Mr.エレクトの独り言 2009年07月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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「誕生日パーティー」

え~・・・ブログにせよ音楽にせよ、個人の意見を発表したり自分の思想なり能力なりを世に問う行為ってのは、当然の事ながら、誉められるなり利益もしくは快感あるいは共感を得る事を目的としてる場合が多い訳なのでありマスが・・・。

ところが同時に、その様な行為には常に、それが批判の対象となったり嘲笑の憂き目に遭う可能性やリスクをも背負ってる訳でありマス。

しかるに、生まれてこの方、自分の存在を承認され続けた人・・・すなわち親や世間から否定どころか批判もされず、ただただ肯定され続けて育った人間が行う表現ってのは、とかく退屈極まりないものだったりする場合が多いのデスよ。

何故?・・・って、そんな事良く考えれば当然の話で、それは何らシビアなジャッジを受けず常に認められ続けた人間は自分の存在について自問自答する事はおろか疑いの目すら向けるはずもなく、それゆえに生まれついたありのままの自分に何らプラス・アルファする事なくそのままの状態で誉められようと、更に多くのギャラリー・・・それも自分に無償の愛を注いでくれるとは限らない他人の前に、のこのことその姿を現すからそうなってしまうのでありマス。

そもそも、現状の自分の能力なり置かれた状況に満足出来ない人がそこを何とか抜け出そうと、あるいは否定され続けた自分を変革して何とか少しでも誉められようと努力して人前で何かを発表するからこそ、その作品には自ずと創意工夫や多大な労力が注ぎ込まれる訳で・・・。

あるいは仮に、同様に自分を肯定され続けたとしても、持って生まれた特質ではなく何かしらの努力・・・例えば絵を描いたら誉められて、それで嬉しくなってどんどん才能を伸ばしていった・・・と言うのであれば話は別だが・・・。

生まれつき傑出した特別な才能を持ってた訳でもなければ、その逆に特に人より劣る点もないと言うその程度の魅力しか持たぬくせに、ただそこに居ると言うだけで誉められ続け肯定され続け愛情を注がれ続けた人間による表現行為などと言うものは、もう恐れ知らずと言うか、芸事への冒涜であるとしか言いようがない。

確かに、貴方の親や親族は貴方の味方であったろう。そして貴方の友人はいつもあなたに好意的であったろう。

だが一歩外に出れば、そこは貴方の事など知りもしない人達でいっぱいなのだ。

そこには、誰かから誉められたいと、自分の能力なり魅力なり存在を少しでも良いから認めて欲しいと、日夜努力している人達が大勢いるのである。

誕生日パーティーをやるのなら、関係者以外立ち入り禁止で行うべきであろう。

ここ(そこ)は、そう言う場所ではないのだ。

それとも・・・。

ここ(そこ)は、そう言う場所になってしまったのか?

そして更に、これはあくまでも個人的な見解であるが、何ら批判なり嘲笑の憂き目に遭う可能性が一切無い、元より受け入れられる事が大前提の安心安全安穏安定した表現・・・すなわちサプライズな部分がゼロなのであれば、それが例え誕生日パーティーであろうとも、そんなもの面白くも何ともないと思うのだが、さて如何なものだろう?

どう考えてみても・・・。

ビックリもしなけりゃドキドキもワクワクもしないなんて、そんな誕生日パーティーがあるものか!!

・・・テコト。
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禁未来小説「ドラへもん」その103「永遠の別離」

ドレミに謎の気体を吹き付けられ、ボクは気を失ってしまい、そして次にボクが目を醒ます頃には、すっかり外も暗くなっていた。

あれ?いつの間にベッドの上に・・・それに、ズタズタに切り裂いたはずの枕も元のままだ・・・。

すると、机の上に一枚の紙が。そこにはこう書かれていた。

「のひ太ちゃん。私は結局、のひ太ちゃんのために何もしてあげられなくて・・・。ホントにゴメンナサイね。こんなおばあちゃんを許してね。のひ太ちゃんの将来を駄目にしないために、私は自分から身を引く事にしたわ。立派に大人になったのひちゃんを見る事が出来ないのは残念だけど・・・。ウフフ・・・のひちゃんは一人でも頑張れる子だから、大丈夫よね。それぢゃ、さようなら。(ドレミより)」

何だこりゃ!?・・・とボクは階下へと降りていった。どうやらパパも既にゴルフから帰って来てる様子・・・。

あれ?でも、ドレミの姿がない・・・どころか、その形跡すら全くなくなってる!!これは一体!?

ボクは、何ヶ月か振りに、自分からパパに話しかけた。

のひ太「ねえパパ。ドレミの奴は?」

パパ「おう、のひ太~。ドレミだけどな、風呂場の壁に自分から激突して浴槽に沈んでた所をパパが発見して、すぐに家政婦ロボット派遣センターに連絡したんだが、もう手遅れだった様で・・・。最近のロボットは性能が良すぎるせいか、まるで人間みたいに仕事に対する自信をなくして自殺する事もあるとは聞いていたけど、まさかあのドレミがな~・・・。のひ太、お前何か心当たりはないか?」

のひ太「えっ!?う・・・ううん!!ボク知らない。」

パパ「そうか。実はドレミの遺書もあって、原因はすべて自分の要領の悪さゆえ・・・みたいな事が綴られてたんだが、おばあちゃんの性格そっくりにしちゃったのがマズかったのかな。のひ太の将来の事もずいぶん心配してた様だぞ。」

そうか・・・。ドレミの奴、ボクを庇うために自らの命を・・・。

のひ太「それで・・・ドレミはいつ戻ってくるの?」

パパ「いつ?・・・アハハハ、のひ太。ドレミはな、もう戻っては来ないよ。ああ・・・だけど、のひ太が真面目に勉強して立派な大人になったら、急にひょいと戻ってくるかも知れないな。」

(フン!!パパったら、何、おためごかしみたいな事言ってんだ!!)

そう思うが早いか、ボクは返事もせず、再び二階に駆け上がり自分の部屋に戻った。

それにしても・・・。ドレミの奴・・・。ボクのために・・・。

うう・・・ボクはいつもそうだ!!最終的にはこうやっていつも、ボクを愛してくれるやさしい人達を傷つけ苦しめてしまうのさ!!本当のおばあちゃんには何一つ恩返しする事さえ出来ず、ママも家を出て行ってしまったし、おばあちゃん代りの家政婦ロボットであるドレミに対しても・・・。

みんなボクのせいだ!!みんなボクが悪いんだ!!ボクは・・・ボクは本当にどうしようもない人間の屑なんだ!!

おばあちゃん・・・。うう・・・ゴメンよ・・・ドレミ・・・いや、ボクのもう一人のおばあちゃん・・・。

ボク、良い子になる!!ボク絶対に、立派な大人になってみせるよ!!

うう・・・おばあちゃん・・・。

ぅああ・・・ぐぐっ・・・ぐぐぐぐ・・・。




・・・な~んちゃって!!

冗談ぢゃねえ!!ふざけるんぢゃねえ!!ロボットなんかに人生を左右されるなんて、たまったもんぢゃねえ!!ボクはゴメンだ!!ボクはもうまっぴらだ!!ボクはもううんざりだ!!ボクはもう絶対にいやだ!!

もう騙されない!!もう頼らない!!もう誰も信用しない!!もう誰も当てにしない!!

ボクは一人・・・。そう、しょせん人は皆、孤独(ひとり)なんだ!!

ボクは自分自身の人生を、これからも自分の好き勝手に、自由気ままに生きてやる!!

例えそれが、誰かを傷つける事になろうとも!!

ボクはボクのためだけに生きるんだ!!

(つづく)

愛情論

愛情と言うのは・・・。

良い所も悪い所もちゃんと見る事。

そして相手の事やその対象物を、より正確に、かつ精密に理解しようと常に歩み寄りや努力を続ける事。

・・・だと思いマスよ。

貴方が後生大事に優先してるものは、自分の気持ちだけでしょ?

な~んてね。

Darkcell「Bone with hatred」(CD)入荷しておりマス!!

★Darkcell「Bone with hatred」(CD)¥1890
Darkcell「Bone with hatred」表
<収録曲目>Must be hatred、New kind of hatred、Hatred is infinity、Bone with hatred、After hatred。

★元THE EXECUTE~Lemmy氏のソロ・プロジェクト、Darkcell(ダークセル)による、何種類かのデモをリリースをした後に発売された、待望の1stCD。

ジャケットに用いられた暗闇に浮かび上がる骸骨同様、一見するとモノクロームかつ無機質な印象を受ける本作であるが、実際にはテーマとなった“憎悪”にまつわる心情や感情をモチーフとした多彩な心象風景が描き出された生々しい作風となっており、そこには激しい怒りや憎しみは当然の事ながら、絶望、不安、苦悩、果ては慈愛に満ちた鎮魂歌の様な楽曲までが緻密な構成力に基づいた心地良い緊張感を伴いながら、全長約50分に渡り繰り広げられているのであった。

なお、今回は初のプレスCDであるが、唸り声の様なヴォイスとエレキ・ギター及び打ち込みのドラムやシンセサイザー等によって奏でられるブラック・メタル・シンフォニー調のサウンドにも更に磨きがかけられており、独自の美意識に貫かれた本作は、透徹したリアリズムの結晶と呼ぶべき非常に完成度の高い作品となっている。
Darkcell「Bone with hatred」裏

■上記の作品は当店にて発売中!!通販も可能!!

面白い事大好き!!

ここらで一服。ちょっと軽く、お笑いの話題などを・・・。

先月・・・だったかな?ちょっと用事で阿佐ヶ谷行ったら、駅前でオードリーがテレビ番組のロケやってたよ!!まあ、あのカ~スガ氏は阿佐ヶ谷に住んでるそうだから、また自宅での倹約生活ぶりのレポートだか何かだったのかな~?

あと、そんなに積極的に見るって訳ではないんだけど、自分的には、オードリーよりもむしろフルーツポンチが一押しかな?あの劇団ひとりに似た奴、あのナルシスティックで自分大好き超勘違い人間的な芸風、大好きなんだよね~。その逆に、相方は超フツーの人っぽいってのが不思議だけど。

しかしまあ、お笑いってのは一般常識や平均的なモノの考え方っちゅうか、何が正常であるのか?って事を理解し把握してないと出来ない商売だから、ああ言った超フツーな人が相方として立ってた方が、変人役のもう一人の面白さがもっと引き立てられて、更に良い効果をもたらすんだろうね。

ところで・・・。

いや~いつだったか、ある知り合いに対して、私がその人の生き方を批判した事あってさ・・・。

「あんたの生き方は面白くないんだよ!!」

・・・って言ってやったのよ。

そしたらさ・・・。

「私は別に、あなたを面白がらせるために生きてる訳ぢゃないよ!!」

・・・だってさ。

そりゃそうだわな~!!

アハハハハ・・・。(^^;)

天才論⑤「天才とエリートの違い」

今回の理論は、前回の補足的な意味合いを持ったものとなるが・・・。

まず初めに、天才とは世の中に対して何かしらの表現行為なり作品を発表したり提示したりしている人達のみを指している訳ではなく、中には一銭の金にもならない庭木の手入れであるとか、誰も求めず喜ばぬ対象物を研究していると言った場合も往々にして在り得ると言う事。

要は、ただありのままに生きているだけでは、自分を満足させる事が出来ないと言う所が重要なポイントなのだ。

そしてまた、こうも言える。

天才とは常に、自己の精神の葛藤と共にある生き物なのだ・・・とも。

・・・とは言ったものの、確かにこの世の中には、私が定義した天才・・・すなわち負からの脱却を主要な動機とする彼らとは異なる性質を持っているにも関わらず、プロフェッショナルな仕事もきちんとこなせるし、素晴らしい業績を成し遂げる事が出来る人達が存在する事も事実。

更に、それはその当人が生まれつき備わった既得権益にあぐらをかかず、本人自ら人並以上に努力して高度な技術を身に付けたり才能を伸ばして来たと言う事にも間違いはない。

しかしながら、生まれつき、そして繰り返し自分の価値や存在を“肯定”され続けてきたがゆえに、自らが自らを“肯定”する事がごく当たり前に出来、更には誰かから“肯定”される事から得られる快感を充分知り尽くした彼らが、前向きかつ意欲的に物事に取り組めるのは当然の事・・・否、それ自体が快楽ですらあろう事を考えれば、その様な人種を指して天才と呼ぶのは適当ではなく、言うなれば彼らはエリートとでも呼ぶべき人種であろう。

ただし、そんな彼らも、虐げられ踏み躙られ続けた自分、そしてそんな自分と社会との関係性を劇的に変化させんとの自己闘争に明け暮れる天才と呼ばれる人種に比べ、ちょっとした挫折で簡単に挫けてしまったりするのだから面白い。

まあしかしそれは当然の事で、エリートと呼ばれる人種・・・もちろんそのすべてがとは言わないが、彼らは物質的あるいは精神的に豊かであったがゆえに、それまで自己の精神の葛藤と向き合う必要が殆どなかったからなのである。

“肯定”・・・それを愛情と呼ぶ事に、大きく差し支えない。

言うなれば、エリートとは必ずしも生まれつき物質的に豊かであったかどうかと言う事ではなく、自己の価値や存在を肯定される事によって、そこから得られる喜びを知り、更にそれを前向きに追い求め、プラスにプラスを重ねる人生を送る事が出来る人種の事を指す。

しかるに天才とは、生まれつき、もしくはその成長過程において“否定”を前提とした育てられ方をしたがゆえに、“肯定”・・・すなわち“愛情”を得るためには、今現在のありのまま自分を否定し、何かしらの能力なり魅力を身に付けなければいけないのだと、もはや強迫観念にも似た義務感なり使命感を自らに課している様な人種の事を指すのである。

よって、天才の一生を省みる時、そこには幸福に満ち足りた安穏な人生などなく、そしてまた彼らが何事かを成し遂げんとするその途上には、何故かしら“復讐”と言う言葉が頭をよぎるのは、私の気のせいだけではあるまい。

そこで、それらを踏まえ改めて考え直して見ると、一見エリートの様に見える人達の中にも、格式や伝統のある家系ゆえに生み出された歪な親子関係から、一般家庭には在り得ない異常なまでの抑圧を受け、悲しき負の連鎖を背負わされた“天才”と呼ぶべき人達も少なからず存在する事も否定し得ない事実ではあろう。

だがしかし、敷かれたレールから足を踏み出せず、家柄と言った鳥篭から自ら抜け出さず、伝統と言う名の宿命に抗わずひれ伏していると言う点においては、エリートも単に“優秀な闘犬”、あるいは“有能な凡人”であるとしか思えないのは、私だけであろうか。

ちなみに、私にとっての凡人の定義とは、“自己の精神の葛藤と決して向き合おうとしない者”・・・である。

(つづく)

天才論④「天才の定義」

一応、解説しておくと・・・。

私の言う天才とは、例えば全国統一模試を行った場合に平均点65点の所を95点以上取れる人だとか、走り幅跳びで何メートル以上跳べる人だとか、作品なり表現なりを世の中に発表して大多数の支持を得ている人だとか・・・と言う意味においてではない。

否。もちろん、その人達も充分に天才の仲間入りをする可能性を持っている。

しかるに、私が天才と呼びたい人物とは、まあ解り易く言えば、生まれついた時に持ち得る能力や実力から比較して、その後自分をどれだけ進歩させる事が出来たか、その差異が異常なまでに激しい人の事を指す。

ただ、ここで見誤ってはいけないのは、例えば日本舞踊の立派な家柄に生まれ育った者は、遺伝によってもたらされた本人の資質と言うものがあるのか否かと言う点を差し置いても、少なくとも一般の家庭に生まれた者と比べ、その生育期間において芸を習得する機会や環境における貧富の差が歴然としてある・・・と言う点に関してである。

よって私は、生まれつき持つ自分の資質以外の、家柄であるとか親の資産であるとかと言った、言わば本人自身の努力以外の、本人の成長を後押しするそれらの要因を、乗り物に喩えたい。

すなわち簡単に言えば、こう言う事である。親に金やコネがある者は生まれつきスポーツ・カーに乗ってる様なもの。その逆に貧しくて勉強する暇もなく学生時代バイトに明け暮れるしかなかった者は自転車。(・・・とまあ、一概にそうとも言い切れない場合もあるが、あくまでも喩えとして・・・。)

そして、一方はスポーツ・カーに乗り、一方は自転車に乗り、それぞれがそれぞれの目的に向って一時間進んだ場合に、どれだけ遠くへ移動を出来たか?・・・と言う点をただ単純に比較するのではなく、一方は時速50キロのスポーツ・カーで出発点から50キロ、後者は自転車を自力で漕いで30キロしか進んでないとしても、その距離の長さだけで優劣を判断すべきではないのではないか?・・・と。

更には、これもあくまで例え話ではあるが、病弱な人間がスポーツ・カーに乗る場合と、健康優良児が自転車に乗る場合を考えれば、更に比較は難しくなる。

・・・とは言えもちろん、それが料理であったり音楽であれば、美味しかったり人を感動させ得たりと、その最終的かつ表面的な結果のみをジャッジの対象とすべきであると言う事は重々承知の上だ。

しかしそれはまた、消費者なり音楽リスナー、すなわち受動的に物事の良し悪しを検討するしかない人達が下すべき判断である。

ゆえに、私はやはり、生まれついての才能なり環境と言ったスタート地点における差異なりハンディ・キャップを踏まえた上で、あくまでもその本人がそのスタート地点から自己の能力をどれだけ伸ばし成長させる事が出来たか?と言う、その努力の度合いと言うか、流した涙と汗の量でそれを推し量りたいのだ。

要するに、私が言う「何事かを成し遂げた」と言うのは、その結果がもたらした社会や他者に対する影響度よりも、その人物自身の人生における一大革命の度合い、もしくはその分量を指しているのである。

そしてまた、それはおそらく私の願望でもあるのだろう・・・。

「例え立派な結果は出せなくとも、俺がどれだけ努力したかって事を、この世の中の誰か一人くらいは知っておいて欲しい」・・・との。

(つづく)

天才論③「天才と天然の違い」

天然とは、生まれつき魅力が備わった者の事を指す。

ただし、ここで言う“魅力”とは、社会的なもの・・・すなわちその地域や時代においてのみ通用する価値観においての・・・と言う意味においてではなく、ある特殊な場面においてのみ通用し得る、もしくは明らかに少数派に属する特殊な才能なり特長を備えていると言う意味において・・・である。

よって、その魅力なり特色が社会的に有益なものであるかと言えば、必ずしもそうではない。

また天然と称される者の特色として、自己の特殊性や希少性について、本人は割と無自覚かつ無頓着である場合が多い。

その理由としては、そもそも彼らの魅力自体が、ある意味他者からの評価に左右されない・・・と言うか、他者からの評価とは無縁である所から育まれたものであり、悪く言えば社会と関わらない事によってのみ保たれる性質のものであると言う点が挙げられる。

・・・とは言え、まあそれもむべなるかな。何故なら、彼らは良くも悪くも見世物小屋のスターであり、ある種のフリークス(奇形種)ゆえに、どこへ行ってもその価値や才能が認められると言う訳ではなく、むしろ場合によっては差別や迫害を受ける可能性も十二分にあるからなのだ。

さて、それでは天才とは如何なる存在かと言えば、彼らもまた、決して生まれつき社会的な価値や権力を備えている訳ではない。そしてまた、彼らは天然と呼ばれる人種とは異なり、生まれた時から既に天才だった訳でもない。

生まれつき持ちえた才能を魅力(←それは時に差別や迫害の対象ともなり得るが)とする天然と天才との大きな違いを挙げるなら、彼ら天才と呼ばれる人種の殆どは、その成長過程において無条件に存在価値を認められた事がないか、もしくは社会における自身の置かれた立場を強く自覚する事によって、生まれつき備わった能力や姿のままの自分で居る事に耐えられず、自らを進歩成長させて行かずにはいられない性質を持った生き物なのだ。

本当にただ狂ってるだけの人間ならともかく、もしも彼らに、天然と呼ぶべき希少価値あるいはこの世を充分に謳歌出来るだけの社会的価値(=時流に則した魅力、経済力、地位等)が備わっていたとするならば、おそらくは生きているうちに何かを成し遂げなければならない・・・などと言う切迫した考えや義務感など微塵も抱きはしなかったはずである。

そう言う意味でも、彼ら天才と呼ばれる人種は、あくまでも社会的な価値観の下において、生まれついたままの自分は劣っているのだと言う劣等感や原罪意識を克服するために自らを進化させて行く生き物であり、あるいはある特定の目的にのみ過剰なまでのエネルギーを注ぐ事によってしか自分が生きている意義を確認出来なくなってしまった、ある種の障害者でもあるとも言えるのだ。

まあ要するに簡単に言えば、生まれつき、もしくはある時期までに自分の価値なり存在を社会なり誰かから充分に認められている事を認識出来た人間は、何ら特別な努力をせずとも、ただ生きているだけで幸福感や充足感を得られているのであろう・・・と推測されるのである。

そう考えると、皆こうして同様に人間として生まれながらも、天然、天才、一般人、凡人と、その生き方なり種類が枝分かれして行く理由には、本人が生まれつき持ち得る特質なりその後置かれた生育環境はもちろんの事ながら、自己と社会との関係性なり関わり方が非常に重要なウェイトを占めているのだと言う事実が、厳然と浮かび上がってくるのであった。

(つづく)

天才論②「天才は、遠くにありて眺むるもの。」

天才とは、過剰なまでの執着心を対象物に注ぎ、異常なまでの集中力を行使して、何事かを成し遂げた者の事を指す。

ゆえに、何事かを成し遂げんとするその途上の姿は、我々一般人や凡人から見れば、まさしく鬼か狂人の如し・・・であろう。

よって、そばに近づくとロクな事にはならない。

「天才は、遠くにありて眺むるもの。」

・・・である。

そもそも、何事かを成し遂げんとするその途上にある者には、“それ”以外の事にエネルギーを注ぐ余裕などあるはずがないのだから。

また、天才に限らず人間が一つの事に一心不乱に取り組む時、その目的に対して何の興味も持たぬ者がそれを見れば、それが「狂ってる」様に見えたとしても、決して不思議な事ではない。

その他、巷で良く聞く話に「振られても振られても何度もあきらめずアタックして、今の奥サンをゲットした。」みたいなエピソードがあるが、最終的にはハッピー・エンドを迎えたからこそ、そしてそれすなわち目的を成し遂げたからこそ、彼は恋の成功者としての栄誉に預かる事も出来た訳なのであるが、これがその途上であればどうであろう?

傍目に見れば、彼は恋に狂ったストーカー以外の何者でもないはずだ。

しかるに、おそらく恋の成功者である前者の彼も、その途上ではきっと狂ったストーカー同様の見方をされていたに違いないのである。

あっ!!だけど恋愛は相手あってのものであり、相手の気持ちってのもあるから、「努力すれば報われる」なんて勘違いしたり、一人よがりに暴走して逮捕されたりしないようにネ。

更に、「天才は、死後に初めて認められる」と言われる事もあるが、これこそまさに、途上にあって世間から認められなかった天才が死ぬ事によって途上ではなくなり、残された作品なり業績それ自体が、もうそれ以上に手を加えられる事のない完成品として、作者の手を離れて評価の対象となるからであろう。

天才と呼ばれる人・・・特に、将来天才と呼ばれるべき偉業を成し遂げるその途上にある人間に近づけば、我々一般人や凡人はその犠牲となるか、少なくともいやな思いをするだけである。

ハッキリ言うが、その作品や業績は別として、天才・・・その人物自体は、ウザく、付き合いにくく、手に負えない人種である事を、知っておいた方が良い。

だから、一般人や凡人の我々が、天才あるいはその途上にある人間に近づきたいと思うのであれば、自分の人生を生贄として差し出すくらいの覚悟が必要なのである。

そして、これは特に凡人の方にありがちなのであるが、間違っても彼らを人として真っ当な道(?)に連れ戻そうだとか、ましてや自分の考えるありきたりな人生設計などに組み込もうなどとは思わないで頂きたい。

何故なら、それはこの世界にとって、あまりにも大きな損失だからである。

もう一度言おう。

「天才は、遠くにありて眺むるもの。」

怪我したくなかったら、そして安心安全安穏な自分の人生から足を踏み外したくなかったら、凡人は天才の姿なりその業績を、遠くで指でもくわえて憧れて見ているだけの方が身のため・・・なのだ。

(つづく)

禁未来小説「ドラへもん」その102「夢の正体」の巻

<前回のあらすじ>
とある日曜日。枕にジュースをこぼして汚してしまったボクは、ちょうど洗濯中だったドレミを見かけ、洗濯機に枕を放り込もうとした。すると、ドレミは異常なまでの反応を示した。それを見たボクは、一瞬にしてすべてを悟ったんだ・・・。


ボクは出刃包丁を振りかざし、こう叫びながら、ドレミに襲い掛かった!!

のひ太「その枕を寄越せ~!!」

そしてボクは、ドレミから枕を奪い取ると、声にならない奇声をあげながら、それを出刃包丁でメッタ刺しにした。

のひ太「ぐぁ~!!んが~!!ふんぐぅ~!!あがぁ~!!」

ボクが修羅の如き形相をして枕を切り刻んでいるのを見て、ドレミは腰を抜かした様だ・・・。

ドレミ「ふは~!!のひ太おぼっちゃまが・・・。狂った!!」

すると・・・。

ズタズタに引き裂かれた枕の中から、床に向ってコツンと小さな機械が転がり落ちた。

のひ太「やっぱりそうか!!思った通りだ!!」

のひ太「ドレミ!!これはどう言う事だ!!」

ドレミ「どう言う・・・いえいえ、私は何も存知上げマセンです!!」

のひ太「ふざけるな!!これで解った!!これでハッキリした!!夜毎、夢の中におばあちゃんが現れるのは、お前がこの機械を通して眠ってるボクに喋りかけてたせいだったんだな!!」

ドレミ「ひえ~!!私は何も・・・」

のひ太「うるさい!!うるさい!!うるさい!!うるさい!!言い逃れすんぢゃねえ!!こんなものを使って知らず知らずのうちに人間であるボクをコントロールしようだなんて、ロボットのくせにとんでもない奴だ!!」

ドレミ「違うんデス!!おぼっちゃま!!この手法は睡眠教育と言って、寝ている間に頭が良くなると言う・・・」

のひ太「キィ~!!何が睡眠教育だ!!こんなの催眠教育!!うんにゃ!!洗脳教育ぢゃないか!!こんな事が許されて良いと思ってんのか!!」

ドレミ「ごめんなさいね。ごめんなさいね。私は何もそんなつもりで・・・」

のひ太「そんなつもりも糞もあるか!!手前!!今度こそホントにぶっ壊してやる!!」

ドレミ「のひ太様。そんな事しては・・・駄目!!そんな事したら、のひ太ちゃんの将来が台無しに・・・」

のひ太「またおばあちゃんの真似か!!もうそれは聞き飽きたっつうの!!」

ドレミ「ああ・・・この上は仕方ありマセン・・・」

そう言うとドレミはあちらを向き、自分の尻をボクに向けた。そして・・・。

ドレミ「のひ太ちゃん、元気でね。私がいなくなった後も、一人で頑張って生きていくのよ。」

のひ太「何ふざけた事言ってやがる!!」

ドレミ「それぢゃ、私の最終屁~器、名付けて“さよ・オナラ~”!!」

そう言うが、ドレミは尻の穴から謎の気体をボクに向って吹きかけた。そして、その気体を顔全体に浴びるや、ボクは何が何だか解らなくなって気を失ってしまったんだ。

(つづく)

マグダラ呪念と中学生棺桶「混血路」(CD)¥1500入荷!!

★マグダラ呪念と中学生棺桶「混血路」(CD)¥1500~新入荷!!
各バンド3曲ずつ、全6曲収録のスプリット盤。
<収録曲目>「中学生棺桶」①埋葬以下②昨日のお前を踏みにじれ③子供病院、医者不在!「マグダラ呪念」④妊婦の定め⑤懺悔唄⑥彼岸唄
混血路表
混血路裏

★中学生棺桶と言えば、まず真っ先に連想されるのが、おそらくその過剰なまでに攻撃的な歌詞であろう。しかしながら、ヴォーカリストでありバンマスでもある葉蔵氏の書くその歌詞の本質を読み解くならば、それは自己に生まれ付き備わった優位性や既得権益に根ざした社会的強者によるさもしい権力の誇示やみすぼらしい顕示行為などではなく、“乾布摩擦の精神”とでも言うのであろうか、あくまでも彼自身が己が弱さや脆さを克服するために自己を鍛錬し改革していくその途上にあるのだと言う事を押し隠すどころか、むしろその過程を正直に包み隠さず公開する事で、そして更には敵と見なす他者を殊更に攻撃する事によって、自己を決して言い逃れや後戻り出来ぬ背水の陣的状況に追い込む事が真の目的であるかの様に思われる。上記掲載スプリット盤に収録された「昨日のお前を踏みにじれ」を聴いてもらえれば、その辺りの心情が赤裸々に吐露されている事が明確かつ明快にご理解して頂けよう。また、中学生棺桶における特筆すべき魅力の一つとして、彼らがバンドのサウンド・アンサンブルや音色作りにも強いコダワリを持って臨んでいる事が挙げられ、メッセージ性を売り物にする事以前に音楽としてもきちんと成立させんとするその至極真っ当な在り方こそが、彼らの人気の大きな要因である事を疑う余地はない。すべての楽器がその旨味を損なわずきちんと分離して聴こえる事はもちろん、爆音サウンドあるいはデジタル録音全盛の現代にあって、彼らの録音物が音楽からもたらされる快楽を生み出すツボを的確に刺激する心地良いものとなっているのは、おそらく音楽への、そしてリスナーに対するその誠実な姿勢ゆえにであろう。ここの所ずっと彼らの録音を担当しているロストリバーズプロダクトによる功績も大きいのであろうが、ざらつく様な音の感触が損なわれる事なくリスナーの耳にダイレクトに伝わる非常に良い録音であると、私個人としてはこれを高く評価するものである。

■「告白を強いる伝染源」(CD)¥2100発売中!!
全10曲収録の最新フル・アルバム。
告白を強いる伝染源
★中学生棺桶 
■「むすめ戦争中」(CD)¥2100発売中!!
■「偏見喰らい」(SETE STAR SEPTとのスプリットCD)¥1050品切れ中
■「逆芳香」(DVD-R)¥2000品切れ中
★hayashi3
■「三十路OLモザイク日記」(書籍)¥1000
中学生棺桶のCDジャケットやライヴ告知チラシのイラストを手がける“hayashi3”による、日常のエロ話を包み隠さず赤裸々かつユーモラスに綴った漫画ブログを書籍化したもの。棺桶メンバーらも実名で登場。

★マグダラ呪念が描くのは、偽らざる自己の真の姿であり、作詞/歌唱を担当するコタ魔嬢で言うなれば、そのテーマとなるものは“女”と言う生き物の真の姿である。そもそも現在世の中に蔓延る“女”と言う概念は、この社会を実質的に支配する男性にとって都合良く作り上げられたものであり、女性に選び取る事が出来るのは、男の支配下に収まるために可愛く弱い女性を演ずるか、あるいは男性に対抗せんがあまり男勝りの女を演ずる(=男になろうとする)か、殆どその2種類しかないのだ。しかしながら、真の女の姿とは冷酷なまでに残酷であり、欲望に対して貪欲なまでに正直であり、ちょっとやそっとの事ではくたばったりしない程に逞しい生き物なのである。だからこそ、世の男性は女性の持つ真の能力を恐れ、その脅威を封印するためにこそ今の社会体制や家族制度があると言っても過言ではないのだ。そもそも“女”と呼ばれる生き物は、社会的な立場や腕力では勝るものの本当は生命力が弱く繊細すぎるメンタリティを持つ生き物である男などが到底太刀打ち出来る相手ではないのである。貴方は知っているだろうか?女性がその頭の中やこころの内で、殺したい程憎い男や怨むべき男を、日々如何なる残虐極まりない方法で処刑しているのか?・・・と言う事を。コタ魔嬢の唄を、そしてマグダラ呪念の音楽を聴く度、ひ弱な男性である私はその陰惨な光景をまざまざと見せ付けられる思いなのだ。また、前作であり単独作としては最新作であるフル・アルバム「何の因果でこうなった」には大正時代の流行歌である「月の無情」のカヴァーが挿入されている事を初め、日本的な歌詞やサウンドが大胆に取り入れられており、呪いのルーツを自らが生まれ育った土地にも求めた意欲的な作品となっている。そして同アルバムの1曲目に収録された「無限淫楽地獄」では、歌詞の面においても新境地が切り開かれており、それまでは男と女との関係性におけるある種の返礼的な怨みつらみの報復感情を綴ったものが主であったが、ここには“女”である自分の、日頃はこころの底に押し隠した欲望や本性が、まるで抉り出されたハラワタの如く生々しいまでに曝け出されており、表現行為において更に一歩踏み込んだ境地へ達する事の出来たその“勇気”に対し、私は素直に拍手を送りたいと思うのであった。

■「何の因果でこうなった」(CD)¥1980発売中!!
現メンバーによって録音された、全4曲収録の最新フル・アルバム!!
何の因果でこうなった
★マグダラ呪念(元・バビロンズ 
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「天才論」(補足)

天才と凡人の間には「一般人」ってカテゴリーもありマスので、皆様ご安心を。(^^)

「天才論」(注釈)

昨日書いたものを「天才論」として、しばらく続けマス。

ただし、これは決して、必ずしも天才を賞賛し、凡人を否定するものではありマセン。

誰にとっても“有益”なものなんてないのデスから・・・。

しかるに、私が凡人を好きでない理由の一つとして、苦闘しながらも現在進行形で頑張っている人間を応援するならまだしも、彼らはたいてい「苦しいのならやめれば良い」と簡単に言うのデス。

ここに、精神の死よりも肉体の死を重んずる彼らの特質が如実に表されてると言えましょうか。

彼らにとっては、“命を永らえる事”だけが“生きる事”なのでしょうね・・・。

「天才論」①「天才と凡人の違い」

もう、あの月末の支払いノルマに対するストレスには耐えられない!!

・・・って事でブログはお休みしておりマスが、ちょっとだけ・・・。

「天才論」①「天才と凡人の違い」

天才とは、途中であきらめない人、あきらめなかった人の事。

凡人とは、途中であきらめる人、あきらめた人の事。

・・・とは言え、「天才と狂人は紙一重」と言う言葉もあるゆえ・・・。

天才とは、途中であきらめず、何かを成し遂げた人の事。(←ただし、社会的あるいは経済的な成功を収めたと言う意味においてのみではなく。)

・・・とでも言い換えるべきであろうか。

そしてまた、こう言う言い方も出来る。

天才とは、時に人をアキレサセル人。

凡人とは、人からアキラレル(飽きられる)人。

すなわち・・・。

天才とは無人の野を行く者であり、凡人とは人の足跡が残る安全な道を行く者。

・・・でもあると言う事。

ゆえに・・・。

凡人に天才を理解する事など出来るものか!!

出来るとすれば、アコガレル事くらいだろうか。

百歩譲って、解らないのは仕方ないとしても、解ろうともしないとはどう言う事か!!

そしてまた・・・。

凡人とは、生きる事とは何であるかを知らない者、忘れた者、教わってない者、知ろうともしない者。

・・・である。

死のない所に生などない。

死を避けて安全な道ばかり選ぶ人生を何十年続けた所で、結局は死から逃れる事など出来ないと言うのに・・・。

凡人は死の間際に後悔するのだろうか?

自分が死ぬまで何一つ、自ら生きようとしてこなかった事に対して。

そしてまた、自分が如何に、生きる事に対して不真面目であったかと言う事を。

そう言う意味においては・・・。

天才は死を知る者であり、生きようとしなければ生命を保てない、あるいは自分が生存している事を実感出来ない者。

・・・であるとの言い方も出来ようか。

よって、天才とは不遇な境遇を経た精神の片輪者である場合が、歴史上においても多々見受けられる。

ところで・・・。

ここで指す天才とは、何も発明家であるとか表現者であるとかと言った、世の中に対して何かを発信している者に限る・・・と言う訳ではない。

自らの力で自らのこころの内を充足させる事が出来るかどうか?そして生命の続く限りそれを追い求る事が出来るかどうか?・・・と言う点こそが最も重要なのだ。

それゆえに・・・。

天才とは、精神の死を恐れる者。

凡人とは、肉体の死を恐れる者。

・・・と分類する事も出来よう。

木幡東介次回ライヴ予定!!(無事終了イタシマシタ)

木幡東介企画「脱権力の地図」
脱権力の地図
日時:7月11日(土)
場所:新宿スモーキンブギ   
新宿区新宿2-11-10新宿2丁目センタービルB1
   TEL:03-3353-8993
料金:2500円(1ドリンク付)
開演:19時~
出演:広本晋(ギター・ソロ)
    中学生棺桶   
    オイラ先輩   
    木幡東介(マリア観音)

■今回は特に、自発的かつ自覚的に音や言葉を発しているアーティストを集めマシタ。皆様のご来場、こころよりお待ちイタシテおりマス。m(_)m

★フライヤー/画:木幡東介/デザイン:平野勇

かえうた(同業者の方々に捧ぐ)

ま~い~に~ち~ま~い~に~ち~ぼくらはパソコンの~

キーを叩~いて~

いや~になっちゃうよ~

(「およげたいやきくん」のふしで)
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