「義援金出さなかった生徒の名前、黒板に貼り出す」
秋田県大館市の同市立第一中学2年の2学級で、それぞれの担任教諭が、生徒会が企画した東日本大震災の義援金集めで寄付をしなかった生徒計約20人の名前を教室の黒板に掲示していたことが20日、わかった。(読売新聞)
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無知と無関心ゆえに堕ちた地獄から・・・
無知と無関心なままで救われようと思うなかれ。
自分が選んで見ていたつもりのテレビは・・・
テレビが選んだものを見せられていただけだった。
そしてまた、無能な政治家は自分が選んだ訳ではないとしても・・・
そのうち、選ぶ事さえ許されなくなる。
恐喝まがいの計画停電。
恐喝まがいの泥棒に追い銭(=電気料金値上げ)。
どさくさ紛れのコンピューター監視法案。
どさくさ紛れの人権救済法案。
トモダチ思いの在日米軍駐留経費負担特別協定。
トモダチ思いの国際協力銀行(JBIC)独立。
火事場泥棒のTPP。
火事場泥棒の外資参入。
法キングのオッサンが、「死後の世界は無い」と発言したそうで・・・。
その考えに関しては、私も同意するものである。
ただし、「何故この時期に?」と言う点を考えるに、色々な妄想(仮説)が私には思い浮かんでしまうのだ。
これはもしや、「死への恐怖」を増幅させて人々の不安や混乱を煽ろうとの意図があるのか?・・・などと。
しかるに、その反対に、「死後の世界は無い」からこそ、「如何に生きるか?」と言う事が更に問われて行く事になるのではないか?・・・とも。
そしてまた、悪事を為す者は「地獄なんか無い」って事を良く知っており、それに比べて私達は、「悪い事をしたら地獄に堕ちる」と洗脳されてしまっているのだとも考えられる。
しかしまた、かと言って「悪い事をしても良い」との考えを全面的に認めて、殺される側にまわる訳にも行かないがゆえに、問題は「何を悪い事であると定義するか」って事になるであろうか。
例えば、狂信的な宗教の信者は「天国に行く」ために「人殺し」をしたりもする訳で・・・。
よって、問題となるのは「正義の範囲」なのであろうと思われる。
例を挙げれば、自分独りの利益しか考えない人間も居れば、自分と自分の家族を守るために他人を蹴落として出世しようとする人間も居るし、自分と自分の所属する組織を守るために敵対する人間を平気で殺せる人間も居る・・・と。
そしてその範囲の広さも重要だが、その線引きが明確であればある程、その範囲外の者に対して容赦なく振舞えるのではないだろうか。
実際、私達も猫ちゃんを平気で殺したりはしないけど、害虫は情け容赦無くぶち殺す訳なのだから・・・。
また更に言えば、いくら良心があるからと言っても、見ず知らずの恵まれない人に毎日寄付ばっかしてたら、自分の家族や、自分すらも守れなくなってしまう訳で・・・。
そう言う意味においては、実は私達の様な「意識的に大きな悪を為さない者」の方が、「守るべき範囲を明確にしない」分、「生きる事に対して不真面目」なのではないか?・・・とも考えてみたりなんかして。
しかるに、いずれにせよ「喜んで殺される」訳にも行かないので、その様な「守るべき範囲外の者に対してはどこまでも残酷になれる人達」に対して、「生きている限りは抵抗し続ける事」こそが、弱者の立場に置かれた私達にとっての「弱肉強食の世にあってなお、真面目に生きようとする事」なのではないのか?・・・とも。
・・・否、「真面目に生きる」と言うよりは、「生きる事に対して真面目かどうか?」とでも言い換えるべきであろうか。
すなわち、「自分の外にある基準」に対して疑問も持たず、ひれ伏したり言いなりになると言った「勤勉さや従順さ」を指す「真面目さ」ではなく・・・。
ましてや「現実逃避と思考停止と他力本願の果てに他人の価値観に依存する」訳でもなければ、「特定の誰かのみに都合の良い価値観を押し付けられ、盲目的にそれを受け入れる」訳でもなく・・・。
あくまでも「自らの内にある、生きようとする欲求なり生き続ける事を欲する気持ち」に対して、自分自身がどれだけ真剣に向き合っているかどうか?
・・・それこそが、最も重要なのではないだろうか。
権力者や既得権益者は、それらと真剣に向き合い、そのために「自分の考える正義の範囲外」の者を皆殺しにしてまでも、それを為し遂げようとしている・・・つまり彼らは「自分(達)が生きる事に対して、冷酷とさえ呼べる程に徹底的に真面目」なのである。
そこには、私達の様な「生ぬるい自己保存や生命維持の欲求」など存在し得ない。
ゆえに、「真剣な悪」に「どっちつかずの正義」が滅ぼされる事など、当然の成り行きでしかないのである。
また、もし仮に私の様な「生ぬるい人間」が権力を手にした所で、それは三日もせぬうちに誰かに取って代わられるであろうし、それこそが、如何に彼ら(権力者や既得権益者)が「生きる事に対して真面目であるのか?」と言う事の証明でもあるのだ。
だからこそ、こちら側(持たざるがゆえに虐げられる運命にある存在)の私達は、もっと真剣に「自分が生きる事」に対して向きあわなければいけないのである。
・・・否、それは単に私の個人的な考えに過ぎぬゆえ、誰かに強制出来る事ではない。
ただ、日本がこの様な状況に陥った現在、そして「死後の世界は無い」のであるとするならば・・・。
今こそ私達は、「真面目に生きる事」に対して、真剣に向き合う必要があるのではないか?・・・と、私は考える次第なのだ。
刹那的な欲望を満たしてくれるTVや娯楽に夢中になり、「生きる事に対して真剣に向き合う事」を怠ったツケが、日本のこの惨状を生んだのではないだろうか?
私自身、大いなる自戒も込めて、それをここに記しておくものとしたい。
昨日のつづきとなるが・・・。
「何が本当で何が嘘か?」って事は、誰にも解らないとしても・・・。
私達は、そのいずれかを「自分で選び、自分で決定する」・・・しかない。
またそれは、「自分自身が何を信じて生きるのか?」と言う事でもあり・・・。
そして、「何が本当で何が嘘か?」が解らない状態で、それでもなお「何かを信じる」と言う行為は、言わば宗教に近いものであると、私は考える。
・・・もっとも、殆どの宗教とその信者との関係性は、信者側が自発的に「何かを信じている」のではなく、現実逃避と思考停止と他力本願の果てに、「他人に依存している(=自分の命なり運命を他人に預けている)」だけに過ぎない・・・。
しかるにまた、いずれにせよ信仰の対象すなわち「自分自身が何を信じて生きるのか?」って事は、人それぞれ異なる・・・と言うか、異なって然るべきなのであるからして・・・。
「どちらが正しいのか?」なんて事を言い始めたが最後、その先には争いしか生み出され得ないのである。
何故なら、そもそも「自分自身が何を信じて生きるのか?」と言う事は、「自分自身が何を求め、何を望むのか?」って事でもあるのだから・・・。
「正しさ」なんて言うものは、人ぞれぞれの価値観・・・否、そんなお伽噺の様な曖昧な分類が為されるべきではなく・・・。
現代社会における、その人その人の置かれた“立場”によって180度も違ってくるものなのである。
ゆえに、「何が本当で何が嘘か?」など誰にも解らぬ状態で「自分自身が信じる何か」とは、「自分が置かれた立場」における「正しさ」に過ぎぬ訳であるのだから・・・。
もしも、双方の意見が合わず対立している状況があったとしても・・・。
それは、「どちらが正しいのか?」を確認する作業などでは到底なく、ただ単にそれぞれの「自分が置かれた立場」の違いを確認し合っているに過ぎないのである。
よって、「自分自身が何かを信じる事」(=宗教)とは、「自分とは異なる立場に置かれた人間の考え(もしくは信仰)」を否定する事でしかないのだ。
・・・と言う事を誰もが自覚するならば、少しは争いも減るものと、私は考えるのである。
・・・が、さて、如何なものだろうか?
・・・と、これもまた私自身の、「自分が置かれた立場から導かれた正しさ」に過ぎぬ事は、もはや説明するまでもないだろう・・・。
何が本当で何が嘘か?
それをすべて知っている人間などいないし、それって実はそんなに大した事じゃなくて・・・。
本当に大切なのは、「自分が何を信じて生きるのか?」って事だと思う。
そして、それ(=何を信じるのか?)は要するに、「どこに命を預けるか?」と言う事でもあり、言い方を変えるなら、「何に対して命を使うか?」と言う事ではないだろうか・・・と。
また、それこそが「生きる事」であり、(自分を)「活かす事」に繋がるのではないだろうか。
つまり、「何が本当で何が嘘か?」って事は、誰にも解らないとしても。
・・・否、むしろそれが「誰にも解らない」からこそ・・・。
「何が本当で何が嘘か?」って事は、自分で選んで決定しなければいけないし、そうするべきなんだと思う。
例えば、親の保護下に居る子供は、食べて良いものと悪いものを「親に決めてもらう(べき)」であろう。
しかるに、自分が親になった時、もしくは自分が誰かの保護下なり支配下から抜け出して自立しようとするのであれば・・・。
たとえ、「何が本当で何が嘘か?」って事が、誰にも解らないとしても・・・。
やはり、「自分で選び、自分で決定する」しかないのだ。
何故なら、それこそが「生きる事」であり、この世に生れ落ちた自分を「活かす事」なのだから。
自分も若い時にそうであったゆえ、今だからこそ良く解るし、言えるのだが・・・。
「人間不信」とは、「自分かわいさ」と「他力本願」ゆえに生み出される感情である。
・・・とは言え、それには明白な原因もあるゆえ、私は何もそれを一概に非難しようと言う訳ではない。
ただ単に、「そうである」・・・と言うだけの話。
そもそも、「信じる」とは、何であろうか?
それは、誰かから何かをもらったり、してもらう事ではないはず。
よって、「信じる事」で、その対象となる相手が「自分に対して何かしてくれる」訳では全然ないのだ。
ゆえに、「(して)もらえなくて」当然であり、それは「裏切られた」訳でも何でもない。
むしろ、「信用」とは、こちらから「してあげる」ものなのだから、もし仮にその見返りを求めるならば、それは「借金の押し売り」であり「信用の押し付け」にしかならないのである。
また、「信用を置く」と言う言葉にも現されている通り、「信用すると言う事」は、「自分の命をその相手に預ける事」であるとも言えよう。
・・・否、「命を預ける」はちょっと言い過ぎで、しかし少なくとも「自分の運命なり未来の成り行きの、その一部分を相手に託す事」ではあるだろう。
だから、その覚悟すら無い者には、「人を信用する」などと言う行為をする資格などないのである。
・・・もっとも、「信用する事を強要された」のであれば、その限りではないが・・・。
そして更に言えば、「信用」と一口に言っても、それはその相手に対して、必ずしも「自分のすべてを預ける」訳ではないのと同様に、その相手の「どの部分を信用するのか?」と言う点も重要である。
すなわち、例えば「旅行の計画に関してはAサンが最も信用出来る」だとか、「昆虫の知識に関してはBサンが最も信用出来る」・・・と言った具合にだ。
その辺りを見極める事なく、「誰かを全面的に信用する事」は、「自分の命なり人生をその相手に委ねる」事であるからして、その責任はあくまでも「それを選び決定した自分自身」にある。
ただしもちろん、「親なり配偶者を信用する」と言った、「運命を共にする覚悟」が出来ている場合は、「それを他人がどうこう言う事こそが野暮である」と批判されてしかるべきであろうか。
しかしながら、もしも貴方がその対象となる相手と「運命共同体」で居る事を望まないのであれば・・・。
最終的には、やはり「自分で選び、自分で決定する」・・・しかないだろう。
何故ならば・・・。
「信用すると言う事」は、「自分の命、もしくはその一部を相手に預ける事」なのだから。
カンちゃんが浜岡原発を停止させたらしい。
とりあえず、現時点で停止させるのは賛成として、その後に関しては多面的に考えて行く必要があるだろう。
せっかく、この様に原発に対する国民の不安や怒り等の意識が高まっている時であるからこそ、その矛先が「原発を無くす」事だけではなく、その元凶にも向けられる事が望まれる。
そして、それが何であるかと言えば、要するに「国民の健康を少々損なう事があったとしても、自分達が儲かる政策を推し進める、もしくは基準や規制を意図的に甘くする」、利権を貪る既得権益者達の存在なのだ。
東電はもちろん、スポンサーの言いなりになるマス・メディア、東大の御用学者、原発を推進して来た当時の与党、原発関連の天下り先を山ほどでっちあげた官僚、その他・・・。
それらにメスを入れぬままに原発がなくなった所で、もちろんそれ程までの危険は無いにせよ、何がしかの既得権益や利権を死守するために何の罪もない一般市民が犠牲になると言う構図はなくならないのではないか。
・・・とは言え、かく言う私にせよ、原発やそれを推進して来た利権の構造に関して無知・・・否、無関心で居たと言う事も事実。
私は、チェルノブイリの頃からずっと原発反対運動を続けて来た人達を横目で眺め・・・否、無視し続けて来たのである。
自分に直接の被害が及ぶかも知れない現在の状況に至るその時まで・・・。
よって、あまり偉そうな事を述べる資格など無い訳なのであるが・・・。
また、東電に関して言えば、百歩譲って同様に自分達が働く会社で行われている事に無知でいた(もしくは無知でいさせられた)事は責められてしかるべきかも知れないが、日々真面目に働いていただけの末端の人達の罪は軽いのかも知れない。
しかるに、もし仮に彼らも国民から後ろ指を指されているとするらば、それは自分達が働く企業内において、「上層部こそ責任を取って辞職し、退職金や年金等も辞退すべきである」と抗議の声を上げると言った自浄作用が見受けられないからではないだろうか。
(もっとも、財務省では東電の過去20年に遡る役員にも責任を負わせようとしているらしいが、それはそれで増税等、財務省の目論見を達成したいと言うのがその大きな理由である様だ。)
いずれにせよ、本当に責任を負わなければならない者が責任を負わなくても良いシステム、これがある限り、その利権の構造に無関心な者が犠牲となる状況は改善されないであろう。
本来、「偉い人」とは如何なる人物像を指すのか?
そもそも、その基準が狂ってしまっている現在、国が滅ぶのも必然であろうか。
墓穴(はかあな)を掘らずして墓穴(ぼけつ)を掘るとはこの事か・・・。
せっかく多くの人が疑問を抱いたこの時に、「何故、この様な嘘を吐くのか?」、その根本理由を追求しない限り、日本の・・・特に既得権益者層でない私達は、今後もずっと騙されカモられ利用され続けるだけだろう。
持てる者は目先の利益を追い、持たざる者は目の前の生活に追われ・・・。
いつまで経っても、結局何も変わらない。
自分に被害が及ぶまで・・・。
否、自分に被害が及んでもなお。
お人好しな日本人。
まっ、それが日本人の美徳でもあるのだが・・・。
この世は善人ばかりで構成されている訳ではないのでね。
誰も“真理”には辿り着けない
・・・であるとしても
“迷い”のない者は“真理”に近づく事さえ出来ない
記念日大好きな人達が、ヒゲの独裁者が偽装自殺した日に合わせて、ヒゲのテロリストを殺して海に捨てた“事にした”らしい。
傀儡新聞の記事によると、そのせいで日本も・・・との事。
地震は怖いし○○も怖いが、覚悟は出来た。
さて、もし仮に最悪の事態が起きて、運良く死なずに生き残る事が出来たなら、どうしよう?
農業は性に合わないし、かと言って肉は嫌いなので・・・。
そうだ!!川の上流辺り付近にでも住み着いて、魚を釣ったり獲ったりして生きよう。
だけど、マグロは川には居ないから、もうシーチキンは食べられなくなるかな~。(:;)
それで、時には自分で獲った魚を、誰か他の人が作ったお米や玉子や豆腐なんかと交換してもらったりなんかして。
ウフフ・・・。わくわくするね。(^^)
誰かと競争する必要もなく、自分さえ頑張れば良い、大自然に逆らわず感謝を忘れぬ生活。
偏食も、時には役立つな~。
・・・もっとも、そんな事でもなければ生き方を変えられないんだから、ホント、人間って愚かだよね。(TT)
平和な時代には目に見えないが、世の中に不安や危機が訪れるや顔を出す、日本の村社会的性質。
ところで、最近の傾向として、世間の方々曰く「政府も東電も原子力安全・保安院も本当の事は言わない」し、「大スポンサーである東電に対しマスコミは逆らえない」・・・と言うものがある。
もっとも、そもそもテレビを初めとするマス・メディアとは一方向的なメディアゆえ、反対意見が存在し難いと言うデメリットがあるゆえ、それは当然の事なのだ。
よって、マス・メディアからの情報を鵜呑みにすると言う事は、イコール、ある特定の方向に自分の考えを誘導される危険性が大きいのである。
そしてまた、そもそも世の中には様々な意見や考え方が存在するのが普通の状態なのであるが・・・。
しかしながら、一方通行的なマス・メディアの洗脳を避け続けた所で、人と言うものは基本的に、自分と意見や考え方が共通している者や似通っている者同士で仲良くなり、反対意見を持つ者を排除もしくは自分とは異なる考え方を持つ者とは疎遠になりがちである。
ゆえに、他人とはある一定の距離を持って接し、なるべく自分の意見や考えを表に出さない様にするか、そもそも確固たる自分の意見や考え方を持たぬ者は、まわり(仲間)に流され同化するのが関の山。
考えてみて欲しい、そんな場面で、まわりとは異なる自分の考えを述べようものなら、ひどい迫害を受けるか、すぐに相手にされなくなるのがオチであろう。
しかるに、単に居住地域が近かったり同じ趣味を持つ者同士で仲良くなった程度の集団内の繋がりなど、何が正しくて何が正しくないのか?だとか、この世の真理を追究しようなどと言った精神とは程遠いのだから、それも仕方の無い事。
本当ならば、善悪の基準やこの世の真理と言うものは、自分の意見や考え方よりも上位に来るべきであるにも関わらず・・・である。
だから、何かを知ろうとする時、私達は一つの意見だけでなく、その反対意見をも検証のテーブルに上げなければ、その結果における精度が上がる事など絶対にあり得ないのだ。
その点、ネット上に転がる情報とは、でたらめや嘘ももちろん多いのだが、相反する意見や考え方が(現在の所は)取り締まられる事なく(少なくともこの国では)存在する事が許されている。
後は、それを読んだ私達が、自己責任でそれを判断するだけの事。
何故なら、政府は嘘つきだし、マス・メディアは一方通行的な情報しか流さないのだから、今ほど“権威”が役立たずな時代はないのだ。
もちろん、政府なりマス・メディアからの情報を信じ(依存し)、後で彼らに文句を言うのは貴方の自由である
だが、ネット上に限らず、そもそもこの世とは嘘と本当とが混在する世界であり、その情報を発信した責任をどこまで追及出来るかと言えばはななだ疑問であり、何せ「死人に口なし」との言葉もあるのだ。
こんな非常時において、利権に目が眩んで嘘を繰り返してきた“権威”を誰が信じるものか!!
・・・となると、そんな状況において私達のすべき事とは、自分の頭で考え、自分のこころで決定し、自分の身体で行動する事以外にはないのである。
天気予報は「明日は雨」だと言った。
それを信じ(依存し)、手荷物を増やしてでも傘を持って出かけるか、それでもなお傘を持参せず、外出先でビニール傘を購入する羽目になるか・・・。
その責任はすべて自分にあり、その恩恵も被害もすべて自分に降りかかってくるのである。
更に言えば、外部からの情報を一切遮断し誰の意見にも耳を貸さず、自分の知識と直感とを駆使して、「明日は傘を持参すべきかどうか?」を決めるのも良いだろう。
いずれにせよ、こんな状況下にあって、貴方の健康や将来を一体誰が保障してくれると言うのだ?
誰か(仲間)から、「逃げるなんて卑怯」だと言われる事もあるだろう。
しかし私に言わせれば、現実を直視し、「何が正しいのかさっぱり解らない」状態の下、時に相反する情報の洪水の中から自己責任で「正しいと思える」ものを選び取り、それを行動に移す人間を、同様に「何が正しいのかさっぱり解らない」人間が批判する事など出来ようか?
繰り返しになるが、自分自身が、外部からの情報を一切遮断し誰の意見にも耳を貸さず、自分の知識や直感とを駆使して行動するなり、あるいは運命に身を委ねようと言うのであれば、誰もそれを止める事など出来ない。
ならば同様に、他人なり貴方の友人が自分(の判断)を信じて行動する事を非難するべきではないと、私は考える。
貴方が仕事を離れられない、もしくはその土地を離れられないのは、誰かのせいではない。
ただし、原発の事故処理に当たっている作業員の方々は別だ。あの人達は、この日本に住む私達国民、更には地球を放射能汚染の危機から救おうと、自ら危険な場所に身を置いているのだから、私には感謝・・・否、何も出来ず何もしない自分をただただ恥じ入る気持ちしか芽生え得ないのだ。
私は常に考える・・・。
例えこの世が嘘ばかりだとて、そしてもちろんそれらに怒りや嘆きの感情を芽生えさせられようとも・・・。
結局の所、自分で考え、自分で選び、自分で判断し、自分で決定し、自分で行動しなければ、何か事が起きた時に後悔するのは自分である・・・と。
仮に誰かを信じた(依存した)所で、その誰かが助けてくれる訳では決してない。
自分の家族ならまだしも、仲間とてしょせん他人・・・である。
自分の人生は自分自身の力で切り開いて行く以外にはない。
・・・特に、こんな時代には。
そしてその逆に、他人の意見に流され、村社会に埋没するのも、これまた自由。
その結果は、いやがおうでも自分に降りかかるだけの事。
問題は、「自分にその運命を受け入れる覚悟があるのか否か?」・・・その一点に尽きる。
「生きる事」とは「自らの意志で動く事」であり、それは何も、住んでいる場所を移動する事のみを指すのではない。
それは・・・
「自分の頭で考え」
「自分のこころで決定し」
「自分の身体で行動する事」
・・・以外の何物でもない。