何故なら、それが如何に世間の基準であったり、正義、良識に基づいた行いであったとしても、“自分のやりたいと思う事”をする限りにおいては、しょせん、自己の欲望に動機づけられているに過ぎず、ただ、その欲求の方向性が、たまたま、現代における“良し”とされる風潮、あるいは“理想”とされる姿に一致したに過ぎないのではないか・・・と、ふと思った次第なのである。
誰かにやらされているのであれば、奴隷にしか過ぎない。
かと言って、自己の価値観に恂ずるのも、単に利己主義に過ぎない。
自己の欲求、欲望、願望さえをも否定しなければ、本当の反逆とは言えないのかも知れない。
否。自己の欲求と言うが、それは本当に、生命体が本来持ちうる、やむにやまれぬ欲求なのであろうか?
人間は、知らず知らずのうちに、何か大きな機械の中の、一本のネジか歯車になっているだけではないのか。
“人間”であるがゆえに、“命”に限りがあるゆえに、“自由”の名の下に。
そして、更に、“隷従”する事を避けるがゆえに・・・。
人間である限り、如何に反逆しようとも、部品である事からは、逃れられない宿命なのだろうか。
自分を殺す事無く、人間である事を拒絶する事は出来ないものか・・・。
否。そもそも、本当の“自分”なんて無いのかも知れない。
ただ“生かされて”いるうちは・・・。
人間が行うあらゆる行為は、すべて“返答”にしか過ぎない。
真に“自己”のみから、あるいは、完全なる“無”から生れるものなど何も無い。
ピノキオになりたい。
意志を持ったピノキオに。
鉄の意志を持ったピノキオに・・・。
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