風邪ひいた
汁便しか出ないので、インフルエンザみたい
臨時Q業してマス
スポンサーサイト
自業自得と言うよりは、自業自損ではないのだろうか?
何にせよ、これも身から出た錆であると、素直に受け入れるべし。
私は音楽を聴く時に、その演奏者の“目的”が何であるかと言う事を最も重要な判断基準と考えるがゆえ、常日頃から、それを少しでも知ろうと、思考をあれこれ巡らせる様にしている。
もちろん、特に好きなもの(社会に順応出来ず、生きて行く事が困難な人間の、抑圧に対する衝動的な反発等・・・)であれば、直感的に判断出来ると言う自負はあるが、当然の事ながら、この世、そして音楽を演る人間が、すべてそう言う人種では無いゆえ・・・。
よって、自分の好き嫌いで選ぶと言う、ある種、エゴイスティックな(←本来、そうあるべきであり、それに何の問題も無いのであるが・・・)ジャッジでは無く、そのアーティストを客観的に評価しようと考えた場合(←それさえ、する気を起こさせない表現者も多いが・・・)、何よりも基準とすべきなのは、自分の嗜好はもちろん、“専門家(ある特定の目的においては力を発揮するが、決して多角的とは言い難い)の視点”や“世間(大多数の他人)の評価”と言うモノサシでは無く、演奏者本人の目的、すなわち、本人の“意図”がどれだけ達成されているか?“真意”がどれほど伝わっているか?と言う点であると思う次第なのである。
ゆえに、例えば、フラストレーションを解消する事だけを目的に音楽を演っている人間が居るとして、そのアーティストに対し、「ファンが少ないから」だとか「カッコ悪いから」だとか「演奏が下手だから」だとかの一方的な価値観によって「良くないものである」と言う判断を下す事、それ自体は個人の勝手だが、その基準を強引に押し付ける事は、他人の生き方にケチをつけるかの如き、ナンセンス極まりない行為なのである。
もっとも、それが聴きたくもないものを無理矢理聴かされる事であったり、他人の自由を強制的に妨げたり、奪うものなのであれば話は別だが。
・・・とは言ったものの、「その目的(生き方)自体が許せない」と言う言い方も出来るし、自分の嗜好、あるいは、世間で大手を振っている価値観や多数意見でジャッジする事が悪いと言っている訳でもない。
ただし、仮に、自分の価値観が絶対的に正しくて、他の価値観はすべて間違っていると考えるのであれば、その逆の仕打ちをも受け入れる覚悟があると言う事でもあると言う点は、自覚する必要がある。
何故なら、貴方自身が、現世において自分の望むままの成功を収め、自分の考える形状の幸福を手に入れた不満の無い精神状態であるならともかく、そうでないならば、自分が何に対して怒りを覚えるのか、あるいは何によって苦しめられているのか、その原因を突き詰めてみれば、それは自分以外の人間による、「他人の価値観(幸福の形状の多様化)を認めない」と言う考え方からもたらされる、謂れの無い劣等感である事が多いからである。
他人の人生や生き方に干渉する事は、それが如何なる思いやりや愛情に基づいていようとも、基本的には「余計なお世話」である。
そして、他人に対して「余計なお世話」をする人間は、同様に、実は他人や世間から「相手にして欲しい」、あるいは「認めて欲しい」気持ちの強い人間である。
よしよし。そんなに構って欲しければ、私流の「余計なお世話」の言葉を贈ろう。
「貴方は、もっと自分を大切にすべきである。百万人の人間が、貴方の事を幸せであると認識しようが、貴方自身が自分を幸福だと感ぢない限り、それは本当の幸福でも何でもない。」
・・・とは言え、この世は、ある特定の価値観に対し、“早く降伏した者”から順番に幸福を得られる様に、意図的に形作られている事も事実。
話がそれたが、要するに、私が面白いと感ぢる音楽と、面白くないと感ぢる音楽の違いは、表面的なスタイルではなく、明らかにその本質的な部分なので、私を理解しようと言うのであれば、そこまで踏み込まなければ、絶対に無理であろうと言う事なのだ。
・・・と言うか、そもそも、他人を理解すると言う事、そして“音楽を聴く”と言う事は、そう言う事であると、私は考えている。
まあ要するに、私はある種、“音楽”よりも“人間”に興味があり、“鑑賞”する事、すなわち受身的かつ受動的に“干渉”されるよりも、主体的かつ能動的に“観察”及び“分析”する事の方が好きなのだと言う事なのであろう。
トナルト今後は、自分のプロフィール欄を、「趣味:音楽鑑賞」から、「悪趣味:人間観察」にでも変更せねばなるまい。
超・遅ればせながら・・・。
★ゴキブリコンビナート第21回公演「アンドロゲン・レインボー」2006年9月15~18日。会場:中野光座。
中野光座とは、中野駅から徒歩2分、私の自宅からも自転車で5分の場所にある、おそらく元は映画館だった建物。
よって今回は、舞台があり、きちんと座席のある小屋での公演。
しかしながら、あのゴキコンの演劇が舞台上のみで収まるはずもなく、早速、舞台中央から客席後方に伸びる花道の様な通路や、開場の左右壁際通路にて、役者の熱演が始まり、舞台手前右前方で観劇していた私も、出演者の唾を目の前で浴びるはめに・・・。
そしてそして、客席の頭上全体を覆う様に、丸い穴のたくさん空いた大きな板が天井の如く設置されていたのだが、劇中、突如、その板が下降。まさか観客全員が押しつぶされるのか?と思いきや、「あっ!そうか!!」・・・。何と、肩付近まで下降した天板の丸い穴から観客全員が首を出し、観客席は、まるで「もぐら叩きゲーム」のもぐらが地面から顔を出した状態、あるいは、ギロチン絞首刑後に、斬首した生首がずらっと並べられたかの如き状態に・・・。
そんな状態のまま、観客の生首が突き出た地面、すなわち天板の上をも舞台と化し、縦横無尽に走り廻る出演者達。更には、醤油を口から噴出したり、果ては天井から吊るした木の枝に何人もがぶら下がり、ジュースを飲み出す始末。下に居た人は、いつ飲み物をこぼされるかと気が気でなかったものと思われる。
とまあ、いつも通り、会場全体を利用した特殊なセットもさる事ながら、相変わらずの身体を張った危険な芝居ゆえ、人身事故にだけは気をつけて頂きたいと、心配なぞもしてみたりして・・・。
さて、それでは物語の内容であるが、良く考えてみれば、後にDVD-Rで販売もしている様なので、あまり解説するのは良くないかなとも思いつつ記すが、やはり前回の公演から日数もわずかであった事から、フライヤーに記載されていた当初のストーリーからの変化が見られ、短期間で無理矢理仕上げた苦労の跡が窺えた。とは言え、相変わらずのゴキコン節と言うか、社会の底辺に蠢く者達が憎み合い罵り合う生き地獄の連鎖の果てに、何故かハッピー・エンド(?)が待っていると言う、八方丸く収まる(?)エンディングは、流石、生命力の強い“ゴキブリ”を劇団名に冠しているだけに、虐げられた者達にとっては救いの福音書となるものであった。・・・のであろうか?(^^;)
何にせよ、臭い物に蓋をするのでは無く、汚いものや醜いものをとことんさらけ出す事によって、人間なんて偉そうにしていても一皮剥けば皆同ぢと言う批判精神溢れるメッセージを、上からの目線ではなく、社会の底辺である最下層から突きつけるかの、ゴキブリコンビナートの活動及び理念には、半ば呆れつつも、賛同の意を隠せない私なのであった。
ゴキブリコンビナート。それは、“奇麗事”を徹底的に排除した、現実直視的本質追求型の演劇集団なのである。
でも、実際に、ゴキコン演劇の登場人物達みたいにはなりたくないな~・・・。
なんて言ってみたりして・・・。(^^;)
(報告オワリ)
★↓当日のフライヤー。
★以下の様なメールが来マシタ。
----------------------
オムニバスCD参加バンド募集
対象/都内または都内近郊で活動中のバンド
参加費/1バンド1曲¥32.000(税込み)
審査あります。
出来上がったCDは1バンドに100枚ずつお渡しいたします。
定価は¥1000を予定していますので、ライブ会場などで販売してください。
完売すれば1.000円×100枚で・・・
流通にも流す予定です。特に反響が良かったバンドは単独でのリリースも予定しています。
単独リリースのステップを踏まえてさらに人気が出れば、メジャーへの展開も可能です。
現在7バンドの参加が決まっております。
規定数(12バンド)に達しますと今回の企画は終了いたします。
発売は来年2~3月を予定しております。
特に素晴らしいアーティストには
単独でのリリースもあります。
※参加バンドが規定数に達しますと修了いたします。
詳しい情報は下記フォームに必要事項を記入の上
送信ください。
追ってこちらからご連絡いたします。
コチラからご応募できます。質問等もこちらから↓
http://・・・・・・・・・
----------------------
★詳しい情報どころか、ホーム・ページはもちろん、会社名や連絡先の記載すら無く、貼付されているアドレスをクリックしても、いきなり応募フォームが出るのみ。当然、質問欄も無し。自分が誰かも名乗らず、他人の個人情報をいっぱい記入させた挙句、「追ってこちらからご連絡いたします。」って・・・。
良く考えると、前回の記事は、具体的な解決法を示しているとは言い難かったので、その続編。
結局、資本を持ちえないがゆえに、己の時間と労働力を切り売りする以外に術の無い、我々持たざる者を洗脳し、競争させる事によって利益を吸い上げる、この社会システムを変革しない限り、いぢめが無くなる事など有り得ない。
とは言え、現体制の支配者階級が、そんな事を容認する訳ないのであるからして・・・。
トナルト、大人の社会は、競争によって進歩(←それが必ずしも良い事であるとは限らないが・・・)や発展してきた訳だから、一概に競争を無くすのもどうかと思うゆえ・・・。
とりあえず、子供達のいぢめ問題に限定すると、二つの解決方法が考えられる。
まず一つ目は、勉強、スポーツ、その他、もっと別の事で競争させる。何となくだが、昔は、勉強できる奴やスポーツ出来る奴がはっきりと認識されており、そこで優越感を得られる様になっていた。また、それらが不得意なものも、不良グループを作る等して、自己の存在を認知されたいと言う欲求を満たせる方法が何かしらあった様な気がする。それが今は、あまり無いのではないか?つまる所、いぢめと言うものの本質は、何らかの不満なり抑圧のはけ口を自分より弱い者に向けて、溜飲を下げているだけなのであるからして、それを満たしてやりさえすれば、陰でこそこそ、いぢめなんて面倒臭い事はしなくなるのではないか。よって、勉強やスポーツはもちろん、文化祭でロック・バンドを演らせるも良し、ダンスを披露させるも良し・・・と、何かしら得意分野で能力を発揮させ、欲求不満を解消させてやれば良いのではないだろうか。
えっ!?何の取り得も無い奴はどうすれば良いかって?
そんな奴はいぢめてしまえ!!・・・と言うのは嘘で、うさぎを飼って虐待するとか、カエルを解剖するとか・・・ってのも冗談で、そうさねえ、教師がいぢめられ役でも買ってでたらどうかしら?
・・・て言うか、いぢめっ子も、自分の存在価値を認知して欲しいと言う欲求を満たしさえすれば、誰かをいぢめる(弱者を虐待し優越感を得る)必要も無くなるのだから、少なくとも、いぢめっ子の人口が減れば、現在ほどの悲惨ないぢめは無くなるのではいないだろうか。
さて、それでは二つ目の方法。現在のいぢめは、しょせん大人の社会構造を反映しているに過ぎない訳で、怒れる若者が、そんな下らない大人社会の真似をしてどうする!?ってなもんであるからして、ここはやはり、大人社会へ大いに反逆してもらいたい所である。ス・ナ・ワ・チ、弱い者をいぢめるのではなく、社会的強者をいぢめるのだ。例えば、金持ちの息子とかね。この場合、安月給の平教師も一緒になって、日頃、校長からいぢめられている憂さを晴らしても良いかも知れない。そうすれば、その子も大人になってから、親の真似をして、持たざる者から搾取する様な非人道的な真似をしなくなるかも知れな・・・って、逆効果?
・・・と、それらは、半分冗談として・・・。
ト・ニ・カ・ク!!大人は子供の鑑なんだから、大人社会からいぢめ(による搾取構造)が無くならない限り、そして被搾取階級の人間が、強い者に抵抗する事なく、弱者を踏みつけにして優越感や安心感を得る様な生き方をしている限り、子供のいぢめが無くなる事は有り得ない。
そもそも、自分もいぢめられっ子であり、そして、いぢめっ子でもあるくせに、「いぢめは良くない」だとか、「いぢめを無くそう」だなんて、偉そうに上からものを見る様な言い方するんぢゃない。
いぢめを容認している(いぢめに屈している)人間が、子供に正義や真理を説いた所で、何の真実味も説得力も無い。
子供達は言うだろう。
「大人だって(いぢめを)やってんぢゃん!!」・・・と。
逆らうつもりはゴザイマセン。
「従わない」と言うだけの話デス。
結局、“向こう岸に渡った人間の言い分”なんだよね。
続きは夜書くが、これがどう言う意味を指しているのか、各自、考えておくように。
つづく・・・。
<追記>
・・・と思ったが、今夜も仕事ゆえ、無期延期。
いぢめ問題に関する報道より・・・
★伊○文科相は、子どもたちに「いじめは恥ずかしいこと、ひきょうなこと、すぐにやめよう」「一人で苦しまず、いじめられていることを話す勇気を持とう」と呼び掛けた。
・・・トノコト。
あのね。ダッタラ、大人にも言いなよ。「犯罪は恥ずかしいこと、ひきょうなこと、すぐにやめよう」ってさ。さぞ犯罪が減るんぢゃねえの?
そう。“いぢめ”は遊びや趣味ぢゃねえ。“犯罪”なんだよ。本当にいぢめをやめさせたいなら、いぢめなんかしてる奴はバンバン逮捕すりゃ良いのさ。
あと、「勇気を持とう」だと?
勇気がありゃ、はなから苦労なんてしないし、いぢめられ続けたりなんかしないんだよ!!
いいトシした大人が、それも、重要な職種・地位にある人間が、いぢめの悲惨な現実や、子供の切実な心情を認識しようともせず、能天気な事ばっか言ってんぢゃねえ!!
これ以上、将来に儚い希望を抱く子供達を“失望”させてくれんなよ・・・。
せめて、「“いぢめ”をやめてくれないと、オジサンも自○しちゃいマス~!!」ぐらいの事、言っても良いんぢゃないの?
あっ!!でも、もしかしたら、こうやって、いぢめの標的を自分に向けさせるために、わざとマヌケな事言ってるのカモね。
んなわきゃないか!!
「人からいぢめられないためには、人をいぢめる側に立つ事だ。」
と言うのは、一見、暴論の様ではあるが・・・。
しかし、そもそも、いぢめを行う者とは、既に別の誰か(何か)にいぢめられている(抑圧されている)立場であるか、あるいは、無意識にではあるが、いぢめられる立場になるのを怖れるがあまり、その恐怖から逃れようとして、いぢめる側に回っている場合が多い。
また、“いぢめ”とは、何も、身体に危害を加える事だけを指すのではなく、やりたくない事を強要されたり、その逆に、疎外されて孤独感を味わう事等の、精神的な圧迫による苦痛をも含んでいる。
よって、仲間外れにされる事を怖れる者は、『自分に何か特別な才能や個性がある訳でも無いくせに』、ただ単に集団に所属(または形成)していると言う安心感だけで、他人を見下したり、少数派の人間を迫害する事によって、“優越感”を得ようとするのである。
そう。『自分に何か特別な才能や個性がある訳でも無いくせに』・・・だ!!
そして、最も重要なのは、その“恐れ”の正体であるが、先に述べた、「既に別の誰か(何か)にいぢめられている(抑圧されている)」と言うのが、まさしくそれで、要するに、人間には仲間外れにされる事による“孤立への恐怖”と、人から見下される事によって“劣等感を抱く事への恐怖”が、意識的あるいは無意識的に、こころの根底にあり、常にそれらから脅迫されているのである。
・・・否。それらは本当に、元から“あるもの”なのであろうか?
もちろん、人間が生きていく(生命を保つ)上で、“集団を形成する”と言うのは、必然的かつ非常に有効な方策であり、それは本来、人間に備わった本能的な行為であるとのご指摘もあろう。しかし、本当にそうなのか。
私には、その“恐怖”が、何者かの意図によって植え付けられた“亡霊”あるいは“迷信”めいたものである様に感ぢられてならないのだ。
・・・とは言え、かく言う私も、仲間外れにされたり見下されるのはいやだし、怖い。
ところで、いぢめに遭う可能性は誰にでもあり、そこにはちょっとしたきっかけが必要であるに過ぎない。
しかし、いぢめられ“続ける”からには、やはりそれなりの理由が存在する。
いぢめられっ子は、“抵抗しない(出来ない)”から、いぢめられるのだ。
・・・とは言え、決して、それ自体が悪いと言っている訳では無い。そもそも抵抗出来るくらいなら元より苦労などしないし、せめて抵抗する気概がありさえすれば、いつまでもいぢめられ続けたりなどしないゆえ。
そして、いぢめっ子の心情は伺いしれないが、それは決して楽しい行為ではなく、おそらくは、歪んだ心中に巣食う消し去る事の出来ない恐怖に脅え、その反動から芽生える破壊衝動に、ただただ盲目的に追い立てられているに過ぎないのであろうと思われる。もしも、いぢめが楽しいなんて奴がいたら、それはただの性格異常か精神異常者であろう。
言わずもがな、誰かをいぢめる事によって、目に見えぬ恐怖から逃れたとしても、それは一瞬のごまかしであり、不毛ないぢめの連鎖を断ち切る勇気を持たない限り、こころに潜む不安が消える事は無い。何故なら、人をいぢめる人間は、自分を苦しめる本当の敵、すなわち“自分を脅かす無意識の恐怖”に対して、抵抗せず(出来ず)、目をそらし続けている臆病者に過ぎないのだから。
ゆえに、いぢめっ子もまた、本質的には、いぢめられっ子であると言う言い方も出来るのだ。
いぢめを無くす方法。それは、いぢめられっ子に対して、出来もしない自己改革を迫る事では無い。否、むしろ、彼らにとっては、それすら“いぢめ”に当たるかも知れない。何故なら、先にも述べた通り、それが出来れば元より苦労などしないし、いつまでもいぢめられ“続け”たりなんかしないからである。
いぢめを無くす方法とは、「いぢめをやめる事」、あるいは、「いぢめに対して抵抗する事」以外にはあり得ない。
だが、この世のシステムは、私達を“いぢめる事”、そして私達が“いぢめを連鎖させる事”によって生産性が上がる様に画策されている。トナルト、そんな現体制を構築し、維持する事によって利益を得ている既得権益者が、「いぢめをやめる事、すなわち転向したり改心する事」など有り得ないゆえ、本気で“いぢめ”を無くそうと言うのであれば、まずは、自分自身が「“いぢめの構造”に対して抵抗する事」、それ以外に道は無い。
真の勇気とは、どう考えてみても、弱い者や抵抗出来ない者から何かを“奪う事”などでは無いはずである。
“いぢめ”、そして“いぢめっ子”が非人間的なのは、他人を大事にしないからでもなければ、人間を人間とも思わないからでも無い。
“いぢめっ子”自身が、社会から“人間的な扱い”を受けていないからである。
そう・・・。非人間的な獣が牛耳る、この社会から・・・。
火曜日。憂鬱な日。虚弱体質のボクにとって、この日の学校は、耐え難い屈辱と断末魔の苦しみを同時に味わさせられる、地獄の儀式が待ちかまえている曜日なのであった。
・・・そう。全校朝礼。この無意味な苦行は、理不尽なる管理社会の縮図でもあり、この世における支配と服従の共謀関係をも映し出している。
しかも、前の学校では月一回だったのに、今度の学校では月二回と来てやがる。それに、ただでさえ体力が無いってのに、数ヶ月のヒキコモリ生活によって、ボクの身体は更に弱っており、撃沈してしまうのは、もはや時間の問題なのであった。
うう・・・。こうして立ってるだけでも、足がしびれて、頭の中から血が引いてくのが解るよ。
更に、よりによって、この日は、校長の黒原の訓話も長い長い・・・。どうやら、最近、いぢめによる自殺が流行してるため、うちの学校でもそんな事があると、自分の立場が危うくなるもんで、敏感になっているようだ。
黒原曰く「私の学校の生徒諸君は、いぢめなんてしてないだろうが、くれぐれも、そう言う非人間的な事はしないで頂きたい」・・・トノコト。
くっそう!!何言ってやがる。生徒一同を校庭に並べて、偉そうに長話してるお前のやってる事の方が、非人間的ないぢめ行為だっちゅうの!!だいたい、学校における厳しい規則や行事は社会に出た時のための集団行動の訓練だとか言うけど、別に皆が皆、そう言った管理体制の厳しい職種に就いたり、共同作業が必要な仕事をする訳ぢゃないし、それを無理矢理、皆同様、生徒全員に強制するなんて、ファシズム以外の何物でもないよ!!校長の黒原は、権力者の地位に上り詰めた愉悦に浸りたいがためだけに、ボク達生徒、並びに教師全員を自分に従わさせて喜んでる、ただのサディスト野郎だ!!
(・・・その時のボクは、その校長の黒原ですら、教育委員会から過大なるプレッシャーをかけられ、現在の地位を保つ事で精一杯の、社会から見れば弱者的な存在でしかないと言う事までには、思考が及んではいなかった・・・。)
うぅぐぐぐ・う・ぎ・ぎ・ぎ・ぎ・・・。脳味噌からは腐敗した汁がこぼれ出し、骨と関節は今にもバラバラに砕けてしまいそうだ・・・。
何で・・・。
何で・・・。
何で!!
何のために、こんな事しなけりゃならないんだ!!
わざわざ落ちこぼれを作り出すための、駄目人間を選別するための、まるで、管理社会への忠誠心を試すかの様な、この馬鹿げた苦役!!
これが地獄の儀式でなくて、何だって言うんだ!!
ぅぁぁああああああああ!!
ボクは・・・。
ボクは!!
・・・ピストルが欲しい。
(つづく)
ふと、思いついた。
メジャーになるにつれ、面白くなくなるアーティストが多いのは何故か?
もちろん、あくまでも個人的な話・・・ではあるが。
やはり、一人、あるいは少人数を相手にするより、大勢の人間を相手にする方が、より多くの人を同時に理解、更には共感させ得る題材を選ばなければならなくなるゆえ、内容が薄くなるのもヤモーエナイって事か。
失恋含む恋愛の歌がウケるのは、そのせいだ。
才能は別として、個性・・・と言うか自主性のある人間の歌が、大ヒットする様な事は有り得ない。
あと、メジャーになると、運営する側の人間も増えるから、ひとりぼっちで創作活動に打ち込む時間も減るんだろうな。
テナトコ。
★今回は、実験的に、思いつくままにバ~っと書いてみた。よって、文法のおかしな部分、意図の伝わり難い部分は、ご容赦願いたい。私の頭の中を覗いて見たつもりで・・・ネ。
仮に、人より優れているものの方が、“良いもの”であるならば・・・。
“優れた人間”になる事や、“良いもの”を所有する事は、素晴らしく望ましい事であると言う事でもあろう。
また、そこに介在する努力のプロセスや志向性もまた、素晴らしいものであるはずである。
・・・にも関わらず、何故に異性、それも伴侶、更には自分の子孫を残すに当たり、“優秀かどうか?”と言う志向性よりも嗜好性、すなわち好みが優先されるのであろうか。
もちろん、嗜好においても、“優秀かどうか?”と言う条件が含まれもするが・・・。
もしも貴方が、自分の家系に取り入れるDNAにも“優秀さ”を求めるのであれば、“自分の好み”などと言う、時に支配者の意図や世間の多数決とは無関係な条件を持ち出すのはおかしな話であるし、人間に成長や進歩を求めると同様に、駄目な相手はどんどん取り替えて、ヴァージョン・アップを図るべきではないだろうか。(←現に、そうしてる人も居るだろうが・・・。)
とは言え、“自分の好み”などと言うものは、住んでる地域や時代性と密接に関わっており、無意識のうちに植えつけられた多数決の価値観に洗脳されている事も多い訳で・・・。
そう考えると、見合いや政略結婚と言うものは、自由恋愛による結婚とは異なり、自分の家系に足りないものを補うと言う明確な目的を達成するに当たっては、感情に左右されずに済む、非常に有効な方法であるとも言えよう。
要するに、何が言いたいのかと言うと、“人より優秀である人間の方が素晴らしい”と言う価値観の持ち主は、“好み”すなわち異性を選ぶ条件にも、やはり“優秀さ”と言う項目があるのかな?・・・と、ふと思った次第なのである。
さて、それでは、優秀になると、どんな良い事があるのか?いかなるご褒美がもらえるのか?目的には、必ず動機があるゆえ、そこが最も重要な点だ。
つまり、そう言う人にとって、この世は、リターンと言うか、自分が何かをする事によって何かを与えてくれる、神様?あるいは社長サンみたいな存在なのであろうと思われる。
それとも、この世を支配する立場になるために(他人から合法的に何かを奪うために)、人より優秀になろうとしているのだろうか?
ともあれ、指向性でも嗜好性でも何でも良いが、結論として一つだけ言える事は、“この世は優秀な人間ほど得する様に出来ている”と言う事に間違いないと言う事であろう。
万国の持たざる者よ、努力、精進、昇級せよ。
バベルの塔を、もっと高く積み上げろ。
そして、この階級社会を牛耳る支配者の椅子を、更に磐石なものにするための“礎(いしずえ)”となるのだ。
“優秀”の美を飾れ!!
★あ~あ。結局、殆ど手直ししちゃった。(^^;)
理解とは、ただただ“認識する事”であり、それを許容するか拒絶するかは、認識した後で判断すべき事柄である。
ゆえに、自分の事を嫌いな人間が、自分の事を理解していないかと言うと、決してそうでは無く、“理解しているからこそ、嫌い”な場合もあると言う事だ。
また、“理解し得ないから、嫌い”な場合も、もちろんあるが、“誤解しているがゆえに、好き”な場合もある訳なのであるからして、“好き”だからと言って、必ずしも“理解している”とも限らない。
更に、“理解して欲しい”とは、“自分の偽りなき真の姿を知って欲しい”と言うよりは、“自分のここ(自分にとって都合の良い部分だけ)を見て欲しい”、あるいは“自分を高く評価して欲しい”と言う要求も含まれるがゆえ、自分と他人とで、その観点がずれる事は、いたし方の無い結果でもあるのだ。
そもそも、人は自分が一番可愛いゆえ、往々にして、他人に“理解を求める”生き物である。
しかし、理解してもらおうとする前に、“理解させる”ための努力と言うものが無ければ、それは単に、赤子の泣き声に過ぎない。(もちろん、赤子が悪いと言う訳でも、泣くと言う行為自体が悪いと言っている訳でも無いが・・・。)
それゆえ、本当に、他人に自分を理解して欲しければ(自分の事を理解させたければ)、まずは、その対象となる他人の価値観なり物の見方、すなわち判断基準を理解する必要がある。
よって、他人を理解しようとしない人間は、他人から理解されない事を嘆く前に、逆に、他人を理解しようと努めるべきなのだ。
そうすれば、自分を理解してもらえないのは、他人の知性や認識能力が劣っているのか、自分の努力が足りないのかと言う事が、もっと明確になるはずである。
また、その結果によっては、ことさら、“他人に理解してもらう”必要など無いと言う事も理解出来るのではないだろうか。
ところで、貴方は、“他人に自分を理解して欲しい”のか、“他人に自分を好きになってもらいたい”のか、一体、どっちなんだ?
更に、“充分理解されて嫌われる”のと、“誤解されてでも良いから好きになってもらえる”のとでは?
・・・と、他人に問いかけるだけで、自分の意見を言わないのはフェアでは無いゆえ、まずは、私の意見を述べよう。
私は・・・。
駄目だ!!書けない!!あまりに恥ずかしくカッコ悪い(・・・と自分自身が感ぢる)ゆえに・・・。
そう。偉そうな事を言ってる割に、みっともない話なのであるが、私は、出来る事ならば、甘ったれた本音も醜い本性も見せずして(←とは言いつつ、時には意図的にチラっと見せたりもしながら・・・)、他人からは理解してもらいたいし、誰からも好かれたいのである。
解ったか、コンニャロ~!!そこんとこ、理解しろや!!
・・・みたいな・・・。(^^;)
いかん!!眠いの我慢して無理矢理完成させたから、直すとこがいっぱいあった。後でもっぺん読み直してみなきゃ・・・。あ~あ、たまには、一度ですらすらと、読みやすい文章を書いてみたいものだ・・・。
初めに。人間同士もそうであるが、それが自分にとって“良い音楽”かどうかを決定する際において、“出会い”と言うものは非常に大きなウェイトを占めるものである。何故ならば、同ぢ時代、同ぢ地域に住んでいても、まず初めに出会わない事には知りようも知り合い様もない訳であるし、更には、人間が感情を持った生き物である限り、出会いのシチュエイションなり時期が、その音楽を好きになるか嫌いになるかと判断にも少なからず影響を与えると言う事も否定し得ない事実であろう。
ザ・スラッヂ。この度、彼らの未発表ライヴ音源をコンパイルしたCDが発売された。バンドの詳細なプロフィールは公式サイトなりをチェックして頂くとして、簡単に説明するならば、1981年~1987年、主に都内で活動していたバンドである。
ところで、スラッヂは過去に1本のライヴ・カセットと2枚のアナログ・シングル盤を自主リリースし、数十回のライヴを行った後、解散。今回発売されたCDの帯コピーを担当したDIPのヤマジカズヒデ氏が、その前身バンドであるDIP THE FLAG時代に、スラッヂの公式には音源を残していない楽曲「Red Cross」のカヴァーをオムニバスCDに収録して発表した以外には、これと言った話題も無く、実際20年近くの間、殆ど顧みられる事は皆無であったと言って良い。それが何故、今になってCDが発表されるに至ったかと言えば、そこにはネット時代ならではの時と場所を越えた、偶然の、否、必然的な“出会い”があったからなのだ。
その経緯を簡単に説明するならば、元・猛毒のベーシスト、サンダー杉山氏のバンド、ナンバー4(←こちらもとても良いバンドなので、いつか紹介したいと思いマス。・・・と下書きに書いておいたら、アップする前に解散しちゃった!!)に新加入したギタリスト、森本氏による音楽紹介ブログにスラッヂのシングル盤を掲載した所、なんとスラッヂの元メンバー本人達から連絡があり、とんとん拍子に今回のCDリリースと相成った次第。
好きな音楽に限らず、自分の思考なり思想をブログ等によってネット上で全世界に発信する事は、時に、これは単なる自己満足であり無意味かつ不毛な行為ではないのか・・・と自問自答する瞬間も多々あるのだが、何らかの反応なり共感を得られた時は、やはりやっていて良かったと感ぢるものである。ましてや今回の様に、余程の話題が無ければ時の流れに埋もれてしまうのが当たり前である過去のバンドの音源を、文章だけでは無くCD化して世に発表すると言う、真っ当かつ具体的な方法論で実現し得た森本氏及びスラッヂのメンバー達、そして彼らをサポートする、スラッヂの音楽を愛する人々の熱意なり情熱と言うものを傍から見るにつけ、私は、いつの世も“実際に行動する人々”は偉いな~と、素直に頭が下がる思いなのである。
それでは次回、私の個人的なスラッヂの思い出話でもするとしよう・・・。
(つづく)
よく解んないが、右のアーカイヴ欄をクリックして、過去のブログを月毎に見ようとすると、ページ下部に近づくにつれ、文章が横に拡がり、枠からはみ出して左右が読めないのね。
そう言う場合は、更に各記事毎のタイトルをクリックして読んでみてくらはい。
ところで、ボクの学校生活だけど、ひとつだけ目障りな事・・・いや、目障りな奴が居るんだ。
そいつは、ボクのクラスの担任、爽木(さわき)。途中編入のボクが言うのも何だけど、赴任したてで、このクラスの担任を受け持つ事になった、新米の体育教師。
それは、ある日の、こんな出来事がきっかけだった・・・。
その日のホームルームの時間、あの教師、何を思ったか、生徒同士のコミュニケーションを図るとの名目で、ボク達にちょっとしたゲームをさせたんだ。それを簡単に説明すると、座ってる席の近い3人ずつが組んで機敏さとスピードを競う遊びなんだけど、元より、そんな下らない戯事に一生懸命になる気なんてさらさら無いし、ましてや反射神経皆無、運動神経ゼロのボク。当然、本気なんか出さず、機械的に動作をこなすだけだから、ゲームに負け続けてたって訳。そしたら爽木の奴、無気力なボクを見るに見かねたのか、ボクたち生徒3人組に無理矢理割って入り、ボクと爽木を含めた3人で、再度、ゲームを続け始めたんだ。しかも、やる気の無いボクを力強く励ましながら・・・。
チェッ!!運動神経だけが取り得の、熱血教師を気取った体育馬鹿め・・・。
そして、それ以来、廊下ですれ違う度、いつもあいつは、「おい!!のひ太!!元気無いぞ、しっかりせえよ!!(広島弁)」と、ボクに声をかける様になったんだ。
しかも、それだけならまだ良い。ところが、あいつときたら、授業中にさえ、「のひ太、どうした?元気か!?」と、事ある毎に、ボクを引き合いに出してネタにしやがる。
うるさいなあ。放っといてくれよ・・・。
爽木曰く、生徒一人一人、エコヒイキせず、みんなに気を配る・・・トノ事だが、何言ってやがる。本当に生徒一人一人の事を思いやるんであれば、それぞれのパーソナリティをきちんと把握して、低俗なお調子者にはギャグを発する場面を与え、ボクの様に目立たず静かに生活したい人間はそっとしておくって具合に、各々個別に対応するのが筋ってもんぢゃないか。
くそっ!!マジで、給食に毒でも混ぜてやろうかしら・・・。
(つづく)
11月10日(金)は夕方までのA業となりマス!!
ヨロシクどうぞ~!!(^^;)/
とある筋より、秘密の指令が下されたので、改めて考えてみた。
パンク登場の意義とは、それまであったロックが、本来担っていたはずの役割を見失ってしまった事に対する“復権”であり、ゆえに、パンク・ロックの音楽としてのスタイル自体は、さほどロックとは変りないか、あるいは、ロックのフォーマットを先鋭化させたものに過ぎなかったりもする。
トナルト、現在、そのパンクですら、既に役目を終えたと言うか、やはりロック同様、本来担っていたはずの役割を見失った・・・否、それだけならまだ良いが、現実には、現支配体制を維持するためのツール、あるいは商品として、取り込まれてしまっただけに過ぎないとも言えよう。
そもそもパンク、そしてロックとは、管理社会に適応出来ない者や、数の正義から疎外された者による主義主張や思想を表現する手段、あるいは適応障害や欲求不満の発散手段であり、社会の仕組み(上納金徴収システム)とは無関係な所で、個人個人がそれぞれの価値観の下に、自由に、かつ自主独立的に楽しむ方法の一つであったはずだ。
にも関わらず、いつの間にやら、そのパンク・ロックですら、現支配体制における既得権益者に利益をもたらす金の生(な)る木と化し、まるで、パンク・ロック登場時のロックの如く、形骸化してしまっているのが現状であろう。
しかも、更には、現支配体制を妄信、隷従する“村人達”の嫉妬や偏見によって、虐げられた者、落ちこぼれた者、あるいは、意識的に従わぬ者にこそ、ロックなりパンクが必要であったはずなのに、今やその逆に、虚しき抵抗を試みようとする非力な少数派を選別差別化するため、わざわざ仲間外れを生み出すために、そして、思考停止させられた村人達を連帯させる“お祭り”のBGMとして、権力者に忠誠を誓う旗印として、パンクやロックが存在していると言っても過言ではない。
ゆえに、もはやパンク・ロックも、パンク発生時のロックの如く、その役目を終えた(権力にひれ伏した)と言い切れるのである。
さて、そう考えると、パンク・ロックが本来担っていた役割なり機能を失った(奪われた)今、現支配体制や管理社会から疎外された者、適応出来ない者、隷従する事を断固拒否する者達は、一体何処に、その行き場を求めれば良いのだろうか・・・。
その答えは、他人を頼らず各々で出してもらうとして、しかし最後に、これだけは言わせてもらいたい。
「パンク」と「弱い者いぢめ」とは、絶対に相容れない。
否。むしろ、それこそが、「かつて、パンクと呼ばれていたモノ」の、“敵”なのである。
①王の一言
「バカが何人集まったところで何も出来ないが、バカを大勢集めれば世の中を動かせる。」
②王の格言(パチンコ編)
「出る台は打たれる。」
③王の好きなテレビ番組
「まんが・いぢめて物語」出演:お姉様とマゾタン。
回りくどい愛情表現や、独自の表現方法と言うものは、読み手の人間が、書き手の人間の心情を汲み取ろうと、もう一歩踏み込まなければ通ぢない場合が、時としてある。
何故ならば、自分の感覚や思考方法が、必ずしも、他人にも当てはまるとは限らないからである。
・・・と同時に、こちらの本心も、正しくあちらに伝わるとは限らない。
とは言え、誤解も理解の一種ではある。
それにしても、「何故?」と、疑問を持つ事どころか、考える事すらもせず・・・。
しかし、それで良いのだ。
・・・とも言える。
周波数の合わない人間同士、お互い、わざわざチャンネルを合わせる必要など無い。
価値観の違いを、理性では無く、言葉の暴力で埋めようとする事の愚かさよ・・・。
野蛮人。
話は変るが・・・。
神がヒトを創造したのでは無い。
ヒトが神を創造したのだ。
人間の犯した罪を、すべて神に押し付けるために・・・。
先日、東京での久々のライヴを行った、あざらしの新作CD、当店にて取り扱い中!!
■初回納品分完売!!→再入荷イタシマシタ!!
詳細&レヴューは近日中に!!

ガスタンク/GASTUNK「REVELATION」DVD化!!
★1988年7月13日、中野サンプラザにおけるライヴを収録した、既発売ビデオ(現在廃盤)が、DVD化されマシタ!!
全50分収録。定価3990円(税込み)
★恩義に報いるための、感謝の宣伝デシタ!!
いずれも、詳細・画像は後日!!
①中学生棺桶c/wSETE STAR SEPT「偏見喰らい」(CD)¥1050
★中学生棺桶(全6曲)と、SETE STAR SEPT(全7曲)による、スプリットCD!!
②THE SLUDGE(ザ・スラッヂ)「The Brain Kept A Rollin’」(CD)¥2800
★1981年結成~1987年解散まで、テープ1本、EP2枚を発表、主に都内で活動していたバンドの、後期(’85~’87年)未発表ライヴ選集。DIPのヤマジカズヒデ氏がDIP THE FLAG時代にカヴァー(ライヴ・ヴァージョンがオムニバスCDにも収録)した「Red Cross」の、ザ・スラッヂによるオリジナル・ヴァージョンも収録!!
執筆予定メモ
①9月に観たゴキコン公演。
②同月に観た戸川純、ヒーメン(ゾンビー・ロリータ内・別ユニット)。
特に印象に残ったのが、この3公演。
③知られざる再演。SUICIDE(日本のね)、THE SLUDGE。
④あざらし「アザラシイズム」CD。
あとは、ミドリとか・・・。