「なんて卑怯な!!ケシカラン!!」とか、
「許せない!!」
・・・などと言う人は居ない訳で(居るかもしれんが)、なのに、何で人間に対しては、あれこれと注文をつけたり、異なる考えの持ち主に対して、怒りの感情が芽ばえるのであろうか。
その人間が、自分に危害を及ぼすならともかく、積極的に関わらなければ良いだけの話ではないか。
とは言え、直接関わらなくとも、この世に存在するものは、無意識のうちに、それぞれがそれぞれに何らかの影響を及ぼし合っているがゆえ、必ずしも、「関わらなければ良いだけ」とも言い難い問題なのではあるが・・・。
ところで、昔の自分を思い起こすと、「駄目な奴は死ねば良い」と、本心から思い込んでいた様な気がする。
今、考えれば、何とも驕った思想であり、「自分を何様だと思っているんだ!!」ってな話であるが、いやはや、変われば変わるものである。
・・・と言うか、「自分の駄目さを棚に上げて、何を言っとるのか」って話でもあるが・・・。
「生きる権利」・・・なんて、もっともらしい言い方をする気は無い。
しかし、どんな駄目な奴でも、間違いなく、「生きたい」と願っているのである。
その気持ちを、一体、どこの誰が踏みにぢる事など出来ようか。
それも、「自分の価値観とは相容れないものは許せない」と言うだけの、一方的な理屈や感情で・・・。
また、強い者であれば、他人を蹴落とすなり、見下す事によって、優越感を得る事も出来ようが、弱者の立場からすれば、親を恨むか、社会を呪うか、他人を嫉むか、あるいは自分を憎む事でしか、自己の存在意義を保つ事が出来なくなってくる。
「憎しみは何も生み出さない」とは言うが、実際、憎しむ事でしか、命をつなぐ事が出来ない人間も居るのだ。
そして、憎しみから生まれた表現を、美しいと感ぢてしまう自分が、ここに居る。
それはおそらく、“憎しみ”の奥底に、その生き物の本能から発っせられる、“生きたい”と言う、“切実なる声”を聞くからであろう。
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