Mr.エレクトの独り言 2007年12月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

年末年始の予定

忘れてた~!!

12月31日(月)は夕方6時までのA業となりマス。

年始は1月4日(金)からA業イタシマス。

ヨロシクどうぞ~!!(^^)/

来年もヨロシクたのま~

スラッヂ再結成~アフター・ザ・スラッヂ始動ライヴ

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先日、無事に行われマシタ。(^^)

今年はもう時間が無いので、報告は来年になりマス。m(_)m

(つづく)

ああ“無常”

そもそもが、人生・・・すなわち人間の一生なんて、あまりにも儚(はかな)く、そして限りなく虚しいものなのである。

だからこそ、それを少しでも楽しくするために、努力したり工夫する必要があるってだけの話。

ただそれだけの事・・・。


ただそれだけの事ッスよ。

コルホーズの差別畑

憎むべきは、他人を強制し服従させる力、すなわち“権力”・・・である。

権力こそが、差別を生み出す元凶なのだ。

本当に差別をなくしたいのなら、権力を無力化・・・とまでは言わないが、その力の及ぶ範囲を限定するか、分散する必要がある。

権力ある限り、差別が無くなる事など未来永劫あり得ない。

何故なら、権力を維持するためには、差別の構造を利用するのが最も効果的ゆえ。

権力は少数派を生み、弱者(敗者)層を生む。

そして、人は誰しも孤独を、そして貧困を怖れる。

ゆえに、惨めな気持ちを味わいたくなければ、人より少しでも上に這い上がるか、権力に媚を売るしかなくなるのだ。

私はそれが、“権力”以上に嫌いである。

「地獄に堕ちるわよ!!」・・・と脅され、何の事はない、この世に地獄を作り出しているのは、私達自身なのだ。

日々、事ある毎に繰り返される、誘惑と恫喝。

「欲しいだろ?」

「怖いだろ?」

その飴と鞭を拒絶しない限り、この無間地獄に終りはない。

「要らねえよ!!」

今こそ、貴方にとっての憧れの対象、そして怖れの対象を、憎しみの対象に変えるのだ。

憧れは貴方を繋ぎとめるための首輪であり、怖れは貴方を縛る鎖である。

「下らねえ!!」

権力は、人を家畜に貶める。

権力は、人の尊厳を奪う。

権力は、人の命を踏み躙る。

権力にとって、人は畑の作物でしかない。

ある真理

自分自身が自由でない人間に、他人を救う事など出来ない。

次回ライヴ告知(終了)

■「日本絶滅動物記 其の17」
~エレキ・ギター弾き語りワンマン~
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[出演] 木幡東介(マリア観音)
[日時] 2007年12月18日(火)
[会場]吉祥寺シルバーエレファント
[住所] 武蔵野市吉祥寺本町2-10-6-B1
[電話] 0422-22-3331
[開場] 19:30
[開演] 20:00
[料金] 前売2,500円 当日2,700円※ドリンク代別
[問合] 吉祥寺シルバーエレファント 0422-22-3331

★「マリア観音」WEB SITE
★「マリア観音」コミュニティ
★「木幡東介」コミュニティ
★「マリア観音」MYSPACE

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★皆様のご来場、こころよりお待ちイタシテおりマス。m(_)m

「“正義”の定義」②

前回、「正義とは、“利己心”を正当化するための大義名分に過ぎないのか・・・。」と述べたが、“利己心を正当化する”・・・などと言うと、それがあたかも“悪い事”であるかの様な印象を受けたかも知れない。

しかし、それはあくまでも受け取る人間の価値基準次第・・・である。

また、“善い事”、そして“悪い事”と言うものは、その対象物や場面によって、大きく異なるものなのだ。

さて本題。こんなシチュエイションは、そうそうないのだが、あなたともう一人の誰かの、どちらかが死ねばどちらかが助かるとするならば、どちらが助かる事の方が正義なのであろうか?

もちろん、双方にとってみれば、自分自身が助かる事こそ正義であろう。正義の範囲を自分と言う枠内に狭めてみれば、自ずとそうなってしかるべきである。しかし、人類規模の範囲での正義で見たらどうか?

答えは簡単。人類の将来を考えれば、“生命力の強い者”が、生き残るべきである、

では次の問題。目の前で自分の娘と他人の娘が死にそうで、どちらか一人しか助けられない場合、あなたはどちらを助けようとするだろうか?

とりあえず自分規模の正義で考えるならば、まともな親であれば、たまたま自分の娘が憎くて仕方なかったって場合を除き、当然、他人の娘に死んでもらう事を選ぶだろう。

しかし、やはり人類規模の正義で考えてみれば、容姿や知能の貧しい自分の娘(←たとえばの話デスから!!)よりも、明らかに容姿や知能で勝っている他人の娘を生かした方が絶対に人類の未来のためになるはずなのである。

それでは、こんなケースではどうか?

親である自分と、自分の娘の、どちらか一人しか生き残れないと言う場合。

これは難しい・・・。

普通に考えれば、親は自分と引き換えにしてでも子供の命を救おうとするもの。しかし、妻は良いとしても、家に帰れば三人兄弟のうちのもう二人が待っているとしたなら・・・。

自分が死んで目の前の娘を救った所で、一家の大黒柱を失った妻と三人の子供の、その後の生活はどうなるのか?それだったら、娘一人を犠牲にしてでも、残された妻と二人の子供のために自分が生きるべきではないのか?

要するに、こう言う事だ。ある一方の正義は、もう一方の正義を殺す。

そして、正義の規模が利己的なものに近づけば近づくほど、大きな範囲での正義からは遠ざかる。

・・・正義なんてしょせん、勝った者が定義づけるだけのものに過ぎない。

だが、それで良い。

人類規模で見れば、人類と言う種族を存続させる事の出来る、“生命力の強い者”こそ正義であるべきなのだ。

・・・とは言え、それすら地球規模にまで範囲を拡げて考えれば、他の動植物を生かすためには人類なんか滅んでしまった方が良いのかも知れないが。

(ところで、現在の世の中に蔓延る弱肉強食とは、真の意味での弱肉強食では無い・・・が、その件は、またいずれ・・・。)

よって、たとえば私の様な“生命力の弱い者”が掲げる正義とは、弱者(敗者)が強者(勝者)に抵抗するための大義名分でしかなく、“生命力の強い者”を尊重する人類規模の正義とは真っ向から対立するものとなって然るべきなのだ。

ゆえに正義とは、あくまでも、各々が定めた規模に合わせ、その範囲内(人類だったり自分だったり家族だったり・・・)の者の生命を存続させる事、すなわち生命を“生かす”事を目的とした価値基準に過ぎず、そう言う意味においては、ある種、「“生”義」とでも表記し直すべきものなのである。

(つづく)

サリドマイドのカセット入荷!!

★サリドマイド「プラスチックロマンス」(カセット・テープ)¥400
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①「プラスチックロマンス」②「肉精」③「消化」④「スケルター」⑤「メニモトマラヌ」⑥「感染」

自身のレーベル、ホルマリン・レコードよりリリースされた全6曲入りのカセット・テープ。ライヴでは第四インターナショナルやREBEL等のカヴァーも演っていると言う点から伺える様に、彼らの音は、日本の’80s初期パンク~ハードコア・パンク・バンド(それもB級の!!)が持つ独特のテイストに溢れた変態性奇形ハード・パンク・サウンドであり、本作に収録された、そのひねくれた曲調と、1曲1曲すべてがあっと言う間に終了してしまう刺激的な楽曲群は、実に毒々しい感触に満ちている。女性メンバー含む4人編成。
最後の意識は「I am Fucked」!!・・・だ。

■上記作品は当店にて販売中!!通販も可能!!

ぐしゃ人間「オマエノロイ」プレスCD版入荷!!

★ぐしゃ人間「オマエノロイ」(CD)¥500
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当初、CD-Rで発売された同タイトル作品に、ボーナス・トラック「ひぐらし」(ライヴ音源)を追加した、プレスCD仕様版。CD-R版とは色違いのジャケット・イラストも、デザインの一部が変更されておりマス。

★ぐしゃ人間「グシャノエイゾウ」(DVD)¥1500
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前半には「グシャノピーヴィ」として、ウズマキマキオ(誘拐映画社)監督による「オマエ」と、あう+かめ監督による「ノロイ」の、いずれも凝った作りのPVを収録。後半には「グシャノライヴ」として、現在メンバー編成によるライヴ映像を全9曲たっぷりと収録。駕籠真太郎(奇想漫画家)による表紙イラストのミニ・シール付。

■上記2点は当店にて販売中!!通販も可能!!

「“正義”の定義」①

正義とは、言わずもがな、人類が自らを“生かす”事を目的としてために掲げた指針であり、間違っても滅びゆくためにあるのではない。

問題は、その正当性が、どれくらいの範囲において通用し得るか?・・・と言う点だ。

自分を生かすための正義なのか?

自分の家族を生かすための正義なのか?

ある人種のみを生かすための正義なのか?

人類すべてを生かすための正義なのか?

地球上の生命すべてを生かすための正義なのか?

・・・そうやって視野を広げて考えて行けば、その“正義”が、何のための、そして誰を守るためのものであるのか?と言う事がハッキリと見えてくる。

そもそも正義とは、人それぞれ自分が定めた許容量の範囲内でしか通用し得ないが、しかし、その限定された枠の内でのみ顧みれば、明らかに正しい方向性を指し示す価値基準なのだ。

よって、他者の正義と共通する部分もあれば、どこかしら交わらぬ部分もあってしかるべきであり、更には一片足りとも相容れない場合も充分あり得るのである。

それゆえ、その許容量の範囲を広げれば広げるほど、多くの人との連帯が可能となり、その逆に、それを狭めれば狭めるほど、孤立していくのは当然の結果なのだ。

しかるに、弱者が弱い自分を守るために振りかざす自分のみに都合の良い正義によって、弱者同士の争いが絶えないと言うのが、この世の常。

その結果、利益を独り占めにしようとする強者のみに都合の良い正義によって、弱者が喰い物にされ滅ぼされる(or飼い殺しにされる)のは自明の理であり、弱者が連帯して強者にのみ都合の良い正義に立ち向かう日など、未来永劫、絶対に訪れるはずがないのである。

強者の正義も弱者の正義も、しょせんその程度のレベルなのだ。

自分しか救えない正義。

自分しか救わない正義。

自分さえも救えない正義。

誰をも救えない正義。


正義とは、“利己心”を正当化するための大義名分に過ぎないのか・・・。

自己正当化を正当化する試み

その人が、何を喜びとして日々過ごしているのか・・・。

その人が、何を悲しみとして捉えているのか・・・。

その人が、何に対して怒りを覚えているのか・・・。

それらを知る事が出来れば・・・

その人が、何を目的として生きているのか?

・・・と言う事が、解るのではないだろうか。

そして、その目的が間違ってると思えた時・・・否。それが自分の考えと異なる時、それにどう対処するのか?

・・・と言う事も、ある種、その人の生き方のひとつであると言えるだろう。

人が生きるためには、時には自己を正当化する事も必要である。

おそらく、それを器用にこなせない者が、自殺してしまうのだろう・・・。

生き物である限り、自分、あるいは自分の血族が生き、そして繁栄する事こそが、正義である。

・・・べきだ。

昼起きたら・・・

午前中、ちょっと仮眠して、目を覚ましたら・・・。

明らかに手相が変っていてビックリ!!

・・・しかも、これって確か凶相では?・・・。

知らず知らずのうちに・・・

自分のこころの内を満たす目的のために

他人を打ち負かす事が必要となり

知らず知らずのうちに・・・

他人を打ち負かす事が

自分のこころの内を満たすための目的となる

哀酷心

あまり真っ当な事を言うのは、私の柄ではないのだが、しかし、言わずにはおれない。

天下りの官僚どもが山分けしてぶん取っていくほどの余分な税金があるのなら、薬害C型肝炎の原告団への賠償金に廻すべきではないのか。

まったくもって、我が祖国日本とは、つくづく見下すべき下品な輩が牛耳る国家ではなかろうか・・・。

売国奴とは、きゃつらの事だ。

これはもはや山賊や盗賊のレベルであろう。(山賊サン、盗賊サン、一緒にしてゴメンナサイ。)

どうせなら、他所の国から財産を奪って、国民に分配するぐらいの事をしろってんだ!!

・・・って、それもダメダメ!!

我々庶民・・・否、愚民も、ちっぽけなプライドを守るために争ってる場合ではない。

偉い地位にいるだけの人間が偉い人間なのではなく、偉いと賞賛される様な行いをする人間こそが偉いのである。

家庭や学校では、そう教えてないのだろうか?

「Mr.エレクトの教育論」(親子編)

子供に対し、「間違った事はするな」・・・と教えるのは簡単だ。

また、「教える」と言う事は、単に教義を「押し付ける」だけの事であり、それを「受け入れる」か「実行する」かは、その子供次第であろう。

よって、それだけ教えておけば、子供が何かしでかした時にも、「自分は親として、間違った事はするなと子供に教える責任は果たした」との自己満足及び世間様への顔向け、及び面目は立ち、「子供が自分で勝手に社会のルールに背いたのだ」と、その教えを破った子供に全責任をおっ被せる事が可能となる。

せめて、その親なりの価値観なり審美眼を、子供に押し付けたのであれば、親も批判の対象となり得るがゆえ、まだしもであるが、そもそも、「間違った事とは何であるのか?」と言う、その価値基準さえ世間一般の常識に委ねてしまったのでは、親として怠慢であると言うしかない。

親は子供に、こう教えるべきである。

「自分が間違ってると思う事はするな」・・・と。

そうすれば、子供は、何が良くて何が悪いのかを自分で判断しなけりゃいけなくなり、一見すると、こちらの方が無責任な放任主義に思えるかも知れないが、ただただお経の如きありきたりの説教をするよりは、本当に親がなすべき事柄が増え、その責任も増すはずなのである。

また、子供に親の価値観を押し付ける事は生き物としてアリではあるが、子供にとって生殺与奪権を握る立場である親の影響は絶大であり、それゆえ、それに従うか逆らうかと言う二者択一に追いやられる可能性が高く、その子供がいつまでも親の呪縛から逃れられぬ人生を歩みかねない。

・・・とは言え、それは親子・・・ひいては血族の宿命であるとも言えようが・・・。

もしも、真に子供の自立を願う親であれば、何かをただ妄信するのではなく、またその逆に、何かにただ反発するのでもなく、何が重要で何が重要でないかを、何が大切で何が大切でないかを、何が良くて何が悪い事であるのかを、自分で判断出来る人間に育てるべきなのである。

そうすれば、どれだけ世の中が急激に変化しようが(させられようが)、人類の長い歴史を後世から振り返って見ても、恥ずかしくない生き方を貫く事が出来るのではないだろうか。

・・・と、それすら私個人の勝手な意見であり、それこそ自分で判断して決めるべき事柄ではあるが・・・。

そもそも、国家・・・と言うよりは、ある一部の人間の利益のみを追求するために形作られ動かされているこの世の中ってやつは、そもそも人間が自立する事はおろか、自分で物事を判断する事が出来る能力など求めていない。

・・・と言うか、むしろ、そんな事されたら困るのが現実である。

彼らは、私達が日々、楽しい事や面白くない事に対し、喜んだり不満を述べたり・・・と、いつまでも運命受動型の金を生み出す鶏でいてくれれば良いだけなのだから。


・・・ゴメンナサイ。私、嘘を申しておりマシタ。

親が子供にすべき事は、この世に蔓延る価値観なり善悪の基準を尊び、人様に迷惑をかけたり後ろ指を指される事もなく、王様には決して逆らわぬ羊の如く従順な、そして健やかなニンゲンに育てる事でありマスる。

そうすれば、何事もなく無事平穏に、その一生を終える事が出来ましょうぞ。

ヒトとして生まれたからには、誰にでも幸せになる権利があるのデス。

ああ・・・。

さあ皆様!!両手を上げて!!

ニンゲン万歳!!

人類万歳!!

ニッポン万歳!!

地球万歳!!


つまりは、もはやお手上げ・・・テコト。

気分は重要

「気分が良いか悪いか」と言う事は、非常に重要である。

どんなに高級な素材を使用し、どれほどの職人の技を用いた料理であっても、無理矢理口に詰め込まれたり、悪臭のするゴミ捨て場で喰わされたのでは、正常な判断など出来っこない。

人間にとって、感情とは、それほどに大きなウェイトを占めるものであり、理性でそれを制するにも限度ってものがある。

しかしながら、感情を優先し過ぎ、理性をおざなりにすると言うのも、あまり誉められたものではない。

必要なのは、感情と理性のバランス、及び、それらに対する自覚の度合いである。

感情だけでは獣と一緒だし、理性だけではまるでロボットであろう。

また、同様に、収入と支出のバランスも大事である。

ご利用は計画的に・・・。

ヒトゴト言わせろ!!

え~。いつぞや、どっかの町で、母が娘を川に投げ捨てて、ぶち殺しマシタな。

私には、この母、そしてその様な人間の気持ちが良く解る。

・・・と言っても、それはあくまで「理解出来る」と言う意味においてであり、当然の事ながら、「だから殺してオッケー」・・・と言う意味では決してない。

それ以前に、殺すべき子孫も居ないし。

もっとも、ダメなムスコなら・・・(下ネタ自粛)。

要するに、私が言いたいのは、こう言う事だ。

あの様な事件が起きた時、たいていの人は、「なんでそんな惨い事をするのかしら?」とか、「とんでもない事しやがる!!」と、疑問や怒りを抱くものである。

しかしながら、「何で」と問うた所で、「けしからん!!」と怒った所で、ましてや犯人を厳罰に処した所で、今後、あの様な悲惨な事件が無くなるとは、私にはとうてい思えないのだ。

・・・とは言え、異常な出来事に対して目を背けたり、それらに麻痺して慣れっこになってしまう事に比べれば、疑問や怒りを抱く事は大事であり、とても重要な事である。

だが、降る雨に対し空を見上げて「何故・・・」と問うたり、突然の地震に対し天に向って「畜生!!」と怒鳴ってみた所で、何も変らないし、何も起きるはずがない。

そんな風に、自然の驚異に脅える原始時代の人間みたいな態度でいるならば、せいぜい・・・。

「原始人かよ!!」

・・・と、ツッ込まれるのがオチであろう。

私に言わせれば、凶悪な事件に対して、疑問や怒りを抱いているだけの人間は、結局、それを楽しんでいるだけなのだ。

物事を本当に解決する気がないから、それらを「解らない事」や「許せない事」に分類し、記憶やこころの内から、どこか遠くに追いやってしまうのだ。

もしも本当に、あの事件なり、何かしらの問題を本気で解決したいのであれば、「もっと近づいて良く見る」はずであり、「更にたくさんの情報を調べる」はずであり、何より、「あのおぞましい殺人鬼の気持ちや精神状態を、より深く正確に知ろうとする」はずなのである。

・・・と言いつつ、私にせよ、あの事件を題材にして、時には下らない小ネタを挟みながら、「俗世間を小馬鹿にしたい欲求」を満たしつつ、「ボクってひねくれてるでしょ?」と言う自己アピールをしたいためだけに、この文章を書いているのだからして、大して変りはしないのであるが・・・。


まっ、要するに、一言(ヒトコト)で言うなれば、しょせん他人事(ヒトゴト)・・・って所かな。

語る死す

「エレちゃん、ガキつか・・・ぢゃなくて、お店やめるの~?」

「エレちゃん、お店やめへんで~!!」

・・・と、それは置いといて。

最近、J.A.シーザーばっか聴いておりマス。

もっぱら、「J.A.シーザーの世界」って本に付属してる「冥蔵歌~ライヴ封印歌集」ってやつを。

何て言うのか、対象物に深く激しく没頭する事によってのみもたらされるカタルシスを、すごく得られる作品集なんだよね~。コレ。

今度、J.A.シーザーの5枚組CDボックスってのも出るみたいヨ!!

解ってくれくれくりゃりんこ

「なんであの人は、私の事を解ってくれないのかしら!!」

・・・と、怒ってる人が居た。

自分だって・・・

「あの人がなんで、私の事を解ってくれないのか?」・・・と言う事が解らないくせに。

私が考えるに、それはおそらく・・・

「自分の事を解って欲しい」のではなく、「自分の事を、自分がそうであると思いたいと同様に、貴方にも、そう言う風に見て欲しい」・・・と言う押し付けがましい気持ちが、双方のすれ違いを生むのであろう。

それならば、もっとハッキリ言えば良いではないか。

「私は、自分の事を、これこれこう言う人間だと思われたくてたまらないのだから、貴方もそう思いなさい。・・・否。そう思わなきゃ許さない!!」

・・・と。

そうすれば、きっとその人は、こう言ってくれるだろう。

「ああもう、解ったよ。解ったってば!!(超ウゼ~!!)」

・・・と。

私が思想的に好きなオッサン

・・・を、いくつか挙げるならば、主に・・・。

竹 中 労(故人)。

立 川 談 志(現役)。

上 岡 龍 太 郎(引退)。

他にも色々いるが、とりあえず・・・テナトコだろうか。

先日死んだ、黒 川 紀 章も、おもろいオッサンやったな~。

氏の書いた「共生の思想」と言う本に、非常に興味がある。

暇があれば読んでみたいものだ。

ブ ッ ク オ フの105円コーナーで見つけたいな~。

意義なし!!

意義とは、“それ”に意義を感ぢる者にのみ、意義がある。

大切なのは、その意義に価値を見出さない者に対し、腹を立てる事ではなく、その意義を理解させようとする事なのだ。

また、他人に共感を求めると言う事は、同時に、他人からの非難や否定を誘発する行為でもある。

もし、それがいやだと言うのなら、自分のこころの内にのみ、後生大事にしまっておけば良い。

黙っていれば、喜びも得られぬ代わりに、怒りや悲しみを受け入れなくても済むのだ・・・。

「オリジナリティ(独自性)とは?」(前編)←少し訂正

オリジナリティ、すなわち独自性とは、あくまでも、その度合い(=パーセンテージ)によって推し量られるものであり、単に「ある」「なし」だけで言い表せるものではない。

また、この世に存在しないパーツが、その成分として使用される事は有り得ないゆえ、完全にオリジナルなものなどない・・・と言う考え方もある。

しかしながら、オリジナリティとは、既に存在するモノを独自の感性で組み合わせたり、その配置や配合率を鋭意工夫する事によって形作られるものであると私は考える。

よって、その度合いを少しでも高めたいのであれば、その原材料を増やす努力や、今まで他にはなかった掛け合わせ方法を編み出すための作業が、必要不可欠なのだ。

想像して欲しい。卵と葱だけを原材料として作られる料理で、どれほどのオリジナルが追求出来ようか?ましてや、何の工夫もせず、ただ手元にある材料を混ぜただけで、それがオリジナルな料理だと言えようか?そしてその逆に、近所のスーパーマーケットで売ってる食材程度でも、それだけチョイスの幅が広がれば、それらを組み合わせる際のバリエーションが、どれだけ増えるかと言う事を・・・。

要するに、オリジナリティとは、偶然性に頼ったり、元からあるものだけで成り立つ類いのものではなく、自分自身の意志や力で獲得するべきものなのである。

ただし、ここで一つ忠告しておこう。

「独自性の度合い」と言うものが、それイコール、単純に「努力の度合い」・・・と言う訳ではなく、ましてや、それが「魅力の度合い」などではないと言う事を・・・。

何故なら、ただ単に独自性を高めるだけなら、奇を衒ってみたり、基本やセオリーを無視した突飛な組み合わせをすれば済むだけの話であり、更に言えば、独自であればあるほど、今現在流行なり定着している価値観(←着こなしであったり、調理方法であったり・・・)から距離が遠のく訳であるからして、となれば、それを支持する人間の数が減ると言う事は、もはや自明の理なのである。

よって、独自性に魅力があるとされるのは、独自性の度合いを競う事のみを目的とした場合か、あるいは「独自性(他の人間とは異なる自分)に価値を見出す人間」の判断基準においてのみ・・・と言った、極々限定された場合のみであろう。

・・・ましてや、その判断基準に“自分の好み”が加わるとなると、「独自性に価値を見出す人間」にとっての「独自性の高い他者」とは、「自分とは大幅に価値観が異なる人間」でしかないがゆえに、「独自性のある自分」以上に魅力があるものなど、どう考えても存在するはずがないのである。・・・百歩譲って、それがあるとすれば、それは「他人の独自性に憧れを見出す人間」の間違いであろう。

更に言えば、もしも、過去に用いられ認知を受けた“美の原理”なり“快楽を得るための手法”を一切使用してはいけないとなると、果たして、そんなものに魅力があるのだろうか?・・・と言う気がしないでもない。ただし、何年か後には、それが認知され主流になる可能性が、まったくゼロだとは言わないが・・・。

そう考えると、独自性を追求すると言う事は、ただ単純に、過去になかった新しいものを作ればそれで良いと言う次元のものではないと言う事が解ってくる。

つまり、独自性を確立しようとする事は、要するに、今までになかった新たな快楽なり美を発明すると言う行為に他ならないのだ。

ところで、独自性ゼロとはどう言う事か?

それすなわち、過去に存在したものを一寸違わず完璧にコピーしたものである。トナルト、そこには、実にプロフェッショナルかつ高度な技術が要求されるがゆえ、それはそれで素晴らしい“仕事”である。

ゆえに、独自性とは、ただあれば良いと言うものでもなく、かと言って、無いと駄目だと言い切れる訳でもない。独自性に限らず、人間の能力とは、あくまでも、その使用用途や目的によってのみ、それらの善し悪しが判断されると言うだけの話なのだ。

しかるに、独自性が魅力の一要素である表現や創作の世界において、その結果がもたらす効果(商業的成功、等)の善し悪しは抜きにして、最も批判されるべき行為とは、自らは何も生み出さず、何ら努力すらせず、既にその価値を認知されている他人の作品や創造物の美味しい所や簡単に真似出来る部分だけを中途半端に寄せ集める事によって、自分の魅力や存在価値をひたすら高めようとする、その卑しく下品な態度にこそあるのである。

・・・とは言え、オリジナリティ(=独自性)とは、あくまでも、数多くの判断基準のうちの一つでしかないし、物事の善し悪しを判断するための基準は、出来る限り多種多様な観点から決定すべきであると言う事も事実。

だがしかし、そこに、磨き上げ鍛え上げられた独自の価値観と言うものが加味されていなければ、この世界に生み落とされた人間ひとりひとりが持つべき、個々の存在意義すら無い・・・と言うのが、私の基本的な考え方である。

繰り返し言う。独自性とは、元から備わっているものでもなければ、誰かから与えられるものでもない。

「独自性とは、自分の意志と力で獲得(及び確立)すべきもの」・・・なのである。

(つづく)

植物人間

何もかも人が決めてくれれば、それはそれで楽に生きられるかも知れない。

だけど、自分で決める事は楽しく、更に、自分で決めた事が実現出来れば、なお嬉しい。

好きな事や楽しい事をやる分には、いっこうに疲れない。

(否。最近はお歳を召したので、それでも結構疲れるけどネ・・・。)

ポッド・キャスティング?

何年もブログを続けていると・・・。しかも、私の様に喋り言葉とは異なる固い文体や言い回しばかり多用していると、知らず知らずのうちに、頭の中で何かを考えている時も、ついついそう言う調子になってしまう。

たとえば・・・。

「であるからして、○○は○○なのである。」

・・・てな具合に。

しまいにゃオチまでついて、しっかり完結させたりなんかして・・・。

だけど、それを文章・・・と言うか、ブログを書くためにキーボードを打つ段になると、あれこれ直したり調整したりして、えらい時間がかかってしまう。

プロの人なら、ほとんど手直しせずに、一発で文法のしっかりした文章が書けるらしいのだが・・・。

だからホレ、ポッド・キャスティングっちゅうの?いわゆる音声ブログっちゅうか、繰り返し聴けるラジオ番組?・・・みたいなやり方で、いっそペラペラ(あるいはダラダラ)と喋っちまえば楽なんぢゃねえかと思ったりした訳。

だってさ。今まで何度も書こうと思いつつ、結局、時間(及び気力)が無くてやめにした事っていっぱいあるよ。

でも、まあいいか・・・。

どうしても言わなきゃならない事なら、また形を変えて現れるだろうから・・・。

岐路

当店が入っているビルは、5階建てにも関わらずエレベーターが無い事からも解る様に、えらい大昔に建てられた建築物でありマシテ、頻繁に補修工事が行われている訳でありマスが・・・。

・・・てな訳で、今回は壁の中を通っている排水管がもうアカンため、新たに配管を設置し直す工事が、今月から始まる事に・・・。

また、当店にお越しになった事がある方ならご存知の通り、室外の階段や踊り場にも色んなものを勝手に置きまくっているのでありマスが、工事の邪魔にならぬ様、急遽、これらを片づけねばならない羽目に陥った訳でありマス。

なんせ、既に、店内はもちろん、トイレや機械室の中も在庫やら何やらでいっぱいなのであるからして、どんどん捨てるなり、店内のどこかに組み込んだりしなければ置き場がなく、要は、もう仕事どころぢゃない状況って事なんス。

まあ、工事が終るまで雨避けのシーツを被せてベランダに置いトイテも良いとは言われてるンやけれど・・・。

なんで、もうね、ビル工事を口実に、しばらく店を休もうかなと思ったり・・・。

とは言え、当然、ネット販売の仕事は続ける訳なんだけど、ちょっとそっちに力を集中してみようかな・・・と。

こっからどっかに引っ越すってのは物理的にも金銭的にも無理過ぎるから、気が向けば、いつでも営業再開出来るしね。

時代は変ったよ・・・。

結局、中古レコードを売る仕事に変りはないんだし・・・。

う~む・・・。

ああ、どうしよう・・・。

悩む・・・。

「出産のお祝い」

人にはそれぞれ、克服すべき問題があり、それは、人それぞれに異なる。

そして、それらの差異は、主に、個々の生育環境によってもたらされる。

また、人間にとって普遍的な命題と言うものも確かにあるが、それはあくまでも、個々の問題が解決されてから、初めて着手する事が出来る種類のものである。

よって、親がすべき事、すべきでない事とは何であるか?

・・・と言う事が、非常に重要な問題点である事は否めない。

この度は、ご出産、誠におめでとうゴザイマス。

(これはフィクションであり、特定の誰かに宛てたものではありマセン。)

思う壺

本来は、「楽しくなりたい」、あるいは「気分良くなりたい」だけであったはずである。

しかし、そうなるためには、お金が必要・・・と言うか、お金によって、それらを満たす事を覚えてから、何かがおかしくなって来た。

・・・とは言え、確かに、お金が無ければ、「楽しくなりたい」とか「気分良くなりたい」と言う以前に、「楽しくない事」が増えたり、「気分が良くない事」が次々と起こると言う事も事実。

・・・と言う事は、「楽しくなるため」、あるいは「楽しくなりたければ」、まずは「楽しくない事」を避けるために、お金を稼ぐ事が必要となる。

よって、「楽しみながら」お金を稼げれば、それに勝る喜びはないのであるが、それが叶う人間は稀で、たいていは、お金を得るために、「楽しくない事」も我慢しなければいけなくなる。

・・・トナルト、かなり乱暴に言うなれば、「楽しくなるため」には、まず「楽しくない事」を避けるために「楽しくない事」をやり、更に「楽しくない事」をする事によって、初めて「楽しくなる事」が出来る・・・と言う事になる。

要するに、当初の目的は「楽しくなりたい」と言う事であったはずなのに、何故に「楽しくない事」をしなければいけないのか・・・と言う疑問が、ここで芽生えて来る訳なのである。

「それが当然」・・・なんて発想は、私には無い。

「楽しくなりたい」と言う願望なり目的自体は、決して間違ってはいないし、むしろ正しいにも関わらず・・・。

その矛盾点こそが、私の怒りの矛先であり、その理不尽さ、及び横暴さ、そして下品さを暴く事こそが、私の本意なのである。

人間が人間扱いされない世の中。

一部の人間の欲望を満たすためだけに、多くの人間が飼われていると言う、この現実。

ゆえに、「私が楽しくなるため」には、「私が楽しくなるだけ」では駄目なのだ。

・・・と、こう言う考え方をする事こそが、やつらの思う壺なのかも知れないが・・・。