それはまさしく、牛や馬同様、言うなれば家畜か奴隷の如き扱いであろうか。
生きるためにはお金が要る。一歩外に出れば(出なくても)、なけなしのお金を使わせようと、ありとあらゆる商品や娯楽が私達の潜在意識や欲望を刺激する。
趣味のみに没頭して生きるには、お金や時間がいくらあっても足りない。
あるいは、まともに結婚し子供が出来たら、今度は血族繁栄(奴隷を繁殖させる)のために色々とお金がかかる。
限られた財産、すなわち労力(肉体X時間)を切り売りして得たわずかな報酬さえをも、更にもぎ取った上に、将来の労働力さえ確保しようと言う訳だ。
そして、そこから抜け出ようとする者は、昇級する(支配者階級に転ぢる)ために更に人生(財産や労力)を費やし、命を削り、ますます泥沼にハマって行く。
また、ある程度見込みのある奴は、支配者からいくばくかの小銭や肩書きをもらって買収されてしまう(・・・それにせよ、実際には、ただ単に、奴隷達の班長的存在に抜擢されると言うだけの事であるが)。
そんな世の中にあって、音楽とはしょせん娯楽であり、現実逃避の道具でしか無い。
しかも、その道具を買うため、すなわち音楽を聴くにも演るにも、お金がかかる。
だから、本来音楽は無償で供給されるべきであり、音楽でお金を稼ぐべきでは無いのだ。
何故なら、音楽を換金する事が出来るがゆえに、音楽よりお金の好きな奴が音楽の世界に土足で入り込んで来るからである。
そしてその結果、この世において真に素晴らしい音楽とは、人々からお金をたくさん回収出来る音楽であると言う認識、及び価値観が生れるのだ。
貧乏人・・・と言うか、己の肉体以外に資本を持たざる者は、余程の才能があるか強運が味方しない限り、どうあがいても奴隷階級を脱する事は出来ない。せいぜい支配者の傀儡として、お金を回収する役割を与えられるのが関の山である。
裕福な人間が更にお金や名誉を得るために音楽をやったところで、一体誰のこころを打つと言うのだ。
私達、奴隷階級(虐げられた者達)のこころを打つ音楽は、奴隷(虐げられた者)からしか生れ得ない。
ゆえに、音楽で世の中の仕組み(資本者階級による支配体制)、すなわち資本者階級のこころは変えられない。
革命とは、世の中が変わるのを待ちわびる事でも無いし、ましてや支配者階級がこころを悔い改める事など未来永劫有り得ない。
だとすれば、私達音楽好きには、純粋に音楽に夢中になる事以外、他に生きる道は無い。
お金を使う事以外に喜びを見出さない限り、奴隷に人権は無い。
革命とは、奴隷階級である私達が支配者階級に奉仕させられるためのみに植え付けられた価値観を疑い、奴隷自身が“己がこころを改める”事である。
奴隷は奴隷であるがゆえに奴隷なのでは無い。奴隷的状況や立場に服従し隷従しているがゆえに、奴隷なのだ。
人は、自分の生き方を自分で決めない限り、決して人間にはなれない。
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