「信用出来る人」とは、高い確率で、その行いや思考が変化しない人の事である。
・・・とは言え、それはただ単に、昨年一回しか遅刻しなかった人は今年も一回か二回しか遅刻しないであろう・・・と言った程度の事柄に関する予想であり憶測の類に過ぎない。
また、ここで気をつけなければならない事は、表面的な事象のみで、すべてを判断してはいけないと言う事だ。
例えば、クラシックのコンサートに足繁く通っていた人が、最近めっきり会場に姿を現さなくなったとしても、それは単にクラシックのコンサートに来なくなっただけであり、その人は今もクラシック音楽を毎日聴いているかも知れないし、あるいはリストラされてお金に困っているだけかも知れない訳で、要するに「クラシック音楽を愛する」気持ちには何の変化もないのだが、ただ単にその楽しみを味わう方法が変わった、もしくはそれをしたくても出来ない状況が生まれただけの話だからである。
更に、こんな言い方も出来る。その人は、常に自分が楽しいと思える事をその時にしているだけで、それがある時期はたまたまクラシックのコンサートに通う事であったが、今は別の方向に興味が向いていると言うだけの話で、常に自分が楽しいと思える事をその時にしていると言う意味においては、全く変化などしていない場合も多いのだ。
すなわち、何が言いたいのかと言えば、他人の行動や思考に対し、自分の立場や利益を優先して考えれば、時には怒りも湧くし悲しみに暮れたりもするが、元々その人は誰かのために生きていた訳でもなく、それをただ単に、ある一時期の表面的な事象のみで自分に都合の良い方に解釈していただけに過ぎなかったりもする訳なのである。
何もかもが、ましてや他人の行動や思考ともなれば、そのすべてが自分の思い通りにはいかないもの・・・。
否。むしろ、他人を自分の思い通りにしようと考える事自体が間違いなのだ。
・・・とまでは言わないが・・・。
まあ、その様に考える人間が居ると言う事も事実であり、その存在を否定するつもりもない。
何故なら、「あきらめる事」も愛情であり、理解の一形態であると、私は考えるからである。
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