Mr.エレクトの独り言 2006年12月12日

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

あざらし「アザラシイズム」CDレビュー

★あざらし「アザラシイズム」(CD)¥1500
曲目:少女椿、白痴、アザラシイズム、想像妊娠、残刻、呪怨ノ唄。(全6曲+ボーナス・トラック収録)

P1010001OK31.jpg

鳴り響く警報と地を這う様なベースのイントロから幕を開ける本作は、深い絶望感と、その果てに芽生えた殺意とをむき出しにした、“あざらし”ならではの、実に禍々(まがまが)しい作品であり、「これこそが“アザラシイズム”なのだ」と言う説得力に満ちている。

収録されている楽曲に関しては、暗いフォーク・ソング、あるいは童謡にも似た哀感溢れる力強いメロディーを、パンク・ロック特有のスピーディーかつ激しいサウンドに乗せたものが主だが、緩急を生かしたドラマティックな展開の作品も、感情の機微や抑揚が自然に反映されているためか、楽曲の構成に全く違和感を感ぢさせず、この辺りは相変わらず見事としか言いようが無い。

また、性急なドラムのビートや下腹部を駆け巡り内蔵をえぐるかの如きベース・ラインも心地良いのだが、モノ・トーンになりがちなパンク・ロックのサウンドを多様な音色で彩る新加入ギタリストの貢献も大であろう。

メグ子嬢の確信に満ちた歌声と残虐ですらある攻撃的な歌詞は、時に威圧的に響くが、これらは間違っても満ち足りた者の振りかざす刃物などでは無く、その根底には生存の危機にさらされた弱者の必死の抵抗、焦燥、孤独、虚無感が横たわっており、それらはあくまでも、踏み躙られ殺されかけた己が自尊心を守るための、そして、こころの底から「生きたい」と願う者の切実な叫びなのだ。

更に、歌詞においては、この世の美と醜との価値観に弄ばれ、魂の生と死の狭間でもがき苦しむ独りの少女のこころの葛藤が生み出した、自虐的かつ猟奇的な経血まみれの妄想地獄が徹底的なまでに描き出されており、過度な露悪趣味に血塗られたそれらは、表面的には極めて不純にして不浄なものではあるのだが、その実、暗闇を欲するがあまりに自分の目を潰してしまったあげく、血の涙を流しながらも光を求めて彷徨うかの如き矛盾し相反する性質をも内包しており、私にとっては、まるで迷子の子供が泣いているかの様な、無垢なる純真さをも感ぢてやまないものなのである。

・・・とは言え、この様な個人的な感情表現と言うものは、通常、無視され見過ごされてもやむを得ないものである事も事実。しかし、そう言う意味では、だからこそ、これらは何かしらの共感を覚える者のためにあるのだと言い切っても過言では無い。

私は私、貴方は貴方、誰もが皆、自分の唄を歌えば、それで良いのだ。

P1010002OK32.jpg

★上記作品は、当店にて販売中!!通販も可能!!

無力だが無気力ではない

必ずしも、大多数の意見が正しい訳でもないが、かと言って、少数意見の方が正しいと言う訳でもない。

ただ単に、集団をまとめるに当たり、大多数の意見を採用する方が正しい・・・と言うか、不満が少なく、都合が良いと言うだけの話である。

よって、集団においては、大多数の意見が尊重されるのはやむを得ない選択であるのだ。

また、大多数の意見に惑わされる事は良くないが、それ以前に、それが大多数の意見なのか少数派の意見なのかを判断の基準に入れてしまうと言う事自体も、逆に言えば、結局は大多数の意見に惑わされているのだとも言える。

大多数の意見も少数派の意見も、いずれにせよ、赤の他人の意見でしかない。

だから、いちいち考えるのだ。

自分ひとりになって・・・。

それが、自分にとって本当に必要なものなのかどうかを。

「他人と異なる事」や「少数派である事」は、恥ずかしい事でも何でもない。しかし、「自分で考えて決定する事が出来ない」・・・否、最終的には決定“出来ない”までも、自分で考える事をしようとしなければ、人間としての優劣以前に、生きている意味が無い。

・・・と言うのは、今現在の私の考え方なので、この意見を肯定するも否定するも、貴方自身が、“ひとりで考えて決めて欲しい”と、私は願うのである。

このブログが、コメントを拒否しているのは、そのせいでもある。

どこかの掲示板の様に、匿名による数の正義で少数派を迫害したり、多数決で物事の良し悪しを判断させる事はしない。

ゆえに、考えなくても、決めなくても、それでも全然構わない。

・・・と言うか、そもそも私自身は、過去に一度も、「このブログを読め」と宣伝した事は無い。誰かが勝手に宣伝しているか(←感謝してマス)、貴方が勝手に読んでいるだけである。

こちらは、大多数でも少数派でもなく、たったひとりの人間が、自由気ままに、自分にとって正しい(都合が良い)と思える意見を、インター・ネット上に記録しているに過ぎない。

人間の数、すなわち、権力で人を説得しても面白くもなんともないのだ。

たったひとりの人間の真摯な言葉で説得しようとする事にこそ意義が、そして、やり甲斐があるのである。

・・・なんちゃって!!ほにゃらら~!!

テヘヘ・・・。(^^;)

数の正義

私が抵抗しているものとは、言わずもがな、“数の正義”であるが、生物にとって、“数の正義”とは、ある種、正しいと言う事も事実。

・・・と言うか、多数の者を尊重しなければ、その生物は減少し、滅んでしまうがゆえ。

しかし、今ある“数の正義”が、本来の意味での“数の正義”とは異なるのだと言う点を、私は異議申し立てしたいのである。

現在はびこっている“数の正義”とは、“少数の人間の利益”のために、“多数の人間”が飼われている状態における、“数の正義”でしかない。

すなわち、あくまでも、“王”に都合の良い“正義”を尊重するその度合いによって利益が得られる世の中であるがゆえ、多くの人間がそれに従っているに過ぎないだけなのである。

よって、正確には、“数の正義”と言うよりは“王の正義”、あるいは、“利益を独占するための正義”とでも呼ぶべきであろう。

ただし、大多数の意見がいつも間違っている訳でもなく、少数派の意見がいつでも正しい訳でもない。

ただ、この社会はその様に意図的に形作られていると言うだけの事なのである。

そもそも、王の存在を認めた時点で、人間は人間である事を捨てたのだとも言える。

この野蛮極まりない“王政”に立ち向かえるのは、個人が得る事の出来る中途半端な地位や利益ではなく、他の生物になく人間だけが持ち得る“プライド”及び“理性”の力でしかない。

それにしても・・・。



敵いっこね~よ!!

卑格論

他人の不幸は甘い蜜と言うが、世間の平均値と比べて、あるいは、自分よりも他人の方が不幸だろうが幸福だろうが、それによって自分のこころの充足度に変化が生ぢる訳では無いのに、何故、他人の不幸は嬉しく、他人の幸福は妬ましいものなのであろうか?

・・・とは言え、確かに、他人の不幸は笑って見ていられるし、自分が欲する幸福を多く所有する人間に対しては、ライバル意識を抱かずにはおれないと言う事も、一つの事実ではある。

それにしても・・・。

確かに、精神的な充足度を得る事は出来ようが、そんな感情は一時のものでしか無く、他人の幸福度がいくら変化しようが、その変動した差異の量が、自分の幸福度の増減に直接反映されるものでもあるまいに。

他人より優れていると言う優越感に浸る事が、そんなに楽しいか?

他人より劣っていると言う劣等感にさいなまれる事が、そんなに苦しいか?

まさか、この世の“王”になりたいとでも言うのか?

ウフフフフ・・・。

それはきっと、私達が、生まれた時からずっと、比較され続けて育ってきたからだろうな。

自分の中に確固たる基準を持つ機会を奪われ続け、他人より優れているのか劣っているのかと言う事で、人間性すらも判定(否定)され続け・・・。

挙句の果てに、自分の中にある価値観、すなわちこころの充足度を計る基準までを、何者かに委ねる始末。

他国の事は知らないが、少なくとも、この国においては、独自の方法で幸福感を得る事は認められていない。幸福の種類は、すべて国家直営の販売店に並べられているのだ。

金で買われ、自由を奪われ、そうして得たお金で自由を買う。

本末転倒。

幸福・・・否、降伏に乾杯!!

幸せの壺

人類における人生の最大の目標とは、己が幸せの壺を出来うる限り満たそうとする事。

しかし、それは、他人と比べて初めて感ぢるものでは有り得ない。

優越感を得る事によってしか、自分が幸せなのかどうかを確認出来ない様な自主性の無い人間は、生まれた時からよほどの資産や才能を備えているか、あるいは努力によって掴み取る、または強運に恵まれない限り、幸福感を得る事は極めて難しい。

何故ならば、他の人間も同様に、他人より優越意識を持つために必死で頑張っている訳で、結局、いつまで経ってもその競争が繰り返され、結果、一握りの勝者と多くの敗残者が生み出され続けるだけの事である。

他人と比べさえしなければ、余程、過大な欲望を抱かない限りは、人は皆、いくらでも幸福になれる可能性を持っているのに、まったく馬鹿げた話である。

クダラネエ!!