私なんか、何だかんだ言って幸せな方で、中には生まれた時から両親のいなかった方、片親、両親揃ってても幼児虐待・・・等、大人になって人から色々な話を聞くにつれ、自分の甘さを思い知らされるばかりなのである。
だが、子供にとっては家族との関係、あるいはせいぜい学校での出来事が、人生のすべてであり世界のすべてなのだ。
その渦中にあって、他所の家族と比較して「自分はまだマシな方」・・・と言った判断が出来ようはずなどない。
・・・とは言え、文化の著しく異なる別の国に住んでいた訳ではないゆえ、確かにそれほど大きな隔たりはないのだとも言えよう・・・。
しかし、そこで味わった喜び、悲しみ・・・ましてや“孤独”な思いに至っては、育った環境や持ちうる能力の似通った者が共感するならともかく、赤の他人には絶対に理解し得ようはずがない。
ましてや、それを味わった事のないものにとって見れば・・・。
出来る事は、ただ想像する事だけ・・・である。
見ず知らずの人達や親族でも血族でもない無関係の人達といきなり一緒にされる学校での事であればまだしも、血の繋がった者同士、無償の愛情と言う絆によって結ばれているはずの“家族”の中において味わう“それ”は、しかも自分で物事を決定する事も得る事も出来ない弱い立場にある子供にとって、これほどキツイ事はない・・・。
よって、それ以来、私は家族制度はもちろん、価値観の異なる者が何らかの共通性・・・例えばただその地域に生まれたと言う事だけで所属させられる国家や学校のクラス等、それら集団内において価値観を一種類に統制しようとする強制的な思想や行為に対し、異常なまでの嫌悪感と反発心を抱くようになってしまった。
私がひねくれ者なのは生まれつきなんかではないのだ。
もっとも、今でこそ色々な事象を見聞きして学習する事によって、「自分は全然マシな方」だと思えるようになったが、それはあくまでも知識や理屈によって過去の出来事を整理しているだけに過ぎず、あの時の“悲しい気持ち”が消える事は一生涯あり得ないのである。
そもそも、他者との比較によって自分の孤独が軽減されるのであれば、こんな楽な事はない。
しかるに、父親からの抑圧に対する抵抗心のみで今日まで生きてきた私ではあるが、逆に言えば、それは父との関わり方や幼少時の記憶からもたらされる負の呪縛から逃れられない・・・否、むしろいつまで経っても依存してきた結果に過ぎないとも言える訳で、それすなわち異なる価値観の対立によって受動的に形成された人間像であり、これでは本当に自分の人生を生きているとはとても言い難く・・・。
しかしながら、そう言った家族間なり集団内における“個人の闘争”を終結させる事なくして、自尊心や自立心が芽生える事などあり得ないのだと言う考えも否定し得ない。
何故なら、私自身も実際、ある時期に私の人格や性質を尊重して抑圧から解放してくれた父に対し、そしてまた、この年齢になってその寛容な態度に対し感謝の念を抱く事が出来る様になって初めて、幼少時のトラウマに囚われる事もなく自分の置かれた環境や巷に蔓延る価値観に惑わされる事もない、言わば“対立心に依存せぬ独立心”を獲得するための第一歩を、ようやく踏み出せたと言う気がしてならないからなのである。
それにしても、我ながら時間がかかり過ぎた・・・と言うか、気づくのが遅すぎた感は否めない。
ともあれ、打ち砕かれた自尊心を、この世の支配者にとって都合の良い比較や競争の原理にひれ伏さずして取り戻す事は容易ではない。
ゆえに、真の強さとは、他者を打ち負かすための“力”ではなく、たやすく揺らぐ事のない確固たる“自信”にこそあるのではなかろうか・・・と、私は考える次第なのである。
・・・だから、今はただ見守る事しか出来ない。
「頑張れ。」
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