黙々と・・・とは、良く言ったもので、昨日から、黙って仕事してマシタがな。
一昨日はクーラー病?のせいか、下痢やなんかでぐったりデシタ。
何人かの方に頼まれたものも、だいたい終ってマスが、連絡するエネルギーがありマセン。
復活するまで、少々お待ちを・・・。
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文句ばっか言いマスよ。
愚痴ばっかこぼしマスよ。
納得いかないからデスよ。
自由な国家は無くとも、自由な空間はあるはず。
だが、そんな自由な空間にも、どこからか必ず、人を支配しようと目論む者が生まれる。
かくして、やっと見つけた自由な地は、いともたやすく葬りさられてしまうのだ。
自由の敵。
自由の意味を取り違える者。
自由の価値を知らぬ者。
物事を根本的に解決したいと考える、こちら。
そこ(権力者の築いた不公平なシステム)からは目を背け、手近な問題だけをこなして(弱い敵のみ排除して)行けば良しとする、そちら。
相容れなくて、当然。
そんな、命を食い潰す(すり減らす)様な生き方して、面白いのかね。
人生を売り渡す奴隷。
肉体関係を結ばぬ娼婦。
負の連鎖を司る蛆虫。
ああ、つまらん。
ああ、つまらんぞよ。
くそ面白くもねえ!!
翌日。ボクは、重い足取りで学校に向かった。
本当は、登校拒否でもしたい所だけれど、ボクは、もう二度と、あのヒキコモリ地獄には戻りたくないんだ。
くっそう!!・・・あの、おしゃべり女め。今頃、皆に噂を言いふらしてる頃だろうか・・・。
ボクは、クラス・メートの誰かに冷やかされるんぢゃないか、シズコちゃんにはいやな顔をされるんぢゃないかと、ビクビクしながら、教室のドアを開けた。
すると、そこには・・・。
そんなボクの予想とは裏腹に、いつもの通り、生徒達のしゃべり声でざわめく、普段と変らぬ風景が、そこにはあった。
ボクは、ホッと胸を撫で下ろすと共に、今度は、恐る恐る、シズコちゃんの方をチラッと見た。
シズコちゃんも、いつも通り、仲良しの女子と何やら話しこんでいる。
まるで、昨日の事が嘘の様だ・・・。ボクは、何か悪い夢でも見てたんだろうか?
だけど、それが夢ではなかった事を、ボクは思い知る。
そう。ふと振り返ると、あのおしゃべり女が、超忌々しそうに、ボクの顔を睨みつけているではないか。
「コレハ イッタイ・・・?」
そして昼休み。偶然、教室の入り口ですれ違った、シズコちゃんの態度で、ボクはすべてを察知した。
その瞬間、シズコちゃんは、何とも照れくさそうな微笑を浮かべ、ボクの瞳を覗き込んだんだ。
そうか!!シズコちゃんが、あのおしゃべり女に口止めしてくれたんだな。
・・・まあ、よくよく考えてみれば、シズコちゃんにしたって、そんな噂を立てられちゃあ、恥ずかしくて登校出来なくなるもんな~。
だけど、恋に狂ったボクは、そんなシズコちゃんの気持ちを、自分への思いやりだと勘違いし、果ては、シズコちゃんもボクの事を好きなのでは?・・・と言う、とんでもない妄想を抱くに至るのであった・・・。
(つづく)
★「のひ太の初恋地獄篇」、しばらく続きマス。地獄の果ては、まだまだ先なのでキュウ・・・。(作者)
人間は、死ぬまで遊んで暮らすべきである。
・・・と言うと、誤解されるかも知れないが、これは私の本音である。
遊んで・・・と言う言い方が悪ければ、楽しく生きる・・・と言い換えても良い。
そもそも、“遊ぶ”って事は、怠ける事でもなければ、ましてや、何もしないって事では決して無い。
むしろ、その逆に、好きな事を一生懸命やるって事だ。
金のためにやむを得ず接客業をやってる無気力な店員が居るレストランでメシを喰うのと、野菜を育てる事が好きで好きでたまらない人の作ったトマトを喰うのとでは、どちらが充実した気分を味わえるであろうか。
・・・とは言え、余程の美味いメシであれば、やる気のない店員にも我慢するし、好きなだけでは美味しいトマトを作れないと言う事も事実ではあるが・・・。
音楽も、本当に音楽が好きで好きでたまらない人間だけがやれば良いのに。
仮に、そのせいで身を持ち崩してしまう事さえも厭わない様な人間が・・・。
老後のために、若き日の貴重な時間を投げ打ってまで働くなんて、なんて暗い生き方なんだろうか。
せいぜい、立派な墓でも建ててくれよ。
今日は自宅に帰って風呂に入ろうと思ったが、結局、店に戻って、また仕事。
昔、怒られたり落ち込んだりして、そのせいで仕事が手に付かない奴がいたが、そんな人が羨ましいね。
毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年・・・。
いつまで続けりゃ良いのよ、一体!!
昨日、ゴキコンの本公演に行って参りマシタ。タイトルは『my life as a punishment-game』デス。またそのうちに、観劇記書くかも知れマセンが、本日(日曜)が最終日、開始は夕方からなので、お暇な方は是非!!(詳しくは検索してね。)
今回は、ミッ○ー・マウスばりに、「チュウチュウ」と鳴く、とってもかあいい被り物も登場しマスぜ。げへへ・・・。(ミッキーは鳴かないけどね。)
★病気マン「病気でも....2007」(CD-R)¥300

①「PAIN(winter ver.)」②「ひぐらしのなく頃に remix」③「ユメノヨウナモノ~シアワセノカタチ」④「うしの歌」
劇団ゴキブリコンビナートの団員でもある、病気マンの単独作品。ゴキブリコンビナートがそうである様に、病気マンの魅力とは、ライヴ会場において観客側がリスクを共有する事によってしか理解し得ないものである。・・・と言う事を大前提に、以下の解説をお読み頂きたい。
本作を手にとって、まず最初に感心したのは、その大胆な切り口にである。・・・と言っても、収録内容にではなく、人目に触れぬ病院に隔離されている患者が書いたかのイラストが目を引く、近所のコンビニでコピーされたであろうジャケットの、極めていい加減な切り方(裁断方法)・・・にであった。(^^;)
第一印象としては、気がつけば教室の隅っこに居るクラスで一番目立たない奴、何を考えているか解らないキモい奴、どこの学校にも居るそんな奴、・・・ところが、ある朝、登校して下駄箱を開けたら、絶対に在り得ない・・・、と言うか、在って欲しくない、そいつからのラブレターが入っていた!!・・・と、思わず、そんな気持ちにさせられてしまう様な作品であろうか。
また、収録内容を具体的に説明するならば、まるでJ-POPの様な曲タイトルに騙される者は、よもや居ないだろうが、鬱病、あるいはストーカーのつぶやきで幕を開け、果てしなく続く自虐的なまでの懺悔、そしてエロスとタナトスとが駆け巡る脳内のお花畑を、安っぽいディスコ・サウンドが空虚に彩り、ラストに再び、辞世の句の如き陰鬱な鼻歌が締めくくる。・・・と言った構成になっている。
そして、すべてを聴き終えた後、私はハッとした。もしやこれらは、ピンク・フロイドのアルバム「狂気」を意識した、しっかりとしたストーリーに基づく組曲的なコンセプト・アルバムなのではなかろうか・・・と。更に言えば、本作の最後に収録された、「うしの歌」なる曲名は、ピンク・フロイドのアルバム「原子心母」のジャケット(←牛のイラスト)を思い起こさせはしないか・・・とも。
・・・よって、本作は、そんなあらぬ妄想が脳裏をよぎる事必至な、無意識過剰が渦を巻く、隠れた・・・否、ベッドの下にでも隠しておかなければ人格を疑われる、・・・そんな名盤であると言えよう。
そこで、もう一度言う。病気マンの魅力は、観客すなわちリスナーがリスクを共有しない事には、絶対に伝わらない。
要するに、これは貴方が、この「狂気」に満ちたCD-R作品に対して、300円と言う貴重なお金をつぎ込めるのか否か?・・・と言う問いかけでもあるのだ。
なお、購入後のクレームは、アーティスト御本人様へ、お願いイタシマス。(^^;)
★ハイパーキューブ「三半規管」(CD)¥2415

英語詞による、トリオ編成のロック・バンド。メロディや曲調からは、ジョー山中在籍のフラワー・トラヴェリン・バンド(以下:FTB)などが、まず頭に浮かぶ。・・・とは言え、本作には、FTB特有の突き刺す様なソリッドさや性急さは無く、彼らの持つ魅力の本質を挙げるならば、慈しみの精神に満ちた穏やかな時間の流れと空間の拡がりに彩られた、ある種、絵画の様なサウンド作りにこそあると見るべきであろう。
本作は、音楽に主義主張、及び過剰な刺激を求める方には不向きかも知れないが、肩の力を抜いて楽しめば、非常に心地良く聴ける作品である。
<余談>・・・ピンク・フロイドを引き合いに出すなら、病気マンではなく、むしろこちらであったか・・・。(^^;)
■上記2点は、当店にて販売中。
●次回は、組織暴力幼稚園のフル・アルバム「世界ノ罠ニハ騙サレナイ」(CD)を紹介イタシマス。
思い出す・・・。
ああ、思い出す。
思い出すよ~。
思い出しマスとも。
あ~あ、思い出す。
思い出さずにおらりょうか。
思い出したくなくとも。
思い出してしまう。
思い出す事を余儀なくされる。
思い出さねば良いものを。
思い出したくないにも関わらず。
思い出してしまう。
何を?
う~ん、思い出せない。
・・・テコトにしておこう。
思い出すのは簡単だが、それを人に伝えるのは難しい。
だって・・・。
思い出だけに・・・。
結構、重いで。
・・・みたいな。(^^;)
駄目・・・かどうかは解らないが、ダルイ・・・。
ダルイダルイダルイダルイ・・・と、そればかり言い続けても、ダルさが無くなる訳でもないゆえ、たまに、「イルダ!!」と、「ダルイ」を逆さに言ってみるのだが、その効果は、もちろん無い。
ところで、ダルくなかった事なんてあったのだろうか・・・と、思いを馳せてもみる・・・。
思えば、我が人生は、「ダルイ」に支配され続けてきたのだ・・・とでも言えようか。
嗚呼・・・。
今は、ただただ、「ダルイ」・・・。
「伝わらなかった」と言う現実に対しては、悔しく思う事も、事実。
しかし、「伝えなかった」事に対する後悔よりは、なんぼかマシである。
否。確かに「伝えた」はずなのだ。
ただ、先方が受け取らなかっただけの話。
もちろん、理由はこちらにもあり、そしてまた、あちらにもある。
あくまでも結果として、「伝わらなかった」・・・だけの事。
残念ではあるが、耳・・・否、脳を無理矢理こぢ開けて、ねぢ込む訳にも行きマスまい。
種蒔けど、発芽せず。
良い時もあれば、悪い時もありマスよ。
良い時がいつまでも続く訳ぢゃなければ、その逆に、今が一番悪い時だとしても、まだ死んで(終って)しまった訳ぢゃないし。
・・・もちろん、そのまま朽ち果てる(死ぬ)場合もあるけど。
それに、バカでも友達を思いやるこころを持ってるかも知れないし、有能でも最低卑劣な人間かも知れないぢゃないの。
要するに、楽しくない場所には、積極的に関わらなければ良いだけの話デスよ。
またそれかよ・・・。
「みんながすきなものをすきになれ。」
「みんながきらいなものをきらいになれ。」
・・・てことは、“おまえ”も“みんな”のなかまってことか。
それなら、しょうじきにこういえば?
「おれがすきなものをすきになれ。」
「おれがきらいなものをきらいになれ。」
・・・と。
もううんざりなんだよ!!
似非平和主義の偽善者!!
独裁者の傀儡!!
・・・と言うよりは、独裁者の影で暗躍する鬼姑め!!
目先の“得”や“楽”に惑わされていると、知らない所で損をする。
損をしている事にも気づかないまま・・・。
内なる敵は、それ程までに巧妙、かつ姑息なのだ。
ある日の授業中。ついうっかり、ボクは居眠りしてしまった。
そして、授業が終り、ざわつき始めた教室の雰囲気で目が覚めた・・・と、その瞬間、背後に得体の知れない気配を感ぢ、慌ててボクは振り向いた。
そこには・・・。
何とも形容し難い、邪悪な笑みを浮かべた女子が一人。
「ヤバイ!!・・・もしや!!見られてしまったのか!?」
ボクのこころの内なる叫びを察知したかの様に、そいつは黙ったまま、しかし、そのどす黒い瞳で、こう答えた。
「見たわよ」・・・と。
何てこった!!よりによって、あのゴシップ好きでおしゃべりな、こいつに見られてしまうとは!!
「ああ、お願いだ・・・。黙っていてくれ・・・。この事だけは、誰にも・・・。そう、誰にも・・・。」
だけど、その切なる願い、虚しきボクの望みは、とうてい叶えらようはずもなかった・・・。
ノートに殴り書きされた、おびただしい数の名前・・・。
「シズコちゃん」
「シズコちゃん」
「シズコちゃん」
「シズコちゃん」
・・・。
こんなものを見られて、何と言い訳すれば・・・。否、言い訳なんて通用するもんんか。・・・と言うか、言い訳すればするほど、かえってドツボに嵌るだけだ・・・。
「絶対に言うな~!!誰にも!!」
下校時間。ボクはそいつに直談判するつもりだった。
・・・が、時既に遅し。
シズコちゃんに耳打ちする、そのおしゃべり女。そして、疑心暗鬼な顔つきで、おそるおそるボクの方に目を向けるシズコちゃん。
終った・・・。すべては。
(つづく)
「君知るや バスクリンの効能」
(ひねり無し。)
え~、今回は、抑止力としての死刑について・・・。
まあ、無いよりはあった方が良いに決まってるだろうよ。それに、無いったって、何ひとつお咎め無しって訳にもいかないだろうし。
“見せしめ”としての効果も否定出来ないしね・・・。
ただし、人によっては、3日自由を奪われるだけでも耐え難い事かも知れないし、ましてやそれが懲役10年だったり、更には法律が改正されて終身刑を課せられるかも知れないとでもなれば、さっさと死刑にしてくれた方が楽だって考えるかもよ。
・・・テコトは、死刑は抑止力にならない事もないけど、それすら人それぞれって事かな。例えば、殺人犯に子供が居れば、本人を死刑に処すより、そいつの大事な一人息子の首をギロチンで落とすって脅した方が、抑止力としては効果的だったりしてね。
あっ!!あっちの“ムスコ”をちょん切るってんぢゃないわよ~ん!!(^^;)
とは言え、先にも述べたが、「自らの死を覚悟してでも殺したい場合」もあるから、殺人を完全に防ぐってのは無理な話だよね。
しかし何だろ?計画的な殺人っちゅうか、何年も前から殺したくて仕方なかったってな場合を除けば、カッとなって殺したりとか、思わず殺してしまったってな場合もある訳で、そう言う時の心理状態まで、心身喪失って言われたら、殺された方はたまんないよね~。
仮に、その時、善悪の判断がつかない状態だったっとしても、そもそも、そんな風に簡単に理性を失ってしまう事、それ自体が重大問題なんぢゃないの~?
・・・とまあ、それは置いといて。
そう考えると、人は殺すが自分は死刑になりたくないってな具合に、ばれない様に人を殺そうとする事が、一番凶悪なのかもね。
理性的かつ、超冷静な精神状態で人を殺す訳だし・・・。
そもそも、人を殺すだけでも大変な作業なのに、「人を殺してはいけない」って言う固定概念や潜在意識を覆す事の方が百倍難しいって言うか、すごくエネルギーが要る事だし、それを極めて正常な、善悪(←この世の真理と言う意味ではなく、あくまでも法律的にと言う意味で・・・)の区別がハッキリした状態、すなわち正常な意識で行えるって事は、ある意味、本人(自分にとって)は“正しい事をしている”つもりだったりもするんだよね~。
更に言えば、刹那の怒りや憤りに身を委ねるならばまだ楽だけど、そこに立ち塞がるハードルを乗り越えるためには、ある種の病的な執着心を積み重ねたその延長線上か、そう簡単には揺るがない強(狂)固な信念の持ち主でない限り、そうたやすい事ではないって事。
よって、もしも、まともな神経でそれを為そうとするならば、そこには、それを後押しする“理(あるいは、利)”がなければ、絶対に無理なのだ。
要するに、自分は健康で裕福で充分幸せなはずなのに、それでも人を殺せる(人を犠牲にして、更に利益を得ようとする事の出来る)様な人間ってのは、正真正銘の外道だって事かな。
まっ、「殺したい」との意識が芽生える事は日常茶飯事ゆえ、そんな短絡的な思考回路に関しての是非は別として、幽霊嫌いな私としては、殺したら化けて出られるかも知れないのが怖いから、絶対に人なんて殺せないよ。
オバケのQちゃんが登場するんなら、かあいいから良いけどね!!(^^)/
(つづく)
新潟で震度6やて!!こわ~!!(:。;)
うひい!!悪酔いしそうな不気味な地震!!
ゆ~らゆ~ら揺れておりマス!!(^^;)
言い忘れマシタが、本日15日(日)は、臨時Q業させて頂きマス。
あしからず。m(_)m
今回は、理不尽な死と裁きについて・・・。
刑法とは、国民を管理し、国家を安定して維持するために制定された法律に従わぬ者、すなわち、国家に逆らった者を懲らしめるためにあるのであって、被害者の救済や、ましてや復讐のためにあるのではない・・・と言う事が、まずひとつ。
よって、殺人犯が死刑にでもなれば、死者は還らぬにせよ、その遺族や世間に皆様も、ちったあ溜飲を下げる事が出来るが、禁固刑程度にとどまった場合、ましてや、犯人がキ印だったり、自己喪失状態だった日には、死刑どころか無罪放免すら勝ちとってしまい、それこそたまったものではないと言う事になる。これでは、まさしく殺され損、犬死無駄死に・・・ではなかろうか。
そもそも、殺人犯が、いかなる動機の元に、どの様な気持ちで犯行を行ったとしても、殺された方は、何の理由も罪もなく死ぬのだ。それを、その時の犯人の精神状態がどうだったこうだったと言われた所で、突然の死と言う、そんな理不尽な災難・・・否、被害を、そう易々と受け入れられようはずがないではないか。
また、百歩譲って、死んでしまった人間自身は今後の生活の心配などする必要はないが、働けない程の怪我を負ったにも関わらず、それから先も生きていかなければならない場合や、仮に父親が死んだ場合に、残された遺族のその後の生活は、一体誰が保障すると言うのか。仮に、被害者や、その家族に賠償請求をしたり、「犯罪被害給付制度」によって、国からいくばくかの金銭が支給された所で、残された者の精神的なショックは、とても癒せ得るものではないだろう。
・・・とは言え、その様な、罪の意識なき殺人犯は、しばらく病院に閉ぢ込められる訳だから一安心ではあるが、いつまでも監禁しておくならともかく、退院させた後、もう本当に大丈夫なのだろうか?・・・と言う不安が残る。更には、その予備軍の存在を思うと、おちおち外も歩けなくなると言うものだ。
そう言った人間は、ある種、ブレーキの壊れた車なのだから、完全に修理しないうちに、外に出すべきではないのではなかろうか?
ただし、それを認めると、国家にとって邪魔な思想を持つ人間なり政治犯を、精神異常と称して病院にぶち込む様な事も充分在り得るゆえ、それも危険な発想ではあるが・・・。
冤罪が生まれる可能性がある限り、死刑制度にも絶対賛成とは言い難いのと同様に・・・。
(つづく)
ところで、「自ら人を殺した者には、国家による殺人であるところの死刑を適用してしかるべきである。」・・・と言う考え方がある。
すなわち、「目には目を、歯には歯を・・・」と言うか、「人を殺した者は、死刑に処されても仕方無い」、すなわち「人を殺すと言う事は、人から殺される事を受け入れる事でもある」・・・てな意味合いだろうか。
何故ならば、殺人を犯した本人が、法律で禁止された“死刑”を執行・・・すなわち、それを容認しているのだから、少なくとも、その本人が死刑を拒否するなどと言う事は、あまりにも身勝手過ぎる意見であると思わざるを得ないではないか。
そこで私は考えた。殺人犯に対し、何らかの事由で、裁判・・・すなわち国家による殺人である死刑が為されなかった場合、犯人は刑期を終えて出所する訳だが、その際、そいつに限っては、「死刑にされても(人から殺されても)、誰にも文句が言えないし、法律で守られる事もない」・・・との特例を課すべきではないか?・・・と。何せ、既に、そいつ自身が法律で定められた禁止事項を破って、他人の人権を踏み躙っているのだから、その法律で自分の人権が守られる必要などどこにもなく、むしろ、自らが進んで、その権利を捨てたものと判断されてしかるべきであろう。
今こそ、「人を殺した人間は、誰かから殺されても文句を言えない」・・・の教えを実践する時である。
・・・と、それはあくまでもジョーク。そんな事を認めたら、治安の維持どころか、元殺人犯と言えども、みすみす誰かに殺されたくないはないゆえ、反対にその誰かを殺す・・・と、もはや収拾がつかなくなってしまうだろう事は想像に難くない。
トナルト、やはり、誰かしら管理したり裁かなくてはいけなくなる訳ではある・・・。
(つづく)
さて、そもそも、刑罰とは、何のためにあるのだろうか?
過去の行いに対する懲罰か、あるいは、二度と同ぢ過ちを犯さないための戒めか?
前者であれば、反省や改心の言葉や態度などとは無関係に、行った結果に基づいて、平等に判決を下すべきであろう。
しかし、後者であれば、あくまでも犯人に反省や改心を促すために行うべきであり、もしもそれが成し遂げられない程度の刑罰であれば、それでは足りないのだとも言える。
よって、本来ならば、たとえ同様の罪であっても、被告の気質や反省の度合い(再犯の可能性の有無)によって、収監する期間にも差をつける必要があるのではなかろうか。
・・・とは言え、それらはあくまでも、“罪を犯してしまった後”の処理であり、“してしまう前”の“抑止力”として、刑罰があるのだと言う考えもある。
ただし、その懲罰を圧してでも、・・・もしくは言い方を変えるならば、「死刑に処されても良いから、あいつを殺したい」・・・と言う様に、それが抑止力足りえず、むしろ決意(殺意)を固くするための“覚悟”として機能してしまう事も充分に在り得る。
ところで、日本には、死刑と無期懲役はあるが、終身刑と言うものがない。
しかも、実際には、無期懲役とは言えど、たいてい何年かすれば出てこれると言う。だったら、無期などと言う呼び方はせず、きちんと、最低禁固する期間なり最短懲役何年を明示し、それ以降は条件が合いさえすれば釈放するかも知れない・・・とでも、しておくべきではないのだろうか?
あるいは、真の意味において無期懲役と呼ぶためには、「何年で出られるか解らないまま、獄中で過ごさせる」事が必要不可欠であろう。いや、実際にはそうしているのかも知れないが、私には、「刑務所内で大人しくしてさえいれば何年で出られる」・・・と言う印象が、どうしても拭えないのである。
・・・いずれにせよ、反省した振りをすれば良いだけ・・・との見方もあるが・・・。
また、終身刑を採用すると、更に無駄な費用が、しかも税金から賄われるらしいので、どうせ娑婆に戻さないのであれば、いっそ死刑にしてしまった方が良いとの考えから、死刑制度と終身刑を両立させる事は難しいのかも知れない。
何にせよ、済んでしまった事は仕方ない(・・・と言うか、被害者にとっては、それによって受けた傷が消えたり、元から無かった事になる訳ではないと言う意味において・・・)にせよ、刑罰を課す意義とは、犯人に「もう二度とイタシマセン」・・・と思わせるためであり、そうでなければ、まるで意味が無いのではないだろうか。
(つづく)
一般に、「人を殺してはいけない」・・・と言う。
しかし、「殺人を犯した人間は死刑に処すべき」・・・すなわち、「殺して良い」・・・とも言う。
これでは、「人を殺してはいけない」とは言うものの、「人を殺してはいけないと言う約束事を破った人間は殺しても良い」と言う事になり、テコトは、何が何でも「人を殺してはいけない」のではないと言う事にもなる。
つまり、「時と場合によっては、人を殺しても良い」・・・と言う事なのだろう。
ただしそれは、たいてい、何の罪もない人間を殺した場合に限られており、何かしらの理由があった場合は、裁判で細かく争われたりもするらしい・・・。
要するに、「人を殺してはいけない」のではなく、「何の罪もない人間を殺しはいけない」と言うルールが存在すると言う事なのだ。
・・・とは言え、「殺す気があって殺した場合」、「殺す気はなかったが殺してしまった場合」、「殺してしまう可能性のある行為をしたために殺してしまった場合」・・・等々、「人が死んだ」事には変りないが、あくまでも、ある行為の結果として、「人を殺してしまった」・・・と言うケースも充分あり得る。
例えば、酔払い運転をして、人を轢き殺した場合、それは、「酔っ払って運転した罪」なのか、「人を轢き殺した罪」なのか、それとも、「酔っ払い運転をして、人を轢き殺した罪」なのか・・・。
まっ、法律はどうだか知らないが、「酔っ払い運転」・・・すなわち、酒を飲んで車を運転する事自体が、「人を殺す可能性のある行為をした」と言う事であるからして、どう少なく見積もっても、「殺人未遂」に値すると判断されるべきであろう。
何せ、殺される側は、殺した側に殺意があろうがなかろうが、結果としては死んでしまうのであるからして・・・。
だが、我が国では、あだ討ちや復讐を認めていない。
ゆえに、たとえ、殺された人間の身内である遺族がいくら泣き叫ぼうが、殺された人間とは無関係な世間の野次馬がいくら腹を立てようが、「人が殺された」と言う現実よりも、「人を殺した人間」が、いかなる状況及び精神状態で、どの様な動機の元に犯行を行ったのか?と言う事の方を重要視・・・すなわち、あくまでも国家の定めた法律に照らし合わる事によってのみ、刑が確定されるに過ぎない。
ましてや、死人に口無し・・・。殺された人間の気持ちや思い、怨みつらみ悔しさ無念さなど、事務的に推し量られるのみで、実際の感情や意見は、ほとんど顧みられる事などない。
いくらなんでも、これでは片手落ち。殺人犯の証言だけでなく、殺された方の言い分も取り入れるべきではなかろうか?
そこで、私は提言する。将来、殺された時に備え、生きているうちに遺言・・・と言うか、裁判に提出する資料を作成しておくべきではないか?・・・と。
いくつか、例を挙げよう。
「友人の○○に殺された時は、○月○日の出来事を根にもっての事である」、「妻の○○に殺された時は、さんざん苦労かけた私に責任があるから、出来るだけ情状酌量してくれ」、「酔っ払い運転の車に轢かれた時は、運転してた人間は絶対に許さない」、あるいはその逆に、「故意ではなく、あくまでも過失によって轢き殺された時は、運転手の罪を軽減してやってくれ」・・・等々。
そんな風に、事前に用意した文章を、きちんと保管しておきさえすれば、死んだ後にも、自分の意見がいくらかは裁判に取り入れてもらえるはずだ。
よって、皆様におかれても、是非、万全な準備を怠らない様、ご忠告申し上げたい。
そうしておけば、いつ殺されても、安心して死ねるのではなかろうか・・・。(^^)
(つづく)
「○○は○○に決まってるぢゃないか!!」
・・・と、さもそれが当然の事であるかの様に言うけれど。
誰かが、いつの時点かで、“そう決めた”・・・だけの事でしょ。
「無抵抗な人間を平気で踏み躙れるようになれば、貴方も鬼畜の仲間入りである。」
なんか最近、下痢ばっかするよ・・・。夏バテ?クーラー病?それとも、水分の取り過ぎかしら?
「チェッ!!下痢腹(ゲリバラ)?」・・・みたいな。
好きな文章↓
「ゲリラ兵士は社会改革者である ゲリラ兵士は圧制者に対する人民の怒りの抗議を代弁して武器を握りしめ 素手の同胞を恥辱と貧困の中にとどめている社会制度を変えるために戦うのである」
しかし、面白い。
・・・と、私が切り出す時は、この世の新しい法則を発見(←正確には発明。否、・・・捏造?)した時だと思って間違いない。
まず初めに・・・。人間である限り、自己の感情に左右される事も、多々ある訳でありマスが、理性を失い、感情に支配されてしまうと言うのは、あまりに本能的すぎて、私は嫌悪感を覚えるのでありマス。
ところが、その様な、自己の感情に支配されやすい人、すなわち感情的になりやすい人に限って、自分の意のままにならない事象が許せず、それを解消するために、他人を自分の思い通りにコントロールしようとする傾向がある様に感ぢられてならないのデス。
しかしながら、自己の感情すらもコントロール出来ない人に、他人をコントロールする事など出来るのか?・・・と言う疑問が、ここに芽生えて参りマス。
そう考えると、自己の感情をコントロール出来ないからと言って、むやみに他人を動かそうと考える事自体が不毛な行為の繰り返しにしか過ぎず、いつまで経っても根本的な改善がなされない訳でありマシテ・・・。
また、更に言うなれば、むしろ、自己の感情を意のままにコントロール出来る人の方が、他人を上手に扱う事が出来る様な気もイタシマス。
・・・とは言え、そこに真実味がなければ、人を動かすのは難しいと言う事も、また事実。
真実よりも重要なもの、それは真実味。
説得において大事なもの、それは誠実さと熱意。
そして最も大切なのは、相手の気持ちを出来るだけ正確に知る事。
・・・でありましょうか。
何故なら、“支配する事”もまた、コミュニケーションの一形態に過ぎないのでありマスからして・・・。
3K新聞のネット・ニュースの見出し。
「“矢沢○吉”を逮捕 “つ○く♂”の耳噛みちぎる」。
上記、検索を避けるために伏字にした○内は、実際には「永」と「ん」が入っているのデスが、記事を良く読めば、両者のモノマネ芸人同士がケンカしたって話なんデスよ。
それを、モノマネされる対象である本人の名を見出しに使うなんて、トオスポぢゃあるまいし、問題無いのかね?
これは、完全なる名誉毀損では?
誰に、何の得があるの?
「3K新聞」は、「三流新聞」に誌名を変えた方が良いかも。
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