Mr.エレクトの独り言 2005年09月07日

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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禁未来小説「ドラへもん」その15「逃避のススメ」の巻

★<前回までのあらすぢ>・・・は、前回までを読み直してネ。

「騙された!!」・・・と言う以外に、あの瞬間の、打ち砕かれたボクの心情(こころ)を表現し得る言葉は見当たらなかった。

そして、その日から、ボクの終り無き“引きこもり”の日々がスタートしたんだ。

だけど、今だからこそ、こうして言えるのは、あの体験は決して無駄ぢゃ無かったって事だ。それまでのボクは、ただ生きているだけ、勇気も知恵も無く、何の能力も持たず、更には、人生に対して何の目標も意義も見出してやしなかった。まあ、小学校4年生ぢゃあ、それが当たり前と言えば当たり前だけどさ。でも、もしあのまま、ドラヘもんと出会わずに生きていたら・・・と思うと、ゾッとする時があるって事も事実なんだ・・・。

翌朝、ママはやさしく、ボクを部屋から呼びだそうとした。

そして、その夜。今度はパパが、いつもの通り、やんわりとボクをなだめに来た。

そして、翌日はドラヘもんが、あの下品極まりない乱暴な口調で、ボクを部屋から無理矢理連れだそうとした。

「おら~!!こんのひ太のくそガキャ~!!おんどりゃ~!!なめんぢゃね~ぞ~!!出てこいこんにゃろ~!!いつまでもパパやママに甘えてんぢゃねえ!!調子に乗んなよ、こんガキャ~!!」

フン。こいつはいつもそうだ。デリカシーの欠片も無く、ただただ出てこい出てこいの一点張。ボクをまともな人間にするだのなんだの言って、そう言う手前のその口調は何だってんだ。

ある日なんかは、秘密の道具を用意したとか何とか。確か“どこにでもドア”とか言って、でっかいハンマーで壁に穴を空けようとしたり。まあ、その時はママが慌てて止めたから良かったけど。どこからでも出入り出来る様にするための、壁に穴を空ける道具の名前が“どこにでもドア”だなんて、ふざけ過ぎだよね。

でもな~・・・。あ~あ。ボクがパパやママに求めているのは、むしろドラヘもんの様な、仮にそれがいかなる動機に基づいていようが、本気でボクにぶつかる事も辞さない、強い気持ちなんだ。これも甘えの一種かも知れないけど、ボクはパパやママに、ボクに対して本気で向き合って欲しいだけなのに。それなのに、それなのに、あんな下品なロボット連れてきて、自分の手は汚さずにボクをどうにかしようなんて・・・。そうだ、そうだよ。パパは、ムスコが引きこもりだって事が会社の人にばれると自分の立場がどうだとか、ママはママで近所の人や世間様に顔向け出来ないだとか何とか・・・。ボクの気持ちより、そんなに世間体が大事なのかよ~・・・。

それから数週間後。パパもママも、時間が解決するとばかりに、もうボクを部屋から連れだそうとはしなくなった。ドラヘもんはと言えば、あいも変らず、ドアの向こうからボクに罵声を浴びせるばかりだった。

ボクは、たまに深夜にこっそりシャワーを浴びたり、扉の前に置かれている食べ物を口にしながら、毎日、漫画を読んだり昼寝ばかりしていた。でも、そのうち漫画も読み飽き、する事が無くなってしまった。そして、ある日を境にして、ボクの不満は爆発した。

まずは、ドア越しに、ドラヘもんと激しい口論を。そして、ママに漫画を買いに行かせ、ついにはパパとも・・・。

(つづく)

★一度転がりはじめたら止まらない下り坂の様に、家庭崩壊への一途をたどる、のひ家。パパとママは、引きこもりの無限地獄から、のひ太を救い出す事が出来るのか?そして、その時、ドラヘもんは?更なる地獄絵図が待つ次回。破滅へと向かうジェット・コースターに、今、飛び乗れ。
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マリア観音BBSへの書き込みに対して

>とある女様
熱いご意見をありがとうゴザイマシタ。私も以前は、その様な考えで、数十年がんばって参りマシタ。その時の正直な気持ちは「エレクトタイムス」に綴ってありマス。

しかし、今は少し考えが変りマシタ。

(以下、本文)

そもそも、目的や用途がハッキリしているものであれば、その可否や優劣は明白なのデスが、音楽と言うものは、人それぞれ、聴いたり接する目的が異なりマス。赤子をあやす時に使う音楽、結婚式のための音楽、リラックスするための音楽、みんなで盛り上がるための音楽、それぞれに目的が異なり、それぞれに優劣がありマス。使用目的が同ぢであれば、ハサミなら切れ味の鋭い方が良いに決まっているし、手紙を書くのにマヨネーズを使うのはナンセンスです。ゆえに、写真を撮りたい私達にとって、木幡は素晴らしいカメラであっても、手紙を書きたい人にとっては、カメラで字は書けマセンゆえ、まったく無価値な存在でありましょう。

よって、私達がしなければならない事は、木幡の音楽が、どの様な目的で音楽に接している人に適しているのかを把握し、その様な音楽を求めている人に対して、木幡の良さを伝える事であり、喩えるならば、写真を撮りたい人に、ここに最高のカメラがあるよと言う事を、もっと知らせる必要があると言う事デス。そして、更に言えば、まずは、そもそも写真を撮る事の面白さを広める事から始めなければならないかも知れないのデスから、これには大変な時間と労力を要しマス。精度や性能(音楽で言えば技術と表現力)のクオリティとは、ある特定の目的のために使われてこそ意味を成すのであり、、写真を撮る喜びを知らない人に、いくら高性能のカメラを薦めても、それは無意味な事でしょう。

また、同ぢカメラであっても、報道写真を撮る場合と、家族のスナップ写真を撮るのとでは、使うカメラも変って来マス。すなわち、いくら性能が良いからと言って、万人に受入れられる訳では無いと言う事デス。プロのカメラマンより素人のカメラマンの方が圧倒的に多いのデスから、数多く売れるカメラと言うのは、性能よりも、使いやすさが重要視されマス。だから音楽も、解り易いものが売れるのデス。

あと、私はもちろん嫌いデスが、行列の出来ているものが受ける。これは悪い意味に取れば、日本人のミーハーさを批判するに値する事柄デスが、行列が出来ている料理屋ならば安心して食べられると言う意識も関係しているので、一概に非難出来マセン。

自己表現とはオリジナリティの追求であり、その善し悪しはリアリティ(本気さ)の純度で推し量られるべきであり、突き詰めれば突き詰めるほど、孤独になるのは必然なのデス。もしも、その孤独に耐えられないのであれば、他人との接点や共感し得る部分を増やすべきでありマスし、それは別に悪い事ではありマセン。もしも、こころにも無い事を言うのであれば、それは嘘デスが、野球好きな友達と会う時に、野球の話題をするのは当然の事であり、サッカー嫌いな友達の前で、あえてサッカーの話題をする事が自己表現だなんて勘違いも甚だしい事デス。

また、素晴らしくリアルな絵を描ける絵描きが居たとして、可愛い仔猫ちゃんの絵を描く人と、今にも飛びかかってきそうなグロテスクな蛇を描く人、いずれも同様に優れておりマスが、多くの人に受入れられるのは間違いなく前者でしょう。つまり、優劣以前に、取り扱う題材も大きく関係して来ると言う事デス。

音楽や芸術などの表現行為には、技術や歴史的意義と言う側面から見れば、明らかに優劣は存在しマス。しかし、個人の価値観に照らし合わせてみれば、そこには千差万別、多種多様の優劣の基準が存在しマス。

木幡の音楽は、私や貴方、極一部のファンにとって素晴らしいものであると言う事は、紛れもない事実でありマス。そしてそれは、客が100人来ようが、4人しか来まいが、揺らぐ事ではありマセン。私にとっては、100人中100人のすべての人が感動しても、自分のこころが感動しなければ、それは何の意味も持ち得マセン。また同様に、私達がいくらこころを満たされようが、それを必要としていない人達にとっては、何の意味も価値も無くて当然なのデス。

負け惜しみでは無く、経済的には確かに苦しいデスが、仮に観客がひとりでも、その人が、本当に感動したり癒されたならば、そのライヴは成功したと私は思っておりマス。

自分本意な怒りは、他人にとっては理不尽なものでしかありマセン。私達のすべき事は、同ぢ価値観を持つ人間と、ひとりでも多く出会うために、もっと知恵を絞らねばならないと言う事デス。そして、必ずしも、その人が木幡の音楽を好きになる必要はありマセン。その人はその人なりに、私達同様、自分が良いと思えるものに情熱を注げば良いのデス。スピリットは共有出来ても、趣味嗜好は人それぞれ異なりマス。私にせよ、たまたま木幡と出会い、木幡の音楽が私の嗜好にピッタリだったから、こうなってしまいマシタが、彼がスポーツ選手であれば、いかに素晴らしい技能を持った選手であっても、試合や競技を観になど行かなかったと思いマス。

私に今、出来る事は、他人がどう生きようが、自分が自分の好きな事をやり続けると言う事の楽しさをアピールする事であり、それこそが、私にとっては、自分の価値観とは相容れない世間様に対する最大のイヤミでもありマス。

それが他人から見れば、いかに下らない目標のためであろうが、また、現在持ちうる能力が如何に未熟であろうが、自分の信ぢるものに全力を尽す人を私は出来る限り応援したいと思っておりマス。私にとって、木幡が売れる売れないと言う事より重要なのは、“人に自分の思いを伝えるために、自己の全能力を注ぎ込む精神”であり、そこに理解無くして木幡が売れたとしても、単に経済戦争に勝っただけで、私にとっては、自己の価値観の戦争に勝ったとは言い難く、しかし、経済戦争に勝たない事には、価値観の戦争を続ける事さえままならないと言う現実が、現在の私の悩みであり、克服しなければならない問題点なのでありマス。

よって、結論として・・・

「だから、やっぱ、ファンの人はライヴには来てね!!来れない人はお金送ってちょ!!(^0^)/」

・・・と、結局はこうなるのデスけどネ。

(返答はここまで。3時間かかったから6千円分の価値アリ。)

最後に、マリア観音のファンの方々に・・・。

木幡の演っている音楽を必要としない人には、何を言っても無意味であるし、それを押し付けるのはファシズムでしかありマセン。しかし、これを読んでいる貴方が、木幡ファンを自称する人、すなわち、あの様な音楽を必要としているのであれば、その活動を存続させるため、誰かのためにでは無く、貴方自身のために、何かをして欲しいと思いマス。私も、まずは自分自身のためにのみがんばっており、そしてあくまでもその後に、私と同ぢ、あるいは近い価値観を持つ人達のために、がんばっているつもりデス。

それでは、以前に述べた以下のメッセージを再掲載し、文を終えマス。

人は、まず、自分のために生きなければならない。

他人のために、自分を殺してはいけない。

自分を生かすために、他人を殺してもいけない。

自分を生かす事が、他人にとって役立つ様な、そんな生き方を目指さなければいけない。

そうでなければ、生まれた意味が、この世で生きる意味が無い。
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