Mr.エレクトの独り言 2006年07月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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禁未来小説「ドラへもん」その37「破局の朝」の巻

闇討ち、あだ討ち、暗殺者の夜。ボクは、いつも通りの儀式を終えると、この日は何故か、夜が明けぬうちに眠りに落ちた。ここの所、根をつめてパソコンに向かいっ放しだったから、流石に少し、疲れがたまっていたのだろうか・・・。

翌朝。ボクは、爆弾が破裂するかの様な大きな音に、目を覚まされた。


バギグッ!!ドゴガガァ!!!!!


「うわあ!!何だ何だ!?」

ボクは一瞬、自分の身に何が起こったのかを、知る事すらままならなかった。

ふと目をやると、部屋のドアがぶち壊されており、ボクは、何者かに首根っこをつかまれたまま、部屋から引きずりだされ、階段を引っ張り降ろされている自分に気が付いた。

「なんだよ~!!何するんだ!!痛い!!痛いってば~!!」

すると、ボクを掴み上げている何者かが、こう叫んだ。

「うるせ~!!黙ってこっちに来いってんだ!!」

そしてボクは、1階の居間の床に放り出され、うつ伏せにさせられ、その何者かは、ボクの背中に馬乗りになっていた。

「何だよいきなり!!お前は誰なんだ!?」

顔を上げると、居間には、パパとママの姿があった。

「あっ!!ママ!!帰って来てくれたの!?」

「帰ってきたの?ぢゃねえ、このヤロー!!ママさんが出て行かなくちゃならなかったのは、誰のせいだか解ってんのか!!」

そう言うと、背中のソイツは、ボクの頭を思いっきり小突いた。

「痛~い!!どう言う事?ねえ、パパ!!ママ!!」

「うるせえ!!このくそガキャ~!!困った時だけ、パパさんやママさんに泣きつくんぢゃねえ!!」

「ああ!!その声、その口調、まさか!!お前は!?」

ボクは、この時、背中のソイツ、すなわち、突然の破局の首謀者が誰なのかと言う事に、遅まきながら気がついた。

「お前は・・・。もしかして、お前は!!・・・。」

(つづく)
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「面白い」とは?

「面白い」事とは?「面白い」と感ぢる事とは、何であろうか?

自分の思い通りに物事が運ぶ事、自分のしたい事やりたい事がいくらでも自由に出来る事、自分がして欲しいと望む事を他人がしてくれる事・・・。

そりゃ、確かに面白いだろう。この世が、他人が、自分の思うがままになれば。人間として、これほど痛快な、爽快な気分も無いのではなかろうか。

しかし、例えば、ナンセンスな“お笑い”の世界で言えば、「そう来るか!!」と、予想したオチをひっくり返され、期待を裏切られると言う快感もある訳で、小説や映画にせよ、何もかもが上手く行くストーリーなんて、面白くも何ともなく、むしろ、上手く行かない事はもちろん、傷つき打ちひしがれる事もあれば、こころならずあきらめざるを得なかったり、自分の力が及ばず悲嘆に暮れる・・・と、最終的な結末は別として、その過程において、失意や葛藤にさいなまれる事を題材にしているもの程、いつまでも、人のこころに残る訳で・・・。

そう考えると、この世には、上手く行かない事、自分の思い通りにならない事の方が遥かに多く、もちろん、そんな状態が面白いはずは無いのだが、何と言うのか、面白くない事が当然であるからこそ、面白くしようとする必然性も芽ばえる訳だし、ゆえに、既に自分の人生が面白くてたまらない人間が行う表現が面白くないのも、当然の結果なのである。

それでは、現在の私の心境はと言えば?

もちろん、面白くなんか無い。

だけど、否、だからこそ、面白くしたい。

面白くないと思える事自体は面白くないが、面白くしたいと考える瞬間ってのは、非常に面白い。

面白くなりたいな~。

ただし、誰も支配せず、誰にも支配されずに。

何故なら、自分が面白くなりたいために誰かを犠牲にすると言う事が、私には面白くないと思えるからである。

いや、解るけどね。その面白さも・・・。

でも、面白くない理由のほとんどは、他人を支配するどころか、その逆に、自分が他の誰か、あるいは何かに支配されている事こそが、その根本原因なんだよね。

要するに、自分の価値観によって自分を支配(コントロール)出来ていない状態。もっと簡単に言えば、自由に生きていないって事かな。

とは言え、支配欲、征服欲を伴う、ヒトの本能に従う事を良しとするか、それらに抗う事を良しとするかは、人それぞれ・・・。

あ~あ。それにしても、面白くね~な~。

A業時間変更のお知らせ

今週末、7月29日(土)は、18時までのA業となりマス。

また、8月からは、定休日が、「水曜日」から「火曜日と水曜日の2日間」へ変更となりマスので、間違ってご足労頂く事の無い様、お気をつけ下サイませ。

あしからず、ヨロシクお願いイタシマス!!(^^)/

復讐と服従

小学生投げ落とし犯。

「妄想幻覚の影響下にあり、制御抑制不可能な状態だったため、刑事責任に問うことはできない」として、弁護団は無罪を主張した。

その妄想幻覚とは、「人並みの暮らしをしなければいけない」、「家庭は幸せでなければいけない」、「収入はこれくらいなければいけない」、「世間から見て恥ずかしくない仕事や地位につかなければいけない」・・・と言った、人間が生きる上での“本質的な喜び”とは異なる、単に生産性を高めるために課せられ押し付けられた“奴隷の尊厳”、そんな、“人を支配するためにでっち上げられた道徳観”から外れる事に対する恐怖が生み出した幻想であり、いちいちそんなものを認めていたら、ほどんどの殺人は無罪になってしまうであろう。

また、制御抑制不能な状態と言うが、そもそも、制御や抑制が出来ない事自体が、“罪”なのではないのか?

ただし、ここで言う“罪”とは、あくまでも“法律違反”の事であり、“同種族の生き物として批判されるべき、本当に罪深い行為”とは異なるので、誤解無き様に・・・。

とは言え、いぢめっ子が、更に弱い者をいぢめると言う、負の連鎖がここにはあり、同情を禁ぢえない部分も無きにしもあらずではあるが、私には、どう考えても、“殺す相手”を間違っている様な気がしてならないのである。

そもそも復讐とは、抑圧への反発であり、支配への反逆であるがゆえ、その返答(あるいは報復)は、差出人に対して行うべきであり、その矛先を、直接的には無関係な他者、ましてや弱者に向ける事は、絶対におかしいのだ。

ところで、私は未見なのだが、「復讐するは我にあり」と言う映画があり、私は幼い頃から、そのタイトルが頭にこびりついて離れないのであるが、それならば、私はこう言おう。

「服従するは我になし」・・・と。

ヤクならぬニクきれた・・・

「ニンニクの力」のおかげで、バリバリ(と言うほどでも無いが・・・)仕事出来たんでやんすが、徹夜明けの翌日、1時間半で目が覚めてしまい、昼過ぎも眠れず、風呂に入り、用事があるので夕方出かけ、しかし流石に21時過ぎに眠くなり、ネット喫茶に駆け込み仮眠。その後、深夜、知人宅にてアナログ・レコードをCD-R化するなど、趣味の作業。

朝4時頃、流石に眠くてしょうがないので、作業を切り上げ、移動。倉庫で仮眠。本日、臨時で店番交代したので、店に移動するも、眠いやらだるいやら・・・。「ニンニクの力」を飲んだ直後に、少ない生命エネルギーを前借りし、先に使い果たしてしまった、その反動なのか、もう死にそう・・・。

そこで、バリバリと店番をこなすため、近所のコンビニへ、まるで麻薬中毒者が禁断症状に苦しむかの如く、すがる思いで「ニンニクの力」を買い求めにいくも、「ウコンの力」はいっぱいあるのに、その隣にあるはずの「ニンニクの力」が売り切れてやんの!!

「誰かヤク・・・ぢゃねえや、(ニン)ニクをくれ~。」と、街をさまよい、別のコンビニに行っても良かったが、あまりヤクに頼り過ぎると、やはり後が怖いので、やめておく。

しかし、店番は色々と疲れるので、終了次第、寝る。朝まで寝る。

結局、3日のうちの最初の1日だけスーパーマンで、後の2日は生きる屍状態。これで良いのか・・・?

否。これで良いのだ。ずるずる3日間、出品データを作ったり画像を撮影したりして、実際のネット出品が2日目か3日目になるより、1日目にすべてやってしまった方が、それが売れてお金が入ってくるのも、若干早まる訳で、そうやって仕事を前倒しにするのは、悪い事ではないはず。

思えば、人生も同様であろう。ただ何となくずるずると一生を過ごすより、感受性も身体能力も活発な若い時に思いっきり生き、早死にしてしまった方が、真に充実した人生を送れるのかも知れない。

長く生きるより、濃く生きる事。

だが、現実的に考えれば、20歳まではあっと言う間で、40歳までは体力も気力もあるゆえヤク要らず。よって、40から60歳の間、この時期こそ、ヤクを摂取してでも残り少ない生命エネルギーを前借りして使い果たし、60歳以降は抜け殻の様な人生を送るってのも良いのではなかろうか。少なくとも、40から80歳までの40年もの間、すなわち人生の後半戦を、無期懲役の囚人の様に、ただぼんやりとぐだぐだ生きるよりは、ましであろう。

それにしても、あと20年。こんな毎日が続くのかと思うと、何とも、はらほらひれはれな気分でやんす・・・。

むぎゅ~!!

執筆予定メモ

「ニンニクの力」、良いカモ・・・。

★“マリア観音”ワンマン・ライヴ、前々回の後半と前回をまとめて。

★その後の、“断絶間”。

★“ゴキブリコンビナート”鑑賞記。

★“ハニカム”を観たよ!!

★他、各種連載。(←売れっ子作家きどり。)

<“偏執”部よりのお知らせ>ちびっ子諸君!!エレクト先生に、励ましの現金を振り込もう!!(^^)/

ヤクを食らわばニクまで・・・

今月は、独りでビールを飲む事が無くなった。先月~先々月は、あまりにも過剰なストレスから、ライヴも何も無い日でさえ、ついついビールに手を出してしまっていたのだ。

しかし、やはりダルイ、ネムイ、ツライ・・・。

そこで、いよいよヤクの力を借りる事となった。

ただし、何だか解らない成分が入っているヤツは怖いので、いつも、酒を飲んだ後に愛飲していた「ウコンの力」の別ヴァージョンの、「ニンニクの力」とか言う、無臭ニンニク・ドリンクを飲んでみる事に・・・。

ううむ・・・。効いているような、そうでも無いような・・・。でも、いつもより少し、睡魔に抵抗出来ている様な気がしないでもないような、やはり、そうでもないような・・・。

まあ、何にせよ、気分はまあまあ・・・ってトコか。

ぢゃあ、またね~!!(^^)/

禁未来小説「ドラへもん」その36「闇夜の王国」の巻

ウフフフ・・・。クックックックック・・・。

もしも君が、この部屋のドアの前で、ボクの笑い声を聞いたなら、おそらく、ボクが狂ってしまったとでも考えるだろう。

そう。ボクは、笑い声を押し隠す事さえ忘れ、夜毎、インター・ネットに没頭していたのだ。

夢も希望も明日も未来も無い、ヒキコモリ地獄の果てに、ボクが見つけた、たったひとつの喜び。それは、ボクがボクであるための、そして、ボクが何者かになるための唯一の光明であり、存在意義獲得のための儀式。ボクはきっと、これをやり遂げ、“ボクがこの世に確かに生きていると言う証”を得るのだ。

・・・さてと、そろそろ、次の段階に入るか。今までは、こころに痛手を負った者同士、傷の舐め合い、慰め合いの芝居を続けて来たけど、今夜からは一人二役、自作自演による中傷攻撃で、あいつらにわずかに残った自尊心を、粉々に打ち砕いてやる。

そして、とことん思い知らせてやるのだ。力の弱い者や、駄目人間は、この世で生きる資格など、これっぽっちも無いって事を。

フフフ・・・。ああ、ボクは、この遊びが楽しくてたまらない。

顔も名前も知られる事の無い、ネット上だからこそ出来る、弱者が更に弱者を虐待すると言う、陰惨極まりない負の連鎖。実社会では、生き抜く事さえままならない、こんなボクでも、この世界では、強者、王者、支配者となり得るのだ。

フフフ・・・。フフフフフ・・・。

ボクは、深夜に起き出しては、それこそ夜が明けるまで、飽く事無く、パソコン上に映し出される世界と向き合い続けていた。

すべては、ボク自身の、こころの悦楽のため。また、真に“生きる”事が許される、ボク独りだけの千年王国を建立するためなのだ。

ウフフフフ・・・。

その日の明け方。キーを叩きつかれ、机に突っ伏したまま眠りに落ちたボクは、誰にともなく、こうつぶやいた・・・。

「ああ・・・。ボクの暗黒は、ここにある。」

(つづく)

ストレスと焦燥

強烈なストレス、猛烈な焦燥感。

ついに、これ以上、借りたり滞納したりする事が不可能に・・・。

考えてみれば、ここ2~3年、毎月約10万は赤字な訳で、今後一切、借金等を返済しないとしても、この状況から、更に月10万の売上アップをしないとやっていけない計算となる。

のんびりやっての結果なら、ちょっと頑張れば良いが、これだけやってこれぢゃあね~。身体も悲鳴を上げてるし、もう、とても無理ッス~。

自営業は、誰からも命令されない(実際には家賃やなんやらあるので、結局は奴隷だけど・・・)代わりに、努力や労力が収益にダイレクトに反映されない場合もあるし、今月たまたま売上が良くても、翌月はそれとは全く無関係に、また一から・・・否、ゼロから売上げを立てていかないといかんから、安定など有り得ない。ホンマ、やってられまへんわ。

それに、最も重要な事柄は、こう言う商売の、特に、ネット販売全盛の昨今、自分さえ頑張れば何とかなると言うものでは無く、いくら自分が頑張ろうとも、ライバル業者や個人業者も、それぞれ勝手に頑張ってる訳で、この競争に打ち勝たない事には、勝利(利益)を勝ち取る事は出来ないのである。

ましてや、結局の所、金(売上)の出所は消費者な訳で、何と言うのか、最終的には、他人に自分の命を握られているって寸法だ。

そう考えると、要するに、商売とは、この世に在るお金の流れの一部を、無理矢理、自分の懐に向けると言う事であり、すなわち、合法的な奪い合い、理性的な強盗、知的な略奪であるとも言える。

プラス、体力・・・か。

さて、ここで話を現実に戻そう・・・。

とは言え、足りないながらも、ある一定の成果を上げていると言う事から、今後、これを如何に増大させるかと言う点が、課題なのであるが、単純に、仕事量を二倍にすれば、売上も二倍とは行かないが、少しは上がるはずであるとの仮定は出来る。しかし、一人の人間が仕事に費やせる時間は限られている。もちろん、仕事を効率的に行うと言う事も踏まえてではあるが。

そこで、実は現在、既にいくつか実行している、外部の力を利用すると言うやり方を、更に推し進めてはどうか?と言うか、推し進める以外に無いと言う、結論に達した次第である。だって、もうこれ以上、時間は削れないし、体力も持ちまへんて・・・。

自分独りの力で何とかしようってのは、一見、カッコ良いけど、やはり限界と言うものがある。他人の力を借りるのでは無く、共闘出来る部分を探し、異なる能力を組み合わせる事によって、互いに利益を生み出して行かなくては。それはそれで、更なる責任も生ぢるのではあるが・・・。

て言うか、肝心なのは集金のスピードなのだ。馬車馬の様に働き、他人を出し抜かなければ、この競争社会を生き残っては行けないってコッタ。

ああ、バカラシ~!!

ライヴ告知

■木幡東介(マリア観音)・ワンマンライヴ「日本絶滅動物記 其の10」
[ゲスト] 西川裕一・崎田武志
[日時] 2006年7月13日(木)
[会場] 吉祥寺シルバーエレファント
[住所] 武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話] 0422-22-3331
[開場] 19:00
[開演] 19:30
[料金] 前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合] 吉祥寺シルバーエレファント 0422-22-3331

★無事、終了イタシマシタ。小雨の降る中、ご来場頂いた方々、誠にありがとうゴザイマシタ。

やさしい人

「やさしい人が好き」と、多くの人が言う。

しかし、それは大抵、「私に対してやさしい人が好き」なのであり、「私にだけやさしい人が好き」なだけであったりする。

本当に「やさしい人」であれば、誰にでもやさしくするはずだと思うのだが、誰にでもやさしくするのはいけないらしい。

つまり、「やさしい人」とは、自分が独占して初めて価値を持つものであり、自分に対して何ら利益をもたらさぬ「やさしい人」や「やさしさ」など、何の価値も無いのである。

人は誰しも、やさしくされたい。

しかも、自分だけ、特別に。

そんな人は、「やさしい人」が好きなのでは無い。

ただ、自分を好きなだけなのだ。

そして、きっと、「さみしい人」なのであろう・・・。

アリの行列

私の友人の話。

小学校3年と1年の娘がおり、姉はその友人に顔も性格もそっくり。妹は、嫁にそっくり。・・・トノコト。

ちなみに私の友人は、これが非常に強烈な男で、ずば抜けた個性と、不屈の精神の持ち主。

ところで、昨晩、友人(父親)似の姉の方が、「お母サンは、私より妹の方ばかり可愛がる」と、怒り出し、大変だったトノコト。

母親としては、キカンボで頑固な姉より、自分(母親)似の妹を可愛がるのは、いたし方無い部分もあるとして、ある日、こんな事があったそうだ・・・。

姉の帰宅が遅く、母親が学校に呼び出されたのだが、何と姉は、他の生徒が皆、下校した後、たった独りで“アリの行列”を眺めていたらしい。

それを聞いて、私は「素晴らしい!!この娘は天才かも知れない!!」・・・と思ったのであるが、そこはそれ、学校って所は、社会生活を営むための訓練所(従順な奴隷養成所)であるからして、きっと、教師にとっては宇宙人なみに不気味だったのであろう。姉は、母親にも怒られ、家路についた。

もちろん、私の友人は、「お前は悪くない」と、娘を抱きしめてやったそうだ。その娘は、学校の勉強も出来ない(やらない)らしいが、友人曰く、「やらなくても良いけど、それで恥をかくのはお前自身だから、自分で考えて決めろ」と、すべて子供の自主性に任せているらしい。

下校時、独りでいると、色々と犯罪に巻込まれる可能性のある御時世ゆえ、それだけはくれぐれも気をつけて頂きたい所ではあるが、何と言うか、学校でもいぢめられているのではないのかと思うと、他人事ながら、少々心配ではある。


しょせん、キリギリスは、アリにはなれない。

否。キリギリスが、アリになる必要なんか、何処にも無いのだ。

禁未来小説「ドラへもん」その35「自殺者の心理」の巻

あれから数日・・・。

ボクは、ニシガミと名乗り、スネトや鬱ノ宮らとの交流を深めるうちに、自分の考えの、ある大きな間違いに気が付いた。

そう。自殺する人間は、冷静な判断によって、死を望むのでは無く、あくまでも、生き続ける事に“耐えられない”がゆえに、生からの逸脱、すなわち、死の世界へと逃避するのだと言う事に。

ただし、三島由紀夫の割腹自殺の様なケースは別として・・・。

つまり、ボクの当初の目論みであった、“死への恐怖を取り除く”と言う策略は、実は、全く逆効果のナンセンスな行為であり、死への恐怖が無くなると言う事は、言わば“生への執着”すらも失うと言う事だから、ただ生きる屍の様に、無為に生き永らえる事こそあっても、自発的かつ積極的に死を選ぶ事など有り得ないって事なんだ。

要するに、むしろ、ボクがやらなきゃならない事は、生きる事、すなわち現世に対する徹底的な嫌悪感や厭世観を、やつらに植え付ける事であり、自分が生きている事の意味や価値、この世に存在する事の意義や必要性さえ喪失しかけた、不安定な精神状態に追い込む事だったって訳さ。

フフフ・・・。人間を死に追い込むと言うのも、そう楽ぢゃないな。

だけど、だからこそ、やりがいがあるってもんさ。

明日が見えず、現在の苦しみにも耐え切れず、過去の罪や傷にさいなまれ、生きる事の無意味さを、焦燥に暮れる孤立無援の無間地獄を、とことん味合わせ、精神の磨り減ったノイローゼ状態、不安を抱え、自分を保てない状況に追い詰め、そのこころの亀裂、足元にぱっくりと口を開ける生死の淵に立ちつくさせてこそ、このボクが、そっと背中を押してやる甲斐もあるって事。

クックックッ・・・。面白い。人間って・・・。

そう言えば、いつか、誰かも言ってたっけな。

「ボクは、人の死が見たくてたまらない。」・・・と。

(つづく)

“管理者”会

今回の「太田光の私が総理大臣になったら」の後半は、太田総理ではなく、芸能人による提言をマニフェストとしたもので、その内容は、小学校低学年の生徒に携帯電話所持を義務化させようと言うものであった。

これは、昨今の児童誘拐や殺害事件を受けてのもので、携帯電話の機能に、居場所を確定出来る何とかってのがある事と、心配な時に、いつでも連絡が取れる事などから、子供の安全を確保すると共に、親の不安を少しでも和らげようと言うのが目的であろうと思われる。

しかし、私はここに、何かうさんくさいものを感ぢてならない。

何故、義務化する必要があるのか?学習塾と同様に、各家庭が、任意に自由に決定すれば良い事ではないのだろうか?

とは言え、現状では、危機感を持つ親や心配性な親、そして何と言っても、子供に携帯電話を持たせるだけの余裕(大した額ではないのだろうが・・・)のある家庭の子供だけが、携帯電話を持つ事が出来るがゆえ、少々乱暴に言えば、犯人が、携帯電話を所持している子供を避けて、“危機感の無い親を持つ子供”や“携帯電話を持たぬ貧乏な子供”だけが狙われてしまうと言う、“弱い者いぢめ”的な選別がなされてしまう可能性があると言えなくもない。(とは言え、そもそも、子供を狙う事自体が、“弱い者いぢめ”でしか無いのだが・・・。)

よって、特定の地域の子供すべてに携帯電話を持たせる事で、「この地域は犯行に向いていない」と、防犯に関して積極的な地域の子供を狙いにくくする、目論みもあるのかも知れない。

しかし、もし仮に、犯罪者が狙う獲物を“選別”しているのであれば、その論法も成り立つが、場当たり的な犯行の場合、いつだってどこだって犯罪は起きうるし、その逆に、“選別”しているとすれば、携帯電話を持ってる様な子供、すなわち、親に大事にされている子供や、裕福な子供にこそ、犯人の“社会から疎外された逆恨み”が向けられる様な気もするが、如何なものか。先の、整形外科成金娘誘拐の一件もある事だし。

そう考えると、すべての子供に携帯電話の所持を義務化させると言う事は、すべての子供を守ると言うより、自分の子供に携帯電話を持たせる事による安全の確保はもちろん、更に、自分の子供が犯人の“選別”の対象となる事を避けたいがゆえの、利己的欺瞞のカモフラージュではないのか?と言う気さえしてくる。

もっと解りやすく言えば、塀の高い家は金持ちだと思われて、泥棒が入りやすいから、すべての家の塀を高くする事によって、狙われる確率を薄めようと言う魂胆だって事だ。

だって、何のために、すべての子供に義務化、すなわち“他人”にまで携帯電話の所持を押し付ける必要があるのか?本来、持たせたい親が勝手に持たせれば良い話であるし、「持たせた方が良いデスよ」と、啓蒙活動(説得)するのならともかく、一方的に、何でもかんでも管理統一しようとすんぢゃねえよ!!ってな話だ。どうせ、子供の意志だって無視してんでしょ?

だいたい、子供に携帯電話持たせたって、犯人が取り上げて捨てちまったら、何の意味も無いよね。

あっ!!それなら、こんなのはどうかな?

いっそ、子供の体内に、現在の居場所を知らせる携帯電話の機能を埋め込むってのは?

きっと、犯罪も激減するんぢゃない?

いや、マジで、再犯の可能性の高い性犯罪者、特に、幼児をターゲットとする前科者には、居場所を知らせる機能を体内に埋め込んだ方が良いかもね。

そして、ゆくゆくは国民全員に・・・。

無念の情

昨夜の出来事。

未成年の頃の窃盗を、自らがテレビの番組で暴露してしまい、しばらく謹慎していた芸能人が、公に謝罪したらしい。「軽率な言動・・・」うんぬん、申し訳無かったと・・・。

すべての発言を聞いた訳では無く、ニュースのトップ見出しを見ただけであるが、過去の犯罪行為を告白してしまった事は、所属事務所に対しては厳罰に処して余りあるマイナス行為であったろうが、本当に謝罪すべきは、その軽率な言動に関してでは無く、実際に窃盗を繰り返したコンビニだかの経営者に対してなのではなかろうか。きちんと、弁償はしたのかよ?

話変って、昨日も、「太田光の私が総理大臣になったら」を見る事が出来マシタ。マニフェスト(提言内容)には無理も多いが、基本的にはバラエティなので、わざと極端に設定しているのだろう。とは言え、太田氏の言動のいくつかには、いくばくかの感動を覚える事が、ままある。それはおそらく、“発言内容”自体にではなく、太田氏の、他人に何かを伝えようとする際に伴う、“熱意と誠意”みたいなものに対してであると思われる。

その後、風呂を沸かしたり、コインランドリーに洗濯しに行ったりしつつ、たまたまやってた岡本太郎のドキュメンタリーみたいなものを見る。

岡本太郎に関しては、いずれ言及したいと思っているが、今回の番組の主旨は、長年行方不明となっていた大壁画が初公開されるイベントをメインとしたもので、開幕直前に行われた、山下洋輔氏によるソロ・ピアノ演奏には、非常に感銘を受けた。とは言え、そもそも私自身、同氏に対して何の思い入れも無く、レコードも軽く聴いた事がある程度であったのだが、昨日の演奏は、岡本太郎、すなわち自分より先に逝ってしまった、言わば表現者としての先輩(あるいは戦友)に捧げるものであったと言う事も大きいのだろうが、何ともやりきれない“無念の情”と言うものが込められていたと、私は勝手に解釈した次第である。

例えば、“満たされて安定している状態”、あるいは、“あきらめ冷め切った状態”とは、勝ち負けの違いはあれど、いずれも、ある種の完成であり、到達点であると言える。

しかし、やはり私が好むものは、あくまでも、生きているがゆえの“苦悩”であり、“葛藤”であり、それら“生存の途上”における“悪あがき(反発)”なり“断末魔の叫び(抵抗)”なのである。

そしてそれらは、ゴールの見えない不安定な状態や、光の射さぬ負け続けの連続から湧き上がる、虚しくやるせない、“無念の情”に他ならない。

人は死ぬ。必ず死ぬ。生きている限り、いつかは死ぬ。

これが無念でなくて、一体、何だと言うのだ・・・。

そもそも、“生きる事”、それ自体が“虚しき抵抗”なのである。

また、“無念の情”とは、人はいつかは死ぬと言う、その忌むべき現実の、あまりにもな“虚しさ”に対して、抵抗した者にしか、芽ばえ得ない感情だとも言える。

“虚しさへの抵抗”、すなわち、それこそが“生きる”と言う事。

よって、皮肉にも、生きようとすればするほど、“無念の情”は、増してゆくばかり・・・。

そして、“無念の情”を振り払おうとするがゆえに、無駄だと解っていながらも、人は“伝えようと”し、“生きようと”するのである。

爆笑出来ない問題山積み

私の大好きな爆笑問題が出演する、テレビ番組「太田光の私が総理大臣になったら」。

出来れば、毎週見たい所なのであるが、曜日の関係で、たまにしか見る事が出来ない。

先日、久々に見る事が出来たのだが、“官僚の天下り”が議題に挙げられていた。

官僚すべてが悪い訳では無く、天下りすべてが悪い訳では無い。

要は、業務内容に見合った報酬(税金から捻出される)が支払われているのかどうか?と言う事が問題なのである。

報酬・・・と言うより、コスト(原価)と言うべきか。

公的機関の仕事とは、金銭的な利益を目的としていない場合が多いので、民間の様にはいかないだろうが、だからと言って、コスト無視でやって良いはずが無い。

貢献度に対して、かけるべきコストを明確にし、税金の無駄遣いはやめて欲しいものである。

人材として本当に必要とされている天下りなら良いが・・・。

よって、業務内容を正当に評価する事も、もちろんだが、無駄なコストを削減するためのチェック機関を設ける事こそ急務であろう。

そして、それは、当店も同様である・・・。(反省)

ゲゲゲ!?

もしや、○様って、あの★★★○の○様って事!?

○様って、そのままやん・・・???

・・・でも、充分過ぎる程に、有り得る・・・。

偶然・・・だよね?

たまたま・・・だよね?

この事は、自分の胸にだけ、しまって置こう・・・。

でも、あの人、結婚してんのかな?

う~む・・・。

手ノ内嫁蔵「さんくちゅありぃ」

オシリペンペンズのヴォーカリストにして、超天然パフォーマーである、石井モタコ氏のソロ・ユニットであった“手ノ内嫁蔵”の3rd(CD-R)は、モタコ氏に、留田トメ吉氏と和田シンジ氏を加えた3人編成となった模様。

ところで、この世には、色々な音楽、様々な表現形態があって良いと思うのだが、ただ一つだけ言えるのは、そこに至るプロセスは別として、それらが目指す共通の目的は、あくまでも、“楽しく”なるためにやるのだと言う事であり、その対象が自分である場合が“自己表現”であり、対象が他人である場合が“エンターテイメント”である・・・と、私は考える。

ゆえに、日常の感覚を麻痺させるのが目的の大音量のノイズ・ミュージックにせよ、自らの身体を痛めつけ、生命を死地へと追いやる、まるで“一刻も早い死を望んでいる”かの自虐的なパフォーマーにせよ、演奏のクォリティ向上を最大限に求めるあまりに、禁欲的、求道的に、肉体と精神のすべてを注ぎ込む職人気質のアーティストにせよ、それらは一見、“苦しさ”を求めているかの様にも誤解されるが、最終的には、自己の“こころの安定”を目指していると言う点においては、“楽しく”なる、すなわち“快”を求めている事に、何ら変わりは無いのである。

要は、ただ、その方法論、表現方法が異なるだけで、それは、それぞれが持って生まれた資質、環境によって形成された人格、自ら求め創り上げんとする理想等から、各々に芽ばえた、生きる目的の表面的な違いに過ぎず、むしろ、批判されるべきであるのは、誰かに“やらされている”感覚であったり、光に集まる羽虫の如く、権威や流行に“盲目的”に隷従する事なのである。

前置きが長くなったが、そう言う意味においても、この「さんくちゅありぃ」と言う作品は、音楽を演る事による“楽しさ”に関して、極めてピュアな精神と、自由な感覚が溢れており、非常に好感が持てるものとなっている。

簡単に言えば、聴いていて、思わず、「ウフフ・・・」な気分にさせられるって事だ。

更に、本作を、もう少し具体的に分析するならば、シンプル過ぎて粗雑にさえ見える楽曲群には、実は多様なアイデアや実験精神が無理無く生かされており、特に、ユニークな言葉とリズムの緊張感溢れる組み合わせ、及びモタコ氏の“がなり声”に象徴される、暴力的なまでの瞬発性と説得力には、目を見張るものがある。

あと、とにかく、“楽しそうである”と言うか、“生き生きとしている”と言う点が、非常に心地良い。

“適当”であるとか、“いい加減”であると言う言葉には、とかくネガティヴなイメージが付きまとうが、それらには本来、“丁度良い塩梅(味加減、具合)”であると言う意味がある。そう言った観点からも、本作の最大の魅力とは、固定観念に縛られて自らを制限する事も無ければ、何者かに“支配される事”も無い、天然培養的な、その“自由奔放さ”にあると言えよう。

また、最後に、見る者の想像力を喚起して余りある、ジャケットのアート・ワークの秀逸さも、特筆に値するものであると言う事を、付け加えておく。

←ここをクリクリすると!?

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ハードコア仕事法

苦しい時には、今の自分よりもっと苦しんでいそうな音楽を聴かねば、こころが休まらない・・・と言う事で、(プレ)スコーピオンズの「ロンサム・クロウ」を聴きながら・・・。

どうも、コツコツとやってると、猛烈な睡魔に襲われてしまうので、やり方を変えてみた。

名づけて、ハードコア仕事法。

要するに、通常よりも、数倍速いスピードで、あれこれ作業したり思考したりするって訳。

何て言うのか、水面を歩く事を想像してもらいたい。

・・・って書いた時、これを読んでる人が、真面目にそれを思い浮かべてくれているのかと思うと、なんか嬉しいね。

ぢゃあ、こう書くか。

何て言うのか、エレクトさんの口座に、10万円振り込んでみてもらいたい。

・・・とまあ、冗談(半分本気なんだけど・・・)は置いといて。

沈みそうになる前に、次の一歩を踏み出せば、沈まずに済み、またまた沈む前に別の足を踏み出せば・・・と言う動きを猛スピードで繰り返せば、いつの間にか水面を歩いてしまっている様に、猛スピードであれこれ仕事をこなせば、同ぢく睡魔が訪れた時、結果的には、やり遂げた仕事の量が多いのではなかろうか?と、仮定した次第なのである。

どうだろう?

でも、結局、短時間で疲れてしまい、睡魔が訪れるのを早めるだけかしら・・・。

いやいやいやいやいやいやいやいや!!

違う!!大いに違う!!って事に、たった今、気が付いた。

確かに、睡魔の襲来が早まり、結局、仕事的には同ぢ量しかこなせないかも知れないが・・・

残った時間、すなわち、休んだり寝たりする時間が大幅に増えるでは無いか!!

これは世紀の大発見!!早速、試してみよう!!


Mr.エレクト・・・。バカなのか利口なのか、自分でも解らない・・・。

最後通知

本日、定休日。

・・・と言えども、休み無し。

トイレに入れていた在庫を移動するのと、超山田堂へ品物を運ぶのと、他に色々な用事を済ませて、店に戻ると・・・。

ドアに封書が挟まっており、見ると、大家サン(一応、株式会社)からの手紙・・・。

と、言うか、溜まった(溜めた)家賃の督促。

しかも、今回は、かなりマジな文面。(つうか、もっと早く気づけよ!!)

只今、ジュン上久保を聴き(口ずさみ)ながら、頑張って作業しておりマス!!

まあ、考えたら、利子だけでえらい事だからな。

大家サン、今まで、ありがとう!!(・・・てか、ちゃんと払えよ!!)

負けるもんか!!(何に?)

誰かのためにとか、何かのためになんて、やってらんねえ!!

結局、「自分のために」ってのが一番、自分自身を奮起させるセリフだって事よ。

人生の“執着”駅

ところで・・・。

資産が多い者ほど、蓄財を増やせる可能性が多いゆえ、それが、この世の支配者であり、真の勝者であると言えるが・・・。

果たして、本当にそうなのであろうか?

・・・と言う疑問が、芽生えてきた。

死を恐れ、失う事を恐れ、不必要な欲望に駆り立てられ、優越感なり支配欲を満たす事で、その不安を解消しようとする。

繰り返し、繰り返し、繰り返す・・・。

捨てなければ。

失う不安から、モノやヒトに執着すればするほど、それらを“失う不安”が増すばかりである・・・。

捨てるのだ。手放すのだ。身軽になるのだ。

それ以外に、不安から逃れる術は、自由を獲得する術は無い。

人生の卓上に、本当に必要なモノだけを並べるのだ。

いつ死ぬかは解らないが、いつ死んでも、“悔い”だけは残さぬために・・・。

「マリア観音」ライヴ報告書(2006年5月31日)~前編

<第一部>
前半はSE+ドラム・ソロ。前回もそうであったが、以前に披露されていた様な、パワフルかつテクニカルなプレイを観せる事を重視したかの様な作風ではなく、あるテーマを決めて、それを忠実に描写するために技術は用いるのだと言う主張を体言するかの演奏。いやしかし、バックに流されるSEに、尺八こそ用いられているとは言え、生演奏のドラム始め、すべて西洋の楽器による演奏であるにも関わらず、何故にこうも“和(日本)”を感ぢてしまうのだろうか。その、細やかで緻密な演奏は、音の大小に無関係に、決して“大人しい”のではなく、むしろ饒舌であり、目を閉ぢれば情景が浮かび上がるかの、イマジネーション豊かな演奏は、ある種、絵描きが一枚の絵を描きあげる様子を、実際に見せられているかの様でもあった。また、木幡の音楽に通底して在るのは、確たる規律に支配され、かつ一瞬足りとも緊張感を失わぬ、“身嗜み”と“洒落っ気”とを併せ持った、洗練された構築美であるが、これらの“粋”な試みを、“風雅”(意:高尚で、みやびな趣のあること)と呼ばずして、一体、何と評すれば良いのであろうか。そう言う意味でも、ここに来て、ドラム・ソロ・パフォーマンスにおける、ある一つのスタイルを確立し得たと言って、過言は無いであろう。また、バンド編成時代は、木幡の、汗が飛び散るステージ・アクション等から、とかく“体育会系”との印象が強かった“マリア観音”であるが、ソロになってからは、木幡の“美術家的”素養が、楽曲や演奏に極自然に反映されていると言う点も、見逃せない事実である。

<第二部>
ゲストである、パンク・バンド“ビル”の演奏。ヴォーカルにはリバーブがかかり過ぎていたきらいがあるが、観客が座席に座ったままで観ると言う、いつもとは大きく異なる環境にも関わらず、貫禄の演奏。楽曲にも、“ビルらしさ”と言うか、バンドのカラーが、確実に備わって来ており、今後は、スタジオ・レコーディングされた音源の発売等が期待される。

ちなみに、いつも音響及び照明を担当して下さっている、曽我氏の力量が、大音量のロック・バンドを扱うにあたり、如実に垣間見えた事も、意外な発見であった。

<第三部>(後編につづく)

★今回、モダ~ン・ミュージック(PSF RECORDS)発行の音楽雑誌「G-Modern」26号(当店でも販売中)において、マリア観音の約1年分のリリース作品のディスク・レビューを、1ページの誌面を割いて紹介して頂きマシタ。編集長の生悦住氏、レビューを書いて下さった吉澤氏に感謝イタシマス。

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SHIT!!

消化不良な糞を撒き散らしやがって!!

こっちがヤリ玉に挙げてんのは、奴隷は奴隷でも、その奴隷ぢゃ無いっちゅ~の!!

まさしく、糞喰らえだ!!

(食糞女性のブログに、当ブログへのリンクを貼られたため、突然、100人以上の方が訪問して下さりマシタ。でも、宣伝?になるから良いのかな~・・・。)

私は、今にも“壊れてしまいそうな”人間に興味があるのであり、“壊れた”人間には興味無いんだけどね~。

トホホ・・・。

禁未来小説「ドラへもん」その34「死神の謀略」の巻

フフフ・・・。無能・無気力・無感動の3拍子揃ったこのボクが、無意味・無価値・無期懲役のヒキコモリ地獄の果てに、やっと見つけた、生・き・が・い・・・。

スネトと言う生贄を、自ら自殺に追い込む事は、ボクの絶望的なまでに呪わしき人生を劇的に変革するに余りある、とっても刺激的な儀式になりそうな予感がするよ。

フフフ。フフフフフ・・・。

翌日。ボクは早速、行動を開始した。まずは、スネトのブログ「蛇の穴」にコメントし、名前を覚えてもらわなくっちゃ。待てよ。ところで、ハンドル・ネームはどうしよう。のひ太はもちろん、ダメオぢゃ意味無いし・・・。

そうだ!!良いアイデアがある!!

ボクは、自分が、スネトを地獄に堕とすための“死神”役であるとの考えから、“シニガミ”をもぢって、“ニシガミ”と名乗る事にした。

さて・・・と。次は、仲間探しだ。いくらボクでも、たった独りで、スネトを自殺に追い込めるはずが無い。同ぢ様にイジメにあって、鬱になってる小学生を探し出すんだ。そして、自殺願望のある者を集め、その中の誰かをリーダーに祭り上げ、ネット上に自殺サークルのサイトを開設させ、集団心理によって、本来、個別であるはずの死への恐怖を取り除き、その後は・・・。

そしてボクは、やはりイジメを苦に、ネット上の掲示板に、自殺願望をほのめかせる書き込みをしていた、“鬱ノ宮”と名乗る小学生を発見した。

こいつは使えそうだ・・・。

後は、スネト、そして鬱ノ宮、そして、もっと多くの、イジメに苦しむ、精神の不安定な奴らを集め、そのこころを操り、惑わせ、狂わせ、死を賛美させ、集団自殺をそそのかし・・・。

フフフ・・・。楽しい。生まれてこの方、こんな楽しい気分を味わうのは、初めてだ。

こんなに、人の死が待ち遠しいなんて・・・。

どうやら、この世に、復讐を成し遂げる事以上の快感は無いって言う話は、ホントだな。

ウフフ。ウフフフフフ・・・。ウフフフフフフフ・・・。

アハハハハハハハハハハハハ・・・!!

(つづく)

「Mr.エレクトの本音」②

さて、自分の“支配者体質”が、どう問題であったのか?と言う点だが、まだ人生の途上なので、具体的な話は、いずれ・・・と言う事にして。

結局の所、この奴隷農場での本当の勝利とは、この不毛なレースへの参加を拒否する事なのである。優越感などと言う下らない(しかし、甘美な・・・)感情を得るために、自分だけが苦しむなら良いけど、家族や、子供まで巻き添えにして、そんな人間の、何処が優秀だと言うんだ。たかが奴隷の王様のくせに。

ところで、私は、20代前半まで、もし将来働けなくなったら、泥棒になろうと、真剣に考えていた。何故なら、当時は深夜のコンビニのバイトをしていたのだが、車の免許すら無い上に、体力も無く、ただ頑固で意固地な所だけが取り得みたいなもんだったから、もしも雇ってもらえなくなった時に、自分で金を稼ぐ能力や自信など、全く無かったからでである。

とは言え、生来、人から命令される事は嫌いゆえ、就職などとんでも無いし、仮にバイトするにしても、なるべく独りで出来る仕事にしたかった。実際、10代の頃は、右も左も解らず、コンビニでのバイトも、先輩の真似をして適当にさぼったりしつつ、怠惰に時間を過ごしていたに過ぎないのだが、あるきっかけから、進んで仕事をする様になり、更に、率先して作業を行う事によって、結果的に命令される事を減らしていったのだ。

ほんで、まあ、自分で言うのも何だが、たかがバイトなのに、異常な程に真面目に仕事をしていた功績を買われて、26才でコンビニのオーナー店長をやらせてもらえる事になったのだが・・・。(何だか自慢話みたいだな。タイトルを「Mr.エレクトのサクセス・ストーリー」にすりゃ良かったか・・・。)

で、あぶく銭が入ってきたため、自主レーベルなんぞ立ち上げたが、その後、コンビニの景気も悪くなって来て、かけもちで中古レコード屋を始め、ただ忙しいだけのコンビニからは足を洗って、不景気のどん底へまっしぐらの現在に至る訳なのである・・・。

しかし、コンビニは最初こそ儲かったけど、やっぱ面白くない訳よ。接客業だし、好きなもの売ってる訳ぢゃないから、生きがいも感ぢられないし、更には家族も無く独りでやってたから、深夜のバイトの急な休みの穴を埋めたり、まるで24時間監禁されている様で、こころの休まる暇が無くて・・・。

まあ、そんな事は良いとして、今後、もし自営業をやめなければいけなくなっても、人に使われるのは絶対いやだから、それならホームレスになろうと、マジで思うね。泥棒よりは良いでしょ?奴隷よりは野良犬の方がマシだよ。いつでも自由に、何処にでも好きな所に行けるし。(ただし、徒歩か自転車でね・・・。)

病気になったらどうするって?知らないよ。やりたくない事ばっか、毎日やってる方が病気になっちゃうよ。

動けなくなって、誰かに世話してもらうつもりも無いしね。死ぬ時は、猫みたいに、どっか人の居ない場所で朽ち果てるんぢゃないの?

誰か女の人に世話してもらうのも良いけど、それぢゃ、その人を奴隷にしちゃうしね。

あっ!でも、1週間日替わりで7人の女性に世話してもらうのなら良いかもね。それなら、一人一人の負担も軽いでしょ?(←バカ!!)

まあ、そんな感ぢで、泥棒になる夢はあきらめざるを得ないけど、ホームレス人生も悪くないって言うか、地球全体が家みたいなもんだから、むしろ憧れちゃうね。

誰からも、何も、命令される事なんか無いし。

VIVA!!ホームレス!!

自由万歳!!

(おしまい)

天才バカ論

バカに対して、「お前はバカだ!」と言う事に、何か意味があるだろうか?

バカに、自分の事をバカだと自覚させるため?

しかし、バカは、自分をバカだと自覚出来ないから、バカなのでは?

・・・と言うか、そいつは本当にバカなのか?

更に、バカは自分をバカだと自覚出来ないのならば、そんなバカに「バカ!」と言う事に、何の意味あるのか?

そう考えると、バカに「バカ!」と言う事の意味は、自分が、バカに対して「バカ!」と言いたいからだと言う結論に達する。

トナルト、バカに「バカ!」と言う様な、無意味な事をしている自分も、バカでは無いのか?と言う疑問が湧いてくる。

いや、待てよ。バカは自分がバカだと自覚出来ないのであれば、自分はバカだと自覚する人間はバカでは無いと言う事であるからして・・・。

バカである事を自覚出来ないバカになりたくないのであれば・・・。

「お前はバカだ!」なんて、言うだけ無駄な事などせずに・・・

「俺はバカだ!」

・・・と言うべきであろう。


「人をバカにする奴こそ、バカだ。」と言う喩えは、ここから来ているのだろうか・・・。

“比較”三原則

★最近、心配な事。わざと漢字を当て字にしてるんだけど、誤字だと思ってる人も居るのかな?まあいいや・・・。

しかし、親ってのはズルイよね~。

クラスの○○君、あるいは、クラスの殆どの子は、○○を持ってるから、自分にも買ってくれと言ったら、「うちはうち、他所は他所。」と言うくせに、私の偏食を批判する時は、「地球には日々の食事にも困る人達が居てどうのこうの・・・」ってさ。

「うちはうち、他所は他所。」ぢゃないの?

「自分は自分、他人は他人。」でしょ?

しかも、自分なんか3人兄弟の真ん中だから、その時の都合に合わせて、上と比べられたり下と比べられたり・・・。

結局、ある集団に所属する限り・・・って言うか、集団を管理するに当たって、この論法は非常に都合が良いんだよね。

家庭における親に限らず、国家なり会社なり・・・。

「自分は自分、他人は他人。」って考え方されると、統制が取れなくなるから、困るって訳さ。

まあ、でも、今振り返って見ると、比較論を持ち出すのは、どっちかっつうと母親の方で、父親が私を怒る時、私が「でも、○○だって○○ぢゃん・・・」と、兄弟との比較論を持ち出すと、「○○は関係無い!!」と、比較する事を否定する方だったな。

あれ?って事は、むしろ、最初に比較論を持ち出す自分の方がズルかったって事か?

それに、うちの父親は、世間がどうこうって言い方はせず、父親自身の倫理観で叱る方だったな。

まあ、そんな父親だったから、ある時期からは、私の偏食に対しても、家を出て上京する事に関しても、止めもしないし、何の文句も言わなかったね。

まあ、こっちも、家を出る事を告げた時、「死んだと思ってくれ」「元から居なかったと思ってくれ」とまで、言ったって事もあるけど。

「こいつは止めても無駄だ」・・・と、私の事を理解して(あきらめて?)くれてたんだね。

そう考えると、兄弟と比較してうんぬんぢゃ無く、「自分は自分!」ってな怒り方をしてくれた、うちの父親ってのには、感謝しなくちゃならないのかな。

父親自身の思惑や、世間の常識より、本人(私)の価値観を大事にしてくれたんだから・・・。

だから、いつも、私はこう言うのだ。

「君の好きなように、やりたい様にやれよ。」・・・と。

絶対“隷”度

我慢は自慢にならない。

我慢の限界、臨界点は、自分が決めるしかない。

他人が苦しかろうが、苦しくなかろうが、全く無関係に、自分が苦しい時は苦しい。

多少、気分が緩和される事はあれど、比較してどうなるものでもない。

前向きな目的の無い我慢は、消極的な自殺行為である。

永続的、あるいは断続的な我慢は、突然の死をもって終りを迎える。

負荷に耐え続けた結果、ポキッと折れる。

その時期は、本人にも、ましてや他人になど、解りっこない。

我々は、想像する事でしか、他人の苦しみを知る事は出来ない。

そして、苦しみの感情は、自分が味わう事によってしか実感出来ない。

せいぜい、“思い出す事”が出来るくらいだ。

“思い出したくない事”を・・・。

我慢によって、失うものと、得るもの。

それらを比べ、決定するのは、自分自身である。

そうしなければ、人は、時の渦に巻込まれた運命の奴隷となる。

そして、それらが意味するものは、抗う事無しに、死を受け入れると言う選択に他ならない。

Mr.エレクトの「禁言集」⑧

「負(フ)の連鎖」

フフフフフ・・・。


えっ!?意味が違うって?

「Mr.エレクトの本音」①

★何と言うか、あまりにも、資本主義的と言うか、金持ちや資産家を批判するがゆえ、私の事を、「金が無ければ何も出来ない」、「金が無ければ幸せになれない」と思い込んでいる人間であると勘違いしている人も、もしかしたら居るのかな(居ないよね?)と、心配になり、本論を発表する次第である・・・。

本音を言えば、私自身が一人で生きる分には、これ以上の金は不要であり、少々の搾取にも目をつぶっていられるはずなのだ。

とは言え、もちろんお金はもっとあった方が良いと思っているし、「これ以上不要」なほど、儲けている訳でも、思い上がっている訳でも無いゆえ、誤解無き様に。

「あんたは、自分で店をやっているから、会社勤めしなけりゃあ生きていけない人間の気持ちが解らないんだ。」と言う意見もあるだろう。

でも、それって、誰かに無理矢理やらされてんの?自分で決めたんでしょ。

そもそも、私が現在の仕事(中古レコード販売業)を選んだのも、この仕事をやる能力が少なからずある事も、自分で決めて、自分で努力・・・と言うか、好きな事を一生懸命やり続けた結果であり、それも、お金目当てでは無く、むしろお金を投資(浪費?)し続けた結果なのだ。まあ、絵を見るのが趣味だったり、山に登るのが趣味だったら、こう上手くは行かなかっただろうが、それらの趣味も本当に突き詰めれば仕事になるゆえ、私が好きになったものが商売につながりやすいものであったと言う“幸運”は否定出来ない。ただし、実際、レコードなり音楽が“異常”に好きだったと言う事は、確かである。

また、その趣味の(・・・と言うか、自由に生きる)ために、学歴からも背を向け、正社員より時間に融通の効くフリーターを選ぶなど、様々な社会的価値を自ら手放し、世間の白い目冷たい目と戦って来たと言う事も事実であるので、そんなに文句を言うなら、貴方もそうすれば良いだけの話。

今でもそうだが、自分の価値観や、自由を尊守するためなら、この程度の社会的地位など、いつ捨てても良いと思っている。

と言うか、言い方を変えるならば、ある種、社会的地位とは、自由を狭めるものであるとも言える。

・・・とまあ、それは皮肉にも、店舗販売を崩壊せしめたネット・オークションの繁栄がもたらした、店舗を捨てても商売は可能な状況が用意されているがゆえの、“経済的基盤”を確保した上でのポーズであり、自分をも欺く欺瞞であるとも言えるが・・・。(しかも、「それは自分の能力ゆえ」と勝ち誇れれば、おそらく反感を買うであろうとの計算の元に。ああ、いやらしい俺!!)←と、いかにも正直に自分を分析して見せる所が、これまたズルイ。

さて、それでは何故?こうも、世の中の搾取システム、支配者経営の奴隷農場に対し、文句ばっか言うのか?と言う事であるが、最初に述べた様に、自分一人で生きていれば、この集金レースに参加したとしても、大して苦しむ事も無く、逆に、競争社会に洗脳された人間に植え付けられた“奪い合う”感情を利用して、もっとお金儲けが出来たかも知れない。

そう考えるに、結局の所、根本的な問題としては、私の、思い上がった“支配者体質”に遠因があったと言う事に、疑問を差し挟む余地は無い。

自分が好きなものは、自分が好きだと言うだけで、こころの中に大事にしまっておけば良かったものを・・・。

(つづく)
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