Mr.エレクトの独り言 2012年05月09日
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Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「死んだ部品=階級社会(搾取システム)維持装置」

日本におけるものづくりの、中でも特に精密部品を加工する技術はとても素晴らしい。

そしてそれは、完成品を作ると言う目的及びその成果の度合いを向上させるために、日々磨かれ現在も改良され続けているものであり、それゆえそこには、個(=部品)による全体(=完成品)への奉仕の精神と言うものが確実に存在する。

つまり、それらの技術、そしてそこに注がれる技術者の努力や労力と言うものは、“自らの進歩が社会の進歩に繋がり、自らの利益が公共の利益に結びつく事”を目標にしているとも言い換えられるのだ。

しかるにこの世には、公共へ奉仕するためにではなく、私益のためにのみ自らが社会の、それも出来るだけ高いポジションを構成する部品になる事によって、階級制度における地位や身分によって得られる特権や保障を独占しようと考える者が居る事も、また現実。

もっとも、学校教育においては、監督者から覚えろと命令された事をより多く記憶すればする程誉められるのだから、その成果の奪い合い(=ポジション争い)のみにやっきになるがゆえに、彼らには自らが何かを考えたり作り出す余裕などないのはもちろんの事、自分が為した行為が社会においてどの様な意味合いを持つのか、その全体像から自分の生き方を省みる事もなければ、より良い未来の姿を思い描く必要性すら感じないのであろう。

要するに、もっと簡単に言えば、より良い社会と言う理想像を完成させるために自分の腕を磨いたり、そうして培った技術を提供しようと言うのでもなく、既に出来上がった階級社会の出来るだけ上のポジションを獲得するためにある一定期間努力をし、その後はその地位や身分を利用して公益のために奉仕するのではなく、むしろその逆に公益を吸い上げる特権階級に居座る(=管理社会維持のための一部品となる)事のみが、人生の最終目標になってしまっていると言う事なのだ。

よって、その様な人達にとっては、“他人や公益に奉仕する事”こそが真に素晴らしい人間の条件であるなどと言った価値観が世間に広まるのは非常に困る事であるがゆえに、“他人や公益に奉仕する人”であろうがなかろうがそんな事とは無関係に、収入が少なく生活レベルの低い人には社会的な価値が無いのだと思わせておかなければ、せっかく得た地位や名誉を失う事にもなりかねないのである。

だがしかし、私達人間には、地球を破壊する事も出来る代わりに、あるいは自然や動植物も含めた生きとし生けるものが暮らしやすい星に変えて行く事も出来るはずであり、個人が持つ能力や技術と言うものは椅子取りゲームのためにではなく、公への奉仕のために用いるべき・・・否、本来は“公への奉仕”=“自分への報酬”となるのが正しい在り方なのではなかろうかと、私は考える。

すなわち、「自分だけ救われようとする事が、誰も救われない社会を作るのだ。」・・・と。

そしてまたその逆に、誰にでも住みやすい社会を作る事こそが、実は自分自身を救う事にも繋がるのである。

・・・とは言え、“自分を救えない者(=自立してない者)に他人は救えない”がゆえに、まずは最低限そこをクリアしない事には始まらないし、逆に言えば自立していない(=自らの欲求を満たしきっていない)人間が高い地位に就いている、もしくはそんな人間が親となり子育てをするからこそ、いつまで経っても負の連鎖が止む事もないのであろう。

そして更に、先にも述べたが、そもそも学校教育自体が、この階級社会を維持するために機能しており、それゆえ私達自らが優秀な部品になろうと競い合う事が、現在の身分制度を暗黙のうちに肯定する結果にもなっているのがその実状であり、問題にしなければならないのは教育の内容もそうであるが、やはりそれをコントロールしている管理者にこそ、その責任の追求が為されるべきなのだ。

そう、しょせん部品は部品に過ぎぬゆえ、本当の管理者とは、この階級社会と言う名の搾取システムを考案し運営する支配者(=受益者)層なのである。

かくて、真の意味での“能力”や“技術”が虐げられる事により公益は損なわれ、絶対的な階級支配制度の下では健全な競争も妨げられるがゆえに、そんな社会なり国が衰退して行くのは当然の事なのである。

また、別の言い方をするならば、社会の“部品になる事”自体が悪いと言う訳ではない。

人間が、(理不尽な搾取を正当化するために必要な)身分制度を維持するためだけの管理業務をこなす“死んだ部品”になるのではなく、この社会をより良く活性化させるために機能する”生きた部品”にならなければいけない・・・と言う事なのだ。

もしも本当に人間に身分と言うものがあるのであれば、“奪い取る者”ではなく、“分け与える者”こそが、偉い人なのである。

そんな事、階級社会における身分制度を維持(=理不尽な搾取を正当化)するための洗脳期間である学校では絶対に教えはしないだろうが・・・。

そもそも、“能力”と言うものは、その“量や度合い”ではなく、“使い道”によってその是非が決定されるのであり、それは学校教育なんぞに依存や期待をするものではなく、親なり親代わりの保護者が子供に教えるべき最も重要な事柄なのである。

知識があっても実行が伴わなければ成果は出せず、しかしまた実行する能力があったとしても、それが本来あるべき人間の姿や社会の在り方に対して有益でなければ、やはり意味がないのだ。

人は、その出自や身分によってではなく、自らが社会に対して為したその功績によって、評価・断罪されるべきなのである。
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