しかし、これは正しい言い方ではなく、正確に言うなれば「良くないと思えるから駄目」なのであり、ではなぜ「良くないと思える」のかと言えば、「現在の価値観に合わない」からに他ならない。
しかるに、「現在の価値観に合っているもの」、もしくは「現時点における最先端なり最高峰」が、20年後にも「良いとされている」のかと言えば、むしろ「古いから駄目」とされている可能性が高い。
つまり、もしも「古いから駄目である」と言う様に、「現在の価値観に合っているかどうか?」と言う点のみを判断基準にするならば、それは物事の良し悪しを判断する基準が時代や流行やその地域に住む人々の価値観なり多数意見に左右されてしまっているに過ぎない・・・と言う事であるかも知れないのである。
ただし、「古いから駄目であると断罪されてしまう様なもの」は確かに、やはり「その当時のみ通用し得た価値観に迎合もしくは服従してしまっているに過ぎない」とも言えよう。
そしてそれと同様に、「現在の価値観に合っているもの」もまた、その運命を辿るであろう事は想像に難くない。
要するに、現時点において「古いから駄目である」と言われているものは、それが「良い」とされていた時点においても「新しいから良かっただけ」であり「その時点における価値観に合っていただけ」に過ぎないのだ。
そう考えると、「古いから駄目であると断罪されずにいるもの」、すなわち「長い年月を経ても価値が下がらぬもの」とは、時代や流行やその地域に住む人々の価値観なり多数意見に左右される事のない、人間が持ち得る普遍的な美的感覚に合致するものであろうとの推測が為される。
ゆえに、「本当に良いもの」とは、「その時代の流行や世間の価値観に合致するもの」などではなく、「人間が持ち得る普遍的な美的感覚に合致するもの」であり、それを生み出すにはどうすれば良いかと言えば、間違っても他者や世間に価値観に左右されたりそれに容易く迎合する事などでは絶対になく、自分にとって「美しいと思えるもの」を追求し続ける事であり、そうやって自己の美意識を突き詰めて行くならば、「個人の趣味や嗜好を反映した表面的な姿や形態」から「その表面的な姿や形態が生まれるに至ったその発生源なり動機」すなわち「内面的かつ本質的な美の根源」に意識が向かう様になるはずなのだ。
よって、そもそも「美意識を行使する事」とは如何なる行為であるのかと問われれば、それは「自分自身が美を生み出し創り出す事」ではなく、「自分自身が美の僕(しもべ)となり、自己の精神と肉体、そしてその持てる技術や能力のすべてを美に対して捧げ尽くす事を指す」・・・となるのである。
「普遍的な美」とは人間に元々備わっている性質などではなく、人間なんぞの手には届かぬ所に常にあり、それは「自らが求め獲得する事によって初めて、ようやっとその一片が姿を現すもの」・・・なのだ。
ゆえに、私利私欲はもちろんの事、私情に囚われ振り回されている様な人間に「美が宿らない」のは必然なのである。
(つづく)
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