Mr.エレクトの独り言 2007年09月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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「死刑の是非」⑥

しかし、おかしな話である。

早熟な17歳も、未熟な17歳も、同様に扱われると言う、非常に矛盾してると言うか、被害者及びその遺族にとっても、理不尽極まりない仕打ちがある一方で・・・。

母子殺人事件の被告が、犯行当時、18歳になってから、まだ30日しか過ぎてなかったと言う点をあげつらい、ゆえに云々かんぬん・・・などと論争するなんて、ナンセンスにも程がある。

だったら最初から、年齢なんかで区切らないで、他の基準や要因から判断する事にしておけば良いではないか。

・・・しかし、ホント、あんな事はするもんぢゃないね~。

だって、人数こそ多いものの、ろくな弁護士がつかないんだもの・・・。

だいたいさ~、死刑廃止死刑廃止って言うけど、何のための死刑廃止論よ?

“人の命は尊い”からこその、死刑廃止論でしょ?

それなのに、そんな尊い人の命を、あんな形で奪った犯人を弁護してどうすんの!!

そもそも、死刑廃止論者は、死刑以上に人殺しを憎むべきぢゃないの!?

本当に死刑を廃止したいんだったら、その前に、人殺しを根絶するための運動なり啓蒙活動をする方が先決なんとちゃう!?

だって、人殺しがなくなりゃ、死刑もなくなるでしょ?

それに、あんな事件に、殺意があったかなかったかなんて、検証する必要なんて無いよ!!

仮に、騙して部屋に上がり込む以前には、本当に殺意が無かったとしてもだよ、例えば街を気分良く歩いてたら、突然、腹の立つ出来事に出くわして、その結果、人を殺してしまった場合、出かける前にはそんな気持ち毛頭無くとも、その時、「殺してやろうと思った」のであれば、殺意があったって事になるんでしょ?

・・・トナルト、事前に殺意は無くとも、部屋に上がった後、泣き喚く赤子に対して、その時、殺意が芽生えたのであれば、・・・ましてや、殺意が芽生えるかも知れない状況を自分で作り出してる訳なんだから、一体全体、どんな言い訳が通用するって言うのよ!!


ところで、「かと言って、そう簡単に死刑にして良いものか?」・・・ってな疑問も、実はあるのだが、それは、また次回・・・。

(つづく)
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貧しい国のお話

どの業界も、そうなのかも知れないが・・・。

音楽を演る側が、あまりにも無知・・・と言うか、純粋過ぎたのだ、とは言えよう。

そして、その逆に、他人の演る音楽、すなわち他人の労働力を利用して金を稼ぐ人間達は、良くも悪くも、非常に優秀かつ立派な商売人だったって事だ。

更に最悪なのは、作詩作曲から商品イメージ含め、音楽を作る表現・創作の時点において、ビジネスマンと化す、ミュージシャンの台頭である。

ただし、例えば、矢沢○吉やユー○ンの様に、元々、ポピュラリティーのある音楽、かつ多くの人が共感し得る題材をテーマにしていれば、ミュージシャン自身が商売人を兼ねる事にも異論は無い。そもそも客を喜ばせる事こそが、エンターテイメントの本質的かつ最終的な目的なのだから・・・。

そう考えると、エンターテイメントでないもの・・・すなわち、自己表現を目的とした創作活動と言うもの自体が、そもそも、集客及び集客活動には向いていないのだ・・・と言う、言い方も出来る。

また、いくら私が、自己表現の素晴らしさを説き、それらすべてを容認すべきとの考え方を持っていたとしても、突き詰めてみれば、自分自身が共感を覚えるもののみを愛聴・推奨・応援しているのみに過ぎないのだから、これらは単に、しょせん私のエゴと呼ぶべきものなのであろう・・・。

それにしても、拝金主義ばかりが、デカイ顔してのさばる世の中。

夢を見せ、希望を買わせ、なけなしの金を奪う。・・・エンターテイメントなんて、貧乏人が現実を見てみぬ振りするための娯楽に過ぎない。

・・・否。貧乏人ならまだしも、夢や希望まで、誰かに与えてもらおうってんだから、彼らは、とんでもなく怠惰な人間なのであろう・・・。

“円(YEN)”より“縁”

「“円(YEN)”より“縁”」。

・・・すなわち「“目先の銭”より“人との出会い”を大切にせよ」・・・との教え。

最近、つくづくそう感ぢるのは、あまりにも、“円”に“縁”が無いせいであろうか・・・。

ところで昨日、店番の者と交代に、5階にある当店から階段を下りようとしていると・・・。

大きなギター・ケースを抱えた、割と年配で身体の大きな男性と、案内役らしき女性が、階段を上がって来た。

私「ええっ!?三上(寛)サン!!」

三上氏「ああ、どうも。」

私「ええ!?どうしてここへ!?うちへ来られたのデスか!?」

三上氏、過去に何度かお会いしてるものの、挨拶程度ばかりなので、私の顔は覚えて無い様子。

そこで、「私、マリア観音のどうたらこうたらの、エレクトレコードのうんたらかんたらで、この上(5階)で店をやってるんデスよ。ええ~!?うちへ来られた訳ではないデスよね~???」・・・と問うと、どうやら4階に用があったらしい。

(10年以上前、マリア観音が、まだバンド形態だった頃、三上氏や友川かずき氏には、主催ライヴに何度もゲストで出て頂いていたのでありマス・・・。)

実は、うちの4階、時間貸のダンス・スタジオとなっており、ダンスやら太鼓?やら、時には深夜にもキチガイみたいな大音量(←マジ・・・)で、何やら色々やってるのデス。

・・・で、付き添いの女性に話を聞くと、どうやら、何かのイベントのリハーサルらしく、そう言えば、いつもとは雰囲気の違う人達が4階で人を待ってたなと思ったら、これまた何と、その企画の音楽担当である、DubMasterX氏、その他の方々・・・デシタ。

いやまあ、三上氏、死んだ訳ではないので、どこかで偶然会ったとて、それほど驚く事では無いのデスが、まさかうちの店の入ってるビルの階段で遭遇するとは夢にも思わなかったもんで、ホント、ビックリしちゃいマシタ。

イベント自体は、新宿2丁目タイニイアリスと言う、過去にゴキブリコンビナートの演劇を観に行った事もある場所で行われる模様。

実は、ご存知の通り、万年金欠ゆえ、10月の初頭は、かなり仕事量を増やさないとヤバく、特に火水木の定休日は超集中してネット作業をする予定だったゆえ、色々なお誘いも断ったりしていた訳でありマスが、これも何かの縁。場所も近い事だし、観終わったら、さっさと店に戻って仕事すりゃ良いや・・・と、観に行く事を決意。

これも何かの縁。・・・否。何かの啓示かも知れない。

・・・と言うのが、実は前日のマリア観音ライヴにて、とある事を思い浮かべていたゆえ・・・。

「“円(YEN)”より“縁”」・・・か。

こりゃ、一生、“円”には“縁”が無さそうかも・・・。


★イベントに関して興味ある方は、“百連発”と“三上寛”にて、勝手に検索ヨロシク!!(^^)/

ライヴ告知!!(無事に終了イタシマシタ。)

■「日本絶滅動物記 其の16」
~吉祥寺プログレッシヴ・ドラマー・フェスティバル~
20070901160401.jpg
[出演]
ツノ犬
成田護
木幡東介(マリア観音)
[日時] 2007年9月27日(木)
[会場]吉祥寺シルバーエレファント
[住所] 武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話] 0422-22-3331
[開場] 19:00
[開演] 19:30
[料金] 前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合] 吉祥寺シルバーエレファント 0422-22-3331

★「マリア観音」WEB SITE
★「マリア観音」コミュニティ
★「木幡東介」コミュニティ
★「マリア観音」MYSPACE

★皆様のご来場、こころよりお待ちイタシテおりマス。m(_)m

明るい未来

校長先生が言いマシタ。

「いぢめは良いけど、自殺はしちゃ駄目だぞ。」


しかし、学校に責任があるのなら、いぢめをする側の生徒を育てた親の責任は、もっと重いのではないだろうか・・・。

もしも、学校側に、いぢめを防ぐ責任があると言うのならば、校内の至る所に監視カメラを設置し、生徒には、「バト○ロワイアル」みたいに、盗聴器を仕掛けた首輪でも付けさせなければ無理だろう。


ああ、それならいっそ、国民全員に・・・。

Mr.エレクトの「最新型“いぢめ論”」①

神戸市須磨区、更に同級生二人を、恐喝未遂容疑で逮捕。

「あ~あ。とうとう、いぢめさえ出来ない世の中になったか・・・。」

・・・と言うのは、悪い冗談であるが・・・。

これで、確かに、いぢめは減るだろう。

その代わり、犯罪が増えるが・・・。

いくら犯人を検挙しても、犯罪が無くならない様に、“いぢめ”と言う行為自体は減らない。

むしろ、更に凶悪に、もっと陰湿になるのではなかろうか?

あと、その動機も、暇潰しや欲求不満の解消ではなく、確実な“利益”を目的としたものに変化すると思われる。

「金持ちケンカせず」ではないが、もはや、得にならない“いぢめ”など、誰もしなくなるのだ。

そもそも、本当に“盗みが好きな泥棒”や、本心から“殺人が好きな人殺し”なんて極一部で、殆どは、他に何らかの理由があるからこそ、わざわざ犯罪を犯すのである。

よって、本来、その動機が芽生える状況さえ無ければ、犯罪であろうがなかろうが、誰も、そんなメンドクサイ事なんてしなくなるはずなのだ。

・・・とは言え、もちろん、如何なる動機や原因があろうとも、その目的を、まっとうな方法で解消、及び達成しようとする事の方が、明らかに正しいのだと言う事も事実ではあるが・・・。

だいたい、他に楽しい事や、やりたい事がいっぱいあれば、“いぢめ”なんてする必要無くなるよ。

・・・と言うか、勉強なりスポーツなりで、他人を力で打ち負かす事によって優越感なり達成感を得てる時点で、既に、“いぢめ”をしている人間と、そう大差無いってこった。

社会に出れば、出世だ、名誉だ、金儲けだ・・・でね。

“いぢめ”をする奴は、ただ単に、そう言った、まっとうな方法で、人より優れている事を示す術なり、能力が無いってだけの話・・・。

(つづく)

無“殺意”殺人

しかし、どう考えても、面白い・・・。

・・・やはり、「ふざけてやがる!!」・・・と言う意味において・・・。

だってさ、殺意があったかなかったかより、結果として人が死んだかどうかの方が重要ぢゃあないの?

考えてみよう。すべての人が・・・とは言わないが、私達、善良な市民だって、こころの内に殺意を抱く事ぐらい、たまには・・・否、しょっちゅうあるでしょ?

だけど、実際に行動には移さないから、結果として誰も死なないだけの話でさ・・・。

そんなら、「誰かを殺したい」と、頭に思い浮かべただけでも、殺人未遂の罪に値するんぢゃあないの?・・・テコト。

更には、「ぶっ殺す!!」なんて、口走ったら、もうそれだけで証拠は充分でしょ。

結果として、相手を殺せなかったとしても、それはただ自分の力が及ばなかっただけで、殺意はアリアリだった訳だから・・・。

それにさ、空手の有段者がケンカした場合、凶器を用いたと同等にみなされて、罪が重くなるらしいぢゃない。・・・つまり、自分の力量、あるいは対象者との力の差を自覚していれば、「そんなつもりぢゃなかった」ってな言い訳は通用しないって事。

・・・トナルト、件の母子殺害事件においても、百歩譲って(←譲れるはずもないのだが・・・)、母親は良いとしてもだよ、18歳の健康な男性が、抵抗する事さえままならぬ生後11ヶ月の赤子を床に叩きつけた上に首まで絞めてぶち殺した訳だから、仮に「一片足りとも殺意が無かった」としても、「殺すつもりはなかった」で済まされるはずがないではないか!!

これなら、あの根○敬に似た親戚殺しの方が、まだ救いが、そして改心の余地があるってもんだ。

何故って?・・・殺意があった事を自覚しているからさ。

殺意・・・すなわち、それ相応の理由もなく殺されたりしたら、たまったもんぢゃないよ!!

もっと言えば、そもそも、結果として人が死んだとか死ななかったとかではなく、“力”を用いて、他人の自由を奪おうとする事自体が、既に大きな間違いなのだ。

「戦争が良くない理由は、“人が死ぬから”」・・・ではない。

無知の罪

しかし、裁判ちゅうか、法律ってのは面白い。

・・・「ふざけてんのか!?」・・・と言う意味において。

ああやって、他人の家に上がり込めば、人殺しをしないまでも、誰かを傷つけたり、物を盗んだり壊したりするつもりであったと言う事は明白ではないのだろうか?

百歩譲って、そこに愛情があったとしても、そんな一方的なストーカー行為など、相手にとっては迷惑でしかない。

例えば、飲酒運転する者が皆、殺意など持っていない様に、そもそも、“人が死んでしまうかも知れない状況”を、作り出す事自体が問題ではないのか?

結果として人が死ななくても、飲酒運転をする事自体が既に犯罪であると言うのに、ましてや、殺意があろうがなかろうが、結果として人が死んだのである。

また仮に、“人が死ぬ可能性”を予期していなかった、すなわち、“知らなかった”としても、ジャングルの奥地ではあるまいに、この現代社会においては、その無知さすら・・・否、その無知さこそ、犯罪的であると言って差し支えないであろう。

更に、もっと乱暴に言ってしまえば、親戚殺しの○○被告の様に、明確な殺意をもって殺人を犯す人間の方が、まだ安心出来ると言うものだ。・・・たとえそれが自己中心的な動機に基づくものであろうとも。

だって、「殺す気もない」のに、殺されてしまうのだ。「死ぬとは思わなかった」のに、死ぬのだ。それ相応の怨みがあった訳でもなく、理由すらなく、ただただ理不尽に・・・。


それにしても、「知らなかった」・・・とはね。

誰かが、「教えなかった」のか?

それとも、「覚えなかった」のか?

もしも私が、殺された母子の遺族であれば・・・。

そんな野郎には、どうやったら人が死ぬのか?って事を、手取り足取り、実地に教えてやりたい。

どれだけ首を絞めれば人が死ぬのか、どれだけ刃物で滅多刺しにすれば人が死ぬのか、どれだけ血を流せば人が死ぬのか・・・と言う事を。

だけど、やり過ぎて死んでしまっても、許してね。

「ゴメン!!だって、知らなかったんだもの!!」

にのみや損得

「自分の損得のためにする事」と、「自分の損得とは無関係にする事」の、二通りなのでは無くて・・・。

「自分の損得のため“だけ”にする事」と、「自分の損得のためだけにするのではない事」の、二通りに分けて考える必要があると言う事だ。

自分にとっての損得勘定や損得感情を排除した上で、物事の良し悪しや善し悪しを判断し、その後、初めて、自分の損得によって、物事を選択する事。

・・・が、必要なのではないだろうか。

・・・と、思ったり。

・・・思わなかったり。


・・・と、結論を曖昧に濁して書く時は・・・。

たいてい、そう思ってるんだけどね。


まあ、自分の損得のみに生きるってのも、人それぞれだから、良いんぢゃないの?

禁未来小説「ドラへもん」その61「悪夢の再来」の巻

会話の無い食卓・・・。あったとしても、差し障りの無い言葉を交し合うだけの、おざなりな人間関係・・・。ただただ、面目を保つためだけに共同生活する三人・・・。

食事を済ませ、風呂から出たボクは、今日はもう寝ようと、二階の自室へ続く階段を昇って行く。

一歩、二歩、三歩・・・。

その姿は、まるで死刑囚が、絞首刑を受けるために、13階段を昇っていくかの様だったろう。

独りの部屋。ボクはベッドにうつ伏せになった。・・・と、決まって頭に浮かぶのは、シズコちゃんの面影だけだ。

「シズコちゃん・・・。ああ、シズコちゃん~!!」

フフフ・・・。まさしく、夢中・・・とでも言うのだろうか。・・・そう。何かに夢中になる事って、悪くない・・・。それが真実の恋であろうと、気の迷いや錯覚であろうとも・・・。

たとえ一瞬とは言え、いやな事をすべて、忘れさせてくれるんだから・・・。

「ああ、シズコちゃん・・・。ボクを助けて・・・。ボクを救って・・・。ボクは・・・、ボクは・・・、ボクは・・・寂し・・・。」

ふと気がつくと、時間は夜の11時過ぎ。階下の物音で、ボクは目を覚ました。

「あれ?いつの間に寝ちゃったんだろう・・・。」

そして、トイレに行こうと階段を下りる、ボクの耳に聞こえてきたものは・・・。



パパ「そんな事言ったって、しょうがないだろう!!」

ママ「みんな、貴方のそんな性格のせいなんデスよ!!」


・・・どうしよう!!パパとママが、またケンカしてる!!ここんとこ、毎晩だよ~・・・。

どうしようどうしよう!!ママが、また出ていっちゃうよ~!!

パパのバカ!!

そうだ!!パパさえ居なくなれば、ママが出ていく必要もなくなるはず・・・。

その時、ボクの脳裏には、正体不明な黒い煙が充満し始めていたのだった・・・。

(つづく)

漫画な人生

さて、某ネット喫茶に最終巻が無くて激怒した、とある漫画も、ようやく読み終えた訳なのでありマスが・・・。

え~、その漫画のタイトルはと言いマスと・・・。

いやはや、あまりの流行遅れぶりに、あきれないで欲しいのでありマスが・・・。まあ、流行を追っかけて生きている訳でもありマセンし、そんな、ギブ・ミー・チョコレイト的「流行オクレ」物乞い症候群にはなりたくないので、そんな事で笑われようとも、別に構わないのでありマスが・・・。

うふん・・・。「バトル・ロ○イアル」(←検索防止のため、一部伏字)なんす、これが・・・。

「遅っ!!」・・・て、いいぢゃん別に!!

面白いものは、いつ読んでも面白いの!!

え~、本題に戻りマスと、原作の小説はもちろん、当然、映画も観てない訳なのでありマスが、要は、田口○之作画によるコミック版を読んだって事なのでありマスる~。

ちなみに、この人の描いた「ブ○ック・ジャック」のリメイクも面白かったッス。

いや~!!設定は荒唐無稽でありマスが、非常に考えさせられるストーリーでありマシタ。

もちろん、原作は小説家の高見○春氏によるものなのでありマスが・・・。

・・・とは言え、田口氏の描く、感情過多なまでにデフォルメされた絵柄のお陰で、登場する人物達が、駄目な奴もズルイ奴も含め、皆、実に魅力的に描かれてるんデスな、これが。

このセンセ、きっと、絵を描いてる最中、執筆中の登場人物の喜怒哀楽が、そのまま顔に出てるはず・・・。

まあ何と言うか、漫画特有の、ストーリーの非現実性と言うか矛盾点、ロマンチック過ぎる部分が無きにしもあらずんば虎子を得ずな感は否めないと言う事も事実無根ではない訳なんでありマスるが、それらを差し引いても、非常に楽しめる作品でありマシタ。

要するに、結局、伝えたい事と言うのは、漫画と言う表現方法の形式自体でも無ければ、そこに書かれている出来事や物語そのものなのではなく、あくまでも、漫画と言う形式や物語と言う手法を用いる事によって、何らかのメッセージを伝えようとする事こそが根本的な目的なのでありマスるからして、読者のこころに、新しい視点なり思想が芽生えたり、何かしらの“気づき”がもたらされれば、それで良いのデス。

笑って終り、怒って終り、泣いて終り、騒いで終り・・・ただそれだけの表現なんて、漫画に限らず、面白くも何ともないぢゃない。

いや、まあ、それも良いか。

それもひとつの人生・・・。

人間なんて、何の意味もなく、ただ生まれて、訳も解らず死んでいくだけの存在。

何も無いからこそ、何かを求める。しょせん、ただそれだけの事かもね・・・。

組織暴力幼稚園「世界ノ罠ニハ騙サレナイ」

★組織暴力幼稚園「世界ノ罠ニハ騙サレナイ」(CD)¥1200
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①表面幸福論、明るい生き方教室、マミヤの館、不信が山積み、脳みそ壺割れ中から業が出る、血にまみれた巨大なイカ、陸に並んだ魚の群れ、大人になったらちょうちょになるわ、乙女の爆裂、自分で自分がわからない、底の底まで覗いてみれば。

作成中

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病気マン「あのころ~病気マン過去音源集~」

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★(CD-R)¥300
①生命(イノチ)、②生きる、③シーソー・ゲーム、④愛を下さい、⑤シャア専用ボク、⑥星の子供達、⑦Sweetest trap。

タイトルにある通り、この作品は、病気マンが過去に発表した音源を集めた、アーリー・イヤーズ・オブ・病気マン自選集・・・とでも呼べるものである。また、ここに収録されている楽曲群は、後に発表された「病気でも....2007」に比べ、実際のライヴの雰囲気に近い作風のものが多いと言う事も付け加えておこう。

さて、本作を手に取って、まず目を引くのが、禁忌な悪寒をもよおす、ジャケットのイラストである。そこからは、他人が気軽に覗き込む事を拒絶する、独りの男のトラウマとマントラが、強烈な腐臭を伴って漂って来るかの様だ。

そして、そんな封印したはずの過去の“おもいで”を、禁断の扉を開くかの如く、自ら披露・・・否、吐露しようとの試みは、自虐的な芸風を売り物にする病気マンならではのものであると言えるだろう。

以下、全曲解説。

①②は、元ゴキブリコンビナート女優、セロトニン瘍子嬢とのデュエット作品。①は、似非ヒーリング・ミュージック的なメロディーが胸を“打つ”・・・のではなく、“鬱”に突き落とす名唱。②に至っては、突如転調して繰り出される狂おしいディスコ・ビートが、脳内に燻る虚無感を、完膚無きまでに燃やし尽くすかの如し・・・である。

③④は、やはりゴキブリコンビナートの劇団員である、マンコN・Y氏が参加。③は、打ち込みのビートに乗せてアジテーションする病気マンと、クールなナレーションとの対比が、シリアスな歌詞の内容を、更に生々しく演出。④は、トライバルなビートをベースにしたサウンドが、メビウスの輪の如くエンドレスに湧き起こる、こころの葛藤と渇望とを、見事に体現せしめている。

⑤。幼少期の独り遊び、あるいはボ○老人の独り言を思わせる導入部から、一転、強烈なディスコ・ビートに乗せた、やけくそ気味な咆哮は、もう決して取り戻す事の出来ない、失われた日々への悔恨と憎悪とを表しているのであろうか。

⑥は、国民的人気アニメの台詞を無断引用、自作BGMをバックに繰り広げられる、14分弱に及ぶ意欲的なコラージュ作品。日常の何気ない営みの内にも、人の世の無常を憂いてみせる、病気マンの菩薩的側面を垣間見る事が出来る作品。・・・衝撃のオチあり。

⑦。約10分に渡るロング・トラック。心臓の鼓動を思わせる打ち込みのビートに乗せ、きらめくようなパーカッションと牧歌的な音色のシンセサイザーによって奏でられる、実にスピリチュアルな作風。これらは一見、この世に誕生した無垢なる生命への讃歌とも見て取れる。しかしながら、合間に挿入された台詞から想像される他愛の無い日常の情景描写は、おそらく、「死の直前には、過去の記憶が脳裏を走馬灯の様に駆け巡る・・・」との謂れを指し示すものであろうし、実際、後半には「何者かと出会い、祝福される」かの光景が描かれている事からも、この作品が、人が一生を終える臨終の瞬間を表現したものであると考えて、ほぼ間違いないだろう。

最後に、全体を通して聴いた感想。本作は、一人の人間が、誕生し、挫折、葛藤、苦悩、絶望を繰り返した果てに、穏やかな死を迎える・・・と言った、ある種、人生絵巻的な構成の内容となってはいるが、そこに通底して横たわってるものは、作者、すなわち病気マンの、「死を望むこころ」ではなかろうか。・・・ただし、ここで言う“死”とは、決して悲観的なものではなく、あくまでも、自分にとって納得の行く形での“完結”を目指すと言う意味においてであり、言い換えるならば、それは、“己が人生と言う名の作品”を“完成”させようとの、極めて前向き、かつアーティステックな欲求に基づいたものなのである。

その自暴自棄かつ自虐的、破滅願望に満ちたライヴ・パフォーマンスの印象が、あまりにも強すぎるため、単なる色物に見られがちな病気マン。だが、もしも貴方が、「笑えない現実を笑い飛ばす」、その姿勢や良し・・・とするのであれば、実際それが、硬派なメンタリティによってもたらされているのだと言う事も、自ずと理解出来るはずだ。


■上記作品は、当店にて取り扱い中!!

再収監

コナイダ、ネット喫茶に行ったついでに、ある漫画を読んでたら、最終巻だけ置いてないんでやんの!!(もちろん、何年も前に、とっくに発売されている。)

嫌がらせか?

ホント、ムカつくわ~!!

音楽との関わり方

確かに・・・。

あるアーティストの音楽を聴いて、「ああ、ここがこうだったらな~」と、思う場合があると言う事も事実。

だがしかし、あまり、その考えを推し進める事は、その対象となるアーティストの人格を否定する事にもなりかねない。

もちろん、「ああ、ここがこうだったらな~」と思う事自体は、決して悪い事ではない。むしろ、自分の好みがハッキリしていると言う点においては、勘違いで好きになったり嫌いになったりしない分、良しとしよう。

・・・とは言え、注意せねばならないのは、「何ひとつ文句のつけようがない」と言う場合においても、それが、盲目的な信仰なのか、他者を尊重するがゆえの理解なのかどうか・・・と言う事を、明確にしなければならないと言う点である。

・・・か、どうかは知らないが、今、私がそう考えている最中なだけに過ぎない訳でありまするが・・・。

要するに、そのアーティストが、自分にとって如何なる存在であるか?・・・と言う点は、非常に重要な問題ではあるが、そもそも根本的に、そのアーティストは、何のため誰のために音楽を演っているのか?・・・と言う疑問をおざなりにして、自分の意見を優先する事は、非常に自己本位な発想ではなかろうか?

・・・と、思ったり思わなかったり。また逆に、リスナーは自分勝手に聴いたり決めたりすれば良いのだ・・・とも。

何にせよ、自分と音楽との関わり方と、自分と他人との関わり方と言うのは、非常に近い関係にあり、しかし、音楽においては、発信する側と受信する側と言う役割分担がある訳であるからして・・・。

リスナーには選ぶ権利があり、それは言い方を変えるならば、本来は、選ぶ事しか許されていない・・・とも言えるのである・・・が。


・・・と、これはすべて、その人なりの生き方の問題であるとも言えよう。

自分の夢や願望をすべて叶える事を良しとするか、あるいは、予想だにしない嬉しい出来事に胸奮わせる事を良しとするか。

自分とは異なる価値観を排除する事を良しとするか、あるいは、自分とは異なる価値観との出会いを楽しめるかどうか。


優越感と孤独とは、表裏一体。

すべては、自分が望んだ結果。

それが、因果応報・・・と言うやつであろうか。

業務連絡

昨日は、寝不足と体調不良で、一日中寝てたダス・・・。

ゴメンナサイ。m(_)m

“諸業無情”

昨日、何ヶ月か振りに、自宅アパートの部屋の蛍光灯に光が点った・・・。(←どんだけ~!!)


はたら ど

は らけど

わが らし

らくに らざ けり

 っとてをみ


・・・とは言え、

安定と引き換えに、退屈を受け入れるよりはマシか。

「都会の漂流者」②

なるほどなるほど。

世間の風潮を左右するマスコミの奴らが、ネットカフェ難民を迫害するのは、そう言う理由か。

彼らの中には、一部かも知れないが、自由を求めて自らそうしている者も、少なからず居るはず。

そして、そう言う人達は、部屋を持つ者とは異なり、自分の持ち得るスペースが少ないゆえ、生活に必要な道具はやむを得ないとして、それ以外の余計な荷物・・・すなわち、趣味のコレクションだとか、娯楽のための品々を、望むと望まざるに関わらず、所有する事が、物理的に出来ない。よって、物欲に振り回された挙句に、無駄・・・と言うか必要以上の消費をしなくて済むのだ。

ゆえに、人々の欲望を刺激し、消費活動を煽る事によって利益を得ている者達にとっては、ネットカフェ難民に、なんとしても部屋を借りさせて、もっともっと、たくさんモノを買わせたいがため、彼らの境遇を取り沙汰にし、さもそれが悲しい事や惨めな事であるかの様に宣伝、情報流布するのである。

何せ、部屋・・・すなわち、ある一定のスペースがあれば、その室内を飾り付けるなり、欲しいモノを購入して保管するなりと、何らかの物質で空間を埋めようとしてしまうもの・・・。

しかし、定住する部屋が無ければ、人は、自分の胸の内にあるスペース分を満たせば良い訳で、要は本人のこころが満たされていれば、本来はそれで充分なはずなのだ。

もちろん、それしか出来ないゆえ仕方無く我慢しているのだ・・・とも言えるが、そもそも、物欲など、いくら満たしても満たしても満たしきれないもの。むしろ、物欲を捨て去る事が出来たなら、どんなにか楽に生きる事が出来るだろう・・・と、私などは考える。

しかるに、私の様な凡人には、それがなかなか出来ないのではあるが・・・。


欲望が大きいから、我慢しなくちゃならない。

欲望が小さければ、ほんのちょっとの努力で幸せになれる。

・・・とは言え、物欲に支配されて生きるのも、ひとつの生き方。

それが本当に、自分自身が、こころから望んでいる事なのであれば・・・。

「都会の漂流者」

ずいぶん前から、“ネットカフェ難民”なるものが話題である・・・。

ところで、私はこのネーミングを聞いて、まず最初に、「何て失礼な!!」・・・と、感ぢた訳であるが、実は既に、日本複合カフェ協会が、これは差別用語であるとの声明を出しているらしい。

また、何と言うのか、報道の論調がすべて、まるでそれが不幸であるとでも言わんばかりの意見が殆どを占めている事が、私には非常に気になるのである。

これって、そんなに悪い事かよ?

中には、その日暮らしの境遇を楽しんでいる者も居るかも知れないし、部屋を借りてパソコンを設置して定住する事による経済的なリスクを考えたら、むしろ、これは名案かも知れないではないか。

・・・とは言え、もちろん、収入が少ないゆえに、部屋を借りる事が出来ず、やむを得ずネット喫茶を転々としている者が多いって事も現実。・・・否、おそらくは、あちこち転々とする余裕などなく、いつも決まった“寝ぐら”・・・ならぬ“ネカフェ”へと帰るだけなのであろうが・・・。

しかも、こう言う時に出される意見と言うのが、たいてい、雇用がどうのこうのと、とにかく“人間は働くべき”と言う迷信に支配された意見ばかりである事には、呆れ果てててしまう。

そんな建前を言う前に、アパートの家賃を値下げさせるなどして、低所得者は当然の事ながら、自ら選んで“のんびり生きていきたい者”にとっても、暮らしやすい世の中にしようって考えはないのだろうか。

しかし、私も解っている・・・。

そもそも、都会に住もうって考え自体が、間違っている・・・とは言わないが、高い経費とリスクを伴う事なのだ。

よって、すべての人が・・・とは言わないが、ネットカフェ難民なんて言ってるけど、その実態は、都会暮らしに執着する、極めて贅沢な難民・・・否、“漂流者”に過ぎないのである。

そう言う意味では、今の彼らに本当に必要なのは、定住するための部屋ではなく、ただ何となく都会に寄生し続けようとする不安定なこころのあり方を真剣に見つめ直す事なのかも知れない。

そして、それでもなお、都会に住み続けたいと考えるのであれば、高い家賃を払って部屋を借りるなり、毎晩ネット喫茶で夜を明かすなり、自分の経済状況から選択すれば良いだけの話である。

たとえ帰る家があろうとも、待つ者の居ない孤独な部屋、あるいは会話のない家族の元に帰る人達も居るのだから、別にどっちが不幸かなんて、実際には解ったもんぢゃない。問題は、当人のこころの在り方なのだ。

仕方なく、やりたくもない仕事に就くよりは、本当にやりたい仕事が見つかるまで、漂流しながら考えれば良い。

あるいは、死ぬまで漂流する人生を選んだって、別に構いやしないぢゃないか。

「サインはブスイ(無粋)」

タイトルは、「サインはV(ブイ)」のパロディね、念のため・・・。


今、ふっと思いついたのだが・・・。

「ファンです!!サインして下サイ!!」

・・・てのも、すげえ言い草だな。

本当のファンなら、何かしてもらうより、何かしてあげるべきではないのだろうか?

夏休みの宿題代行業

小中学生の夏休みの宿題を代行する業者があるらしい。

更には、大学の卒論制作を代行する業者も。

いけマセンな~!!ウフフフフ・・・。

庶民はそんな贅沢しちゃいけマセン。慌てて必死で苦労して徹夜してでも、自分の力でやらなきゃ駄目。

・・・だけど、社長候補のお子様は別よ。

だってさ、社長になれば、自分で汗水たらさなくとも、「チミチミ、これやっとき給え」・・・てな具合に、わずかな金で社員をこき使えば良いんだからさ。むしろ、子供のうちから、宿題を人にやらせるぐらいの心構えがなくちゃ駄目。きっと立派なシャチョ~サンになるよ~!!

それよりさ~!!休み中に仕事させる様な会社があったら、どうよ!?

大人だって休み中には仕事しないんだから(←職種によるが)、小中学生も、勉強なんか忘れさせて、思いっきり遊ばせろよ!!

あるいは、その逆に、学校行ってる時と変わりないくらいへヴィーな分量の宿題与えるとかね。

それに、大学の卒論制作にしろ、しょせん教授や大学側の自己満足と、世間に対して大学の質をアピールするためのパフォーマンスに過ぎないんぢゃないの?

だいたい、卒業する間際まで、せいぜい出席率を目安にするだけで、生徒の勤勉さや学力がどの程度なのかチェックもせず放ったらかしにしといて、最後の関門だけで判断しようたあ、無責任にもほどがある。

そもそも、何でも金でカタがつく社会を作っておいて、その権利の行使を許さないってなあ、一体どう言う事?

勉強したり学習したり努力したり訓練したりしなきゃいけないのは、貧乏人だけで充分!!

この国では、人より金を多く使う事の方が美徳であり、羨望の対象なんだから、それで良いの!!

夢=個人の欲望を美化したもの

「夢は大きい方が良い」

・・・なんて言いやがったのは、どこの馬鹿だ!!

やさしさ基金(飢饉)→更に訂正

人は、幼少時、親なり何なりに、やさしくされた分だけ、大人になって、人にやさしく出来るのかも知れない。

また、やさしさの貯蓄が、ある一定量に達すると、元金が利子を生むかの如く、そのやさしさが尽きる事はない。

しかるに、やさしさとは人に元から備わっているものではなく、親か身近な誰かから教わる・・・、あるいは、授かるものなのであろう。

両親が揃ってたって、その家庭が幸せとは限らない。

あの歌にある様に、「あたたかい人の情も 胸を打つ熱い涙も 知らないで育ったボク・・・」は、孤児(みなしご)ばかりではないのだ。

よって、そんな、砂漠の様なこころに、どれほどのやさしさを持って接しても、花が咲くどころか、草も木も生えないのかも知れない。

そう言えば、もうひとつの歌にも、「草も木も無いジャングルに 今日も嵐が吹き荒れる・・・」ってフレーズがあったな。

しかし、“人にやさしく”されれば嬉しいくせに、“人にやさしく”すると、自分が損をした気分にでもなるのだろうか・・・。

しまいには、「強ければ それでいいんだ 力さえあればいいんだ」・・とも。

そんな人は、もはや、他人を力でねぢ伏せ、他人より優位に立つ事によってしか、自分の存在を肯定する事が出来なくなってしまってるんだろうな・・・。

親の因果が子に報い、(負の)連鎖は続くよ、どこまでも・・・か。


★歌詞引用:テレビアニメ「タイガーマスク」より。

麺○団の“ひやたま”

例のコレ↓デスが・・・。
★「グルメ日記」

西新宿の同店(「東京麺○団」)に入り浸りで、週に5回行ってマス!!

私は、冷やしうどんにスクランブル・エッグをたっぷり乗せた、“ひやたま”と言うメニューがお気に入りで、いつもこれしか食べマセン。

都内では、他に「吉祥寺麺○団」と言う支店がある模様。

麺○団で勝手に検索願いマス!!(^^)/

(○の中は「通」デス。あまりにしょっちゅう行ってるので、店の人がこれを読んでしまったら、恥ずかしくて行きにくくなるため、伏字にて失礼イタシマス。

★カテゴリーに「グルメ日記」を追加イタシマシタ・・・が、殆ど更新されない気も・・・。(^^;)

ともだちのやるおんがく

「おんがくはぼくのともだち」の続編的なもの・・・。

逆に、「ともだちのやるおんがく」を好きになる可能性が高いのは何故か?

ここの所、私はそればかり考えていた・・・。

そして、今やっと、ある種の結論を導き出した。

要するに・・・。

そもそもが、他の誰かと、ともだちになる事自体が、生きてきた環境や影響を受けた音楽が似通った同世代であったり、あるいは年齢が離れていたとしても、物事に対する考え方や価値観が近い・・・等、何らかの接点がある訳で、それゆえに、そのともだちが演る音楽にも、何かしら惹かれる要素が無きにしもあらずなのは、至極当然の事なのである。

よって、どれほど長い付き合いのともだちであっても、自身の趣味や嗜好が全く反映されていない音楽を演っているとすれば、それを好きにならない可能性も大いにある訳なのだ。

また、以前にも述べたが、音楽を好きになる理由として、その出会いのシチュエイションなりタイミングが、非常に重要なポイントかつウェイトを占めていると言う点が挙げられる。

例えば、同ぢ悩みや怒りを共有する、同世代のともだちが聴いている音楽を好きになる可能性は非常に高い。

しかし、その逆に、「この音楽が良いから聴け」と、無理矢理に押し付けられたならば、その音楽の良し悪しや本質とは全く無縁に、聴かず嫌いになってしまう事も充分考えられるのだ。

ゆえに、そう言った不確定要素を完全に排除して、純粋に音楽の良し悪し・・・と言うか好き嫌いを決定出来る、あるいは、そうしたいと努めている人間が居るとするならば、その人にとって、「おんがくはともだち」では無い・・・と言う言い方も出来る。

・・・とは言え、本当に世界中の音楽を聴き漁って、それを決めるならばまだしも、実際には、それにも限界がある訳で、厳密に言えば、限られた中から選んでいるに過ぎない訳であるからして、サンプルの量、及び自発的と受動的の違いはあれど、結局は、“出会い”がそれらを大きく左右している事は否めない。

何せ、出合わなければ、知りようがないのであるからして、遠い国、違う時代に、本当に自分好みの音楽が存在していたとしても、記録としての音源すら残っていない事には、好きにも嫌いにもなりようがないのである。

ましてや、自分自身の持つ基準自体が、外部からの影響を少なからず受けていると言う事は、絶対に否定し得ない事実なのだ。

ゆえに、審査基準なり審美眼が厳しいがために、こころの底から本当に好きになれる音楽が無い人間は、ぐだぐだ不満を述べるよりは、自分の手で音楽を創ったり演ったりする方が手っ取り早いであろう。

ただし、それはある種、“もう一人の自分”を探す行為でもあり、そんな人が、音楽への接し方を、ともだち(・・・すなわち、自分との共通点を多く含む、しかし自分とは完全に一致しない差異を持った人間)を選ぶ事と同様に考える事は非常に難しく、それすなわち、ともだちに対しての要求水準も、厳しく、高く、狭いのであろう事は、想像に難くない。

・・・と、話が少々それたが、そう言う人はリスナーには向いていない。むしろ、演奏者側に回るべきである。

何にせよ、結論として、「おんがくはぼくのともだち」であれば、「ともだちのやるおんがく」を好きになる可能性も高いと言う事は、紛れも無い事実であると言えよう。

要するに、そもそも、「何を求めて音楽を聴くのか?」、更には、「音楽(ともだち)に何を求めるのか?」・・・と言う、根本的な姿勢や生き方自体が、人それぞれ違うのだから、それを比べた所で意味がないのだ。

それとも、それさえも比較しなければいけないのだろうか?

・・・必要なのは、“比較”では無い。音楽への接し方、そして、自分の生き方に対する認識・・・すなわち“自覚”なのだ。

禁未来小説「ドラへもん」その60「暗闇からの脅迫」の巻

ああ、ボクはどうすれば良いんだろう・・・。

あれ以来、シズコちゃんは、どう考えてみても、ボクを意識した行動ばかりを取っている。

なのに、ボクときたら、照れと気恥ずかしさから、わざとシズコちゃんを避ける素振りばかりしちゃって・・・。

あ~ん!!このままぢゃあ、シズコちゃんに愛想尽かされちゃうよ~!!

どうしようどうしようどうしようどうしよう・・・。

もうすぐ夏休み。しばらく会えないうちに、シズコちゃんも心変わりしてしまうかも・・・。

やばいよまずいよこまるよいやだよそんなのかなしくてたえられないよ!!

ところで、そんなボクの焦燥をよそに、ボクが通ってる小学校にも、携帯電話からのみ見る事の出来る、学校非公認のネット掲示板が出来たそうだ。何でも、それらを総称して、“学校暗(くら)サイト”と言うらしい。ボクは携帯電話を持ってないから見れないんだけど、あのおしゃべり女め、余計な事書き込んでないだろうな~・・・。

・・・と、そんなある日、こんな事があった。体育の授業の後、トイレから出てきたボクが、洗面台に体操帽を忘れてしまい、それに気づいたクラス・メイトが、ボクを追いかけて来てくれたんだ。

そのクラス・メイトとは・・・。

そう。あの、トロオこと、“不具多吐露男(ふぐたとろお)”であった。奴は、おどおどしながら、ボクに帽子を差し出した。

「あっ・・・」

ボクは、「ありがとう」を、言おうとした。こいつ、イジメに遭ってるって噂だけど、意外と良い奴なのかも・・・。

なのに、ボクと来たら・・・。

偶然にも、その場面を、教室から出てきたシズコちゃんに見られてしまったため、慌てて、トロオから帽子を乱暴に奪い取ると、「ありがとう」の言葉を告げる事もなく、足早に、その場を立ち去ってしまったんだ。


・・・その時の気持ちを正直に言えば・・・。

ボクは、イジメに遭ってると言う噂のトロオと、仲が良いと勘違いされて、それを誰かに吹聴されるのが怖かったんだ!!

だって、あんな奴と一緒にされて、“学校暗(くら)サイト”に、ある事無い事書かれた日には・・・。

しかも、シズコちゃんに、それが知れたら、ボクの事を嫌いになっちゃうかも知れないぢゃん!!

自分自分自分自分自分自分自分自分・・・。

今のボクには、自分を守る事だけで精一杯なんだ!!

そのために、誰かが傷つこうが、誰かが悲しもうが、知ったこっちゃないよ!!


・・・ボクは、卑小で臆病な自分を肯定する事に、必死だった・・・。

(つづく)
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