Mr.エレクトの独り言 2009年08月07日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

天才論⑥「魅力と能力」

親なり身近な大人なりの笑顔に囲まれて育った子供・・・すなわち愛を一身に浴びて育った人間は、親や他人を喜ばせる方法を無意識に身に付けており、それゆえに更に人からも愛され、なおかつ人を喜ばせる行為も極自然に行えるがゆえに、プラスにプラスを重ねる人生を歩む事が出来る。

・・・と言うのは、以前に別の話題でも述べた私の持論であるが・・・。

よって彼らは、まるで生まれつき何かしらの“魅力”を備えているかの様に、“そうでない者”にしてみれば思えてしまう訳で・・・。

しかし実は、それらは後天的に備わったものであると言う事は、最初に述べた通り。

それでは、“そうでない者”が、それ(親なり他人からの愛)を得ようとした場合、どうなるか?

これは“そうでない者”にしか解らぬ感情ゆえ、逆に“愛されて育った者”には解りえぬ事であろうが・・・。

“そうでない者”は、自分に生まれつき備わった能力以上の、あるいはそれ以外の特別な能力を身に付ける事でしか、それを為し得る事など出来ない・・・との発想に至るのである。

そしてそこで運良く、何かしら得意なものを自分で見つけ・・・と言うか親なり他人に誉められる事によってその様な道に目覚める事が出来れば、自ずとそれを好きにもなり、好きになればそれを繰り返す事も苦ではないゆえに、その道で能力を開花させる事が出来る可能性も芽生え得る訳であるが・・・。

運悪くその様なものを見つけられなかった場合は、彼らにとっては、少なくとも他人から馬鹿にされたり見下される事のない能力を身に付ける事は最低限の必須条件となるのである。

ちなみに、そのどちらにおいても、それを異常なまでの執着心と集中力であきらめず取り組み続け、何かを成し遂げた者を、“天才”・・・と、ここでは呼んでいる訳であるが・・・。

とまあ、天才とまでは言わなくとも、彼らは生まれつきのありのままの自分には愛される魅力・・・あるいはその資格すらないのだとさえ思い込まされて育ったがゆえに、それこそ必死の思いで自分の能力の向上や獲得にやっきになるのである。

ところが、愛されて育った者は、既に自己の存在を無条件に承認されている訳であるからして、特に何かしらのプラス・アルファがなくとも、自信満々で居られる訳で・・・。

更には、その自信こそが、実は彼らの魅力の最大の根拠であるとも言えるのであるが・・・。

ゆえに、・・・そう。無条件に愛されて育った者とは大きく異なる彼ら、すなわち“そうでない者”とは、言い換えるならば“(ありのままの)自分に自信を持てない者”・・・なのである。

しかるに、“愛されて育った者”は、ありのままの自分に自信があるがゆえに、自ら何かを生み出す事は得意ではなく、その点では、明らかに“そうでない者”より能力的に劣る存在である事も事実。

・・・とは言え、元から魅力があるのだから、革新的な事に挑戦さえしなければ、彼らはいつも人気者でいられるはずなのだ。(←ポピュラー・ミュージックのヒット・チャートを見れば一目瞭然でしょ?)

想像してみて欲しい・・・。

“そうでない者”が自分の“魅力の無さ”を“能力”で補おうと少々努力した所で、“魅力のある者”の微笑み一つにすら敵わないのだと言う現実を・・・。

だが・・・否、だからこそ彼らは、異常なまでに自己の能力を高めようと努力し、それに執着するのである。

だけど実際の所、魅力ってのは能力の有無とは無関係なんだよな・・・。

魅力のある人間は自分に自信があるゆえに、例えば何か失敗して人から「お前、馬鹿だな~」って言われても、そこに親愛の情があるって事に対して疑いを持たないから全然平気どころか、むしろその人から愛されてるって事を実感出来る訳なんだけど・・・。

“そうでない者”にしてみれば、生まれつき魅力が無い上に、能力まで無いって言われた日には、それはもはや死刑宣告に等しい事なんだよね~。

そう言う意味では、ある種、自分の能力を高めるって行為は、自信を獲得するため、あるいは失った自分自身の尊厳を取戻すためだって言い方も出来るかな。

まっ要するに、もっと解り易く言うなれば、彼らの人生はマイナスから始まってるって事なんだよね・・・。

(つづく)
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