だから、今後は、ああ言うのを“青春パンク”とは呼ばぬよう。
あと、将来、この言葉を考え付いたのはエレクトさんだと言う事を、しっかり記憶しておく様に。メモぢゃあこころもとないから、PCにファイル化しておくなり、CD-ROMにバック・アップもとっておきなさいな。(うろ覚えのPC用語)
ああ言うのはね、“連帯パンク”って呼ぶべきなんだよ。
しかも、庶民が、実はお上に対する不満を発散するために集う盆踊り等とは、まったく異なる意味合いを持ってる気がしてならない。
要するにあれは、弱い者が結束するのでは無く、流行について行けない者、平均的な価値観を持たない者を選別し、排除するため、すなわち、わざわざ仲間外れを作るためにやってる、異分子差別のためのお祭りなのだ。
まあ、いつの世も、人間とはそう言うものであり、集団を作る事によって、自分達の立場や、身の安全を確保するのが常だが、そもそもパンクと言うのは、個人の主張を発表する手段であったはずであり、連帯するにしても、それは弱者や外れ者等の少数派を中心とした、虐げられている者達の反逆では無かったか?
ロックもパンクも、何でもかんでも、それが主流になると、本来の意味が変質してしまうのは何故なのだろう・・・。
もしも青春が、そこにしか無いのであれば、私は青春など要らないし、私に青春など無かったと言えよう。もちろん、ロックもパンクも不要である。
私にとって興味があるものとは、一個人の抱く思想であり心情であり、そこに自分が共感を覚えるかどうかと言う事が、最も重要なのだ。
よって、自分の存在価値を水で薄めるかの様な、集団への帰属など望まないし、そこに属している事の優越感、ましてや連帯感など、さらさら求めちゃあいないのである。
少数派虐待、弱者排除の連帯ムーブメント。
パンクに限らず、もはや音楽とは、個人の表現手段ではなくなったと言う事なのだろうか・・・。
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