・・・と言うか、まずは何を愛情と呼ぶか、その定義を明確にしない事には、それが本当に愛情と呼べるものなのかどうかはいささか懐疑的にならざるを得ない。
例えば、親が子に注ぐ愛情は無償だと言うが、そもそも自分の子供に愛情を注ぐ行為は、単に自己愛の延長に過ぎないと言う気もするゆえ、それを本当に愛情などと呼ぶべきなのか、私にとってははなはだ疑問なのである。
もし仮に、“与える事”が愛情であるとするなば、見返りを求めない事はもちろん、意識的にせよ無意識的にせよ、それ(与える事)によって自分が何らかの利益なり快楽を得る事を目的とすべきではないのではなかろうか。
要するに、ある意味それは“与えてる”のではなく、“与えさせてもらってる”に過ぎないのではないのか?・・・とも。
すなわち、「私は誰々に愛情を注いでる」とは良く聞く言葉であるが、・・・と言う事は、そこには愛情を注がせてもらえる対象が絶対に必要であり、その対象である“誰か”が居なければ成り立たず、しかもその対象となる誰かが自分の愛情を受け入れてくれるからこそ成立し得ている訳で・・・。
そう言う意味においては、誰かに愛情を注ぐ人間よりも、誰からの愛情をも無条件に受け入れる人間の方にこそ、無償の愛がある様な気がしなくもない。
・・・と言うのはもちろん言い過ぎで、愛情を注がれる対象者にとってみても、その愛情に価値・・・すなわちそこから利益なり快楽を得る事が出来るから受け入れる訳であって、必要としないものをいくら与えられても迷惑でしかないゆえ、自分の得にならない愛情は拒絶されてしまうだけの話であろう。
・・・とは言え、中には屈折した自虐的かつ被虐的な愛情の受け入れ方もあるであろうし、それは与える側にとっても同様の事が言えるが・・・。
そう考えると、“与える事”だけが本当に愛情だと言えるのか、更には“与えない事”はおろか、“関わらない事”の方が、その人のため・・・すなわち愛情なのだ・・・と言う言い方も出来よう。
私の親は、ある時を境に私を教育したり矯正しようとする事を“あきらめて”くれた。その事を私はずっと後(それも今から数年前)になってやっと、“愛情”であると認識する事が出来た。
もちろんそれまでも彼らは愛情を持って・・・特に父は、仮にそれが自己の価値観の押し付けに過ぎないとしても、私にとってそれが良かれと思って接してくれていたのだとは思う・・・。
だがしかし、先にも述べた通り、愛情とは注ぐ者や与える側がそう思っていても、受け取る側にとっては苦痛でしかない場合もある。
実際、幼少期に偏食も多く虚弱体質だった私は、「俺の気持ちを解ってくれ!!世間一般の価値基準や、親の勝手なエゴを押し付けるのはやめてくれ!!」と、こころの奥底で叫び続けていた・・・。
家族内で一人だけ異なる価値観を持つ者がいかなる迫害を受けるのか、それは味わった事がある者にしか絶対に解り得ない。
ゆえに私は、こんな年齢になって初めて、亡き父に対して素直にこう言えるようになったのだ。
「あの時、私の事をあきらめてくれて、ありがとう」・・・と。
言わずもがな、それはすなわち私の父が、駄目人間のくせに超頑固でひねくれ者な私の人格を認め尊重してくれた結果なのである。
・・・と、私が勝手に解釈しているだけではあるが・・・。
しかるに、愛情とは“与える側”よりも、“受け取る側”が、それをどう認識するかという事の方が重要であり、与える側がどれほど「これは愛情で言ってるんだ」と思い込もうが、受け取る側がそれを愛情であると認識しなければ成立し得ないもの。そしてまた、それはずっと後になって気づく場合もある・・・と言う事。
よって、私にとっての“愛情の定義”とは、他人の人格を尊重する事であり、自分とは異なる価値観を認めようと努力する事に他ならない。
だから私は、他人からは多少無責任だと思われようが、「自由にやれ、お前の好きにやれ」と繰り返し言い続けているのである。
・・・もっとも、自己の利益や快楽を追求するためのみに、意図的に他人の人権や生命を脅かす様な人種など論外ではあるが・・・。
ともあれ、まだまだ未熟者なんで、そう簡単に悟りきれっこねえけどな!!
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