Mr.エレクトの独り言 2005年12月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

広島パンク~ハードコアの歴史⑧

さて、ザ・スターリンのSTOP JAPツアー、広島ウッディ・ストリートにおけるライヴの5日後である、1982年8月4日、広島市青少年センターにて、LIVE SQUARE QUEST主催による、「第一回 無名人コンサートS」が行われた。

★当日のチケット。(諸事情により、実際には無料コンサートとなったはず。)
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出演は、主にQUESTで行われていた「無名人コンサート」出演アーティスト達で、ゲストには、“ライスボール”と言うバンドが出演したのだが、これはいわゆる社会人バンドか、あるいはセミ・プロのバンドだったと思う。ハード・ロックっぽいバンドだったのかな?まったく覚えて無いよ。以下に出演者を列記すると・・。

<出演(演奏内容)>スティル(マイケル・シェンカー・グループ他)、MUSE(ラウドネス等)、マドンナ(ARB等)、REACTION(THE MODSのみ)、クライスト(ハウンド・ドッグ、キャロル、サザンオールスターズ)、ネーヴィ(J,L&C、柳ジョージ)、ロックンロール(ブレイン・ウォッシュ・バンド、THE MODS「ゴキゲンRADIO」、横浜銀蝿)、内海しげる(オリジナル)、ペンギンバンド(山下達郎)、ママポリス(不明?)、Johnny Blue(アナーキー、ARB、THE MODS「ゴキゲンRADIO」)、THE STOIC(RCサクセション)、尾行された子供バンド(子供バンド等)、LSD(ザ・スターリン)、THE CHARISMA(オリジナル、THE CLASH、HEARTBREAKERS、R・ストーンズ)。

まあ、へヴィメタとか、どうでも良いバンドの解説は省略するとして、上記を見ればTHE MODSの「ゴキゲンRADIO」が、パンクと言うよりは、ヤンキーや不良のアイテムであった事が解って頂けるだろうか。その点、REACTIONは、ファッションに至るまで、ストイックなまでに、THE MODSの完コピをしており、ヤンキーには無い、生真面目さが伺われる。

THE STOICは、恥ずかしながら筆者のバンドで、演奏終了後に司会者とのやり取りがあるのだが、キヨシローの影響もアリ、「俺はスターだ、俺は神だ」と、現在の謙虚な筆者とは思えぬ暴言を吐きまくり、多数の観客から「帰れ」コールを浴びると言う栄誉(?)に与った。キャッ!!恥ずかち~!!

ヤブキとナカガワのLSDは、それまでのTHE MODSのコピーから、ザ・スターリンのコピーへと、レパートリーを総入れ替えしたのだが、以下、その曲目を当時の資料に基づいて記すと・・・(カッコ内は筆者注釈)。

STOP GIRL、STALINIST(←アーチスト?)、MISER、爆裂(バースト)ヘッド、ロマンチスト。

「STALINIST」が「アーチスト」であったかどうかについては、記憶が無いのだが、他がすべて「STOP JAP」からの曲であるのに、何故、ここで「アーチスト」なのか、謎である。この日、ヤブキとナカガワは、何とかって言うスプレーで、ライヴ用に、髪の毛を金髪に染めていた。何にせよ、LSDは、筆者の初めて観た、スターリンのコピー・バンドと言う事になる。

以前にも紹介した、THE CHARISMA(カリスマ)については、後の歴史にも登場するが、代野と言う男がヴォーカリストで、オリジナルの他には、クラッシュのコピーやジョニー・サンダースの「チャイニーズ・ロック」等をレパートリーとしており、おそらく、THE MODSやロンドン・パンクに触発されて、オリジナルを作る様になったのだと思われる。ただ、筆者にとっては、THE MODSは、3rdアルバム「LOOK OUT」がパンク・ロック色の薄い作品だった事もあり、当時は既に、そのスタイルが古臭く感ぢられたのも事実であった。

その夜は、QUESTで打ち上げがあり、当日のライヴを収録したビデオを観た記憶があるが、現在、そのビデオは誰が持っているのだろうか?持ってたら、筆者の出演部分は永遠に消去して欲しいものだ。(・・・でも、ちょっと観たい気もする、自虐的なボク・・・。)

更にその後、電車が無くなり、確か“ロックンロール”のメンバーの家に、ヤブキ、ナカガワと共に泊めてもらった。

そして、高校3年の3学期を迎え、しょせんヘルプ的な一般生徒はバンドから抜けて行き、この日の出演者の中から、新たなバンドがいくつか再編される事となる・・・。

(つづく)

★左が、出演者用のセッティング図及び演奏曲目掲載台本。右が告知フライヤー。
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振り返ってみると・・・

結局のところ、私自身が、権力を持ち得ないがゆえ、虐げられているがゆえに、裕福な人間よりも、自分と似たような人間を応援してしまうのだが、よく考えてみれば、そんなものが長続きするはずが無いのだ。

そもそも、裕福な人間とは、自分の持っている何かを削ってまで、誰かを応援したりなんかしない。

彼らは、ただ、“買うだけ”である。

札束の詰まった財布から、あるいは、桁数の多い残高が記された口座から、ただ一枚の札を抜き出すのみなのだ。

しかし、受け取る者にとっては、その値段のみが重要であり、その額面こそが、自由を獲得するために必要な権利であり、権力である事も、また事実。

そんな現実の中で、一体何が出来るのか。

やめるにも、あきらめるにも中途半端。

否、中途半端と言うのも、自分がそう思っているだけに過ぎず、元々、何も“起きていない”し、“起こせなかった”とも言える。

裕福な人間にとっては、私達持たざる者が競い合い、奪い合い、罵り合う姿を見て、まるで地獄の釜の蓋を開けた様な光景だとでも思うのだろうか・・・。

不毛・・・。

生れた時から不毛。

否。生れる前から、何世代も前から不毛。

何代か前の先祖から、既に不毛。

誰もが、その不毛さから、少しでも逃れようと必死なのである。

だから、趣味や生きがいの無い者は、自殺するか、犯罪を犯し、更に誰かを傷つける。

この世は、お金さえ払えば、少々の気晴らしや現実逃避は出来る様になっている。これも皆、この地獄を作り上げた支配者様の、寛大かつ、徹底的な管理体制による恩恵(怨刑)であろうか。

もはや、力無き者が結束しての、一揆なんて有り得ない。

ただし、勘違いしてもらっては困る。

もしも、私が裕福な人間であれば、自分の幸福を最優先に考え、虐げられている人間を更に抑圧し、搾取し、更に自分の私腹(至福)を肥やそうとするであろう。

何故なら、裕福さを維持する事も、そうそう楽では無いのだ。

音楽やスポーツ、その他の何かに感動しても、決して自分の立場を危うくする程、のめり込んではいけない。かと言って、裕福な者は、少々のめり込んだところで、それが原因で自分の人生を危うくするほどには貧しく無い。ゆえに、むしろ、何に対しても全力で取り組み、自己の限界を試す事も出来る。

ああ、何と素晴らしいのだろう。やりたい事がたくさん出来て、しかも死ぬまでやり続ける事も許される。自分の能力を最大限に生かす事も可能であり、ありとあらゆる可能性にもチャレンジ出来る。ああ、こうして想像しただけでも、何と素晴らしい人生が送れる事だろうか。一度で良いから、そんな生き方をしてみたいものだ・・・。

裕福とは、お金をたくさん持っている事のみを指すのでは無い。どれほど自由であるか、その度合い、範囲、限度において判断されるものなのである。

しかるに、持たざる者は、数ある中から、どれか一つを選ぶしか無い。

しかも、どれを買っても、その収益は、裕福な者を更に裕福にするために吸い上げられるのみである。

だから、それがどんなに高級な料理であろうとも、いかに優れた音楽であろうとも、裕福な人間が作ったものなんて、私は一切、興味が無い。

何故ならば、私は裕福(自由)になりたいのであって、裕福(自由)な“気分”を味わいたい訳では無いのだから。

脱奴隷的音楽論(2009年10月3日改訂済)

一握りの資本家や資産家を除き、その他多くの人間の一生は、彼ら支配者に搾取され貢物を捧げ続けるためにある。

それはまさしく、牛や馬同様、言うなれば家畜か奴隷の如き扱いであろうか。

生きるためにはお金が要る。一歩外に出れば(出なくても)、なけなしのお金を使わせようと、ありとあらゆる商品や娯楽が私達の潜在意識や欲望を刺激する。

趣味のみに没頭して生きるには、お金や時間がいくらあっても足りない。

あるいは、まともに結婚し子供が出来たら、今度は血族繁栄(奴隷を繁殖させる)のために色々とお金がかかる。

限られた財産、すなわち労力(肉体X時間)を切り売りして得たわずかな報酬さえをも、更にもぎ取った上に、将来の労働力さえ確保しようと言う訳だ。

そして、そこから抜け出ようとする者は、昇級する(支配者階級に転ぢる)ために更に人生(財産や労力)を費やし、命を削り、ますます泥沼にハマって行く。

また、ある程度見込みのある奴は、支配者からいくばくかの小銭や肩書きをもらって買収されてしまう(・・・それにせよ、実際には、ただ単に、奴隷達の班長的存在に抜擢されると言うだけの事であるが)。

そんな世の中にあって、音楽とはしょせん娯楽であり、現実逃避の道具でしか無い。

しかも、その道具を買うため、すなわち音楽を聴くにも演るにも、お金がかかる。

だから、本来音楽は無償で供給されるべきであり、音楽でお金を稼ぐべきでは無いのだ。

何故なら、音楽を換金する事が出来るがゆえに、音楽よりお金の好きな奴が音楽の世界に土足で入り込んで来るからである。

そしてその結果、この世において真に素晴らしい音楽とは、人々からお金をたくさん回収出来る音楽であると言う認識、及び価値観が生れるのだ。

貧乏人・・・と言うか、己の肉体以外に資本を持たざる者は、余程の才能があるか強運が味方しない限り、どうあがいても奴隷階級を脱する事は出来ない。せいぜい支配者の傀儡として、お金を回収する役割を与えられるのが関の山である。

裕福な人間が更にお金や名誉を得るために音楽をやったところで、一体誰のこころを打つと言うのだ。

私達、奴隷階級(虐げられた者達)のこころを打つ音楽は、奴隷(虐げられた者)からしか生れ得ない。

ゆえに、音楽で世の中の仕組み(資本者階級による支配体制)、すなわち資本者階級のこころは変えられない。

革命とは、世の中が変わるのを待ちわびる事でも無いし、ましてや支配者階級がこころを悔い改める事など未来永劫有り得ない。

だとすれば、私達音楽好きには、純粋に音楽に夢中になる事以外、他に生きる道は無い。

お金を使う事以外に喜びを見出さない限り、奴隷に人権は無い。

革命とは、奴隷階級である私達が支配者階級に奉仕させられるためのみに植え付けられた価値観を疑い、奴隷自身が“己がこころを改める”事である。

奴隷は奴隷であるがゆえに奴隷なのでは無い。奴隷的状況や立場に服従し隷従しているがゆえに、奴隷なのだ。

人は、自分の生き方を自分で決めない限り、決して人間にはなれない。

禁未来小説「ドラへもん」その26「自由の意味」の巻

恐れていた事態が、遂に訪れた。パパとママの不仲は深刻で、とうとうママが家から出て行ってしまったのだ。

「んもう!!パパの甲斐性無し!!」

ボクは、その元凶である自分の行状を棚に上げ、パパのだらしなさに対して不満を募らせていた。

そして、その日の深夜。いつもは用意してあるはずのボクの食事などあるはずも無く、食卓の上には一個のカップ麺がポツンと置いてあるのみであった。

「ええっ~!!この、のひ太様の食事が、こんなチンケなカップ麺一個だって言うの!?」

しかし、文句を言っても始まらない。ボクはお湯を沸かすと、部屋で一人、カップ麺をすすった。

ああ・・・。昔は良かった。なんで、このボクが、こんな惨めな思いをしなくちゃならないんだ!!

別にカップ麺が嫌いな訳ぢゃない。インスタント食品世代のボクには、慣れっこだもん。

それに、ボクは何も、高級料理が食べたい訳でも無ければ、贅沢な暮らしがしたい訳でも無かったんだし・・・。

ママが去り、ボクに残されたのは、料理の出来ない、使えないパパと、この狭い部屋の中だけの、ほんのわずかな自由だけ。

いや、違う!!ボクには、自由すら無い!!

・・・そう。本当の自由とは、“やりたい事を自由にやる事が出来る”権利であり、能力の事だ。

今のボクにあるのは、言わば“何もしなくても良い”自由であり、すなわち、それは単なる義務の放棄であり、責任逃れであり、現実逃避でしかなかったんだ。

ボクは、ただ生きているだけ・・・。

死ぬ勇気が無いから、ただ惰性で生きているだけなのさ。

(つづく)

責任10大ニュース

さて、色々なバンドの近況みたいなものを・・・。

①「あざらし」
ギターが抜けて活動休止中であったが、最近、新しいギタリストも見つかったそうで、来年はまた東京に来てもらいたいものデス。当店でも扱っておりマシタ、4曲入りCD-R「蛆蟲の復讐」、2曲入りカセット・テープ「白痴」は、共に完売イタシマシタ。新メンバーが加入する前の、アコースティック・ユニット等による新曲を、少し聴かせて頂きマシタが、相変わらず、リアルな“うた”とドラマチックな曲展開に、パンク・ロックの持つ激しさが違和感無く同居した、実に素晴らしい内容デシタよ。いぬん堂キャンペーンの特典DVD-Rに、後に記す中学生棺桶と共にライヴ映像が収録されている模様。

②「オシリペンペンズ」
遅くなりマシタが、CD「猫が見たライブ」が発売になりマシタね。ライヴ録音ゆえ、音質はそれほど良くありマセンが、ライヴを観た事のある方ならば、その光景を思い出し、未見の方ならば、思わずライヴへ足を運びたくなるのではないでしょうか?私を含め、スタジオ録音盤を期待した方は、おあずけをくらった気分デスが、やはり、「来る人は見れる、来ない人は見れない」って事デスね。「サイケデリックに、やりすぎなんか無い」と言う歌詞が、特に印象に残りマシタ。現在、当店にて、CD-R「尻にはさまないCD(黒アルバム)」(¥500/残少)、 ビデオ「大阪国立天然大学卒業制作」(¥1500)を販売中。そろそろ売り上げの精算と、追加の入荷をお願いしないといけマセン。オシリペンペンズに、やりすぎなんか無い!!

③「中学生棺桶」
ライヴ会場のみで販売の、9曲+空桶3曲入りMD(!?)「君に問う。精神至上は精神異常なりや?」(¥1000)、DVD-R「おまえのゆめにさようなら」(¥1500)を、当店のみ特別に許可を頂き販売中。MDに関しては、とにかく暗い、徹底的に暗い、特に歌に関しては、おそらく世界一暗く陰鬱なのではなかろうか。そしてその演奏は、個人の欲望を美化しただけの安易な流行や軽薄な大衆に対しての怒りと、リアルな批判精神に満ちた歌詞と共に、怨念で塗り込められた呪いの鉄仮面の如き様相を呈しておりマス。また、彼らの奏でるドゥーム・ロック・サウンドにでは無く、その反主流的な精神性に共鳴するバンドも増えてきており、その点についても注目に値する所でありマス。(画像参照)

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④「男のマロンズ」
キコリレコードより発売された、カセット・テープ作品「マロンズの激情」(¥480)。「情けなくも、ラブリーなモラトリアム中年ロック!」をキャッチ・フレーズとする、3人組ロック・バンド。私見では、エンケン、割礼、テレヴィジョン、裸のラリーズ、等を思い起こさせる、ゆるやかなサイケデリック・サウンドによる“うたもの”って所だろうか。ソロでも活動中の、キャラの立ったヴォーカリスト、宇宙ダコ氏は、アメフラシレーベルと言う自主レーベルもスタートさせるそうデス。

⑤「ウイルスレーベル」(自主レーベル)
ホンマモンの中学生、ドクドク社長主催による自主レーベル、ウイルスレーベルから、各種作品が届いた!!詳細は後日・・・。

⑥その他
カラード・ライスメンのギタリストでもある中島レイカ氏在籍の、カトレナのCD「カトレナロック」(¥1800)を初め、いぬん堂作品各種、キャプテン・トリップ・レコードの日本人アーティスト作品各種、SKY STATION/SS RECORDINGS作品(店頭では一部のみ)、等を販売中。

⑦「マリア観音」
新作CD-R、各種DVD-R、廃盤CDの復刻CD-R、他、詳細は後程お知らせイタシマス。

ぢゃあ、またネ!!(’。’)/


★実は、半分消えちゃって、新たに書き直したのだ。ぐっすん、疲れた・・・。(:。;)

続・報復の加虐~反逆のススメ

「法を無視してまで・・・」と書いたが、時には法を破ってでも、何かをしなければならない時もある。

・・・と言うか、法に対する抵抗や反逆も、時には必要って事だ。

法は法を守るためにあるのでは無い。人と人とがうまくやっていくためにあるべきだ。ゆえに、特定の誰かや、ある一部の人間達を優遇するためだけにある様な法律に隷従する必要など無い。

ふと、もし自分が、殺された被害者の身内だったらと考えると、もう、怒りのあまり涙が込み上げ、きっと、何としてでも犯人を探し出して、自分の手で殺すだろうと考えた。(←あくまでも想像なのに、本気になる奴。)

要するに、現行法における犯人の処遇方法には、満足など出来っこないって事だ。

確かに、あだ討ちだとか仕返しが許される・・・否、むしろ、そうしないと末代までの恥だとされる時代よりはマシなのかも知れない。しかし、現在の、私的制裁を許さず、国家が代表(代行)して刑罰を処すやり方は、ただ単に我々、被支配階級から、理不尽な支配体制に対する反逆の牙をもぎとるためにあるのではないだろうか?・・・と言う気さえして来た。

もちろん、冤罪だとか、色々な問題もあるだろう。しかし、私には、“法自体が犯罪的”では無いか?と思える事が、たまにあるのだ。

動物はそれぞれ、人間から見れば残酷極まりないとさえ思える生態を持っていたりするが、彼らにとっては、それが自然かつ当然ゆえ、その在り方は潔く、美しい。

しかし、何故に人間は、わざわざ“法”などと言うものを作り出さねば、秩序が保たれないのであろうか。

人間と言う生き物にとっての、本来の美しさとは?

そう考えると、支配欲と、それを実現する力のある者が、そうでないものを“法”によって隷従せしめている、この現実。被支配階級である私から見れば、あまりにも理不尽で醜いとさえ思えるこの現状こそが、人間と言う生き物の至極当然な在り方であり、美しい姿なのかも知れないな。

フフフ・・・。実に面白い・・・。





・・・て、冗談ぢゃ無え!!

仮にそれが、人間としてのまっとうな在り方だとしても、そう簡単に納得(屈服)なんて出来るものか!!

ライヴ告知!!

★この記事は、ライヴが終了するまで、常に最新のエントリーとして表示されておりマスが、実際には、以下にも記事更新がなされておりマス。

いよいよ明日となりマシタ。今回は火曜日デスので、お間違え無く!!

■木幡東介(マリア観音)・ワンマンライヴ「日本絶滅動物記 其の8」
[日時] 2005年12月20日(火)
[会場] 吉祥寺シルバーエレファント
[住所] 武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話] 0422-22-3331
[開場] 19:00
[開演] 19:30
[料金] 前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合] エレクトレコード新宿店 03-3362-6181
[共演] ウィンチェスター・ニテテ(ガーナ・トラディショナル・マスター・ドラマー)

★皆様のご来場、こころよりお待ちイタシテおりマス!!(^^)/

報復の加虐

ある掲示板の書き込みから、いやな事件を思い出させるサイトを目にするはめになった。

弱いものや、“弱いとみなされている”もの、抵抗する事の出来ない、たったひとりの人間を、大勢がよってたかって虐待する事は、とても醜い行為である。

・・・が、しかし、それが人間に備わった本性である事も、また事実。

あの凶悪犯人どもを、遺族がやるならまだしも、無関係な者が法を無視して殺したり、正義の怒りに燃える大衆が数にまかせて、社会から葬り去ろうとすれば、こちらもやつらと同罪(同類)になってしまう。

目には目を、歯には歯を?

しかし、復讐を成し遂げた所で、死んだ者は生き返らないし、今後、悲しい出来事が減ると言う訳でも無い。

あれだけの凶悪犯罪を犯しておいて反省もしないのだから、殺すしか無いと言う意見にも一理ある。が、しかし、それで何が解決するのだろう?

結局は、ただ一方的に、“正義”なるものが尊守され、大衆の怒りが収まり、ほんの一時、溜飲を下げるだけではないだろうか。

本当に大事なのは、2度とあの様な事件が起こらぬ世の中にすると言う事だが、さて、どうしたものか。

命を奪わないまでも、人を騙し、利用し、搾取し、見下す人間は大勢居る。

そんな中で、大勢の人間を敵にまわし、「でも、ぼくはしない」と、何人の人間が胸を張って言えるだろうか?

まともな人間が悲しい思いをして、狂った人間が大手を振って歩く様な悲喜劇を減らすためには、せめて法律を改正するぐらいの事しか出来ないのが現実であろう。

本当は、法律などで規制しなくても、個人個人が、多数意見に惑わされぬ様に努め、自分の欲望をきちんとコントロール出来れば、それに越した事は無いのだが・・・。

強い者の側につくと言う事だけで、貴方も私も、加虐者側の人間と同類なのであると言う事を、常に忘れずにいたい。

ゲームの功罪

細かい事は解らないが、青少年の凶悪犯罪を防止するために、大人が無理矢理、なんたらとか言うゲームを、子供が買えない様にするらしい。

私は、ゲーム世代でも、ゲーム擁護派でも無いが・・・

アホか!!

はけ口を奪ったら、本当に人を殺すしか無くなるぢゃねえかよ!!

ゴルゴ13才

しかし、おかしな話である。

もしも、今、幼児虐待や、子供を殺す映画を作ったら、間違い無く上映禁止か上映自粛の憂き目に遭うであろうが、何故に「ゴルゴ13」は、テロリストであり人殺しであるにも関わらず、いつの世も、何のお咎めも受けないのか?

「ルパン3世」は、貧乏人からは盗まないし、人も殺さないから良いとして、確かに、ゴルゴの標的となるのも、世界的に重要な人物や、何かいわくのある人間だったりするが、それはあくまでも報酬が桁外れゆえ、依頼人が限定されているからで、彼は、自分の身の安全を守るためならば、遂行すべき業務とは無関係な民間人も平気で殺すであろう。・・・とは言え、そもそもがプロゆえ、無駄な労力を極力排除するため、余計に人間を殺さねばならないシチュエイションにはならぬ様に努めはするだろうが・・・。

そう言えば、うろ覚えだが、あまりに遠距離からの狙撃のため、現実では有り得ないと言う事で無罪を勝ち取ったエピソードがあった様な気がした。そうか、ゴルゴは超人であるため、物語に現実味が薄く、更には、誰も真似出来ない、高等技術を要する芸当ゆえ、おそらく、あれはある種の“SF”であると言う解釈から、許されており、また、英雄視さえされているのだろう。

そう考えると、同ぢ人殺しでも、弱い者を殺したり、子供を殺したりする様な漫画であれば、倫理的にも道徳的にも許されないのはもちろんだが、一番に問題なのは、取り扱う題材よりも、それに影響を受けて真似をする(真似の出来る)人間が現れる事であろう。

トナルト、あらかぢめフィクションであると謳っている漫画や映画よりも、むしろ現実のニュース報道の方が問題ではなかろうか?否、どちらの方が悪いとは言わないが、ここ数年の凶悪事件や劇場型犯罪の殆どは、マスコミによる過熱気味の事件報道にも、その一因がある事は否めない。

これはあくまでも、私の主観であり、おぼろげな考えだが、昔は、“人を殺す”と言う事は大変な事で、物理的にも精神的にも、そう簡単に人は殺せなかった様な気がする。しかし、近年の情報社会においては、“人は殺せる”し、“人は人を殺す”と言う事が、日常化している様に思える。真実を報道する事は、事故や犯罪から身を守り、自衛すると言う点では必要かも知れない。しかし、その報道が原因で、犯罪者を増やしてしまっては、元も子も無いのではないだろうか?

幸福な人間や、熱中するものがある人間は良い。しかし、出口が見つからず苦しんでいる様な人間にとって、人殺しや犯罪と言う、最悪な“解脱のヒント”を教えてしまう様な報道のあり方は、非常にマズイのである。

“人は殺せる”と言う事実が認知され、“人は人を殺す”事が日常化している時代とは、すなわち人殺しが珍しくない時代である。

・・・と言う事は、要するに、“人殺し”に対しての罪悪感や嫌悪感も薄いと言う事だ。そんな時代に、「人殺しはいけない」なんて、いくら声高に叫んでも、まったく意味の無い話である。

しかし、“自分より弱い者を殺す事”は、“愚劣極まり無く、人間として最も恥ずべき行為である”と言う事は、殺人事件における犯人の動機を詮索したり、事実関係を事細かに報道する事より先に、人々に強く訴えるべきであろう。

もちろん、それが人間、引いては生命体の、本質的な特性であろうとも・・・。

要するに、“法律を守る事”以前に、“恥を知る事”に重きを置くべきであると、私は考えるのである。

・・・そう考えると、その逆に、“人殺し”や“犯罪”さえしなければ何をしても良いのだと言わんばかりの世の中に、救いなど無いと言う事も、自ずと理解出来ようと言うものだ。

禁未来小説「ドラへもん」その25「裸の王様」の巻

「フン!!ファミコンなんてばからしくてやってらんないよ!!」

ボクは、そう言うや、ファミコンを壁に投げつけた・・・。

・・・そうさ。君の予想通りさ。ゲームに飽きたんぢゃない。ボクは、自分の、あまりにもな反射神経の無さ、根気の無さ、意志の弱さに、我ながらあきれかえっていた。

ボクは何をすれば良いの?・・・。ボクは一体、何のために?ボクの生きてる価値って一体・・・。

しかし、そんな人間らしい感情、こころの葛藤も、アニメ「起動戦士ダンガム」の始まる時間になると、すっかり忘れてテレビに夢中になっている単純なボクなのであった。

ウフフ・・・。ボクって、純真でしょ?

ところが、そんな自堕落な日々が、そう長く続くはずもなく、ついに、破局の第一幕が切って落とされた・・・。

その日の深夜、久しぶりにシャワーを浴びようと、こっそりと1階に下りたボクは、居間の電気がまだついている事に気がついた。そして、ドア越しに、声がした・・・。

パパ「のひ太か・・・。そこでいいから、パパの話を聞きなさい。今日、ママがうちから出て行った。お前も、こんな生活をいつまでも続けてたらどうなるか、自分で良く考えなさい・・・。」

なんと弱々しい声だろう。こんなパパの声を聞くのは初めての事だ。それより、それより、ママが出て行ったって!?そ・・・そんな・・・!!

ボクの最大の不安は、今、まさに現実となった。ボクは猛烈な不安に襲われ、シャワーを浴びる事も忘れ、呆然としたまま、自分の部屋に戻った。

ええ~!!ママが出て行ったら、食事は誰が作ってくれるの!?

と言うか、この王国での暮らし、理想郷の如き楽園における、ボクの将来はどうなっちゃうの!?

・・・否。元より王国など無かったのだ。この部屋にあるもの、電灯も机も、テレビもパソコンも、毎日与えられる食事も、すやすや眠れるベッドも、何もかもすべて、そう、何もかもすべて、ボクが自力で手に入れたものなど、何一つとして無いぢゃないか。すべてはパパやママが買ったものであり、ボクを幸せにするために、頑張って働いて手に入れたものばかりなのだ。

・・・そう。王国どころか、ボクはまだ、自分自身の力で生きてさえいなかったんだ。

ボクはただ、単に、“生かされていた”に過ぎないのだ・・・。

(つづく)


★ついにママが家を出た!!のひ太は、終わり無き“ひきこもり”天国、そして家庭崩壊の地獄から抜け出せるのか!?

・・・だが、悪夢は、そう簡単には覚めないもの。

こころは急には腐らない。こころは、・・・こころは序々に腐るのだ・・・。

とりあえず予定メモ

①中学生棺桶の会場売りオンリーの品を、特別に当店でも販売させて頂く事になりマシタので、その詳細。

②死神企画のライヴを観に行ったので、その件。

③GASの東京での再結成ライヴ。とても良かったッス~!!

④広島パンクの歴史は全10回から全20回に変更。

⑤12月20日はマリア観音のワンマン・ライヴがありマス。

⑥「疑問」について検証する。

禁未来小説「ドラへもん」その24「虚しき焦燥」の巻

どうしよう、どうしよう・・・。

パパとママのケンカを見てからと言うもの、ボクは自分の将来に暗雲が立ち込め始めた事を意識せずにはおれなかった。

こんな気分の時には、ネット・サーフィンをして、もっと不幸な人や、精神を病んでいる人のブログでも読んで、優越感を得るか・・・。

ボクは早速、パソコンの電源を入れると、慣れた手付きでマウスを動かし、お気に入りのサイトを巡ってみた。

でも・・・。

駄目だ!!皆は、どんな苦しい状況の中でも、愚痴こそこぼすものの、何とか出口を、答えを見出そうともがいていると言うのに、このボクと来たら、何もせず、何も考えず、何の行動も起こさず、ただただ生きて・・・否、ただただ生かされているだけぢゃないか。

そう。ボクには・・・。

ボクには、何も無い。

もしもママが出て行ったら、そしてパパがボクを見放したら、この先、ボクはどうやって生きていけば良いのかしら・・・。

それに、実は、何度か掲示板やチャットにも参加して見たんだけど、漫画を読むにもアニメを見るにも、何をするにも浅く、薄く、うわべをなぞるだけのボクの様な人間は、何処に行っても馴染めず、誰とも話が噛み合わず、結局、ネットの世界でもつまはぢき・・・。

ボクが生きている意味って一体・・・。

そうだ!!

ボクは、押入れの奥から、埃を被った箱を取り出した。その箱の中身はと言えば・・・。実は、誕生日に買ってもらったにも関わらず、ほとんど遊ぶ事無く仕舞われたままであった、スーパー・ファミコンであった。

「ゲームなんて子供っぽくてやってられない」と言ったのは、実は大嘘で、本当は、ボクのあまりにもなゲームの下手さ、反射神経の無さ加減をスネトに馬鹿にされ、その悔しさから、ゲームを批判にする事によって、自分の安っぽいプライドを保っていただけなのだった。

そして、ボクは一念発起した。

「よ~し!!今日から毎日特訓し、世界一のゲーマーになってやる。」

今思えば、死にたくなる程に下らない目標であった。しかし、その時のボクには、何かに夢中になる事でしか、のしかかる黒い不安から目をそらす事すら出来ない状態だったのである。

・・・だが、その決意も虚しく、やはりすぐに挫折し、三日坊主でファミコンにも飽きてしまう、救いようの無いボクなのであった・・・。

(つづく)

好きも嫌いも相手次第

しかし、いやな事件が多いデスな・・・。

今後、生活レベルの低い在日外国人は、ますます迫害される事でしょう。

ところで、うちのアパートの隣人も、いつ人を殺すか解らないので、おっかないのデス。なんせそいつは、目が二つあって、鼻の穴が二つ、口一つに耳が二つ、手足が二本ずつある上に、指が五本ずつある生き物なのデスから。何でも、そいつは“人間”と呼ばれている生き物らしいデスけど・・・。

それと、実はコナイダ初めて気づいたのデスが、うちのアパートの二階にも、人間ってやつが潜伏しておりマシタ。やはり、警察に通報した方が良いのでしょうか?

人間は、いつ人を殺すか解らないデスものね~・・・。ウフフ。

そう言えば、高校生が同級生をメッタ刺しにしたそうで。いや~、これまた何とも、いたたまれない事件でありマシタ。

しかし、面白いデスよね(←不謹慎、しかし真剣)。確かに、自分に好意を持ってくれる人間を好きになると言うのは、通常良くある事デスが、相手が自分の事を嫌いだと知るや、自分も相手を嫌いになると言うのは。

“自分の事をどう思っているか”と言う点を評価の対象に加えてしまって、本当に正しい判断が出来るのでしょうか?・・・とは言え、可愛いから好きになったとか、性格が良いから好きになったと言うのも、主観的かつ一方的な価値基準による判断ではありマスが・・・。

好意には好意を、敵意には敵意をって事でしょうか?

とは言え、男性と言うものが、同時に複数の女性を好きになれる理由は、最終的には狙った獲物を手に入れ、自分の種をより多く蒔く事が目的だからデスが、女性と言うのは受身的ゆえ、保険をかけると言うか、その気も無いくせに、常に複数の男性の好意を自分に集めようとイタシマスからな。

男性はコウイ(行為)を求め、女性はコウイ(好意)を求めると言った所でしょうか?

どちらの立場に立つかで、善悪の基準が180度逆転イタシマスが、本当の意味で“罪”なのは女性の方・・・なんて言うのは、男性側の勝手な言い分でしょうかね~・・・。

死がもたらすもの<改定版>

ここんとこ忙し過ぎデシタ。書かねばならない事も色々あるが、次の店番の日にしよう。

さて、私は、このブログを始めてから、物事を頭の中だけでおぼろげに思い浮かべるのではなく、思念を言語に変換し、記録して行く事よって、強烈に芽ばえた意識がある。

それは、「何故に人は死ぬのか」と言う、我ながら、今更考えた所で無意味だと解りきっていると思える程の愚問である。

そもそも、すべての苦悩、葛藤、不安、怒り、困難、不幸、悲しみは、“人はいつか必ず死ぬ”と言うタイム・リミットがもたらしているのではなかろうか。

いかなる人間も、“死”、すなわち“無に帰せしめられる宿命”から逃れる事は出来ない。死後の世界を信ぢる者は別として、命に終わりがあるからこそ、その短すぎる人生の間中、人は焦り、奪い、争い、殺し合うのだ。

ゆえに、私は、この“死”と言う現象を、憎んでさえいるのである。

例え、それが如何なる現実であろうとも、そんな理不尽な仕打ちを黙って受け入れられるはずがあろうか!!

誰が一体、この様な“悲しみの根元”を、人間、そしてすべての生き物に備え付けたのか?

だが、ふと想像して見る。死の無い世界を・・・。

もしも、生き物に、“死”、すなわちタイム・リミットが無ければ、どうなるだろうかと?

一見、誰もが自由に好きな事をやり、いつまでも楽しく暮らせそうな気もする・・・。

が、しかし、期限が無ければ、いついつまでに何を達成しなければならないだとか、あげくの果てには、食事を摂るための最低限の努力であるとか、何らかの生命維持活動すら、してもしなくても良い訳で、その様な危機感の無い状況で、何かをしようと言う意欲なり、目標が芽ばえるだろうか?

そうなると、人間は、良くてナマケモノ、そして何億年か後には、もはやアメーバの様な、生きているのだか死んでいるのだか解らない様なものになってしまうのではないのか?

否。それはそれ、アメーバならアメーバなりに、生きている事に対する充実感なり幸福感があるのなら話は別だが・・・。

そう考えると、この理不尽な“死”と言うものこそが、“生命”に輝きを持たせ、自ら人生に意味を求めんとする意志を芽ばえさせているのだとも言える。

と、同時に、不安定なこころに死神の如く忍び寄る、「どうせいつかは死ぬんだ」と言う厭世観、及び“死”、すなわち“無限に続く、完全なる無”に対する拭いきれない恐怖、更には、不意に訪れる虚無感・・・。

しかし、そこから逃れる術も、最近、おぼろげながらに解ってきた。

欠陥人間にとって、この世は、ニンとも生きにくいのでゴザルよ・・・。