Mr.エレクトの独り言 2006年08月27日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

告白

ウフフフ・・・。

回りくどいものの言い方、大好き!!
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説教

ぐだぐだ言いやがって、「イヤなら出てけ!!」って?

ウフフフ・・・。

親にも良く言われたよ。

「イヤなら食べるな!!」・・・ってね。

駄目人間のつぶやき

一緒に暮らす旦那(駄目な競走馬)を責めても仕方無い。

目の前に居る子供(自分より更に弱い者)を虐待しても意味が無い。

負の連鎖、その繰り返しでは、根本的な問題は何ひとつ解決しない。

また、奴隷(この世の掟に従わないと生きていけないと思い込まされている者)に怒りをぶつけてもしょうがない。

ただ、資産の量が多いほど偉いと言う価値観、すなわち、家畜の数を競うかの様な現代の価値観に関して、一度、疑いの目を向けてみる事は、必要かも知れない。

“与えるものの量”より“奪うものの量が多い”人間の方が偉い?

“偉い人”とは、どう言う人の事を指すのか?

・・・とは言え、これで良いのかも知れないと言う思考が、不意に頭をよぎる。

この世は、弱肉強食で良いのではないか?・・・と。

本来、人間とは、利己的なものなのだから、その本能を最大限に発揮出来る能力のある人間、すなわち社会的強者が利益を独占するのは当然であり、皆が、それに憧れ、そうなりたいと考える事も、必然なのかも知れない。

何故なら、利己的な本能とは、種族保存のためにあり、そのためには、何よりもまず、自分の生命を維持する事が最優先されるがゆえ、その本能や能力が、弱いよりは強い方が良いに決まってるからである。

ただし、それとは反対に、利己的な本能を抑える事こそが正しくて、それこそが動物には無い、人間だけに備わった素晴らしい特性であり、可能性であると言う考えも、捨てきれない。

鳥の翼は何のためにあるのか?

魚のひれは何のためにあるのか?

ライオンの牙は何のためにあるのか?

ヒトの理性は何のためにあるのか?

否・・・。

ヒトの本能は何のためにあるのか?

そう考えると、やはり、私の考えは間違っており、負け犬の愚痴でしかない事が、良く解る。

この世は、人間は、利己的に生きるのが正しい。

自分の血を保つため、家族を作り、守り、幸せにし、自分の家系を永きに渡り繁栄させる事こそが、ヒトとしての真っ当な生き方なのだ。

ただし、そのためには、先祖から受け継いだ権力や資産を基に、家系を繁栄させ、維持していくための能力と言うものが、必要不可欠となってくる。

ゆえに、生まれた家系、家庭、環境、いかなる理由を考慮に入れようとも、それが出来ない人間は、単なる駄目人間なのである。

トナルト、最大の問題は、「駄目人間に生きる資格はあるのか?」と言う点に尽きる。

まあ、資格が無くたって、生まれたからには、生きて行くしかないのだが・・・。

とは言え、被搾取階級(奴隷の家系)に生まれ、能力も無いのであれば、せめて、この肉体を流れる支配者体質的利己心が、一刻も早く、そして少しでも薄まってくれればと、私は、ただただ願うのみなのである・・・。

世の中に認めてもらうには・・・<一部訂正済>

何と言うのか、「自分の考えや、行為、作品を世の中に認めさせる」と言う事は、本来の意味からすれば、世の中、すなわち「他人に自分の考えを“認めさせる”」事であり、「世の中や他人の価値観を変える、あるいは覆す」事であるはずなのだが・・・

世の中に“認められる”には、ある程度、世の中のルールに従わなければならないと言う矛盾。

“認めさせる”と、“認められる”の違い。

そして、“ある程度”とは、“どの程度”なのか?

「世の中に自分の存在を認めさせる」と言う事が、「世の中に自分の存在を認めてもらう」事であるならば、それは要するに、受身的に“してもらう”訳で、そんなものが自己表現だとか、真の自主独立と言えるだろうか?

答えは、ノーだ。

そもそも、世の中が認めようが認めまいが、明らかに自分は生きて存在しており、色々な事を考えたり行ったりしている訳で、それを認めろとまでは言わないが、必要以上に、その存在や価値を否定される謂れが、何処にあろうか?

「解ってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか」とは、チェッカーズの歌であるが、例えば、確かに食べてはいけないものと言うものがあり、生命に損傷や危険を及ぼすものは、食べるべきではないだろう。しかし、日本では喰わないと言うだけで、とある国においては、芋虫が栄養満点の豪華なデザートである場合、それを喰う事に、何ら問題は無い訳で・・・。

要するに、あくまでも、地域限定、時代限定に過ぎない価値観、それも、生き物の生き死にに関わる事柄ではなく、ましてや、ヒトを支配し搾取し家畜化するために植えつけられた価値観なぞに、認められる必要が、どこにあろうか?と言う事を言いたい訳である。

他人を傷つけたり、自分の命を粗末にしているのならばともかく、変人だとか、流行遅れだとか、競走馬失格だとかの評価に対し、劣等感を感ぢる必要は、どこにも無いと言う事だ。

とは言え、短絡的に、少数民族だから、貴重ゆえ価値が高いと言う訳でもない。

要は、この地に存在するために、どれだけ、ご主人様に従順であるか、家賃をどれだけ支払っているかと言う点が、人間としての価値を計るバロメーターであろうはずがないと言う事だ。

認められようが認められまいが、居るものは居る訳で、自分勝手な誰かさんの都合で、益虫と害虫に区分されてたまるか。

区分するなら、家畜度、逆に言えば、自主独立の度合いによって判断して欲しい。

・・・って、だからこそ、家畜度の低い者は、今の世の中では、駄目人間扱いされると言う事も事実ではあるが・・・。

世の中に認められると言う事は、現在の世の中を利己的な目的で動かしている一握りの人間達に誉められる事でしかない。

ゆえに、結論を言えば、劣等感を感ぢる時点で、貴方も私も、既に、この世の価値観に大きく左右されていると言う事でもある。

むしろ、劣等感、否、罪悪感を感ぢなければならないのは、自分達の利己的な目的のためだけに人間を家畜化しようとする、一握りの人間達の方なのだ。

よって、私は、“世の中に役立つ人間”、すなわち、“優秀な奴隷”になるよりは、むしろ、“世の中の役に立たない人間”の役に立ちたいと思うのである。

誰をも傷つけず、奪わず、犠牲にせず、自分の命を喜ばせる様な生き方をしている人間に、私はなりたい。