Mr.エレクトの独り言 2009年12月25日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

えむわん2

実はあの後、直感的に強烈な嫌悪感を覚えたとは言え、あまりにもPBBの事を悪く言い過ぎちゃったかなと、少し反省イタシマシタ。

そこで私は、改めてPBBの映像を繰り返し何度も見てみたのでありマス。

・・・思わず笑いマシタ。(←ええっ~!?)

確かに上手いし、面白い・・・。

しかし、むしろ見れば見るほど、当初感じた嫌悪感の正体が明確になってきたのも事実。

何と言うか・・・。

これって、模範解答集・・・?

要するに、テストで良い点を取るためのテクニックやノウハウばかり満載されてる・・・みたいな。

えむわん攻略の優等生・・・?

構成や進行が完璧だから確かに面白いんだけど、既知のパターンや予想され得る切り返しが多くて、何だかあざといと言うか、あまりにも定石通り過ぎると言うか・・・。

それはそれでお笑いの定番ではあるんだけど・・・。

「んなアホな~!!」って程のとんでもなくぶっとんだ天然性も、超異次元的な発想に基づく天才性もなく・・・。

すごく面白いけど、ものすごく面白くはない・・・ってトコ?

だ・け・ど・・・。

それで良いんだよね?

こう言う、当たり外れの少ないネタで手堅く安定した仕事をこなせる勤勉な芸人の方が・・・。

何せ、そもそもえむわん自体が、日本で一番面白い漫才師を選ぶコンテストなんかじゃないんだし。

人気が爆発しない中堅や素質のある新人に冠を被せて、高額のギャラを稼げるタレントを一組でも増やすのが最大の目的なんだから。

Wメシは既に65点選手なんだし、それを88点や95点にするより、今は10点や20点しか取れない選手を持ち上げて80点選手に仕立て上げる方が得策だって事だよね。

ところで、話変って・・・。

ことお笑いに限って言えば、今この場で面白くなければまるで意味がない訳で、そう言う意味では一発屋だろうが何だろうがどうでも良く・・・。

つまり、「どうせ来年には消えてる」と言う批判の仕方って当たってないと言うか・・・。

ただ単純に、今現在自分にとって面白くないなら今現在自分にとっては面白くないと言えば良いだけの話で、世間で大人気だろうが大流行してようが、それをあえて未来予想図を持ち出してまで否定する必要はないのではなかろうか?・・・と。

お笑いって言うか、何を面白がるかって事は、やっぱ個人個人の感性の問題だと思うしね。

完成度よりも、感性度・・・みたいな?

おあとがよろしいようで・・・。
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「時間軸論」序説

歳を取ると・・・と言うか、(何かしらを得ている訳でもなければ自ら積極的に頂いたつもりもないゆえ、もっと正しく言い換えるならば、)長く生きていれば、自ずと物事を判断するためのモノサシも増えると言うもので・・・。

特に重要なのは、やはり“時間軸”・・・すなわち、物事や人が時間を経るにつれ変化して行くと言う事がよりリアルに感じられる様になる訳でありマシテ・・・。

今にして思えば、10代から30代半ばくらいにかけての私は、その時その瞬間しか見えなかったと言うか、自分にとって今面白いかどうか?と言う事しか判断基準がなかった様に思う。

もちろん、ある意味においては、その瞬間瞬間にベストを尽くして生きていたからと言えなくもないが、その反面、実に刹那的な生き方をしていたとも言えようか・・・。

実際、将来の事はもちろん老後の事なんて、まるで考えていなかった・・・と言うか、考える余裕もなかったのだ。

また、思うにそれは、思い出したくなる楽しい過去があまりにも少な過ぎ、ましてや明るい未来などとても思い描ける心境ではなかったと言う事が大きな原因だったのではなかろうか。

つまり、今現在この時しか居場所が無く、それゆえに今この瞬間に意識が集中し、執着するしか術がなかったのだと思うのだ。

・・・と、そんな事を考えていると、更に色々な事に気が付いた。

たとえば、「昔は良かった」と言ってる人間は、必ずしも「昔」のすべてが良かったと言っている訳でもなく、あくまでも自分にとって気分が良かった、あるいは都合が良かった時代の一側面のみを指してそう言っているに過ぎないのである。

そしてそれは、過去や現在を比較するだけではなく住んでいた土地でも同様の事が言え、「日本に住んでる今よりも、昔アメリカに住んでいた頃の方が暮らしやすかった」と、時間軸と地軸がミックスされている場合も往々にしてあるがゆえ・・・。

それらをもっと正確に言い表すならば、本来は「自分にとって気分や都合が良かった時や場所が良かった」・・・とすべきなのである。

ゆえにそう考えてみると、「昔は良かった」と言ってる年寄りは、実は懐古主義でも何でもなく、実際には利己主義でしかないって事が良く解るだろう。

何故ならば、その人は今居る場所や時代が性に合わず、それゆえに自分にとって生きやすく気持ちが良かった過去や他所の土地に思いを馳せているだけに過ぎないのだから。

いや別に、それが悪いとかどうとか言いたい訳ではないのだが・・・。

しかるに、振り返りたくなる過去や思いを馳せたくなる土地がない人間はどうすれば良いかと言えば、今この瞬間か未来、もしくは今この土地かどこか他所の土地に思いを馳せるしかない訳で・・・。

そのどちらも見つける事の出来ない人は、この世からオサラバするしかないのであろう。

さて、そんなこんなで、こんな私も振り返りたくなる過去ってやつがいくらか蓄積されてしまった訳であるが、それを振り返っても仕方ない訳で、かと言ってあとわずかしか残されていない未来に希望を抱く程の夢想家・・・否、妄想家でもない上に、東京からは離れられないときてるから困ったもの。

・・・とまあ、そんな戯言はこの辺でやめにして・・・。

振り返るべき過去があると言う事は、若い頃の様に「今がすべて」と言う程、過去も未来が塞がっている訳ではないのであるからして、自ずと過去から今現在への時間の経過と言うものを常に認識出来る状態にあり、それこそが“時間軸”と言うモノサシなのである。

・・・と、いつもの事ながら前置きが長くなったが、その“時間軸”と言うモノサシを使って物事を判断するとどうなるか?と言う事を、次回は解説してみたい。

(つづく)

「無知」と「迷信」

「正しい」って事は時代や地域によって異なり、今まで「当たり前」だと思い込んでた事も他所では全く通じなかったりするもの。

更には、個人個人や各家庭によって、時にそれらは大幅に食い違う場合もある。

よって、生まれ育った時代なり地域が異なれば、その考え方や価値観が異なって当然。

しかるに、その根底にはある一つの共通する基準があり・・・。

それが何かと言えば、いずれにせよ誰かしらの意図なり利益なり目的によって「正しい」だとか「当たり前」だとかって事は決定づけられるに過ぎないのだと言う点であろうか。

ゆえに、その差異を埋め、互いに理解し合おうとするならば、相手そのものの、もしくはその相手の生まれた時代なり地域に関しての情報を良く知る必要がある。

そして、「迷信」と言う名の無意識の脅迫から逃れたいのであれば、今現在「正しい」とされている事や「当たり前」であると思い込まされている事を、「まず疑い、良く確かめ、正確に知ろうとする」必要があるのだ。

そもそも、「迷信」とは「無知」から生まれるもの。

また、歴史を振り返ると、民衆を無益な競争に駆り立てる事によって利益を得る権力者は、その競争を煽るために民衆を階級分けする必要があった。

階級制度とは、「差別」を生み出し民衆を分断するために意図的に作られた社会構造なのだ。

すなわち当初、「差別」とは意識的かつ人為的に生み出されたものだったのである。

しかし現在は、権力者が自ら手を下さずとも、民衆の方で勝手に「階級」を作り「差別」を生み出してくれる時代。

言わずもがな、「差別」を生む元凶も、人々が「無知」であるがゆえに他ならない。

だから権力者にとっては、民衆が「無知」のままで居てくれる方がありがたいのである。

何故ならば、わざわざ手を下さずとも、放っておけば民衆自身が勝手に、自らを「無知」と言う名の盲目の牢獄に繋ぎ止め、不毛な階級差別や権力争いに血道をあげてくれるのだから・・・。

それが、権力者を更に肥え太らせる事になろうとは露とも知らず・・・。

今あるものがすべて「正しい」だとか「当たり前」だと思うなかれ。

今あるものがすべて「正しい」訳でも「当たり前」な訳でもない。

何故ならば、それは誰かにとってのみ都合が良いように意図的に作り出されたものに過ぎないかも知れないからなのだ。

ましてや権力者とは、とかく御都合主義な生き物。

知ればきっと、目が覚める。

知れば知るほど、怒りが湧く。

繰り返しになるが・・・。

「迷信」と言う名の無意識の脅迫から逃れ、「無知」と言う名の盲目の牢獄から解放されるためには・・・。

「まず疑い、良く確かめ、正確に知ろうとする」事。

それ以外に手立てはない。

・・・とは言ったものの・・・。

さりとてこれは、“困ってない人”には無縁の話か。