Mr.エレクトの独り言 2011年12月
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

周辺機器が壊れてく・・・(TT)

店で使用しているパソコンのモニターが、急に調子悪くなってしまった。

この症状をどう表現すれば良いのか、何やら安定せず、戦時中の映画みたいに薄暗い靄(もや)がかかってるって言うの?

しかも、モニターのボディを叩くと、まるで泥が沈んだコップの水を攪拌させたかの様に、画面が真っ暗になってしまう。(TT)(TT)(TT)

普通は叩くと直るんだけどね。(←昭和の話)

ただ、しばらくすると調子良くなったりもして・・・。

更には、うちのモニターは(その機能は使用していないが)元々テレビも見られる機種で、どうやら台座と本体の角度を変えると、接触が良くなったり悪くなったりする事が解った。

う~む・・・おそらくまあ、内部の接触でも悪くなったのかしらね~。

いずれにせよ、いつ使えなくなるか解らないのは困るから、仕方ない、買い換えるか・・・。

そこで私は、安いモニターを買いに新宿西口へ出かけた。

そしてモニターを注文し終わり、店に戻ると・・・。

今度はその翌日、以前より調子が悪かったもんで自分でカスタマイズ(改造)したキーボードが、ついに臨終のご様子。
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改造ったって、中はこうなってるだけなんだけどね。
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何せ、狭い卓上でパソコン使ってるもんで、他の仕事したり飯を喰う時はキーボードをいちいちモニターの上に乗っけるんだけど、そうやってコードをしょっちゅううねうねやってるうちにどうしても接触が悪くなっちゃうんだよね~!!(--;)

あ~!!もう!!接触悪くてイライラする!!こんなクソコード、思い切って引っこ抜いちまえ!!(@@)/

↓あ~あ、やっちゃった。(^^;)
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これでスッキリ!!ざまあ見ろ!!(@@;)

・・・って、それは冗談で、最近はコードレスのキーボードとかマウスってあんのね。

キーボードが使えなきゃ仕事にならないから、また西口行って買って来たよ。

それにしても・・・。

次はいよいよパソコン本体かしら・・・。(TT)
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「虚栄心」の補足

うふふ・・・。

数日前の記事デスが、真意をつかみかねると言うご指摘がありマシタので、補足をば。

ちょっと興奮して書きなぐり過ぎマシタね。

要するに、「勝つ事が判ってる勝負」=「結果の判ってる事」なんてタイクツじゃない?・・・と。

そして、いつも何か目標を持って生きてて、仮にそれが一つ達成されてもそこには安住せず、今度はまた次の目標を定める・・・みたいな生き方を繰り返していれば、常に「志半ば」の状態、すなわち「途中」って事になるのではないか?・・・と。

何かをやり遂げようとするその途上、つまり不安定な状態に自分を置くのは苦しいけど、それが無ければ、生きてても何が楽しいのかな?・・・と、個人的に思った訳デスよ。

まあしかし、「早く何者かになりたい」ってのは若さゆえの特権かも知れないから、私はこころのどっかでそんな風に焦って未来をつかもうとする若者に対して嫉妬してたのかもネ。

・・・って、しね~よ!!(@@)/

むしろ・・・そうねえ、世間の目に脅え鬱屈したコンプレックスを抱えて焦りに苛まれてた若い頃の自分を久しぶりに見せ付けられる様な気がしていやだったのかもネ。

あるいは、「若さゆえの傲慢さ」って言うか、「生存競争における生き物の生臭さ」みたいなものへの嫌悪かしらね?

しかしまあ、それにしても・・・。

ああ、イヤだね~!!

・・・「若い」って。(←やっぱ嫉妬か?)

「“虚業”無“情”」(2014年6月1日改定済)

諸悪の根元は、本来は責任を持って国内の経済安定のために奉仕すべき立場であるはずの銀行を初めとした金融業が、(しかも国外の株主等の)利益のために業務を行っている事である。

そもそも、貨幣と言うものは言わば通訳の様なもので、異なる質を持った品物やサーヴィスを交換もしくは提供する際、その相対的な価値決定と比較をスムーズに遂行するためにあるもの。

しかるに、一方では野菜を作り、一方では工業製品を作ったものの、双方に“物々交換券”が無いかもしくは不足しているために、生産した商品を消費者に届ける事も出来なければ必要なものを手に入れる事も出来ないとなれば、自ずと景気は冷え込むであろうし、各種産業も衰退しようと言うものだ。

ましてや、“何も生み出さない者”が、(しかも、元々は私達国民から預かったものに過ぎない)その“物々交換券”を貸し出し利子を取る行為や、“投資”と言う名の搾取を繰り返す事によって、持たざる者は更に貧しくなって行くと言うのが現実。

更には、“物々交換券”の供給を絶つ事(貸し渋り、実体経済にではなく金融経済への投資)によって、国民の殆どがデフレ不況に苦しめられ、窒息死させられようとしているのが、昨今の現状である。

“物々交換券”とは、農業で言えば耕作に必要な鍬の様なものであり、工業で言えば工業機械の潤滑油みたいなもの。

よって、それらはあくまでも道具もしくは媒介に過ぎない訳で、それ自体に資産価値がある訳ではなく、そこに人間の労働力(時間x労力)が加わる事によって、初めて価値のあるものが生み出されるのである。

ゆえに、“物々交換券”の発行・管理を扱う業種が本来為すべき事とは、鍬を提供し潤滑油を適正に供給する事であり、それらを独占する事によって、労働者(生産者なり製造者)を冷遇もしくは隷従させる事であってはならないのだ。

アメリカを見れば一目瞭然であるが、かの国は、憲法に照らし合わせれば違法でしかない通貨発行権を持つ民間企業のFRB(アメリカ合衆国の中央銀行制度を司る企業体)がただ同然で発行した紙切れを国に貸付け、更にその利息まで得る事で、国民の冨を吸い上げ、政治家や権力者を思い通りに操り、中央銀行の支配下に無い国家を「テロリスト国家」もしくは「ならず者国家」に指定し、核開発の禁止や“民主化”と言う美名の下に攻撃・転覆・侵略すると言った内政干渉を行使する蛮行国家に成り下がっているのである。

また、中央銀行が持つ通貨発行権だけではなく、制限こそあるものの市中銀行が行なう“信用創造”と言う名の詐欺行為こそが、も重大な問題なのだ。

“信用創造”とは、ものすごく簡単に言えば、Aサンから預かった100万円の預金を金庫にしまったままで、それを元手にBサンやCサンやDサンにもそれぞれ100万円を貸し出し(=又貸し)、しかも利子まで取る事が出来ると言うシステムであり、預金者が一斉に引き出しを行う様な事でも無い限り、市中銀行はAサンから預かった100万円を元手に、市中銀行が中央銀行に預けるお金と預金準備率の制限内ではあるが、預かった預金の数十倍~数百倍に(~理論上では1万倍にも)貸付金を増やす事が出来るのである。

すると、どうなるか?

銀行から100万円を借りた人が、銀行に対し利子を含め(仮に)101万円を返済するとして、そもそも利子分である1万円を市中から余分にかき集めて来なくてはならないのはもちろんの事、それどころか元々は100万円しか存在しなかったはずの預金が信用創造によってBサンにもCサンにもDサンにも貸し出されている(市中の負債が増やされている)ため、銀行側にとっては帳簿上の数字を増やしたに過ぎないお金を、借りた人達は実際に市中からかき集めて銀行に返済せねばらない訳で・・・。

そうなると、市中に存在する貨幣はどんどん銀行に吸い上げられるがゆえ、どう考えても必ず足りなくなり、言わば市中においては返済競争=冨の奪い合いが必須と化し、その競争に負けた者=現金で返済出来なくなった者は現物(担保)を奪われて行き、それを繰り返せば、仮に利子をゼロにしたとしても、自ずと市中の経済なり資産が滅せられて行くのは必然の結果なのである。

それゆえに、本来は“物々交換券”を供給する事によって市中の経済活動を潤滑にする事を最大の目的とすべき市中銀行は利益至上主義の民間企業(←ましてや海外の経営者や株主)に任せる事などせず、すべてを国有・国営化し、“物々交換券”を必要とする企業なり生産者・製造者には貸し渋りなどする事なく、そこで必要とされる額を必要な分だけきちんと貸し出し、そこで得られた利益は国民に還元するために有効かつ最大限に用いられるべきなのだ。

そしてそれは当然、通貨発行権を持つ中央銀行にも当てはまる。

市中銀行同様、中央銀行はすべて完全に国有・国営化し、市中銀行はあくまでも“物々交換券”供給を遂行(政府に代わって代行)する機関、中央銀行は“物々交換券”の発行を遂行(政府に代わって代行)するだけの機関として位置づけ、そこで得られた余剰利益は、民間企業(←しかも海外の経営者や株主)が搾取し吸い上げるのではなく、国民に還元・分配すべきなのだ。

また、これは銀行に限らず、お金を預かり貸す行為=又貸し詐欺を行う企業・団体すべてに対してである。

しかし現在は、日銀の国債引き受けが禁止されているため、外国人株主に支配されている市中銀行が国債を買っている状態、すなわち国民から預かったお金を使って得た利益を国外に流出させている有様なのだ。

お金=貨幣=物々交換券は、確かに便利である・・・がしかし、その便利な道具は、人々が幸せになるために使われるべきであって、一部の強欲な人間が人々から冨を搾取し、地上を支配するためになど使われるべきではない。

“何も生み出さない者”が、お金=貨幣=物々交換券を用いる事によって、更に資産を膨らませ、人々から冨(=本当に価値あるもの)を奪い、世界を不幸のどん底に叩き落しているのが、今の貨幣制度の現実である。

ゆえに、銀行(中央銀行・市中銀行)はすべて国有・国営化し、“物々交換券”による詐欺行為=国外への富の流出を止め、国内の潤滑・安定・富の再分配のためにこのシステムを正しく用いるべきなのだ。

“物々交換券”をやり取りするだけの実体の無い虚業とは、すべからく世の中に不安をもたらし、人々を不幸に貶めるための破壊装置でしかない。

“物々交換券”を初めとした数多の発明品とは本来、人々を豊かに、そして安心して暮らせるためにこそ、使われるべきものなのである。

「親のこころ子知らず」

あれは、私が中学から高校に進学する寸前の事だったろうか・・・。

実家は二階建てだったのだが、二階の三分の一は父の仕事である表具店(障子や襖の張替え)の資材置き場、後の三分の二は一時期ではあるが経営していた画廊のスペースが設けられていた。

また、実家は立地的にも国道二号線から交叉点を入って2~3軒目にあり、看板を出していれば目立つ場所にあったゆえ、画廊をやっていた時は、絵こそあまり売れなかったらしいが、額縁は結構売れていたらしい。

しかし、父は職人こそ雇っていたが実家で表具店の仕事をしながら、そして母も同じく実家で薬局を経営しつつ、その合間に画廊の接客もせねばならず、先行投資として額縁を仕入れて常備しておかなければならない事の金銭的負担もあり、ある時期から画廊は開店休業状態となっていた。

そこで、元々は一階に、姉こそまあまあ部屋らしきものはあったが、私と弟の部屋は庭に面した廊下を増築して作った部屋らしきものしか与えられておらず、それもそろそろ手狭になって来たと言う事で、二階の画廊を改築して私達三人兄弟に個室が与えられる事となったのである。

ところが、当初私が入る予定だった部屋に対し、急に姉がこちらの方が良いと言い出したため、当初姉が入る予定だった部屋に私が入る事となってしまったのだ。

なってしまった・・・と言うのには理由があり、やはり姉は女の子ゆえに大事にされており、私と弟の部屋は大したリフォームがなされている訳ではないのだが、姉が入る予定の部屋はすみからすみまで綺麗にリフォームされ、しかも廊下側の壁(元々古い作りゆえ窓がある)の上下に、花柄の壁紙が貼付けられているのであった。

これがどう言う事かお解かりになるだろうか?中学~高校生くらいの年頃の少年にとって、しかも初めて与えられた個室が、まるで女の子みたいな花柄の部屋なのである。(もっとも、面積的には大した比率を占めている訳では無いのだが・・・。)

当然、私はごねた。

ただし、父は幼少期から畏怖すべき存在であったゆえ、母に向かって・・・。

「こんな女みたいな部屋いやじゃ~!!」(広島弁)・・・と。(←女の子向けに作ったんだから当然なんだけどネ。)

そんなこんなで、いやいやながらも自分の荷物を運び終え、初めての個室での生活が始まった。

・・・とは言え、早く家を出たかった自分にとっては、個室を得る事=自分独りの世界に浸れる場所を獲得した瞬間であり、これは非常に嬉しい事であったのも事実ではある。

するとその数日後、私は母から、「父が花柄の壁を白く塗り潰してあげると言ってたわよ」(←標準語変換済)・・・との旨を告げられた。

だがその時の私には、個室を得た喜びもあったが、既に何日かそこで生活していたゆえ、それはそれで「親と言えども自分の部屋に入って欲しくない」と言うこれまた思春期にありがちな感情が発生し、「別にもう、あのままでええよ」(広島弁)と、当初のヒステリーは何処へ行ったのかと言わんばかりのそっけない態度を取ったのだ。

そして、仕事場で仕事をしている父へ、母がその事を伝えに行き・・・。

私のつれないこころ変わりに驚いた父が、仕事を中断して私の前に姿を現したのであるが・・・。

その光景は、今でも私の目に焼きついて離れない。

何とその時、あっけに取られた顔をした父の右手には、白いペンキの入ったバケツがしっかりと握られていたのだ・・・。

それで私はすべてを察した。

そうか・・・父は、花柄の壁をいやがる思春期の子供の気持ち・・・否、私の自分勝手な言い分をちゃんと理解してくれていたのか。

幼少期、いつも父は姉や弟ばかりを可愛がり、私はいつも怒られてばかりいたゆえ、私は父に嫌われているものと思い、死ぬまでこころの交流を持つ事のなかった父ではあるが・・・。

しかも、父に似て口下手ゆえ、私はその時も「ごめん」の一言すら発する事なく、二階にある自分の部屋にさっさと戻ってしまったのであった。

むぐぐぐぐ・・・。(TT)

あの時の父の気持ちを考えると、自分は何て冷たい仕打ちをしてしまったんだと、今でも悔やまれてならない。

・・・と、最近、その時の父の様な気持ちにさせられる出来事があり、突然この日の事を思い出してしまったのでありマシタ。

おしまい。(:;)

「虚栄心」

自分の存在を世に知らしめる事、もしくは自分の価値観を世間に通用させようとする事とは、言わば現代の世の中に対する挑戦であり、勝負であると言えよう。

そして、勝負には必ず、結果的として勝ちと負けがある訳で、絶対に勝つ保証や負けない仕組がある勝負なんて勝負でも何でもないのではないか?

もしかしたら負けて大恥かくかも知れないし、あるいは多くの人からけなされるかもしれない、だけどそうなりたくないなら勝つしかない訳で、そう言った状態に身をおく事によって初めて、その人自身の本当の力が試されるのではないだろうか?

要は、結果として勝つか負けるかよりも、その不確定かつ不安定極まりない状況の下で、どれだけ自分の全力を出し切る事が出来るか?・・・と言う点こそが重要なのである。

そして、もしもそうやって全力を出し切って勝負している人が居たならば、その結果が勝ちだろうが負けだろうが、自分はどっちでも構わないと思うね。

むしろその逆に、自分より弱い奴と戦って勝ったとして、それで本当にこころの底から嬉しいと感じられるのだろうか?

・・・だとすれば、それは何とも安い快楽、何とも低い満足ではなかろうか。

必ず勝てる相手、必ず勝てる勝負、そんなのただの支配であり蹂躙じゃないの?

そんな結果が最初から解ってる勝負なんてタイクツ極まりないし、観る気なんて起きないよ。

いつも負けてる奴が、もしかしたら今日は勝つかも知れない、明日は勝つかも知れない、だから面白いんじゃない。

もっと言えば、常に勝ってる奴も、今日は負けるかも知れない、明日は負けるかも知れないと考えるからこそ、油断せず自分を鍛え続ける訳だし。

要は、勝ち負けの問題ではなく、自分が置かれた立場に甘んじるか、それを少しでも向上させようともがくかの、そのどちらの生き方を選ぶのか?って事でしょうかね。

人間は死ぬからこそ、タイム・リミットがあるからこそ、その短い一生を悔いなく生きようとする訳で、もしも死がなかったら、人生なんてどうでも良くなるよ。

だって、“何時(いつ)”でも良いし、自分が誰でも良い訳だから。

よって、「生きている事」とは、「途中経過の内に身を置く事」であるとも言えよう。

人はいつか死ぬ、みんな死ぬ、必ず死ぬ、絶対に死ぬ、間違いなく死ぬ、そして・・・途中で死ぬ。

・・・であるにも関わらず、一体誰のために?何のために生きるのか?

世間から馬鹿にされないためか?誰かに怒られたくないからか?

違うでしょ?

人が生きるのは、誰かにほめられたいからであり、自分が喜びたいからに決まってるでしょうが!!

放っといても死ぬんだぜ?

なのに、それ以外に何を恐れる事があろうか。

そもそも・・・。

有名になりたいって事は、馬鹿にされるって事。

人気者になりたいって事は、恥をかく事。

ゆえに、有名人は誰かに馬鹿にされても平気でいられる程に自分に対して自信を持つ必要があり、人気者は恥をかいて誰かに笑われてもそれが本望と思えるだけの覚悟を持つ必要がある。

ところで・・・。

人として恥ずかしくない生き方とは、一体如何なるものであろうか?

それはおそらく・・・。

正々堂々と、「途中で死ぬ事」だ。

・・・と、私は考えるものである。

禁未来小説「ロボッ太は総理大臣」その2「ニホンのコメを守るダス!!」の巻

(今回も、上記↑タイトルは無視して下サイ・・・。)

注:最近あんまり時間がないので、文法上に問題があっても華麗にスルー願いマス。

しかしまあ何と言うか、私も数年前までは世界情勢や経済に関する知識など殆どなかった訳でありマスが、ある時、「減反政策」と言うものを知り、これには大変驚かされマシタ。

何故なら、日本人にとって主食であるお米・・・と言うより、人間にとって主食を確保する事は生命を維持するにおいてもっとも重要と言うか最低必要条件であり、それを余っているから減らすと言うのは、どんなものか?と思った次第なのでありマス。

もっとも、戦後のパン給食から、既にお米ならぬ米国の思惑通りに小麦を売りつけられ続け、米食からパン食へと日本人の嗜好が変えさせられつつある事も事実。

あったかご飯よりもパンが好きだなんて、私にはとても考えられない。

「人はパンのみに生きるにあらず」って言葉を知らねえか!!(←それはちょっと意味が違う・・・)

そもそも、マネー・ゲームでお金をいくら増やした所で、食う物が無ければ、あるいは売ってもらえなければ何の価値もない訳で、その点、お米さえあればどんな貧乏でも何とか凌いで行けるってなものではないだろうか?

以前にも述べたが、私は生活保護の一部は現金ではなく、作りすぎて余ったお米を国が買い上げて配布するべきだと考える。

更には、他国への援助もそうであるが、最近ネット上で頻繁に見る広告(「アフリカでは4秒に1秒・・・」のアレね)にしても、どうせ途中で悪どい奴がピンはねするんだから、お金ではなくお米をバンバン送るべきなのだ。

もちろん、本来は彼らの自立を促す様な援助の仕方こそ正しい方法論なのだが・・・。

・・・とは言え、飢えた子供達が存在しなければ、ピンはね野郎の商売も成り立たないがゆえに、彼らはいつまでも「生かさず殺さず」の状態に置かれる事であろうし、それを援助しているのが、なけなしのお金を寄付する私達貧乏人なのであると言うのは、何とも皮肉な話ではなかろうか。

人間社会では貨幣にも価値が付与され、文明社会では宝石にも価値が認められようが、無人島においては食べ物以上に価値のあるものなどないのである。

何事もそうであるが、突き詰めて考えた時にこそ、本当に価値のあるものが解るのだ。

死ぬ前に何が食べたいか?その返答にこそ、その人の価値観がハッキリと現れる。

私なら・・・そう、あったかご飯に生玉子をかけて醤油をたらした玉子かけご飯・・・否、あったかご飯にシーチキンとマヨネーズをあえて混ぜ込むのも絶品であるし、更にそこに納豆をミックスするのもアリか・・・ううむ、なかなか一つには絞れないものよのう・・・。

でもやっぱ、炊きたてのあったかご飯が一番DA・YO・NE!!(^^)/

米国よりも米穀を大事にしよう!!

これがホントの、リメンバー・パール・ライスや!!(←それもちょっと違う?)

おしまい