Mr.エレクトの独り言 2005年11月05日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

極私(獄死)的音楽論(改定版)

昨日は、風呂に入るために自宅に帰ったのだが、風呂を沸かす間、テレビに“三嶋あい(色々と怖いので仮名)”が出ていた。

しかし何だよ、あの歌は。薄っぺらい内容に、レベルの低すぎる歌唱力。あれのどこが良いのか、全然、まったく、さっぱり解んないよ。

ところで、私は何も、売れてるから駄目だとか言う価値観の下に、文句を言っているんでは無いと言う事を念押ししておく。最近はどうだか知らないが、初期の宇多田ヒカルやUA(ウーア)に対しては、歌心を感ぢた事だしな。

確かに、以前は、オリジナリティと言うものに極度にこだわった価値観を持っていたが、それはオリジナリティを最も重視する人や、その分野において能力を発揮する実力、あるいは自信がある人がそうすれば良いだけの話。それを、すべての人に当てはめる必要は無い。

喩えるならば、手作りのチョコレートでは無くとも、朝から並んで限定販売のチョコを買うなり、必死でバイトしたお金で高いチョコを買ったと言うなら、その趣味嗜好は別として、それはそれで評価に値すべき事柄であるとも思うのだ。(・・・とは言え、限定品や高価な品に価値を見出している訳では無いと言う事は言わずもがなである。)

繰り返しになるが、私は、人間のこころが、より多く、出し得る限り注ぎこまれているものが好きなだけであり、そしてそれは、その人間が、ある一定の目的のために命を削った量によって推し量られるのである。

よって、どうしても、こころの奥底で死を求める者、すなわち、生きたくてたまらないのに、生きるのが苦しくてたまらない人間の創る作品であったり、表現を好きになってしまうのだ。

ゆえに、申し訳無いが、三嶋あいの歌には、感動や共感どころか、精神の無意識下ですら、何の反応も起こし得ないどころか、ふつふつと湧き上がるのは、ただただ怒り、あるいは虚しさのみなのである。

また、その番組では、三嶋が幼少期を過ごしたと言う(育てる親が居ない子供を預かる、孤児院に近い)施設でのライヴの模様も取り上げられ、三嶋の不遇な生い立ちを殊更アピールし、お涙頂戴の過剰な演出によって、更に視聴者の感情を煽ろうとの目論見が丸見えであったが、残念な事に、それらのエピソードをもってしても、私には、何らこころの振動をもたらす事はなかった。

しかし、三嶋の歌は、何故、かように薄味なのか・・・?

これにはいくつかの理由が考えられる。

一つには、施設暮らしをしていながらも、三嶋は充分な愛情(施設の大人や、同ぢ境遇の子供達同士の)を受けており、物質的な不足や、多少の不自由はあれど、こころは満たされていた事が考えられる。これなら話が早い。何らかの表現行為をする者とは、満たされず欠けたままの、あるいは傷つき打ちひしがれた己がこころに空いた穴を埋める事が究極の目的なのであるからして、平穏なこころの持ち主には平坦な表現しか出来なくて当然なのである。

そしてもう一つ。それは、こころが未成熟、すなわち感情を司る神経が未発達である場合。あるいは精神的に、何らかの理由で感情を表に出す事が出来ないか、技術的にそれが上手で無い事等が考えられる。

しかし、やはり最も有力なのは、三嶋が、自ら幼少期に自身のこころを固く閉ざしてしまった、あるいは、外部(他人)からの何らかの要因によって、こころが完全に死んで(殺されて)しまった状態にある場合だ。思い過ごしかも知れないが、三嶋の瞳を見て、私には、何故かその様にも感ぢられたのである。

とは言え、同情こそすれど、三嶋の歌が私のこころに届かないと言う事実には変わりはない。

私は、死人の歌になど興味は無い。私は、生きたくて(死にたくて)たまらない人間の歌にこそ共感を覚える。ただそれだけの事なのである。

そして今日も明日も、地獄の子守歌に、我が耳(こころ)を傾けるのだ。

いつの日か、こころ穏やかに死んで行ける日を夢見て・・・。
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