Mr.エレクトの独り言 2005年10月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

緊Qのお知らせ!!

寒くなって来たから、風邪には注意!!

・・・なんて、当然だからして。

自販機で缶コーヒーを買う時は、ホットとコールドを間違えない様にね!!

ふむふむ。実用的なアドバイスぢゃて。

零細だもんHG(ハードなゲンジツ)!!フォ~ッ!!

明日までに30万必要なのに、その半分しか持ち合わせが無く、しかも、その後に控える支払い・支払い・支払いの、アラシ3匹。

そこで、渋谷にいそいそ出かけ、殿方と会う。

ウフ!!会っただけで3万円もらっちゃった~!!(ルンルン)

・・・てのは嘘で、例の高額レコードの残金を受け取るため、お客さんに急遽、受け渡しをする約束を取り付けたのだ。

はぁ・・・。明日の分はなんとかなった。新宿店の家賃もなんとかなる。しかし、ヤフーに支払う代金、倉庫代、自宅の家賃&契約更新料、と、地獄の支払いマラソンは続く・・・。

永遠に・・・。

レイザーラモンHGなら「フォ~ッ!!」ってな所だが、エレクトさんは・・・

「はぁ~・・・。」

・・・テナトコ。

青春パンク?

青春パンク、青春パンクって言うけど、そもそも青春なんて言う、老いた人(老人では無く)が使う言葉を用いるのはいやだし、青春ってのは、ああ言った明るく楽しい集団のものだけを指すのか?と言う疑問が常に頭から消えなかったが、ここに私が、新たに、青春パンクに代わる適切な言葉を提示しよう。

だから、今後は、ああ言うのを“青春パンク”とは呼ばぬよう。

あと、将来、この言葉を考え付いたのはエレクトさんだと言う事を、しっかり記憶しておく様に。メモぢゃあこころもとないから、PCにファイル化しておくなり、CD-ROMにバック・アップもとっておきなさいな。(うろ覚えのPC用語)

ああ言うのはね、“連帯パンク”って呼ぶべきなんだよ。

しかも、庶民が、実はお上に対する不満を発散するために集う盆踊り等とは、まったく異なる意味合いを持ってる気がしてならない。

要するにあれは、弱い者が結束するのでは無く、流行について行けない者、平均的な価値観を持たない者を選別し、排除するため、すなわち、わざわざ仲間外れを作るためにやってる、異分子差別のためのお祭りなのだ。

まあ、いつの世も、人間とはそう言うものであり、集団を作る事によって、自分達の立場や、身の安全を確保するのが常だが、そもそもパンクと言うのは、個人の主張を発表する手段であったはずであり、連帯するにしても、それは弱者や外れ者等の少数派を中心とした、虐げられている者達の反逆では無かったか?

ロックもパンクも、何でもかんでも、それが主流になると、本来の意味が変質してしまうのは何故なのだろう・・・。

もしも青春が、そこにしか無いのであれば、私は青春など要らないし、私に青春など無かったと言えよう。もちろん、ロックもパンクも不要である。

私にとって興味があるものとは、一個人の抱く思想であり心情であり、そこに自分が共感を覚えるかどうかと言う事が、最も重要なのだ。

よって、自分の存在価値を水で薄めるかの様な、集団への帰属など望まないし、そこに属している事の優越感、ましてや連帯感など、さらさら求めちゃあいないのである。

少数派虐待、弱者排除の連帯ムーブメント。

パンクに限らず、もはや音楽とは、個人の表現手段ではなくなったと言う事なのだろうか・・・。

ちょっとした雑記

家に帰ると、ポストに封筒。なんと、アパートの契約更新が今月であった。必死の思いで、4ヶ月遅れの新宿店の契約更新を済ませたばかりだと言うのに、またも2ヶ月分の家賃を払わねばならないとは・・・。

フフフ・・・。フフフフフフ・・・。

しかし、何だかんだとショックな出来事が続いたと言うのに、毎日ちゃんと仕事(出品等)はしているのだから、我ながら偉いと言うか・・・。

つうか、ちったあ休ませろ!!

とは言え、パソコンが急にグレード・アップし、仕事がしやすいったら無い。画面もでかいし、なんだか、前ほど眠くなったり疲れないと言うか、大画面に興奮してしまうのか、徹夜を通り越して、昼近くまで仕事してしまう。もちろん、後で反動が来るのだが・・・。

ここに書けないのが残念だが、GASやLSDに続き、日本の’80sパンク~ハードコアのCD化が次々予定されている様で、楽しみである。

ところで、新宿DOMも、まだ移転先が決まらない様だが、西荻ワッツも、移転先が決まらず、年内閉店するかも知れないとの事。それより、最近のライヴハウスの動員の悪さは深刻な様である。もちろん、うちも例外では無いのだが、入っている所には入っているのか?それとも、出かける人が減ったのか?

楽しみが多すぎるせいか?

と、そんな事より、なんかヤバイ!!右手の手首から肘にかけて痛い。以前はノートPCだったから、机に肘をついてキー操作出来たけど、今度のはデスク・トップPCなので、机の上が半分以上占領されているため、非常に不自然な体勢で右腕を使ってキー操作しているのだが、どう考えてもこれが原因だ!!

マズイ・マズイ・マズイ。

あれもこれもそれもどれも何もかも・・・。

マズイ!!

禁未来小説「ドラへもん」その17「偽りの愛」の巻

ああ、思い出してみれば、僕の人生は、実に無味乾燥であり、何と虚ろなものだったのであろうか・・・。

ただただ、パパやママに言われるままに学校へ行き、勉強もスポーツも、何となくこなしていただけだった。とは言え、僕の知能指数と運動神経ぢゃあ、何をやっても無駄だったと思うけどね。

それに、良く考えてみれば、パパやママに対しても、確かに、必要以上に僕にやさしく親切な人達だとは感ぢるけど、何かを与えられたり、施される事に対しても、これと言った感謝を抱く事も無く、ただ無感動に、本能の赴くままに生きていただけだった。

だから、あの憎きドラへもんと言う、ある種、肉親の愛を奪い合う兄弟の様な存在が現れた事により、初めて、自分とパパやママ、すなわち家族の絆と言うものを見つめざるを得なくなり、僕は本当に、この家の子なんだろうかって、不安な心境に陥ってしまったんだ。

でも、ついに、あのやさしいパパが、事なかれ主義の仮面を外して、本気で僕にぶつかって来てくれた。こんな嬉しい事ってあるだろうか。ウフフ・・・。やさしくされても感ぢなかった愛を、叱られて感ぢるなんて、僕って変かしら・・・。

そして僕は、ドアを開けるや、開口一番、パパに謝った。

のひ太「パパ~!!ごめんなさい!!僕が悪かったよ!!もうワガママなんて言わない。約束するよ!!僕、良い子になる!!」

「ほ~。よう言うた!!その言葉に二言は無いぢゃろうのう!!」

のひ太「えっ!?そのダミ声は、まさか!?まさか!!」

「そのまさかデ~ス!!ドォウフフ!!こんば~んわ~!!の~ひ太ク~ン!!」

のひ太「ああっ・・・!!お前は!!」

何と、そこに居たのはパパでは無く、秘密の道具で声を模倣し、まんまとパパになりすましていた、ドラへもんであった。

ドラへもん「おりゃ~!!こんのひ太のクソガキャ~!!今日こそパパさんとママさんに詫び入れさせちゃるけんの~。覚悟せい!!」

のひ太「また・・・またお前か~!!もういい加減にしろよ!!もうたくさんだよ!!もうまっぴらだよ!!もうごめんだよ!!もううんざりだよ!!もうお前のおせっかいには辟易してるんだ~!!」

僕は、生まれてこの方、これほどの激昂を覚えた事は無かった。生まれて初めて芽生えた・・・と言うか、やっと目覚めた肉親への感謝、人を愛する気持ちを、粉々に打ち砕かれたのだから・・・。

そう。僕は、怠惰な毎日、無為な日々を漫然と過ごしていながらも、こころの奥底では、実は愛情に飢えていたのだ。

そんな愛情飢餓ゆえに苦しんでいる僕を、一度ならず二度も三度も騙すなんて。

許せない・・・。ユ・ル・セ・ナ・イ~!!

のひ太「僕に・・・、僕のこころに指一本触れるな~!!」

ドタン!!ドッタンバッタン・・・ドガドガドシャ~ン!!

僕は、階段の上、すなわち2階から1階へと、ドラへもんを突き落とした。

ドラへもん「ふぎゃぶでび~!!」

ガシャン。プシュ~・・・プスプスプス・・・。

哀れ、物凄い勢いで階段を転げ落ちたドラへもんは、ボディの隙間から黒い煙を上げながら、もはやピクリとも動かない。

さすがの物音に、居間に居たパパとママも、大慌てで飛び出して来た。

そして、この一件によって、この日、ドラへもんのみならず、僕とパパやママとの関係にも、もはや修復不可能な大きな溝が生まれたんだ。

僕は、自分の運命が大きく狂い始めている事を感ぢずにはいられなかった・・・。

つづく

Mr.エレクトの「地震速報」

新宿ユニオンの地下フロアにて、オシリペンペンズの新譜を購入。

早速、店に戻り、さて、仕事の前にワン・ゲーム・・・とばかりに、新しいPCにインストゥールされている、ピンボール・ゲームをプレイ。ゲームって、無ければしないけど、あると、ついついやってしまうんだよね~。

しかも、このピンボール、なかなかに精巧に出来ており、台を揺らす事も出来、あまり揺らすとTILT(ワン・ボール失う)になると言う、実物さながらのリアルさがあるのだ。

そして、早速、ペンペンズの新譜を聴きながら、ゲーム開始。

すると、おっ!!なかなか調子良いぞえ。

パチンコ屋の軍艦マーチでは無いが、ペンペンズの性急(あわてんぼ)なリズムが、反射神経を必要とするピンボールに、実にマッチしており、もしや自己(過去)最高のスコアも夢ぢゃないかも・・・。

・・・と、そんな最中、突然の地震。ひえ~!!結構揺れてる~!!俺はピンボールしながら死ぬのか~!!って言うか、こんなに揺れたらTILTになっちゃうよ~!!(←って、ならねえよ!!)

そして、無事に地震も治まり、ピンボールの結果も、見事にハイスコアを記録。

オシリペンペンズの新譜CD「猫が見たライブ」の感想は、後日、記すとして・・・。

さあて、今日も仕事仕事・・・。

オリジナリティとは?~その④

しかし、何だね。20年近く前、キリンから“午後の紅茶”って言う飲料が発売されて、今でもコンビニに定番として扱われている大ヒット・ロング・セラー商品な訳だけど、当時、他の飲料メーカーから、あの格調高いイメージのデザインそのままに、“紅茶の季節”なんてのも発売されてたりして、それを見つけた時は大笑いしたけど・・・。更には、“紅茶の時間”なんてのもあって、“紅茶の時間”って一体?・・・。まあ、午前なんだか午後なんだか知らないが、その様な話題はいっぱいあり、コナイダのユニ黒がパクリ商法を訴えるみたいな事は少なくて、大企業同士では、そう言う事は日常茶飯事で、モラル的にも問題無い事なのかね?

ところで、逆に、ネットの世界ってのは、営利こそ目的にはしていないが、無許可で、メジャーの音楽アーティストや、アイドル・タレント等の画像や話題を平気で掲載したりするけど、これはどうなのかね?

何と言うのか、どうもこの国の人達は、金儲けに対してのみ、異常にヒステリックな反応を示すんだよね。

例え、お金を得なくたって、人の考えたアイデアやギャグで人気を取ったり、人から尊敬の念を得たりする事だって、充分問題だと思うけどね。

もちろん、明らかに誰かのギャグであるとか、どこからか引用したって事が解りきっている場合は別だけど。

そもそも、オリジナルに対しての認識が甘いって言うか、オリジナリティがあるモノに対しての敬意も無く、オリジナルなモノを尊重しようって言う感覚が無いって事が問題なんぢゃないかな?

そうぢゃなければ、そう簡単に、人のギャグなんて使えないよ。

まっ、あの世界も、この世界も、流通言語(流行している共通言語)ちゅうか、共通の価値観を持つ者しか受け入れず、独自な考えを持つ人間を仲間外れにし、排除する世界だからな。

独自(オリジナル)なモノより、みんなのモノの方が、価値があるって事だ。

自分は、そんな世界の住人の仲間になんて、絶対なりたくないけどね。

おしまい

オリジナリティとは?~その③

さて、おそらく大多数を占めるであろう意見にイチャモンをつけた所で、真意と言うか、私個人の正直な見解を述べよう。

“の真似こ”は、“に~ちゃんのアズキアイス”のパクリです。

と言うか、アレンジしたとか、オリジナリティを付け加えたとか言う、子供だましな言い訳が通用し得ない程の、完全なる盗作デス。

なんせ、猫が元ネタなのだから、形状が多少似ていても良いが、脱力感と能天気さがミックスされた、あの独特の感覚は、まさしく、に~ちゃんのアズキアイスの持ち味そのものでありマス。

そして、ここで問題とされているのは、誰の物でも無い、皆が自由に使える物なのだから、Aベックスが使用しても構わないけど、原作者を名乗って、使用する権利を独占すべきでは無いと言う点である。

ただ、作者も居なければ、権利保持者も居ない訳だから、どうなんだろうね?クリエイターとしてのモラルは問われてしかるべきではあるが、商標登録ってのは、発明と同ぢで、早く申請した方が勝ちなのかね?

更には、権利取得するよりも、作品の発表が先だったんだろうから、Aベックスは大恥こそかいたが、そもそも原作者の居ないものに盗作の罪など当てはまらず、ゆえに、法的には問題無いのかな?(この辺は知識が無いので、よく解らないし、私が述べたい主題では無いので、どうでも良い。)

しかし、やっぱ、個人の私有財産は保護されるべきだけど、空気は誰の物でも無いって事で、ある種、空気を独り占めにしようとする様な不毛な行為でしかないのだろうか?

つまり、要はある種、Aベックスが、今後もあのキャラクターを使用するのも自由だが、他社初め、誰もがあのキャラクターで商売出来るとなれば、あんまり儲からず、全然オイシク無えよな~って事だ。

まあ、だからこそ、販売する権利を独占しようとうする訳なんだろうが、Aベックスって会社(に限らず、商売人っての)はきっと、元々、オリジナルな物を創り出す能力が無いんだな。

て事はだ。我々、消費者に必要とされるのは、本物と偽物を見極める目であり、“の真似こ”に限らず、すべての創作物に対し、盗作を許さぬ厳しい姿勢で臨まなければ、いつまで経っても本物のクリエイターは迫害され続け、商売人ばかりが大手を振って歩く世の中が続くと言う事だ。

しかしまた、この問題は、論点を取り違えると、単なる大企業批判、商業第一主義批判になりかねないから、気をつけないといけない。

特に、に~ちゃんの住人は、アズキアイスは皆の物だからと言って、お金こそ得ないが、他の住人からの受けを良くするために、自分以外の誰かの創作物や流行語(に~ちゃんでの流通語)を安易に使用している様ぢゃあ、Aベックスの事を批判する資格は無いって事だ。アズキアイスの創作者が寛容なだけで、他人のふんどしで相撲を取ってる事に変わりは無いし。・・・って、営利目的ぢゃない素人なんだから、それは良いのかな・・・。

でも、流行のギャグや、他人の受け売りしか言わない人間には、魅力なんて感ぢないでしょ?

否、あえて言いたい。ギャグに限らず、自分で考える事、創る事、生み出す事をしない人間に、Aベックスの事を非難出来るのだろうか?と言うのが、私の偽らざる考えである。

とは言え、流行している物をたくさん知っている人間ほど偉くて、独自の考えを持つ者は仲間外れにされる国なんだから、仕方無えか・・・。


<追記>今調べたら、やっぱ早く申請したもん勝ちなんだな。しかし、に~ちゃんでもグッズ販売してる様だが、登録商標は出願してないのかな?

(つづく・・・かも?)

オリジナリティとは?~その②

結局の所、本当に問題とすべき点は、パクリもので登録商標を申請する企業のモラルうんぬんでは無く、それをオリジナルとして認めるか否かを決定する役所(?どこの管轄だか知らねえが)の判断基準にあると言う事だ。

すなわち、“に~ちゃんのベッド”初め、世の中の流行や、ローカルな話題等、様々な事象や事情に精通した検査官、あるいは、各分野から専門家を集めた上で、慎重にジャッジしないと、今回の様に、一部の民衆の怒りを買う羽目になってしまうのである。

ゆえに、本来は音楽にも、その様な検査機関があってしかるべきである。悪名高い“ジャス楽”は、集金(搾取)出来る対象が多ければ多いほど良いからなのか、なんでもかんでも取り扱いし過ぎだ。時には、「あ~、チミ~。この曲は“ミス散る”の○○って曲に酷似しとるから、うちでは扱えんよ」・・・なんて事を言ったって良いではないか。

★ところで、今回のパクリ問題の元ネタとされている“に~ちゃんのアズキアイス”は、言わば“作者不詳の獄中歌”(刑務所で誰ともなく歌われ始めた流行り歌)みたいなものであるが、それらにまつわる収益は、どうなってんのかね?あれは誰が使用しても良いもの(無料)なのかしら?

要するに、これこそはオリジナルであると認めうるボーダー・ライン、あるいは、どこからどこまでが模倣に過ぎない域に当たるのか?数多くの作品が世に存在し、飽和状態の現代、その辺りの線引きについて、真剣に考える時期に来ているのかも知れない。

また、如何なる天才も、無から有は生み出し得ないゆえ、オリジナリティとは、言うなれば、既にある形状・形態のものから、如何に差異を生み出し得るか、どれだけ遠く飛距離を伸ばし得たかを表すものであり、創作者における誠実度を測ると言う観点において、今後は、そこが重要な判断基準となるであろう。

昔は、適当に作ったものでも、ほとんどのものが初めて登場する訳だから、何でもオリジナルと呼べたかも知れない。しかし、現代は、蟻の這い出る隙間も無いほど、オリジナルが溢れかえっている。そう言った意味では、ある種、あらゆるアイデアやスタイルが出尽くされた現代こそ、アーティストの力量なり創造力が、真に評価され得る時代であるとも言えよう。

自己表現に必要なもの

社会的な価値を認められた人間、あるいは、こころが満たされている人間のやる自己表現なんて、面白いはずが無いぢゃないか。

極論するならば、世間からも、誰からも相手にされず、ましてや、その存在すら認められない人間が、生きている意義や意味を見出すため、あるいは、他人に、せめて自分の存在だけでも知って欲しいと、必死で手を伸ばそうとする、その行為こそが自己表現の、本来あるべき姿である。

そして、クラスの人気者が、もっと人気者になりたいと、すなわち、もっと多くの人を喜ばせたいと思ってやる行為が、エンターテイメントの本質と言えよう。

ゆえに、必ずしもクラスの人気者である必要は無いが、サーヴィス精神の無い者に、エンターテイナーは務まらない。

人を楽しませると言う事は、そう簡単な事では無く、技術以前に、その人間の持つ資質が大きく関係してくるのである。

裕福な人間のやる自己表現とは、「庭になんたらの花が咲きマシタ」とか、「ムスコがどうのこうの」と言った、てめえの幸せを分けてあげるとでも言わんばかりの、共感とは無縁な、幸福感の押し売りがほとんどだ。

喩えるならば、ゴール目指して必死に走るマラソン・ランナーと、既にゴール・インし、ゆうゆうとリラックスしている人間との、どちらを観たいか?と言う事である。

そして、そのゴール、人生において目指す目的、及びその過程、それらが自分の価値観と近ければ近いほど、人は共感し、共鳴し、感動を覚えるのだ。

ゆえに、もしも私が金持ちになったなら、あるいは、私のこころが満たされ、穏やかに生きる事が出来る日が来たならば、私は、こんな時間の無駄なだけのブログなんてさっさとやめるし、ストゥージズやジュン上久保など聴かなくなるだろう。

音楽を選ぶ基準は、音色やビートだけぢゃ無いのだ。

私は、願いを叶えようと、必死の思いで手を伸ばす人間の事が、好きなだけであり、私が音楽に、そして自己表現に求めるものは、ただそれだけなのである。

ゴールは遠い、気が遠くなる程に・・・。

なぜなら、私が、そして、自己表現者が本当に求めているものとは、実は既に失われ、決して取り戻す事の出来ない、“何か”・・・であるのだから。

懺悔の値打ち

はぁ~・・・。

昨日、口から漏れたため息の数だけ、一万円札を手に出来るのならば、俺は億万長者になっている事だろう。

やっぱ、俺が悪いのか・・・。

悪いよな。

もっと素直に行動すれば良かった。

ひねくれた行動ってのは、やっぱ理解されないものなのだなと痛感した。

気まずくなった関係を修復するのは不可能だ。

覆水、盆に返らず。

これは罰だ。

何の罪も無い子猫を、殺してしまった事に対する・・・。(←喩えだから。)

はぁ~・・・。

がんばるぞ!!

こんな事で、挫けるもんか!!

はぁ~・・・。

当分、駄目だ、こりゃ・・・。

流行好き

別に、パンクが好きな訳でも、サイケが好きな訳でも、オルタナが好きな訳でも無く・・・。

流行が好きなだけなんだね。

だから、簡単にやめられるって訳だ。

指の一本も失わず・・・。

禁未来小説「ドラへもん」その16「帰属の条件」の巻

★禁忌的タブー小説、多忙な中、待望の連載再開!!

冬の気配が近づく10月。ボクが引きこもりを始めてから、既に二ヶ月近くの時が経過していた。

ママも、最初のうちこそうるさかったけど、今では黙って食事を運んでくれている。何故なら、ある日、こんな出来事があったからだ・・・。

あれは、ボクが引きこもりを始めて、1ヶ月くらい経った日曜日の事だったろうか?その日、どらへもんは定期的なメンテナンスとかで、未来塾に帰っているらしく、ドアの外から日課の様に聞かされる説教が無い代わり、すっかりあきらめモードだったはずのパパが、激しくドアをノックし、こう言った。

パパ「のひ太!!今日という今日は、パパも堪忍袋の尾が切れた。今すぐ部屋から出てきなさい!!」

日曜日で会社が休みと言う事もあり、今日こそ決着をつけようと、いつもはあんなに優しいパパが、僕に対して、本気で怒りをぶつけて来たのだ。

正直、ボクは嬉しかった。パパもママも、ボクの事を愛してくれていると言う事は、頭では解っていたけど、何だか、本当に僕のこころに触れてくないと言うか、どこかよそよそしく、今回の引きこもりの最中も、ボクは本当はこの家の子ぢゃ無いんだと、ありもしない不安に押しつぶされそうになった夜は数え切れない程だったから。

でも、ボクの不安材料は、あのドラへもんの事だった。あいつが居る限り、ボクの、我が家の平和は有り得ないよ。

のひ太「パパ?部屋から出ても良いけど、ひとつだけ条件があるんだ。」

パパ「何だね?パパに何でも言ってみなさい。」

のひ太「ホント!?ぢゃあ言うね。もう我儘言わないから、あのドラへもんをうちから追い出してよ。そしたらボク、もっと真面目に勉強するし、パパやママの言う事も聞く良い子になるよ。」

パパ「ホントか、のひ太。ぢゃあ、約束だぞ。メンテナンス中で留守のドラへもん君には、今日限りお役ごめんと言う事で、もう来ないで良いと、未来塾の世話氏にも、そう伝えておくよ。」

のひ太「ホント!!嬉しい!!パパ大好・・・。」

嬉しさと感動のあまり、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ボクはドアの鍵を開けた。

すると、そこには・・・。

(つづく)

★傷心に暮れるのひ太を、ドアの外で待っていたのは、一体?そこは、のひ太にとって、地獄なのか?それとも天国への入り口だったのであろうか?

オリジナリティとは?

ちょっと真面目な事も書かないと、単なるビョーキの人の独り言になってしまうので、反省しつつ再スタート。

(以下、かなり仮名・変名にて書かせて頂きマシタ。あしからず。)

さて、Aベックスの、“の真似こ”問題であるが、この話題にからめて、オリジナリティとは何ぞや?と言う議題について、検証したい。

まず、個人的に言いたい事は、“の真似こ”問題なぞどうでも良いが、復帰した“鈴キアミ”の方が問題では無いのか?と言う事だ。何あれ?“歌ダヒカル”のメークに“浜ザキアユミ”の衣装?だったら中身は誰でも良いんぢゃん?

お前である必要性、お前でなければならない必然性が、何処にあんの?

<追記注釈>浜ザキアユミの衣装だったか楽曲が似てたのか、実は良く覚えてない。もう一度確認する気も起きないし、まっ、どっちでも良いか。

本題に戻ろう。そもそも、“の真似こ”がこれだけヤリ玉にあがったのは、元々、Aベックスと言う会社が嫌われていたと言う事が大きな要因である。CCDだかCCBだか知らないが、消費者をなめた事ばっかしてるから、何かあった時に、それらの潜在的な不満が爆発するのだ。

また、Aベックスの最大の失敗は、に~ちゃんのアズキアイスを元ネタにしたと言う事を公言してしまった事だ。そんなの黙ってりゃ良い事なのに、真似した事をばらしてどうする?

いつぞや、ユニ黒そっくりのロゴや販売方法をパクった商法をしている他企業があって、どう見ても・・・と言うか、子供が見ても、ユニ黒のパクリとしか言い様が無いんだけど、そっちの会社は「あくまでも“オリジナル”です」と言い張ってたもんな(・・・んなアホな!!)。その後、裁判の行方がどうなったかのは知らないけど、とにかく、真似を認めると言う事は、負けを認める事だから、本当に真似するつもりなら、絶対に元ネタをばらすべきでは無いのだ。

・・・って、真似を推奨してる訳ぢゃ無いけどね。

それに、Aベックスとしての本当の狙いは、我が国の二大生意気レコード会社である、粗ニーの「どこでもいいっしょ」の“吐露”の様に、キャラクター・グッズ業界にも進出したかったんぢゃないのかな?つうか、本当は“吐露”のパクリなのでは?って気もするが・・・。

何にせよ、真にオリジナルを標榜するのであれば、過去や現在に既に存在しているものでは無いと言う事が第一条件ではあるが、に~ちゃんの住人含め、様々な分野における専門家が、少なくとも二人、すなわち二面以上の角度から見て判断されるべきであろう。

そして、真にオリジナルと呼べるものとは、誰かに簡単に真似されてしまう様なものでは無いはずなのである。

・・・とまあ、それは厳しすぎる意見だが、逆に言えば、そもそも、完全なるオリジナルなど有り得ないとも言える。

ゆえに、実は私は、今回の、“の真似こ”騒動に関しては、“の真似こ”は、に~ちゃんのアズキアイスとは別物だと認識している。

そもそも、に~ちゃんのアズキアイス自体、誰が自由に使用しても良いと言うのだから、権利も糞も無い。もしも、大企業に利用されたくないのなら、ひとつひとつの絵柄の発案者が、“に~ちゃんのベッド(寝る)”でしか使用出来ない様に、登録商標なりをすべきだったのだ。

自由とは、水や空気の様に、いつもあるものでは無い。自由とは自らの力で勝ち取るものであり、ゆえに、守らなければ奪われるのは必然なのである。

・・・と言うのも、少々言い過ぎだが、“の真似こ”に備わっている、あの程度のオリジナリティでは認められないのであれば、今後、猫をモチーフにしたシンプルなデザインのキャラクターにオリジナルなものなど存在し得ないだろう。実際、どれほどの違いがあれば、オリジナルと呼べるのか?と言う点についても、明言されておらず、実に曖昧なのだから。

て言うか、その前に、猫が怒るよ。「俺らを勝手にキャラクター化して遊んで(稼いで)んぢゃね~よ!!」ってね。

宿命

さて、ライヴも無事に終わったし、再び、「暗い日曜日」ならぬ「暗い日記」を書くぞ!!

はぁ~・・・。と、いきなり、ため息。

しかし、どうして、こういつも誤解されるのだろうか。

と言うか、どうして私は、理解される事を避けるのだろうか。

元来の、ひねくれ者気質がそうさせると言う事もあるが、まあ、照れ屋サンなんだな(←自分で言うと、超寒いね。)。

理解して欲しいくせに、理解されそうになると、わざと、自分を解りにくく見せるのさ。悪い癖だ。

あと、これはコンビニの店長をやってた時に、客の女の子に言われたのだが、どうやら私は、いつも怒っている様に見えるらしく、「怒ってマスか?」と、単刀直入に聞かれた事があった。

そうか・・・。確かに、怒っていると言うか、いつも肉体は重いし、ましてや、こころも重い事が多いから、苦しそうな顔をしているのかも知れないな。でも、生きている事さえ苦しいってのに、ヘラヘラ笑ってられるかっての!!

・・・てな訳でも無いが、視力が悪いせいもあり、とにかく、何だか不機嫌に見えるのだろう。

はぁ~・・・。

悪いのか?俺が悪いのか?

そうか。これは罰か。

十字架を背負って、群集の中を歩けば良いのか?

傷だらけの胸の内をさらけ出して、君の前にひれ伏せば許してもらえるのか?

俺が悪かった。

許してくれ・・・。

2005年10月14日 マリア観音 ライヴ・レポート

吉祥寺シルバーエレファントにおける、マリア観音・ワンマン・ライヴ、無事に終了イタシマシタ。

お越し頂いた皆様方におきましては、ご来場、誠にありがとうゴザイマシタ。

今回は、木幡のギターもドラムも、瞬発力、爆発力共に、最高の出来だったのでは無いでしょうか?ゲストの、ガーナ出身のアフリカン・ドラム奏者、ニテテ・ウィンチェスター氏のパーカッションも、初めの1・2曲こそは、噛み合って無い様デシタが、3曲目あたりからは、コンビネーションもバッチリで、ニテテ氏の楽器は、いわゆるコンガを数個並べたアフリカン・ドラムであるにも関わらず、木幡の楽曲の邦楽的な要素が、いつも以上に顕著に感ぢられた事が印象的でありマシタ。

木幡一人のソロに見られる、妨げるものが何も無い、自己の能力の限界へ挑戦するかの様な演奏も素晴らしいのデスが、共演者が居る事によって、木幡の持つ、極めて優れたアンサンブル構築能力等、また別の魅力を垣間見る事が出来るので、今後もニテテ氏に限らず、他アーティストとの共演に期待したい所でありマス。

また、ここ数回のライヴで披露されているのが、多重録音SEによるバッキングに合わせた、エレキ・ギター及びドラム・ソロ・パフォーマンス。これらがまた素晴らしく、エレキ・ギター・パフォーマンスの方は、元々、哀愁のある楽曲であると言う事もありマスが、人間の抱く苦悩や葛藤等の感情がリアルに表されていて、いやがおうでも共感を覚えずにはおれない出来。そもそも、単音弾きによるギター・ソロと言うのは、ある程度、楽曲に支配されているとは言え、一音一音を自らの意志で選択すると言う行為の積み重ねであり、そこにはおのずと、その人間の歩んできた道筋、人生観が如実に表わされるのでありマス。ドラム・ソロの方も、ただ技術のみをひけらかすと言うのでは無く、楽曲の持つ主題や本意を最大限に生かすために、それらの技術が用いられており、ドラム等の楽器演奏経験者でなくとも、木幡の持つ、確かなテクニックに裏付けられた激しいドラム・パフォーマンスを堪能出来たのではないでしょうか。

元々、木幡は、その歌唱力と言うか、うたによる表現力が、特に素晴らしかったのデスが、ここの所、ギターやドラムが、うたに迫るかの如く、楽曲を体現しており、表現力と言うものは、やはり技術の一種であり、また、技術と言うものは、何かを表現するために用いられてこそ、初めて意味を成すものなのであると、改めて感ぢさせられた次第。

そうそう。久々に、シンバル2枚による、木幡のパーカッション・パフォーマンスも披露されマシタ。

何にせよ、そもそも奇をてらってる訳ではないゆえ、百歩譲って、楽曲にこそ、ことさら異常かつ特殊な世界を描き出している訳では無いが、それらの演奏、及び、そこに見られるパフォーマンスに限って言うならば、個人の趣味嗜好を別にして、この手の出し物としては、何処に出しても恥ずかしく無い、明らかに突出した高い水準と、世界の何処を探しても有り得ないオリジナリティーを持ち得ていると、私は断言したい。

ゆえに、この、刺激的にして洗練された表現を、もっと多くの人に観せたいと、私は切望してやまないのである。

求む!!観客、共演者、協力者、協賛者、後援者、etc。

次回は12月20日、同所にて。貴方とお会い出来る事を・・・。

問題は

自分にとって必要かどうか?

自分にとって重要かどうか?

自分にとって有効かどうか?

自分にとって有用かどうか?

だ。

ライヴ告知

パソコン復旧(機種変更)イタシマシタ。まだ、以前の様には使いこなせマセン。あと、メールがすべて消失してしまい、ほとんどの方のメアドが不明となりマシタので、返信待ちの方は、お手数デスが、今一度、ご連絡下サイませ。

いよいよ今週金曜日となりマシタ。今回は、本場のアフリカン・ドラム奏者のニテテ氏がゲストで参加イタシマス。普段、あまり耳にする事の無い、アフリカン・ドラムの真髄をご堪能下サイませ。

■木幡東介(マリア観音)・ワンマンライブ「日本絶滅動物記 其の7」
[日時] 2005年10月14日(金)
[会場] 吉祥寺シルバーエレファント
http://www31.ocn.ne.jp/~silver_elephant/
[住所] 武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話] 0422-22-3331
[開場] 19:00
[開演] 19:30
[料金] 前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合] エレクトレコード新宿店 03-3362-6181
http://www33.ocn.ne.jp/~mariakannon/
[共演] ニテテ(アフリカン・ドラム)
http://www.nii-tete.com/

皆様のお越しを、こころよりお待ちイタシテおりマ~ス!!(^^)/

結論(決論)めいたもの

長い葛藤の末に、結論めいたものが見えてきた。(暗くヘヴィな日記に、ここまでお付き合い頂き、誠にありがとうゴザイマシタ。)

要するに、どちらが上だとか下だとか、そう言った優劣を競うレース、上である事による優越感とか、下である事による劣等感、そんな下らないものには、もううんざりだって事だ。

否、もううんざりと言うよりは、私は、初めからそんなもの求めていないとどころか、忌み嫌ってさえいたのに。

自分も含め、人を見下すような人間は、その時点で最低なのだ。

それが、何の間違いか、そんな争いに荷担するはめになってしまった。

もちろん、後悔はしていないし、それが間違っているとも思わない。

だけど、それは私の望む人生では無いと言う事だ。

戦争の様に、人を殺そうが殺すまいが、とにかく、どちらが上だとか下だとか、どちらが優れているだとか優れていないだとか、どちらが強いとか弱いとか、そんな比べっこは、もうたくさんだ。

とは言え、定められたルールの元に、同様の条件でそれを競うのであれば、それはそれで意味のある事であり、そこに生きがいを見出す者も居るだろう。

だけど、ドーベルマンと、そこらの野良猫をケンカさせて、面白いのか?と言う事だ。もしも、そこに“強さ”と言う優劣を見出そうとするのであれば、猫に生まれた時点で、野良猫は失格であろう。。

しかしまた、食料を与えてくれる者がおらず、街の中で暮せと言われた時に、どちらが生き抜けるかと言えば、人間の邪魔にはならない野良猫の方であろう。ドーベルマンは、人間の手によって捕獲され、仮に新しい飼い主に引き取られたとしても、再び自由を奪われた一生を送るのみである。

マイ・ルールを押し付けて、価値観や人生観の異なる人種に勝ったところで意味無いし、ましてや、あちらのルールに合わせて戦う必要がどこにある?

結局、もっとも重要なのは、自分の望む生き方を成し得ているか?と言う一点に尽きるのだ。

私がしたいのは、“誰かと比べる戦い”では無い。

私が勝ち取りたいのは、自分で決める権利、自分で選ぶ権利、自分でつかむ権利、すなわち“自主独立”、ただそれだけなのだ。

ガイド・ブック症候群②「音楽観=人生観」(加筆訂正)

とは言え、自分にとっての音楽の善し悪しを計る基準と言うものも、決して、正確では無いと言う事を知る必要がある。

否、正確では無い・・・と言うと、語弊があるか。

要するに、なんの先入観も無く物事を判断すると言うのは、非常に難しいと言う事であり、また、音楽などの、そもそも善し悪しの基準が個人の趣味嗜好によって左右されるべきものに関しては、その結果に対する信憑性や切実度に関しても、あくまでも本人のこころの内にあるものであり、他人からは推し量れない場合も多い。

つまり、何が言いたいかと言えば、そもそも、この世に存在するすべての音楽を比べて、しかもアーティスト名も伏せ、まったく同ぢ環境でそれをリスニングした上での判断であれば、少しはそのジャッジにも信頼が置けるが、その様な事は、まず有り得ず、人は皆、まずは自己の知り得る知識の範囲、自己の人生に関わってきたものの中から優先的に選ばざるを得ないのである。

ゆえに、少しでも自分の好みにジャスト・フィットするものを探そうとする者は、現在自己の知りうる音楽以外にも、もっと(自分にとって)良いものは無いものかと、積極的に探すと言う行為をするのである。

私にせよ、極力、先入観抜きで自分のこころに正直に判断する様に努めているつもりではあるが、10代で出会った音楽、友人がやっているバンド、ジャケットが良くてたまたま買ったレコードetc・・・と、真に音楽の善し悪しのみで愛聴盤を決定しているかと言えば、必ずしもそうでは無い事も少なからずあり、また、音楽と言うのは、聴いているうちに好きになると言う場合もある。

よって、音楽とは、音楽のみの力では無く、“縁”すなわち、人生における出会いによって大きく左右されると言うのは、そこの所である。

否、それで良いのだ。もちろん、他人に何かを薦める時、あるいはプロの評論家ならば、自分の趣味嗜好は極力排して、客観的な判断基準に照らし合わせる必要があるが・・・。

だから、本質的な事以外の要素が入り込む余地があっても構わない。実際、いくら美味しい食事でも、高級レストランで喰うのと、公園の汚いトイレの中で召し上がるのでは、その味は異なって感ぢられるはずだ。

結局の所、音楽と言うのは、その音楽そのもの以外の要素も大きく加味された上で、総合的に判断を下されるものであり、ゆえに、いくら素晴らしい音楽でも、出会いのシチュエーションやタイミングで、好きになったり嫌いになったりと、実にあやふやなものであるのだ。

しかし、そのあやふやさこそが、個人個人の感性の違い、価値観の違いとして、好む音楽の違いとして表わされるのである。

それゆえ、好きな音楽を並べた時に、どこかの本で仕入れた情報だか知らないが、“良いとされているもの”“最先端とされているもの”“通好みとされているもの”“おしゃれとされているもの”ばかり並べられ、本人の人生や生き方が何も反映されていないラインナップを見せられた時、私は反吐が出る思いをするのである。

音楽の善し悪しなんて、誰かに教えてもらうものでは無い。ガイド・ブックはあくまでも入門編であり、本当に役立つガイド・ブックを作ろうと言うのであれば、選び抜かれた結果を提示するのでは無く、本当に自分に合った音楽を探す事の楽しみや、それら個々の目的を達成するための方法論の一例を提示すべきなのだ。

とは言え、ガイド・ブックに載っているCDを聴けば安心だし、個人の趣味嗜好、あげくの果てには、個人の生き方や価値観に対し、他人や世間様から馬鹿にされると言う事も無いので、そうしたい人はそうすれば良い。

そもそも、根本的に、音楽に求めているもの(生きる目的)が違うのだから、こんな事言う事自体がナンセンスなのだが・・・。

ゆえに、極論すれば、音楽観には、その人間の人生観が表わされているのだとも言える。

ガイド・ブック症候群

音楽雑誌や書籍、最近はネットなんかでも、“良い音楽”とされているものがたくさん紹介されている。

それを参考にしてレコードやCDを買ったり、聴いたりすれば、いわゆる一般的に“良い”とされるものを知る事が出来る。

だけど、いつまで経っても、本当に“自分の好きなもの”を見つける事は出来ない。

世間様から見て、恥ずかしくない趣味・嗜好、恥ずかしくないレコード・CDライブラリー、恥ずかしくない知識・認識、恥ずかしくない生活・人生。

もうたくさんだ!!

“自分が無い”と言う事以上に、恥ずかしい事なんてあるものか!!

そんなものは、私の望む人生では無い。

好きか嫌いかは、自分で決めるさ。

もうがまんできない!!

しかし、一般的な基準とは異なるものを陶汰するのが世の中の常。

だからと言って、いかなる“ものさし”をあてがわれようが、恥ずかしがる必要も無ければ、悲しむ必要も苦しむ必要も無いのだ。

親や世間に頭をなでなでしてもらうために、自分の人生を犠牲にして、何が面白い?

もう耐えられない!!

無難な人生、安全な人生、健全な人生、立派な人生。

もうまっぴらだ!!

地球を捨てよ宇宙に出よう

下らねえ!!

幸せを感ぢたい人は、アフリカの飢餓地帯に行くなり、低額所得者の集まる所へ行けば良い。

幸せそうに見える人々が集まる場所なんかへ行ったり、テレビやなんかでそんな場面を見るからいけないのだ。

よく、宇宙飛行士は、宇宙空間から地球を見ると、その後、地球へ戻ってから、悟りを開いたかの様な状態になると言われているが、別に宇宙なんて行く必要なんか無いのだ。

自らのこころを、この狭苦しい地球から、重力のある地上から、比較によってしか幸せの度合いを計れない思考から、解き放てば良いのだ。

そうすると、見えてくる。

私達を縛るものは、この寿命ってやつだけなのだ。

そんな短い人生を、一体、誰のために、何のために生きるのか?

もちろん、他人に迷惑をかけたり、親を悲しませる事は良くないかも知れない。

だがしかし、自分の子供が、優秀な家畜になる道を選ぶ事を喜ぶような親であれば、そんな親とは縁を切れ。

親は親で、子供を家畜にする様な教育をするんぢゃない。

人間を家畜扱いする様な、人間を粗末に扱う様な世の中では、人殺しなんて無くならない。

人を一人殺すのは、本当は大変な事なのだ。

マスコミも悲しんでばかりいないで、もっと怒ったらどうだ?

「また人殺しがありマシタ。・・・まったくなんて事しやがるんだ!!ふざけんな!!人を殺す様な奴はぶっ殺すぞ!!(←本末転倒)」・・・と。

桜が咲いたり散ったりするのとは、訳が違うのだ。

馬鹿な親の居る家なんか出ろ!!ロボット製造工場でしかない学校なんて行くな!!人を家畜扱いする会社なんてやめちまえ!!そんな所に居る限り、一生、人間になんかなれないぞ!!

・・・な~んちゃって。全部冗談だよ~ん。(^^)/

でも、更につづく・・・。

もう、こんなふざけた地球(ほし)なんか出て行こう!!

宇宙ロケットを創るんだ。

こころの内にあるスペース・シャトルで、頭の中の宇宙へ向けて旅立とう。

さあ、みんなついて来い!!

3・・・2・・・1・・・FIRE!!

・・・そして、ふと振り返ると、そこには誰も居ない。

気がつくと、私は、窓に鉄格子のある病院のベッドに寝かされていた・・・。

(おしまい)

幸せが自分の首を絞める

身分不相応な高級バッグを持つのは、どうのこうのって言うぢゃな~い。

でも、人間の値段が安いんだから、高級なバッグでも持たないと、どうしようもないデスから~。

と言う訳で、何だか、人間としてある程度のランクに位置づけられようとすればするほど、ある一定の基準に沿おうとすればするほど、色々なものを買わされたり、お金を使わされる気がするのは何故?

人間としての尊厳を買うのか?

人間としてのプライドを買うのか?

人間である事の証明書を買うのか?

人間である事の喜びを買うのか?

何でもかんでもお金で買える。

何でもかんでもお金で解決。

何でもかんでもお金を徴収。

何でもかんでもお金を搾取。

幸せになるにはお金が要る。しかし、お金があるだけでは幸せにはなれない。お金を使って幸せを買うから、幸せが手に入るのだ。

ゆえに、幸せこそが、お金を奪う元凶。

幸せを買えば、お金が無くなる。

お金が無ければ幸せにはなれない。

何かを買い(買わされ)続ける限り、決して幸せにはなれない。

幸せこそが、幸せを奪う元凶。

前向きな逃避

そもそも、大多数の支持を得ているからと言って、自分にとっては何の価値も見出せないものであれば、私にとっては、何の価値も無い訳で、もちろん、少数に支持されているものも同様であり、私にとって、どうなのか?と言う事が重要なのである。

なのに、経済の戦争に参加せねば、楽しみを持続出来ないゆえに、大多数・・・とまでは行かないが、数を増やさなければならないと言うのは、非常に矛盾する話である。

数が多かろうが、少なかろうが、どちらが偉い訳でも無い。

・・・否、目的が同ぢであれば、そこには優劣が顕在するが、こと自分のこころの満足度、充実度、幸福度と言う面から計るならば、他人が何人集まろうが、そんな事は全く関係の無い話なのである。

俺は、他人を喜ばすために生きているんぢゃ無い。

否、他人を喜ばせる事は嫌いぢゃないし、むしろ好きかも知れない。

しかし、自分を喜ばせる事も出来ない奴に、他人を喜ばせる事が出来るだろうか?俺はそんな自虐的な人間では無い。

俺は・・・と言うか、人は、自分を喜ばせるために生きているのだ。

そして、その次の段階として、自分を喜ばせる行為が、他人をも喜ばせる事が出来るとなれば、それに勝る喜びは無いであろう。

自分が喜べない状態では、他人なんて喜ばせられるはずが無い。

自分を犠牲にして、他人を喜ばせる事は、一見、美談に見えるが、そんな事は無い。

私は、他人の犠牲の上に成り立つ幸せや、他人を苦しめてまで喜びを得ようとは思わない。

誰かが誰かを支配する場所に、共存共栄など無い。

自立していない人間は、他人と関わったり、集団に属するべきでは無いのだ。

いくら泳ぎが達者でも、溺れる者を救おうと川に飛び込み、共に溺死するのがオチだ。

以下は、大嘘である。

何度でも言うが、私が望むのは、誰一人として悲しい思いをする事の無い社会であり世の中である。そしてそれは、ひきこもりも、人殺しも、テロリストも、戦争国家の親玉も、金持ちも貧乏人も、知恵遅れも片輪も、エリートも落ちこぼれも、白人も黒人も、分け隔て無くすべての者においてである。

そして、それを実現するためには、まずは自分を喜ばせなければ何事も始まらない。

また、自分を喜ばせると言う事とは、楽をするとか怠けると言った、後ろ向きな行為によってもたらされるものでは無い。

それは、あくまでも、前向きな生命維持行為によってもたらされるべき種類のものなのである。

今、私が見せなければならないのは、数が少なくて苦しむ姿では無く、数が少なかろうが多かろうが、自分の楽しみを追い求める姿であり、そこに喜びを見出す姿である。

自由が自由を・・・

人間の抱く夢ほど、下品で醜いものは無い。

もちろん、当人にとっては、それが如何に美しく、清らかなものであろうとも。

他人から見れば、夢なんて個人の欲望を美化したものに過ぎず、しかし、だからと言って、私はこれを否定している訳では無い。

夢を持つのは個人の勝手。

夢を見るのは個人の自由。

夢を叶えると言う事は、その当人の価値観から見て、他人より幸せになろうとする事。他人よりも多く得ようとする事。

自由が自由を阻む。

自由が自由を奪う。

自由が自由を狭めていく。

不自由になる自由。

不自由なる自由。

不自由な自由。

理不尽な悪循環

大人になる意味

自分の意志で、自由に物事を決定出来ると言う事が、大人の醍醐味である。

大人とは、そうする事の出来る基準と、能力を持っている者の事を指す。

私は、そのために、早く大人になりたかったし、親元を離れたかった。

それなのに、現在、現実には全然自由では無い。

否、自由を求めれば求めるほどに不自由になって行くかの様だ。

まったくアホらしい悪循環である。

そもそも、金で何かを買うと言う事自体が間違いなのだ。

なぜなら、金を支払うと言う事は、自分以外の誰かに何かをしてもらう事であり、額が大きくなればなるほど、自分以外の他人が関わるパーセンテージが高まるのだから。

だから、自分でやるべきなのだ。

もちろん、人生は短いのだから、足りない点を補うために、他人の力を借りる事もたまには必要だが。

自分一人で生きる覚悟の無いまま、他人を頼るからいけないのだ。

人は一人で人間足るべきであり、その一人が、別の一人と力を合わせる事によって、もっと大きな事が出来るのだ。

子供が何人集まっても、何にも出来ない。

そこには必ず、一人の大人がやってきて、子供らを支配しようとする。

だから、一人一人が大人になって、初めて集団を形成すべきなのだ。

人生の意味なんて、誰も教えてくれない。何故なら、人生に意味など無いゆえ。

だから、自分で決めるしか無いのだ。

そして、自分で決めたならば、すべて自分で、その責任を負うのだ。

それがいやなら、ずっと子供で居る事だ。

思いこみ

結局の所は、誰しも、ある一定の範囲内、期間内で、決定しているに過ぎない。

もちろん、それが悪いと言っている訳では無いが、そこに究極の真実があるかと言えば、無い。

すべては偶然と、ある程度の必然によって成り立っている。

「これしかない」と思うのは早合点に過ぎない。

しかし、先にも述べた様に、人間の能力や寿命は限られているゆえ、これは仕方の無い事なのだ。

だから、その限られた時間と空間の中で出会ったものを大切にすると言う事は、決して間違いでは無い。

そして、現状に満足出来ず、その枠を広げようとする事も、また良し。余裕のあるものは、そうすれば良い。

ある時点で決めるのもオッケーだし、死ぬまで求め続けるのも、その人の勝手。

また、人それぞれ、生まれ育った環境も、受け継いだ血も違うのだから、嗜好や指向が違うのも結構。

それを比べてとやかく言うのも、これまた自由。

他人がどうあれ、問題は自分である。

人と比べて楽しいか?人より多くて嬉しいか?

喜びや楽しみ、幸せや満足の基準は、自分の中に無いのか?

人より劣れば不幸か?人より無ければ不遇か?人より欠ければ不具か?

ジャングルの奥地に行けば、芋虫でも何でも喰うのか?

貴方自身に基準は無いのか?

十代は重大な時期

そしてまた、こうも考える。

人の人生と言うか、生きる目的、求めるものと言うものは、十代においてほぼ決定する・・・と。

もちろん、多少の個人差もあるだろうが、やはり十代の頃、すなわち感受性豊かと言うか、感受性むき出しの頃に受ける刺激と言うのは大きいものだ。ゆえに、人は、十代の頃に楽しく感ぢた事、嬉しく感ぢた事、面白く感ぢた事、気持ち良く感ぢた事を、その後も追い続けていく事になるのである。

だから、好奇心を満たす事によって快感を得たものは、いくつになっても好奇心に基づいて行動し、何かひとつの事を一生懸命やる事に喜びを感ぢたものは、そのように。また、ひとつの目的を達成する事に満足を見出したものは、それを目指し、安定した道なり、親の望む道を生きる事で幸せを感ぢるものは、そのように・・・・と、ある種、十代の頃に親や周りの環境によって決定づけられた方向性を基に、二十代以降は、それを自分の力で手に入れるための能力を身につける時期なのではないだろうか。

だから、私には、自分はこれが好きでこれが嫌いだと言う考えはあれど、自分と異なる価値観を、ことさら批判するつもりは無い・・・と言うか、昔はあったが、最近は無くなった。犬は犬だし、猫は猫なのであるから、同ぢである必要など無いのだ。十代の頃の環境は人それぞれ違うのだから、人生の目的は違って当然。むしろ、「こう生きるのが正しい」なんて言い出した日には、それはファシズム以外の何物でも無い。

要は、「自分はこう生きる」「自分はこう生きるのが好きだ」と言えるだけで良いのだ。そこに共感を得られたなら、それはそれで嬉しい事ではあるが、「俺は違う」と言う意見もあって当然。むしろ、無いとおかしい。

とは言え、今の世の中、ある特定の生き方が大多数を占めると言う事も知ってはいるが、これに関しても、疑問を差し挟む余地は無い。支配者や独裁者が嫌いな私は、誰よりも、支配者や独裁者の気持ちが良く解る。

力のある者とは、世の中を自分の都合の良い方向に変え、人々に、ある一定の目的を持たせる事が出来るのである。

まわりを見渡せば、ガキ大将はガキ大将のまま、優等生は優等生のまま、大人しい子は大人しいまま、落ち着きのない子は落ち着きのないまま、みんな十代の頃から変ってない。

子供の頃、自分以外、自分の能力以上の力によって多くを得てしまったものは、成人してからが大変だ。

だから、子供にはあまり贅沢させてはいけないと言う意見ももっともではある。

夢は小さく、欲望は少なく。そうしないと、理想と現実とのギャップに押し潰される事になる。

しかし、良くも悪くも、世の中を変えるのは、そう言った人間の欲望であるからして、難しい問題ではある。

飼い主としては、ほどほどの夢、そこそこの欲望を持たせるのが肝要であろうか・・・。