それを、恐怖のあまり目を逸らして誤魔化したり、無理矢理閉じ込めて強がっているうちは、本当に不安を消し去る事など出来ないだろう。
実は、自分もそうだった。
しかし、一部の人は知っているが、例の大地震の1週間後、自分はパニック起して恥も外聞もなく逃げ、都内を離れ埼玉辺りに三日間潜伏しており、その際、自分が先の大地震から受けた恐怖を明確に自覚する事が出来たのだ。
すると、おかしなもので、そりゃまあ相変わらず地震は怖いが、臆病と言うか超ビビリと言うか、今では正直にそれを「怖い」と言えるので、以前に比べ失うものや折れるものが少ないのである。
しかるに、自分が「不安である」事を認めないでいると、単に身体的な安心や安全だけでなく、精神的なダメージを受ける事に対しても、いつまでも怖がり続ける事になるのだ。
怖いものは怖いし、不安であるのは誰でも同じ。
問題を解決するには、その発生理由や元凶を正確に知る必要が絶対にある。
よって、目に見えない予測出来ない不安にいつまでも怯えているよりも、むしろそれをあえて真正面から見つめ認める事によって、「不安=原因不明な恐怖」を、「既知の恐怖」に変える事の方が望ましいのだ。
・・・それすなわち、「覚悟を決める」とでも言い換えられようか。
その点、自分はさんざん怖がって、しかもその様子を多くの人に知られ、既にさんざん恥もかいたので、精神的な意味においては今更失うものもそんなに無いって訳。
もちろん、今でも地震は怖いけどね。
そう、地震を怖がるのは恥ずかしい事でも何でもないよ。
「強がり」は折れる。
地震の恐怖に立ち向かえる人間なんて居ない。
自分自身が「不安である」事を見つめ、それを認めてあげなよ。
自身の臆病さをまざまざと見せ付けられた自分には、それがとても良く解るのだ。
<追伸>
これは、梶原一騎原作「愛と誠」において、蔵王与平に囚われの身となり最大の恐怖体験を味わった砂土谷峻が、取引が成立して解放された後、大人しくなるのではなく、逆に反撃に出た気分に似てるかな?(一部の人にしか通じない引用にて、ごめんなさい・・・。)
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