Mr.エレクトの独り言 2006年08月16日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

ハニカム

先日、私の友人達に評判の良い、ハニカムと言うバンドのライヴを観る事が出来た。そこで、私なりの感想をば・・・。

ハニカムとは、ブレーキの壊れた自転車に乗って、坂道を下って行く様なバンドである。

彼らの音楽性を簡単に説明するならば、基本的には、超ラフなガレージ・パンクに、ちんどん屋テイストを加味したものであるが、中には、様々なジャンルの音楽の要素を加えた演劇的構成の曲もあり、持ち札の多さも窺える。聞くと、ライヴ毎に何かしらテーマを決めて演っている様だ。また、現在はベース募集中との事で、この日のライヴ演奏は、ベース・レスによる偏った音色と、矢継ぎ早に繰り出されるショートな楽曲群が、オシリペンペンズなどを連想させるものであったが、後にベーシスト在籍時の音源を聴いた所、なかなかにハード・ドライヴィングなサウンドであった。

それでは、メンバー紹介。

ギターの龍一氏の創る曲は、直感や発想をダイレクトに反映させた、非常に直裁的なもので、それゆえ虚飾や脚色の少ない直情的な作風となっており、金属を擦り合わせる様なヒリヒリしたギターの音色と相まって、ある種、何かを創り出すと言うよりは、むしろ破壊する感覚に近いものを、私は感ぢる。

ドラムの渉氏は、バンドを支えリズムをキープするのでは無く、煽ると言うか、あるスタイルの楽曲に適したテンポと言うものを無視した、生き急ぐ感覚に溢れており、つまずいた勢いで前のめりに破滅の坂を転がり落ちるかの如き加速感が、聴き手の感覚を必要以上に高揚させる役割を果たしている。

そして、戸川純を彷彿させる、女性ヴォーカリストのセシル嬢。その壊れっぷりと、演劇的な要素をも含んだ、徹底的に声色を使い分ける能力は、男性の保護本能をくすぐり、同時に、聴衆が真実とフィクションとの境界線を見極めんとする真っ当な行為すら、愚の骨頂であるとあざ笑うかの様な、狂った独裁者の如き危うさがあり、それこそが、彼女の最大の魅力であろうか。

自ら進んで、ブレーキの壊れた自転車に乗りたがる者など居ない。だがしかし、もし仮に、それでもブレーキの壊れた自転車に乗る人間が居るとするならば、それは、“ブレーキの壊れた自転車に乗ると言う事がもたらすリスクを知らない者”か、あるいは、そのリスクを踏まえた上で、なおかつ、“ブレーキの壊れた自転車に乗ると言う事のスリルを楽しむ事の出来る人間”である。

あなたが後者であれば、間違いなく、ハニカムを好きになるであろう。

ただし、ハニカムを好きになると言う事は、ブレーキの壊れた自転車で坂道を下ると言う事であるからして、その後のあなたの人生がどうなろうと、一切、保障など無い。

よって、「それでも結構!!」「望むところだ!!」と言う方にのみ、私はハニカムをお薦めするものである。

★ハニカム「ハニカムの異常な生活」
全5曲収録(CD-R作品)¥500
~ライヴ会場及び、当店にて通販可能!!
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その後の、“断絶間”

さて、デビュー・ライヴでは、ヴォーカルが聴こえず、本領発揮とは行かなかった“断絶間”であるが、あれから3度ほど、そのライヴを観る機会があった。中でも、池袋手刀でのライヴが、小屋も広いせいか見やすく、特に印象に残った。

ところで、“断絶間”同様、漢字3文字のバンド名を冠した、かのスターリンの前身である“自閉体”とは、未だ、「どうやればパンクになるのか?」すら解らなかった時代における、手探りの試行錯誤の途上に咲いた徒花であり、若気の至りが生み出した大いなる勘違いの産物であるのだが、それゆえに“自閉体”のサウンドは、形にならない初期騒動がいびつなままむき出しとなっており、ある種、本来の意味での“パンク”足りえたのだと、私は考える。それでは、“断絶間”とは、日本のパンクの歴史において、如何なる立ち位置を獲得しているのであろうか?

ちなみに私は、断絶間を、当初、“ずるい”と称し、そして後に“意地悪なバンド”であると称した。

何故ならば、もはや現代は、「どうやればパンクになるのか?」「どうやればカッコ良く見えるか?」「どうやれば客が喜ぶのか?」と言うマニュアルを、当然の如く知り尽くしている事が大前提であるにも関わらず、彼らは、あえてそれを外し、意識的に避け、斜め横を向き、平気で後ろ姿を見せるからである。

そもそも、断絶間の音や演奏を、言葉で表すならば、“陰”であり“鬱”であり、そこには、“降り止まない雨”や“長引く泥沼の戦争”、“出口を見出せない自問自答”、“終りなき苦悩と葛藤”、等のネガティヴなイメージが、べったりとまとわりついている。もし仮に、彼らの音に爽快感があるとすれば、手首をカミソリで切った時に噴き出す血のほとばしりに近い性質のものであろう。

具体的に述べるなら、ヒステリックな音色のギター、太くうねるベース、タイトでメリハリのあるドラム、これらを組み合わせて出来上がるのは、通常、ちょっと激しくノリの良いロックン・ロール、あるいは、極上のパンク・ロック・サウンドであるはずなのだが、彼らの楽曲は、「楽しませてくれるのが当たり前」と言った、能天気なリスナーの安易な期待を裏切る、“悪意”(あるいは、明確な意志と呼ぶべきか・・・)に満ちており、その姿勢は、パンク・ロックの精神と言うよりは、むしろロックを否定しながらも、実は極めてパンク的であったP-MODEL等、テクノ~ニュー・ウェイヴ系ミュージシャンに近いものであると、私は感ぢた。

また、ミーハー的な観点から見ても、鮎川誠ばりの細身の男性ギタリスト“ヤミに”氏、小柄なマスコット的存在のベーシスト“オオイ”嬢、理知的かつ端整なたたずまいのドラマー“梶”嬢、・・・と、ロック雑誌やファション雑誌のグラビアを飾ってもおかしくない、この3名が演奏を始めたら、誰もが、“既にカッコイイとされて(定義づけられて)いる”パンク・ロックの演奏が始まるものと、期待するであろう。

しかし、そこに、ヴォーカリストの“窓野(←改名したらしい)”氏が、まさしく、平和な食卓を台無しにするために、窓から忍びこむ侵入者の如く、ステージに登場するのだが、この男、“引きこもり”か、あるいは、’70年代の田舎の暴走族が着る様なジャンパーを羽織り、顔には大きな白いマスクと言う、不穏かつ不審極まり無い出で立ち(いでたち)なのである。そして彼は、時折、目をカッと見開き覚醒する瞬間を垣間見せはするものの、基本的には、猫背でうつむき加減に、まるで恨み言か呪文を唱えるかの如く、しかも感情を押し殺した様な低い声で、ただただひたすら、呪いに満ちた言葉を吐き出し続けるのであった。

その在り様を見て、私は、見慣れない生き物に対する“畏怖”を覚えると共に、しかし、猛烈な感動に襲われた。

「少なくとも、ライヴ・ハウスのステージにおいて、こんな人は、今まで観たこと無い」・・・と。

そして何故だか、私は、このヴォーカリストの姿が、頭に焼き付いて離れなくなってしまった。

その理由はきっと、彼が、遠藤ミチロウにも、町田町蔵にも、日影晃や長谷川ヒロトモ、あるいは、“既に存在価値を認められている、どこかの誰か”になど、なろうとしていないからであり、更には、ロックン・ロールの作法や、パンク・ロックのマニュアル、果ては、現代社会を支配する“カッコ良さの定義”にすら、隷従していないからであろう。おそらく、彼が尊守すべき“ルール”とは、あくまでも自己の価値観や美意識に忠実であると言う一点のみに尽きるのだ。

(断っておくが、筆者は、ジョニー・サンダースも大好きであると言う様に、超ミーハーな部分も備えた男なので、単なる変人好きや悪趣味であるとの誤解無き様に・・・。)

更に言えば、断絶間の意地悪な部分、すなわち、目的意識に貫かれた頑固なまでの徹底度と、古いしきたりに阿(おも)ねない潔さこそが、本来、パンク・ロックが掲げたアティテュード(理念・思想・姿勢)である、“個人の自由な精神の解放”以外の何物でもないと言う事実は、何とも皮肉な話ではなかろうか。

ゆえに、仮に、まんまと彼らの術中に嵌り、断絶間を好きになってしまったならば、それすなわち、“独自な価値観の提示”や“自主的なスタイルの創造”に対し、理解を示したと言う事であるからして、その姿勢に共感する事はあっても、彼らに何かをしてもらおうと、ましてや、安易に楽しませてもらおうなどと考えてはいけない。

何故ならば、“リスナーの依存心や安心感を覆す事”こそが、“リスナーの期待を裏切らないでいられる”誠実な方法論の一つであると言う事を、彼らは、充分心得ているからである。

果たして、今後、彼らの“意地悪さ”と、“権威(すなわち、しょせん一時の流行でしかない既存の価値基準)に対する反逆精神”とが、まさしくパンク・ロックの最大の効用たる、“自分で物事を考えない人間に対し、覚醒のきっかけを与えるカンフル剤”となり得るのであろうか?

断絶間が目指すものとは、一体!?

ああいかん!!既に、私も考えさせられている!!

★断絶間の、全7曲入りのCD-R作品が発売されマシタ!!現在は、ライヴ会場でのみ販売中。なお、次回8月25日のライヴを最後に、来春まで活動休止する模様デス。

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「マリア観音」ライヴ報告書(2006年5月31日/後編+7月13日)

★5月31日<第3部>弾き語り

後半は弾き語り。この日は、歌詞の意味が解る様、ハッキリと言葉を発音するのでは無く、むしろ音響的に使用。前半の風景画の如きドラム・ソロと同様、心象風景を音像のみで描写するかの歌唱法が用いられていた。

★7月13日<第1部>弾き語り

そして、この日は再び、歌詞を丁寧に発声する、従来のスタイル。しかし、何と言っても、最近のヒットは、歌唱パート終了後のインスト部分において、多重録音SEをバックに奏でられるギター・ソロ。これが、何度聴いても素晴らしい。緩慢な空気を徹底的に排除し、曖昧な音を極限まで削ぎ落とし、厳しく選び抜かれた音塊。どれほど自己を律すれば、あの様な、贅肉を絞り抜いた、鋭く尖った刃物の先端の如き音色が出せるのであろうか。また、それらは、哀愁に満ちた楽曲と相まって、“無念の情”と言うものを想起させ、多くの人間が、日常、まともな社会生活を営むために、こころの奥に押し隠し、抑圧している、孤独感や疎外感と言った感情を、強烈に喚起させるのである。

<第2部>ゲスト:西川裕一・崎田武志

ゲストは、打ち込み~ギター~キーボード他を様々にからめながら、情景描写的なインストゥルメンタルを奏でるデュオ。過去に音源等は作成していたが、このデュオでの生演奏は初めてトノコト。ゆえに、未完成な部分も多く感ぢられたが、その緩やかな音像は、サイケデリックな感触もあり、構成が上手く行けば、もっと陶酔感が得られるサウンドになるのでは?との期待が持てた。しかし、崎田氏は音楽を演るために渡米するそうで、このデュオでの演奏は、とうぶん無さそうなのが残念である。

<第3部>ドラム・ソロ

今回は、同日の弾き語り同様、前回の美術家的素養を反映させた演奏から一転、再び、「技は力の中にあり」とばかりに、非常にパワフルな演奏であった。木幡のドラム・ソロ演奏の歴史も長いが、それら二種のパターンいずれも、そのスタイルが完成されつつあり、今回も、やり過ぎる事無く、演奏中、心地良い緊張感を持続し得たのではないだろうか。

★いずれにせよ、やはり、マリア観音/木幡東介の魅力は、ライヴを観てナンボなので、貴方も、自分で足を運び、自分の目や耳で判断して欲しい。なお、遠方でお越しになれない方のために、以下、会場売りオンリーの2作品を紹介しよう。

★各1000円(CD-R作品)~いずれも無題。当店にて通販可能。←詳細

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①(画像左)全5曲収録の、ギター・ソロ・パフォーマンス。多重録音SEをバックにした、エレキ・ギター演奏。

②(画像右)全8曲収録の、エレキ・ギター弾き語り作品。ヴォーカルを数回被せる等の、新しい試みがなされている。