本来は、ご主人様自身が、不景気であると言う現実を受け止め、自分が少々我慢して、利益を奴隷達にも分け与えれば、奴隷はそれで買い物し、最終的に、その利益は再び、ご主人様に還元されると言うのに・・・。
ところで、ボクシングが流行らなくなったのも、「ハングリー精神があれば何かを変えられる」と言った愚かな幻想が、近年の裏情報暴露社会において、木っ端微塵に打ち砕かれたせいであろう。
突き詰めて考えれば、QPちゃんと亀の試合における裏工作や、金や権力にものを言わせた過剰な演出も、すべて、大衆が求める理想像に応えただけに過ぎない。
何故なら、多数の人間が群がるもの、行列の出来る店、華やかに勝ち続ける者、ワールド・カップやら何やらの大イベント、そんな派手な催し物や、お祭騒ぎばかりに夢中になって、「勝ったり負けたりしながらもツコツと夢を叶えていく」と言った、“泥臭く地味な努力”になど、殆どの人間は見向きもしないのが現実ではないか。
もちろん、それらを煽るマスコミにも責任はあるだろう。だが、彼ら(マスコミ)も商売であり、客商売であるからには、報道の姿勢やモラルすらも、しょせん、客(大衆)のニーズに応えているに過ぎないのである。
そう、すべては商売。・・・と言うか、多額の金銭を徴収するため、より多くの人を振り向かせるためには、仕方の無い事なのだ。
ただし、勘違いしてはいけない。「金儲けが悪い」と言いたいのだと、そう短絡的にとってもらっては困る。そもそもの諸悪の根元は、“貨幣制度”なのだが、その問題に触れるとややこしくなるので、今回の所は置いといて・・・。
要するに、勝ってる時だけ応援して、負けたり人気が衰えたら、さっさと離れて行く様な、勝敗や流行や風潮や権威ばかりに囚われ流され群がる人達を相手に商売するのは、大変だって事だ。
確かに、人は勝つために努力するのだし、努力の末に勝利を手にした者が褒美を得る事、そのルール自体を否定はしない。
しかし、対戦相手に勝敗を左右されるスポーツ、すなわち、自分が努力しただけではどうにもならない事もある競技、お互いの殴り合いの末に勝敗を決定する熾烈なボクシングにおいて、試合に負けた人間が、本当に“負けた”のであろうか?と、私は常々考えていた。
むろん、対戦相手に負けた事は事実。しかし、その試合を観て、「結果的には負けたけど、よくあそこまで闘った」と、観客が感ぢたならば、観ている者のこころを打ち負かしたその男を、誰が敗者と呼べるだろうか。
感動や“こころの充足”よりも、勝敗や人気重視、すなわち本当にボクシングを好きでもない観客の顔色ばかりを気にした挙句、ボクシング界は荒廃したのである。・・・とは言え、それも不景気ゆえ、生き残るためには仕方の無い事であり、滅びるものは、滅びるべくして滅びるのかも知れないが・・・。
また、確かに、上位にランキングされている強い選手同士の試合の方が、技術やかけひきのレベルも高く、観る価値があると言うのも事実であろう。だけど、ベルトを賭けた派手な世界戦ぢゃなくたって、深夜にテレビをつけて、たまたま観た試合に、こころを揺さぶられる事だってあるはずだ。
もっとも、こんな私の意見は、単に“負け犬の遠吠え”ならぬ、“負け組の言い訳”にしか過ぎない事くらい、充分自覚しているつもりである。
だが、既に到達し完成された人間よりも、目的の達成を目指す途上にある未熟な人間の流す血と汗、涙や鼻水、どうにも安定しない不完全なこころの葛藤や振動にこそ、私はどうしても、こころを揺り動かされてしまうのだ。
何とも愚かな話ではあるが・・・。
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