いやはや、ボクシングの世界まで・・・か。
とは言え、その真偽の程は定かでは無く、また、“八百長”と言う言い方は、当たっていない気もする。むしろ、これは“ハンディ・キャップ・マッチ”とでも呼ぶべき性質のものであろう。
何故なら、QPちゃんも亀も手抜きや手加減をした訳では無く、亀はそれこそ、「真剣かつ必死に闘ったが、しかし、力が及ばずQPちゃんを倒せなかった」・・・のが現実であり、その試合経過に対し、両選手を公平に評価、判定するべき審判員(あるいは、その背後にある権力)が、亀を英雄にするために、正義(その競技における基準なり倫理)を捻ぢ曲げたと言うのが、世間に与えた偽らざる印象なのだから。
事実、試合を放送(及びバック・アップ)したTBSに対し、試合開始が遅れた事も含めてだが、この不正なジャッジに対する疑惑や怒りの苦情が、4万件も来たと言う。しかもTBS側は、「野球のナイター中継でも、このくらいの数の苦情が過去にあった」と、いけしゃあしゃあ、反論したそうな。
また、亀にしてみれば、これは保険付の試合、すなわち「判定に持ち込めば、審判員が味方してくれるのだから、元より本気でなど闘っていない」との声もあろうが、それにせよ、ノック・アウトを喫してしまえば判定も糞も無い訳で、そう言う意味でも、仮に、「QPちゃんもグルだったが、いかんせん八百長芝居が下手だった」・・・のでは無いとするならば、少なくともリング上の二人は、真剣に闘っていたものと推測される。
そう言う意味では、亀をKO出来なかったQPちゃんが悪いのだ。
・・・否。もちろん、QPちゃんが悪いはずはなかろうが、これは、ボクシングの試合と言うよりは、この社会の縮図、すなわち、「結局、資本(金)と権力(資本を元に利益を上げる事の出来る能力なり地位)を持つ者が最終的には勝つ」・・・と言うルールに基づく対戦だったのだから、そんな構図の中で、「人間と人間の魂のぶつかり合い」だの、「日々、汗水たらして鍛え上げた力と技の比べ合い」を期待する方が、そもそも無理な話なのである。
ゆえに私は、“八百長”ではなく、“ハンディ・キャップ・マッチ”と言う言い方をしたのだ。
何にせよ、今回の一件の様なあからさまな不正が無くとも、受験戦争しかり、世襲制度しかり、金やノウハウのあるものが勝利を得る可能性が高いのは、ジムの財力やコーチの力量、その他、本人の才能や努力以外のものが勝敗を大きく左右するボクシングの世界も同様。
よって、ハングリー精神で下克上を果たすなどと言う夢物語は、2対1、あるいは3対1のハンディ・キャップ・マッチを乗り越えぬ事には、とうてい実現し得ないのだ。
また、それ以上に私が強く感ぢたのは、何としてでもヒーローを作り上げようとする権力者側の思惑よりも、そう言った発想に至る動機の根底に横たわる、「華々しく勝ち続ける絶対的な強者の姿」を求め、「負ける事は恥ずかしい」とか、「負け組には存在価値が無い」と言った、“何者かの都合に合わせて植えつけられた一方的な価値観”を妄信する大衆の、“潜在的な願望”である。
そこには、無力な自分への絶望と将来に対する不安から、自ら進んで檻と鎖を求める、社会的弱者特有の、権力や権威に依拠する屈折した心理が見てとれる。
しょせん、「勝ったり負けたりしながらも、最終的には栄光をつかむ」、あるいは、「目的を完遂する事が出来ず、その途上で力尽きて倒れる」、そんな泥臭い、否、人間臭いストーリーは、今時流行らないって事だろう。
要するに、「それを美しいと感ぢるかどうか」と言う、“こころの振動”よりも、勝つか負けるかと言う“現実”の方が、重要なのだ。
もっとも、それだけ日本は・・・否、日本人は、現在、貧しいのであろうが・・・。
潔い敗北より、不誠実かつ強引なやり口も厭わぬ、醜く恥ずべき勝利。
勝利者だけが愛されるに値し、負けた者は疎まれ嫌われ蔑まれ忌み嫌われる。
・・・良いぢゃないか。力のあるものが勝つ。それがこの世の掟ならば。
そもそも、ボクシングと言うスポーツ自体が、弱肉強食の世の中を、四角いジャングルの中において再現した競技なのだから・・・。
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