↓やっとデケタ!!思い入れが強い事柄に対して何か書くと言うのは、とても労力が要るものなのでガス・・・。(^^;)
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上の画像は、1983年5月19日、WOODY STREETにて行われた、“ストリッパー”(レコードも出している京都のストリッパーとは同名異バンド)のライヴ告知フライヤー。おそらく、5月8日に同所で行われた「広島RockersⅡ」にて受け取ったものと思われる。
そして秋。1983年9月24日、やはりWOODY STREETで行われる“ストリッパー”のライヴの前座に、後藤氏のやっているバンド、“エクスクレイト”が出演すると言う。「観に行こうで~」と、ヤブキに誘われた著者は、二つ返事で同意。この日、“自我”の前身である“エクスクレイト”のライヴを初めて観る事となった。
ところで、改めて考えてみると、ストリッパーと言うバンドは、この時代に既にワンマン・ライヴを何度かやっているのだろうから、かなり活発に活動していたんだなと思い知らされる。確か、ずいぶん後に東京の新宿LOFTにも出演しているはずだ。また、フライヤーに使われている写真からも想像出来る通り、ヴォーカリストがギターも弾くと言う、いわゆる、ザ・クラッシュ~ハートブレイカーズ~ザ・モッズ辺りの音楽性だったものと思われる。(著者は、同バンドを3度も観てるはずなのに、全然覚えて無いのであった・・・。)
さて、肝心のエクスクレイトであるが、メンバーである後藤氏及びヴォーカルの瀬川氏に対しての著者の印象はと言えば、彼らは、とにかくスリムでスタイリッシュで、この日もそうだったかは25年近くも前の出来事ゆえ定かではないが、革ジャンにブラック・ジーンズと言った当時のUKハードコア・パンク風なファッションが、実にサマになっていた事が思い起こされる・・・。
そして、いよいよライヴが始まった。音源が残ってないので、あくまでも断片的なメモと記憶から説明するしかないのだが、この日観たエクスクレイトの音楽は、まごうかたなきハードコア・パンクであり、しかも、全曲がオリジナル曲であった。半年前に観たGASは、まだスターリン等のコピーをやっていたゆえ(←ただし、この時期、既にオリジナル曲も演っていたかも知れないが・・・)、少なくとも著者にとってのエクスクレイトとは、広島で初めて観た、“オリジナル曲のみを演奏する”ハードコア・パンク・バンドと言う事になるのであった。
また、もう少し具体的かつ詳細に、その音楽性を解説するならば、楽曲のテンポはカムズほどの超性急なものではないが、チフスのソノシート音源をもっとハードにし、かつ初期ガーゼのポップさを少し抜いた、ひたすら前に突き進む様なサウンド、そして間奏にはシンプルな初期ディスチャージ風ギター・ソロ・・・テナトコであった。その辺りを、歴史的な面から見て考えれば、時期的には、ADKレコードから発売されたハードコア・パンク第二世代を集めたオムニバスEP「NEO PUNK DISORDERLY」収録バンド等の音に近いものだったのではないだろうかと推測される。
なお、自我の1stソノシートでは“AN”と表記されているヴォーカルの瀬川氏は、GASの狂平氏の様にドスの効いた迫力ある声ではなく、どちらかと言えば線の細い声質で、そのせいもあったのか、彼らにはジャパコア特有のバイオレンスチックな荒っぽさはなく、更に言えば、この時にはまだ演っていなかったが、同ソノシートに収録された楽曲からも伺いしれる通り、辛辣ながらも個人的な視点に立って書かれたニヒリスティックな歌詞のイメージとも相まって、スピーディかつ攻撃的なサウンドでありながらも、エクスクレイト(及び自我)は、どこかクールだったと言う印象が、筆者の記憶には強く残っている。
思うに、後藤氏は、どちらかと言えば純粋に音楽志向であったと言うか、パンク・ロックやハードコア・パンクの持つアティテュードやメンタリティよりも、むしろ、その刺激的で破壊的なサウンドにこそ、その魅力の本質を見出していたと言う事なのではないだろうか。その後の自我や、現在も活動中のBAREBONESの楽曲や演奏を見聞きする度、筆者には、そう思えてならないのである。
更に、実は、この日のライヴ前には、バンド名を“エクスクレイト”から“自我”に改名する事が既に決まっており、同時にベーシストも脱退すると言う事から、ライヴ終了後にヤブキが誘われ、同バンドに参加。よって、正確に言えば、この日から“自我”が活動を開始する事になるのであった。
(つづく)