良い言葉である。
私には、ここ数年になって、やっと実感出来る様になった事がある。それは、人それぞれ、生きる目的は違う・・・と言う事である。
ゆえに、通ぢ合えぬ者同士が居て当然、すれ違いを繰り返す者達が居て当然、めぐり合えぬ人達が居て当然、解り合えぬ人種が居て当然。
だから私は、戦争を一概には否定しない。しかし、太古の時代から、これだけ科学が発達した現在もなお、人類に流行している、人を殺し合う戦争と言うものは、非難されてしかるべきであろう。
何故なら、そもそも戦争とは、ある特定の事柄について、どちらが正しくて、どちらが優れているかと言う事の決着をつけるものであって、相手を殺してしまうと言う事は、真の解答を導き出す事が目的では無く、ただ単に武力や暴力で相手を屈服させているに過ぎないからである。
とは言え、武力や暴力を比べ合う戦争なのであれば、そのやり方(比べ方)は、目的に対して実に適した方法論ゆえ、いた仕方無いとも言える。きっと、さぞや素晴らしい、愛に満ちた人種の側が勝利を収める事であろう。
と言うのは、もちろん皮肉であるが、話を戻そう。
私のしたい戦争とは、自分が素晴らしいと感ぢる事を、他人に伝える事であり、そしてまた、他人が素晴らしいと思っている事を尊重する事である。言い方を変えるならば、唯我独尊、すなわち「みんなちがって みんないい」と言う思想の実践とでも言うべきであろうか。
よって、この思想に共感したからと言って、同ぢ目的を持つ必要も無ければ、同ぢ場所に居る必要も無く、ましてや同ぢ音楽を聴く必要などさらさら無い。私はこんな音楽が好きで、貴方はあのスポーツが好き、あいつはあの食べ物が好きで、あの娘はあちこち旅行をするのが好き・・・。
だからこそ、この広い(狭い?)地球の上で、何か接点があったと言うだけで、それは素晴らしい事であり、生命のあるうちに何かしらの思いを共有出来たとしたなら、それにまさる喜びは無いのである。
表現者とは、言わば、何かしらの思いを共有すべく、他者に対し積極的に働きかける人種の事を指す。
そして、表現者の為すべき戦争とは、力によって、他者に何かを強制するものでは無く、他者に何かを伝えた時点で、既に目的を達成したと言えるのだ。
よって、もし仮に、その表現に対して誰かが共感し、思いを共有出来たならば、それはある種、ご褒美の様なもので、それ(見返り)のみを追い求めるのは、表現者の一方的なエゴでしか無い。(求めてはいけないと言う訳でも無いが・・・。)
しかし、如何に人生の目的が異なろうとも、如何に趣味嗜好が異なろうとも、人が人に自分の思いを伝えんとするために自己の生命と能力のすべてを注ぎ込む姿、その素晴らしさだけは伝わるものと、今はまだ信ぢていたい。
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