシイにでも触れて、こころを癒そう。
・・・って、癒せるのか?
男のくせに平和なんて訴えてんぢゃ無え!!
・・・なんちゃって。冗談ッス。そんな事言ったら殺されマスわ。
ジョン・レノンがなんぼのもんぢゃい!!
・・・なんちゃって。
あ~あ・・・。U2!!・・・ぢゃ無くて、憂鬱。
恥をかいた場所へ、もう一度行かなければならないと言うのは、非常に照れくさく、気まずく、必要以上に気を使う。
それはまるで、屠殺場にひきずられて行く牛や豚の様だ。
否、死刑場かも知れない。それも、何度も何度も死ぬための・・・。
死にたいと言う事は、イコール死にたくないと言う事。
あっ!!そうか!!何も自分が死ぬ事は無い。相手を殺せば良いのだ。
・・・と思えたら、どんなにか楽だろう。
しかし、面白い。
生まれなければ死なないのだから、想いや願いも、こころに抱かなければ良いのだ。
ただあるがママに生きるのだ。
動物の様に。あるいは、生ける屍の様に。
ああ、つらい・・・。
行きたくない・・・。
でも、行きたい。
でも、生きたい。
・・・なんちゃって!!(^^)/
冗談ッス!!
あ~ん(泣)!!
・・・この繰り返しを、こころの葛藤と呼ぶのだろうか。
怒りが頂点に達し、キレたとしても、多少こころが晴れ、一瞬ヒロイックな気分に浸れるのみで、言われた相手は、ただその勢いにビビッて、こちらの意見を受入れているだけで、結局、こころの底からは納得、共感などしていない。
では、その逆に、これこれはこうなんだよ・・・と、やさしく丁寧に説いた所で、今度は、この人は怒らない・・・と、なめてかかり、人の言う事なんてまともに聞きゃあしない。
なんで、自分が正しいだとか相手が間違ってるだとかばかりを重要視し、真摯な態度で真理を追い求めようとするための論争が出来ないのか・・・。
話変って、ここの所のバカヅキがすべて無に帰せしめられるかの出来事に、超凹む・・・。
「死にたい・・・」とか思ったりして。どうせ死にぁあしないのに。
しかし、なんだね。ショックな出来事があっても、以前ほど傷つかないでいられるのは、精神が逞しくなったのか、あるいは単にずうずうしくなったのか。
“死”以上に、死に値する事など無いと言う事か。
死ぬほどの事でも無い。どうせ死にゃあしないんだし。死んでどうなる訳でも無し。
下らない・・・。実に・・・。
何だかんだ言っても、結局は他人の言動や行為に左右され、喜んだり悲しんだりしているだけで、自分が何かを失った訳でもなければ、自分が別の生き物になった訳でも無いのに。
生きている事は、恥を重ねる事だと割り切る事が肝要か。
死ねば美化してくれるかな・・・。
・・・なんちゃって!!(^^)/
ちょっとペシミってみマシタ・・・みたいな。
あ~ん(泣)!!
どっちやねん!!
①ファブリーズって、修学旅行で行ったホテルの廊下の匂いがするよね!?
②昨日、近所のコンビニで新発売されてた、「小海老とパンプキンシードのわさび味フライ&バターピーナッツ」(長え!!)を食べながら、缶コーヒーBOSSのやはり新製品、ワールド・エグゼクティヴ・ブレンド(微糖)を飲むと、コーヒーがビールの味になるよ!!
試してガッテン!!
「唯我独尊」=「みんなちがって みんないい」。
良い言葉である。
私には、ここ数年になって、やっと実感出来る様になった事がある。それは、人それぞれ、生きる目的は違う・・・と言う事である。
ゆえに、通ぢ合えぬ者同士が居て当然、すれ違いを繰り返す者達が居て当然、めぐり合えぬ人達が居て当然、解り合えぬ人種が居て当然。
だから私は、戦争を一概には否定しない。しかし、太古の時代から、これだけ科学が発達した現在もなお、人類に流行している、人を殺し合う戦争と言うものは、非難されてしかるべきであろう。
何故なら、そもそも戦争とは、ある特定の事柄について、どちらが正しくて、どちらが優れているかと言う事の決着をつけるものであって、相手を殺してしまうと言う事は、真の解答を導き出す事が目的では無く、ただ単に武力や暴力で相手を屈服させているに過ぎないからである。
とは言え、武力や暴力を比べ合う戦争なのであれば、そのやり方(比べ方)は、目的に対して実に適した方法論ゆえ、いた仕方無いとも言える。きっと、さぞや素晴らしい、愛に満ちた人種の側が勝利を収める事であろう。
と言うのは、もちろん皮肉であるが、話を戻そう。
私のしたい戦争とは、自分が素晴らしいと感ぢる事を、他人に伝える事であり、そしてまた、他人が素晴らしいと思っている事を尊重する事である。言い方を変えるならば、唯我独尊、すなわち「みんなちがって みんないい」と言う思想の実践とでも言うべきであろうか。
よって、この思想に共感したからと言って、同ぢ目的を持つ必要も無ければ、同ぢ場所に居る必要も無く、ましてや同ぢ音楽を聴く必要などさらさら無い。私はこんな音楽が好きで、貴方はあのスポーツが好き、あいつはあの食べ物が好きで、あの娘はあちこち旅行をするのが好き・・・。
だからこそ、この広い(狭い?)地球の上で、何か接点があったと言うだけで、それは素晴らしい事であり、生命のあるうちに何かしらの思いを共有出来たとしたなら、それにまさる喜びは無いのである。
表現者とは、言わば、何かしらの思いを共有すべく、他者に対し積極的に働きかける人種の事を指す。
そして、表現者の為すべき戦争とは、力によって、他者に何かを強制するものでは無く、他者に何かを伝えた時点で、既に目的を達成したと言えるのだ。
よって、もし仮に、その表現に対して誰かが共感し、思いを共有出来たならば、それはある種、ご褒美の様なもので、それ(見返り)のみを追い求めるのは、表現者の一方的なエゴでしか無い。(求めてはいけないと言う訳でも無いが・・・。)
しかし、如何に人生の目的が異なろうとも、如何に趣味嗜好が異なろうとも、人が人に自分の思いを伝えんとするために自己の生命と能力のすべてを注ぎ込む姿、その素晴らしさだけは伝わるものと、今はまだ信ぢていたい。
昨日は自宅に帰って寝ていたので、本日朝6時に店に来た。
そして、このブログを開こうとしたのだが、ひひひ・・・開けない・・・。
もしや削除されたのでは?・・・と冷や汗・・・。
自宅に帰った時も、まずは電気のスウィッチを入れる時が、一番ドキドキする。しょっちゅう、電気を止められそうになるから。水は何度も止められているが・・・。
9時30分過ぎ、やっとアクセス出来た!!
うんもう~!!脅かしっこなしよ!!
★<前回までのあらすぢ>・・・は、前回までを読み直してネ。
「騙された!!」・・・と言う以外に、あの瞬間の、打ち砕かれたボクの心情(こころ)を表現し得る言葉は見当たらなかった。
そして、その日から、ボクの終り無き“引きこもり”の日々がスタートしたんだ。
だけど、今だからこそ、こうして言えるのは、あの体験は決して無駄ぢゃ無かったって事だ。それまでのボクは、ただ生きているだけ、勇気も知恵も無く、何の能力も持たず、更には、人生に対して何の目標も意義も見出してやしなかった。まあ、小学校4年生ぢゃあ、それが当たり前と言えば当たり前だけどさ。でも、もしあのまま、ドラヘもんと出会わずに生きていたら・・・と思うと、ゾッとする時があるって事も事実なんだ・・・。
翌朝、ママはやさしく、ボクを部屋から呼びだそうとした。
そして、その夜。今度はパパが、いつもの通り、やんわりとボクをなだめに来た。
そして、翌日はドラヘもんが、あの下品極まりない乱暴な口調で、ボクを部屋から無理矢理連れだそうとした。
「おら~!!こんのひ太のくそガキャ~!!おんどりゃ~!!なめんぢゃね~ぞ~!!出てこいこんにゃろ~!!いつまでもパパやママに甘えてんぢゃねえ!!調子に乗んなよ、こんガキャ~!!」
フン。こいつはいつもそうだ。デリカシーの欠片も無く、ただただ出てこい出てこいの一点張。ボクをまともな人間にするだのなんだの言って、そう言う手前のその口調は何だってんだ。
ある日なんかは、秘密の道具を用意したとか何とか。確か“どこにでもドア”とか言って、でっかいハンマーで壁に穴を空けようとしたり。まあ、その時はママが慌てて止めたから良かったけど。どこからでも出入り出来る様にするための、壁に穴を空ける道具の名前が“どこにでもドア”だなんて、ふざけ過ぎだよね。
でもな~・・・。あ~あ。ボクがパパやママに求めているのは、むしろドラヘもんの様な、仮にそれがいかなる動機に基づいていようが、本気でボクにぶつかる事も辞さない、強い気持ちなんだ。これも甘えの一種かも知れないけど、ボクはパパやママに、ボクに対して本気で向き合って欲しいだけなのに。それなのに、それなのに、あんな下品なロボット連れてきて、自分の手は汚さずにボクをどうにかしようなんて・・・。そうだ、そうだよ。パパは、ムスコが引きこもりだって事が会社の人にばれると自分の立場がどうだとか、ママはママで近所の人や世間様に顔向け出来ないだとか何とか・・・。ボクの気持ちより、そんなに世間体が大事なのかよ~・・・。
それから数週間後。パパもママも、時間が解決するとばかりに、もうボクを部屋から連れだそうとはしなくなった。ドラヘもんはと言えば、あいも変らず、ドアの向こうからボクに罵声を浴びせるばかりだった。
ボクは、たまに深夜にこっそりシャワーを浴びたり、扉の前に置かれている食べ物を口にしながら、毎日、漫画を読んだり昼寝ばかりしていた。でも、そのうち漫画も読み飽き、する事が無くなってしまった。そして、ある日を境にして、ボクの不満は爆発した。
まずは、ドア越しに、ドラヘもんと激しい口論を。そして、ママに漫画を買いに行かせ、ついにはパパとも・・・。
(つづく)
★一度転がりはじめたら止まらない下り坂の様に、家庭崩壊への一途をたどる、のひ家。パパとママは、引きこもりの無限地獄から、のひ太を救い出す事が出来るのか?そして、その時、ドラヘもんは?更なる地獄絵図が待つ次回。破滅へと向かうジェット・コースターに、今、飛び乗れ。
>とある女様
熱いご意見をありがとうゴザイマシタ。私も以前は、その様な考えで、数十年がんばって参りマシタ。その時の正直な気持ちは「エレクトタイムス」に綴ってありマス。
しかし、今は少し考えが変りマシタ。
(以下、本文)
そもそも、目的や用途がハッキリしているものであれば、その可否や優劣は明白なのデスが、音楽と言うものは、人それぞれ、聴いたり接する目的が異なりマス。赤子をあやす時に使う音楽、結婚式のための音楽、リラックスするための音楽、みんなで盛り上がるための音楽、それぞれに目的が異なり、それぞれに優劣がありマス。使用目的が同ぢであれば、ハサミなら切れ味の鋭い方が良いに決まっているし、手紙を書くのにマヨネーズを使うのはナンセンスです。ゆえに、写真を撮りたい私達にとって、木幡は素晴らしいカメラであっても、手紙を書きたい人にとっては、カメラで字は書けマセンゆえ、まったく無価値な存在でありましょう。
よって、私達がしなければならない事は、木幡の音楽が、どの様な目的で音楽に接している人に適しているのかを把握し、その様な音楽を求めている人に対して、木幡の良さを伝える事であり、喩えるならば、写真を撮りたい人に、ここに最高のカメラがあるよと言う事を、もっと知らせる必要があると言う事デス。そして、更に言えば、まずは、そもそも写真を撮る事の面白さを広める事から始めなければならないかも知れないのデスから、これには大変な時間と労力を要しマス。精度や性能(音楽で言えば技術と表現力)のクオリティとは、ある特定の目的のために使われてこそ意味を成すのであり、、写真を撮る喜びを知らない人に、いくら高性能のカメラを薦めても、それは無意味な事でしょう。
また、同ぢカメラであっても、報道写真を撮る場合と、家族のスナップ写真を撮るのとでは、使うカメラも変って来マス。すなわち、いくら性能が良いからと言って、万人に受入れられる訳では無いと言う事デス。プロのカメラマンより素人のカメラマンの方が圧倒的に多いのデスから、数多く売れるカメラと言うのは、性能よりも、使いやすさが重要視されマス。だから音楽も、解り易いものが売れるのデス。
あと、私はもちろん嫌いデスが、行列の出来ているものが受ける。これは悪い意味に取れば、日本人のミーハーさを批判するに値する事柄デスが、行列が出来ている料理屋ならば安心して食べられると言う意識も関係しているので、一概に非難出来マセン。
自己表現とはオリジナリティの追求であり、その善し悪しはリアリティ(本気さ)の純度で推し量られるべきであり、突き詰めれば突き詰めるほど、孤独になるのは必然なのデス。もしも、その孤独に耐えられないのであれば、他人との接点や共感し得る部分を増やすべきでありマスし、それは別に悪い事ではありマセン。もしも、こころにも無い事を言うのであれば、それは嘘デスが、野球好きな友達と会う時に、野球の話題をするのは当然の事であり、サッカー嫌いな友達の前で、あえてサッカーの話題をする事が自己表現だなんて勘違いも甚だしい事デス。
また、素晴らしくリアルな絵を描ける絵描きが居たとして、可愛い仔猫ちゃんの絵を描く人と、今にも飛びかかってきそうなグロテスクな蛇を描く人、いずれも同様に優れておりマスが、多くの人に受入れられるのは間違いなく前者でしょう。つまり、優劣以前に、取り扱う題材も大きく関係して来ると言う事デス。
音楽や芸術などの表現行為には、技術や歴史的意義と言う側面から見れば、明らかに優劣は存在しマス。しかし、個人の価値観に照らし合わせてみれば、そこには千差万別、多種多様の優劣の基準が存在しマス。
木幡の音楽は、私や貴方、極一部のファンにとって素晴らしいものであると言う事は、紛れもない事実でありマス。そしてそれは、客が100人来ようが、4人しか来まいが、揺らぐ事ではありマセン。私にとっては、100人中100人のすべての人が感動しても、自分のこころが感動しなければ、それは何の意味も持ち得マセン。また同様に、私達がいくらこころを満たされようが、それを必要としていない人達にとっては、何の意味も価値も無くて当然なのデス。
負け惜しみでは無く、経済的には確かに苦しいデスが、仮に観客がひとりでも、その人が、本当に感動したり癒されたならば、そのライヴは成功したと私は思っておりマス。
自分本意な怒りは、他人にとっては理不尽なものでしかありマセン。私達のすべき事は、同ぢ価値観を持つ人間と、ひとりでも多く出会うために、もっと知恵を絞らねばならないと言う事デス。そして、必ずしも、その人が木幡の音楽を好きになる必要はありマセン。その人はその人なりに、私達同様、自分が良いと思えるものに情熱を注げば良いのデス。スピリットは共有出来ても、趣味嗜好は人それぞれ異なりマス。私にせよ、たまたま木幡と出会い、木幡の音楽が私の嗜好にピッタリだったから、こうなってしまいマシタが、彼がスポーツ選手であれば、いかに素晴らしい技能を持った選手であっても、試合や競技を観になど行かなかったと思いマス。
私に今、出来る事は、他人がどう生きようが、自分が自分の好きな事をやり続けると言う事の楽しさをアピールする事であり、それこそが、私にとっては、自分の価値観とは相容れない世間様に対する最大のイヤミでもありマス。
それが他人から見れば、いかに下らない目標のためであろうが、また、現在持ちうる能力が如何に未熟であろうが、自分の信ぢるものに全力を尽す人を私は出来る限り応援したいと思っておりマス。私にとって、木幡が売れる売れないと言う事より重要なのは、“人に自分の思いを伝えるために、自己の全能力を注ぎ込む精神”であり、そこに理解無くして木幡が売れたとしても、単に経済戦争に勝っただけで、私にとっては、自己の価値観の戦争に勝ったとは言い難く、しかし、経済戦争に勝たない事には、価値観の戦争を続ける事さえままならないと言う現実が、現在の私の悩みであり、克服しなければならない問題点なのでありマス。
よって、結論として・・・
「だから、やっぱ、ファンの人はライヴには来てね!!来れない人はお金送ってちょ!!(^0^)/」
・・・と、結局はこうなるのデスけどネ。
(返答はここまで。3時間かかったから6千円分の価値アリ。)
最後に、マリア観音のファンの方々に・・・。
木幡の演っている音楽を必要としない人には、何を言っても無意味であるし、それを押し付けるのはファシズムでしかありマセン。しかし、これを読んでいる貴方が、木幡ファンを自称する人、すなわち、あの様な音楽を必要としているのであれば、その活動を存続させるため、誰かのためにでは無く、貴方自身のために、何かをして欲しいと思いマス。私も、まずは自分自身のためにのみがんばっており、そしてあくまでもその後に、私と同ぢ、あるいは近い価値観を持つ人達のために、がんばっているつもりデス。
それでは、以前に述べた以下のメッセージを再掲載し、文を終えマス。
人は、まず、自分のために生きなければならない。
他人のために、自分を殺してはいけない。
自分を生かすために、他人を殺してもいけない。
自分を生かす事が、他人にとって役立つ様な、そんな生き方を目指さなければいけない。
そうでなければ、生まれた意味が、この世で生きる意味が無い。
9月3日(土)、マリア観音ライヴにお越し下さった少数の方々、誠にありがとうゴザイマシタ。
翌4日は、三軒茶屋ヘブンズドアにて、いぬ屋敷「解放治療再び!」に行って参りマシタ。
そのせいか、月曜日のアクセスが過去最高の数字を記録。
つまり、「何か書け」と言う事か。
了解!!
家賃払ってからにするから、ちょっと待ってネ!!(^^)/
ぼくのゆめ
にねんさんくみ えれくとたろう
ぼくのゆめは とうきょうどーむがひゃっこはいるようなひろさの のうじょうをけいえいすることです
そして、せかいぢゅうの かわいそうなみなしごたちをあつめて そこではたらかせてあげます
もんくはききません
さからってはいけません
しぬまでです
そして そのなかでいちばんびぢんのこを ぼくのおよめさんにします
こどもがうまれたら ぼくのあとをつがせ ぼくがしんだあとも みんなをはたらかせます
だから みんなにもけっこんとこづくりをゆるします
ぼくのこどもやしそんのために よくはたらくけんこうなこどもをたくさんうんでね
それがぼくのゆめです
いや~、最近は便利な世の中になったね~。
住所や年収を教えただけで、魔法のカードが送られてきて、そのカードを使えば、まるで“うちでのこづち”みたいに、ある一定額までのお金が引き出せるんだってさ。
ウハウハ!!こりゃ使わない手は無いね。
何でも、35日おきにちょっとずつ返せば良いんだってサ。
嬉しいぢゃないの。
あ~、これで少し楽になる。
極楽極楽。
・・・んな訳ね~だろ!!
いよいよ明日、土曜日となりマシタ。
■ 木幡東介(マリア観音)・ワンマンライブ「日本絶滅動物記 其の6」
ドラム・ソロ・パフォーマンス
★山田徹美術作品(写真編)展示
[日時]2005年9月3日(土)
[会場]武蔵小金井アートランド
[住所]東京都小金井市本町1-16-6 小金井マンション1B
JR中央線武蔵小金井駅下車・南口左折直進ジャノメ通り沿い(徒歩2分)
[電話]042-383-6155
[開場]19:30
[開演]20:00
[料金]2,500円※ドリンク代別
[問合]武蔵小金井アートランド 042-383-6155(ご予約も承ります)
[主催]エレクトレコード
★お近くの方、お時間のある方は、どうぞお越し下サイませ~!!(^^)/
心が安まると書いて安心。
人は皆、安心を求めている。
言い換えるなら、居心地の良い場所、心の安らぐ場所を捜し求めて生きている。
しかし、安心とは何も、平穏な状態の事だけを指すのでは無い。
刺激がある方が安心する人も居れば、混沌なる状態に安心感を覚える人、困難な状況に立ち向かう事に生きがいを求める人も居る。
そう。必ずしも、平和好きや日和見主義者の事を指すのでは無い。
ゆえに、今の私の状況・・・
資金難、財政難、不景気、金欠・・・。
我に七難八苦を与えたもうた神に感謝。
する訳ね~だろ!!