Mr.エレクトの独り言 2012年06月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

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「ミュージック・マガジン」2012年7月号にマリア観音DVD「ライヴ1995」記事掲載!!

「ミュージック・マガジン」2012年7月号~行川和彦氏連載記事「行川和彦の“りある”インディ盤紹介」ページにおいて、マリア観音DVD「ライヴ1995」を取り上げて頂きマシタ!!
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ご興味のある方は、是非お買い求め下サイませ!!(^^)/

全国書店、CDショップ等で販売中デス!!
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「平成の刀狩」

先週金曜日の脱原発デモに、何と4万5千人もの人が集まったらしい。

そして、それを人数まできちんと報道したのは、フルタチ氏司会の番組を除いて殆ど無かったそうだ。

うわ~!!しかし、そこまで露骨に隠しちゃうと、マス・メディアの報道を鵜呑みにする人はおろか、下世話な芸能ニュースに対していちいち反応する人さえ居なくなっちゃうよ?

せっかく秘密にしてた“Stuxnet(スタクスネット)”に関しても、知る人が増えちゃうし。

ところで、「善人が悪人を倒す事は出来ない。」・・・とは、よく言われる言葉。

何故なら、善人には悪人の気持ちなど理解出来ないし、ましてや、その凶悪さの度合いに対しては想像する事すら出来ないのだ。

ゆえに、ここで一つ考えてみたい。

国民の冨(=労働の成果)はおろか生命を危険に晒してまでも、否、更に言えば自然や生態系をぶち壊してまでも自分達の利益のみを追求して来た既得権益者達が、あのデモをただただ指を咥えて眺めているだけ・・・ってな事が本当に有り得るだろうか?

実際、既に新型インフル(集会禁止)法やら、違法ダウンロード刑事罰化(治安維持法?)等、あちらは次々と対抗策を打ち出しているのである。

・・・となると、脱原発派も現在の成果に慢心せず、先の先を見越した防衛策(=攻撃方法)を、こちらも先手を打って構築しておく必要があると言う事になるだろうか。

例えば、ツイッターを初めとしたインター・ネット上におけるコミュニケーション・ツールが急に使えなくなったなら?

もしくは集会禁止となる様な何かが起きる、もしくは集会中に何かが起きた(起こされた)なら?

そう考えると、それらに頼らぬ集結方法、結束方法、デモに代わる抵抗方法と言った何かしらの対策を、今のうちに編み出しておかなくてはならないのではないか?

・・・と。

だけどまあ、やっぱこりゃすごいよね。(^^)

■「デモに参加する"普通の人々"」

http://youtu.be/WCWVb3IzJ_g

「レコード珍宝館」その2

本日の珍ジャケ3点。(画像はネット上から無断拝借イタシマシタ。)

「打楽器かよ!!」
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「暴力(球)団!?」
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(里中君の顔が怖い・・・。)




「片想いならぬ肩重い・・・みたいな。(^^;)」

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次回もお楽しみに!!(^^)/

マリア観音「ライヴ1995」(DVD)一般発売開始!!

★2012年6月20日より、diskunion様を初めとした全国のCDショップにて、マリア観音「ライヴ1995」(DVD)の一般発売を開始イタシマス。
http://diskunion.net/jp/ct/news/article/2/30182

■マリア観音「ライヴ1995」(EDV-001)~DVD¥3150(税込)
DVDジャケ見本
1987年結成。1994年、アルバム「義眼」レコーディング終了後、再び四人編成となる。
本作は、1996年初頭に発表されたバンドの代表作とも呼べるアルバム「犬死に」レコーディ
ング・メンバーによる、1995年度に行なわれたライヴ・パフォーマンスの集大成的映像作品。
どこまでも激しく、あくまでも美しい、“酷使の美学”が此処に在る。

■収録曲目
1.漆黒界
2.二つ目小僧
3.蠍に貰った拳
4.木の葉やもり
5.淀みの部屋
6.静かな夜
7.羽衣蝶の詩
8.地獄に堕とす
9.青天白日
10.犬死に
11.病床
収録時間:約120分

■撮影日時@場所
19950223@渋谷La.mama (4.5.6.11.)※2カメ編集版
19950418@吉祥寺MANDA-LA2   (2.3.)
19950823@吉祥寺MANDA-LA2   (7.8.)
19951021@渋谷La.mama    (1.9.10.)

■マリア観音(第6期)
木幡東介 (Vo,Gt,Tp,Ds,etc)
宮脇慎吾 (B)
小森雅彰 (Key,Cho)
平野勇  (Ds,Vo)
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映像編集:久保偽札犯
ジャケット制作:吉澤裕史
監修:エレクトレコード

★また、併せて以下の作品を、diskunion様にて取り扱って頂ける事となりマシタ。
http://diskunion.net/jp/ct/news/article/2/30182
・マリア観音 / 棄脱の天地 (CD)
・マリア観音 / 歪む正義 (CD)
・木幡東介 / ライヴCD-R 2011年4月10日@阿佐ヶ谷Yellow Vision
・木幡東介 / ライヴCD-R SE+ドラムソロ
・マリア観音 / ライヴCD-R 2011年11月18日@阿佐ヶ谷Yellow Vision
・マリア観音 / ライヴDVD-R 2011年11月18日@阿佐ヶ谷Yellow Vision

売れれば売れる程、次回作の発売やライヴも行いやすくなりマスので、twitterをやってらっしゃる方は、ツイート&以下ユニオンさんへのリツイートをお願いイタシマス~!!(^^)/

https://twitter.com/#!/diskunion_indie/status/202686735749091329

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★いぬん堂ネット・ショップでも販売中デス!!
マリア観音
http://inundow.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=42292&csid=10
木幡東介(マリア観音)
http://inundow.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=42287&csid=21

「総理はつらいよ」

動かせば、首相官邸の前に居る人達に(次の選挙で)落とされ・・・。

止めれば止めたで、首相官邸の後ろに居る人達に脅され・・・るどころか、下手したら○されるか○○される。(@@;)

こんな時期に総理なんてやるもんじゃないね。

余程の覚悟か信念がないと、並の人間じゃ務まらないよ。

「動かすべきか、止めるべきか、それが問題だ。」

・・・じゃなくて。

「“それ”だけが問題なのではない」・・・って事か。(--;)

地震大国日本に、これだけの原発をおっ建てて来た連中の責任は、一体いつ取らせる事が出来るのだろう・・・。

「詐欺支配(芝居)の舞台裏」

支配に必要なものは、資本(もしくは資源)や権利の独占(もしくは寡占)と、力の行使(もしくは誇示)。

そして何より、情報のコントロールである。

それゆえ、現支配体制を維持せんとする者は、マスコミを利用して真実を偏向・捏造して伝え、教育機関を使って従順さの度合いこそが社会における価値であるかの様に教え込むのだ。

考えてみれば解る事・・・。

植民地支配や奴隷制度が正当化されていた時代じゃあるまいし、リビアやシリアで本当は何が起きているのか、それが全世界に知らされたなら、欧米諸国の蛮行は世界中から非難を浴びるに決まってるじゃないか。

原発にせよ、その安全性の問題や利権の構造、更には核廃棄物の費用どころかその処分方法さえ決まってない事が全国民に知らされていたならば、誰がこんな危なっかしいものを日本中におっ建てる事に賛成などするものか!!

すべては、「本当の事を知らせない(教えない)」事によって成り立つ、詐欺行為以外の何物でもないのだ。

また、身近な所で言えば「オレオレ詐欺」にせよ、その手法が周知されてしまえば、(もちろんそれでも騙される人は少なからず居るであろうが)通用などしなくなるのである。

そう、知られてしまえばそれまで・・・。

だからこそ、人々を盲目の羊にしておきたい飼い主は、自らが報道機関を経営するなり最大のスポンサーになるなどして、真実の情報を自分達の都合の良い方向に捻じ曲げたり、時には隠蔽するのである。

更には教育に関しても、出された問題を誰より早く多く確実に解答する事の出来る者が高得点を得られる訳だから、優秀なだけでなく“利己心”に徹する事が出来る者ほど出世し、そんな人間が官僚等、国家の重要なポジションを担うのだから、それがどんな結果をもたらすかは、推して知るべし。

・・・であるが、念のため説明すると、権限を拡大し国民の冨を収奪する事が目的であるかの様な現在の行政府の構造は、そこに配属された人間がそれぞれ自身の利益と保身を図ろうとする事によって成り立つカルテル・・・否、なまじ優秀なだけに更にタチの悪い○○集団の如き存在となっているのがその実態。

もっとも、明治維新(クーデター)によって国内の権力構造が作り変えられ、敗戦後はこれまた傀儡蛮行国家に過ぎぬ米国による間接支配下に置かれ、コイズミ改革によって欧州の国際金融寄生虫財閥への上納金(株主配当金)が更に増額され、国民生活が破壊され尽くすその一歩手前な今、無理な原発稼動や増税なんぞを強行すれば、今後も“知る者”は倍増すると思われるゆえ、いつまでもこんな状況が続く訳がない。

・・・がしかし、それゆえにまた、既にあちらもマス・メディアのコントロールだけでなく、インター・ネット上においても、情報統制と監視体制の強化を図ろうとしているのだ。

よって、ともすればわずかに残された今のうちに“知る権利”を最大限に行使し、無知の暗闇から抜け出さないと、近い将来、一人一人に番号付けられて管理される様になるのも時間の問題なのである。

私達が動物を飼う時、問答無用でカゴに入れるか、首輪と鎖で繋ぐ、もしくは庭に柵を作るでしょ?それと全く同じ理由。

だけど、どんな悪事も、計画の時点でそれを知られたらおしまいって事。

知らなければ騙されるかもしれないけど、一旦手口が知られてしまえば、もう騙されないか、もしくは騙されにくくなるからね。

ゆえに、監視するのが権力者の仕事なら、建前上とは言えども民主主義国家である日本において、それは主権者たる私達国民の責務なのだ。

それに、自分が無知なせいで自分が死ぬのは仕方がないけど、自分が無知なせいで誰かが死ぬのは耐えられない・・・でしょ?

「悪夢のエネルギー」

いつぞやも書いたが、思えばチェルノブイリ以降、反原発を訴える地道な活動をしていた人々の事を、私は横目で眺めて無視し続けてきた。

それが、昨年の事故以来、原発問題は私達日本に住む人間・・・否、地球に住む人々すべてにとって、切っては切れない問題となったのである。

つくづく思うが、人は自分もしくは自身の身内や知人に危害や被害が及ぶ可能性が芽生えなければ、危機感はおろか興味すら抱かない生き物なのだな・・・と。

まあそれは良しとして、何かをなくしたいならば、それが生まれる元凶となる要素を根絶しなければそれは叶わず、そしてまた何か願い事をするならば、それは出来るだけ力のある者に対してするべきである・・・と言う事は基本中の基本。

ゆえに、事故が起きた際のリスクが大き過ぎる上に、未だに廃棄物の処理方法すら定まってない、存在自体が不安定な原発がなくなる事は私にとっても望むべき結果であるが、その発生原因・・・すなわち国民のみに負担や不安を与える何がしかの方策を用いて、利益だけを貪った挙句に責任も取らず後始末もしないその元凶たる原発村=既得権益構造を温存しておいたままでは、例え原発がなくなっても、いずれまた何がしかの金の成る木によって、私達の健康や安全が脅かされる事態が起こされるのではないだろうか。

また、いくら建前上の決定権があるとは言え、首の挿げ替えが可能な総理大臣なり政治家にそれを要求した所で、その後ろで睨みを効かせる既得権益構造の黒幕はその後も安泰な訳だから、もし何か事故が起きたとしても、責任を取らされるのはスケープ・ゴートのみであり、結局の所、その被害や後始末を押し付けられるのは、やはり私達国民なのである。

よって、脱原発を訴えるならば、罰せられる事もなければ責任を取らされる事もないどころか、相も変らず原発で利益を貪る官僚及び天下り官僚OBを対象の筆頭として行なうべきであり、更に言えば、電気の様な国民生活や経済活動に必要不可欠な商品に対して「総括原価方式」を今後用いさせない事が最も重要であろう。

何せ、この「総括原価方式」のお陰で電力会社は、官僚、読売・中曽根・自民党、マスコミ、御用学者、その他に対して、言わば「口止め料」なり「報酬の山分け」を利用者(=国民)からまるまる徴収出来るのだから、極一部の既得権益者にとって原発は、まさしく夢のエネルギーなのである。

ところで、フクシマでの原発事故による健康への影響であるが・・・。

私の考えとしては、根拠なく不安に陥る事はもちろんであるが、根拠なく安心だと楽観する事もすべきではないと考える。

そもそも、放射能の被害と言うものは、その実態が正確に解らないからこそ恐ろしいのであり、それがいつ頃から、どの様な形で、どの程度現れるのか、そしてまたそれも人それぞれにその生活環境や個体差によって異なるであろうから、非常に判断が難しいのだ。

しかるに、全く悪影響が無い・・・などと言う事も絶対に在り得ない。

・・・もちろん、生活に支障を来たす事のない程度で済む場合もあるであろうから、むやみに脅すつもりもないのだが、あれ程の事故が起きて、もしも何ら問題が発生しないのであれば、それこそ原発は安全で安心出来る、夢のエネルギーだって事になってしまうではないか。

あとはもう・・・これは、その人自身の生き方の問題となるでしょうか。

要は、不安であれば納得するまで調べるしかないし、その反対に他人を説得する事が出来る程の根拠がない現実逃避の楽観論を他人に押し付けるべきではない・・・と。

例えば、酒の飲みすぎや煙草の吸い過ぎ、偏食や暴飲暴食等、いずれも健康には良くないと解っていても、“時間の長さ”に重きを置くのではなく、“時間の密度”に重きを置くのであれば、それを誰かが無理に矯正しようとするのは野暮としか言いようがない訳で・・・。

しかしまたその逆に、誰かの勝手な都合で私達の安全な暮らしや生きる希望、ましてや命さえも奪われるとしたら、そんなのたまったもんじゃないし・・・。

いずれにせよ、行政府の役人による権限拡大と冨の収奪と言う目的のためだけに、国民の生活だけでなく命までもが脅かされているのと言うが、今の現状。

害悪を発生させる力の源泉・・・すなわち権限のある者及び利益を得る者に責任を負わせる事の出来る、至極真っ当な構造を確立しない限り、原発がすべて止まった所で、根本的な解決には至らない。

だから、規制庁を作るならば、原子力発電に対してではなく、原子力村に巣食う寄生虫を、その対象とすべきなのである。

「私達の無知と無関心によって大量虐殺は正当化される」

<参考記事>
■「カダフィの真実を知ってほしい リビア 新世界秩序 NATO」

ムアンマル・アル=カッザーフィー(wikipediaより)
~以下引用~
2009年12月15日、明治大学軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本は米国に追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」「広島と長崎に原爆を落とした米国の(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。またオバマ米大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへの米軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。一方中国については「アフリカ大陸の人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。
~引用終了~


NATO軍(=欧米諸国=欧州の銀行家一族)による、“民主化”の名を借りた内政干渉ならぬ侵略戦争により、リビアのカダフィ大佐は殺された。

しかも、裁判すら行なわれず、そのむごたらしい殺害現場の映像を、まるで“見せしめ”の様に全世界に晒されて。

そして現在、シリアにおいても同様の事が行なわれており、先日はシリア政府(アサド政権)側が市民を虐殺したとする証拠写真が英国BBCによって報道されたが、実はそれは2003年にイラクで撮影されたものであった事が判明した。

リビア同様、シリアで起きているのは内乱などではなく、実際には欧米諸国(=欧州の銀行家一族)から送り込まれたテロリストが騒ぎを起こしているに過ぎず、政府軍はそれを鎮圧しようとしているだけであるにも関わらず、反政府分子を弾圧=民間人を虐殺しているかの様な捏造報道が、世界中で為されている。

それらはすべて、欧米諸国がこれから先も良い暮らしを続けるために、石油資源を奪うために、傾きかけた米国経済を延命するために、そして何より中央銀行を設立してその国家及び同国民を借金利子奴隷にするために、自らが経営する報道機関を使い自分達に都合の良い方向に世論を誘導するために粛々と行なわれ続けているプロパガンダなのである。

しかるに、権威に頭を下げる事を習慣づけられた人々は、マス・メディアの捏造・偏向報道を疑う事なく、それを鵜呑みにしてしまうのだ。

古くはホロ・コースト、そして南京大虐殺と・・・。

そのいずれもが、国家間の軋轢を生み出す事や、特定の人種への批判を不可侵とするために利用されているフィクションである。

しかし、冒頭でカダフィ大佐が言及した、広島と長崎への原子爆弾投下・・・。

こればかりは捏造でも偏向報道でもなんでもなく、紛れもない事実なのだ。

東京大空襲等もそうであるが、いくら戦争中とは言えど、民間人=非戦闘員をこれほどまでに大量虐殺する事が許されて良いものか?

何の罪もない人々が、ただその国に生まれ育ち生活してると言うだけで、その数分前にはただただ普通に喋ったり、買い物したり、テレビを観たり、趣味を楽しんだりしていたと言うのに、それが一瞬にして粉々に消し飛ばされ、身体の一部を吹っ飛ばされ、その命を理不尽にも奪われていくのだ。

百歩譲って、もし仮にそれが戦争を終結するために行なったものだとしても、だったら広島一発で済ませば良い話なのに、それをまるで人体実験するかの如くに、長崎にも広島とは別の形式の原子爆弾を落すとは、非道な蛮行にも程がある!!

そのくせ手前らは、交戦中でもないリビアやシリアにおいて内戦をでっちあげ、それを“正義”の名の下に内政干渉=軍隊による攻撃を仕掛けている訳なのだから、一体どれだけ欲深で野蛮で自分勝手なのか!?・・・って話だ。

日本国内においても、大震災は別としても、フクシマであんな事故が起き、原発村やその利益構造がこれだけ明るみに出たにも関わらず、まだマス・メディアの報道を信用するなどとは、もはや虐殺・・・もしくは、少なくとも搾取と抑圧を待ち望む都合の良い家畜でしかあり得ない。

そう、リビアや、今もシリアで起きている事は対岸の火事ではないのだ。

政治不信は、私達のマス・メディア妄信と政治への無関心がもたらした必然の結果でしかない。

ゆえに、行政府と司法の独裁体制とその構造を知り、立法府が持つべき権限を取り戻させ、三権分立(=選挙によって信託を受けた国民の代理人が政治を行なう)を正常に機能させる事こそが、民主主義国家日本における、私達国民の責務なのだ。

そうしなければ・・・。

国内の各地で着々と進行している日本の再軍備化、そして核廃棄物のゴミ捨て場化を、指をくわえてただ見守る事しか出来なくなるだろう。

だがしかし、支配権力・既得権益者層に比べ、人数において遥かに勝る私達は決して無力なんかではない。

・・・ただし、これまであまりにも無知であったと言うだけの事なのだ。

「ソーゾー君の12項目」

ここ数年、そして特にあの震災後、仕事の合間にインター・ネットで色んな事を勉強している訳でありマスが、今回は、中でも非常に的を得た意見をあちこちで発信していらっしゃる「ソーゾー君」と名乗る方が考案した、日本が国家として共同体としてあるべき姿に立ち返るためにやらなければならないプランである「12項目」と言うものをご紹介したいと思いマス。

~以下引用~

やらなければならない事=プラン

①「企業広告禁止=マスコミ=テレビ、新聞有料化」

②「非課税団体の課税化」

③「農家・林業・漁業の戸別補償制度」

④「税の簡素化=一元化=年金・健保の一元化(税制改革)」

⑤「糞役人の選挙権剥奪と政治参加活動禁止」

⑥「天下り禁止」

⑦「特別会計廃止」

⑧「宝くじ競馬パチンコ等のギャンブル・風俗・罰則金は全て国営化=利益は全て国庫に入る」

⑨「国債は必ず日銀が最初に引き受け国債=日銀が発行する数字にする」

⑩「銀行全て国営化」

⑪「株の利益配当の廃止(経営権は認めるが従業員が50%必ず保有する仕組みにするぜ?)」

⑫「糞役人の監督機関(公安委員会等々)を立法府の人間が行う又は人選する」

~引用終了~

(細かい内訳やそれぞれの意図は、ご自身でお調べ下サイ。)

そもそも、明治維新から始まった、日本=国家=共同体の破壊は、長く続く官僚独裁体制とその総仕上げのコイズミ改革によって、もはや最終段階となっている。

それは、国境を越えて活動する多国籍企業やシンクタンクを使い、先のコイズミ改革によって暴落した日本の企業の株を買い叩き株主として日本の冨を吸い上げる寡占財閥=通貨発行権をも所有し世界経済を牛耳る欧州の銀行家ファミリー(=国際金融資本家一族)による、“現代の奴隷制度”構築を目的とした経済戦略以外の何物でもない。

要するに、用意周到な長期計画によって、日本は順調に骨抜きにされて来たって訳デスね。

よって、私達がやらなければならないのは、暴力的な革命だとか急進的な改革ではなく、それを長年かけて元に戻す行為・・・すなわち国家=共同体のあるべき姿を再び取り戻す事なのでありマス。

そして、上記12項目のうちのいくつかを実際に行なおうとしていたのが、小沢氏であり民主党であったと。

ゆえに、小沢氏は検察(司法)やマスコミからの総攻撃を受けて身動きが取れず、コイズミ改革(=冨の再分配を行なわず、寄生虫外資を招き入れる)によって拡大した格差を元に戻すための政策を民主党が打ち出すも、官僚や天下り官僚及びそのお仲間である自民党ら売国野党による国会における審議拒否等でそれをすべて妨害されてしまう訳デス。

更には、官僚(<米国CアイA<欧州の銀行家)の犬であるマス・メディアによって国民の政治不信が一層煽られ・・・。

小沢氏がやろうとしている事は、橋下氏の様な政治家(=立法府)による独裁などではなくて、行政府と司法による独裁体制を解消し、三権分立(=民主主義=選挙によって信託を受けた国民の代理人が政治を行なう)を正常に機能させる事であるにも関わらず・・・。

私達はマス・メディアの偏向報道に一喜一憂させられ、唯一の政治参加の場である選挙権すらも放棄し、ますます官僚・天下り官僚・司法・日銀・自民党・マスコミら国内売国奴勢力の支配の下、株主外資=欧州の銀行家に冨を吸い上げられ、命の価値を貶められて(=命を縮めさせられて)行くのである。

だからこそ、まずは現状・・・すなわち支配と搾取の構造を知らねばならないし、それを人に伝えていかなければならないと言う訳なのデス。

・・・とは言え、私も一夜漬けの身、だいぶ背伸びして頑張っておりマスが、力不足役不足は否めマセン。

なので、少しでも興味を持った方は、是非ご自分で調べて、その真贋を確かめて欲しいと思いマス。

国家=共同体=日本が本来あるべき姿とは?

何故、冨の再分配が必要なのか?

日本は民主主義国家であるにも関わらず、どうしてここまで民意が反映されないのか?

石井紘基氏は、誰に暗殺されたのか?

地震大国である日本が、なんでこんなに原発だらけになったのか?

対症療法(目先の危機を回避する事)も大事だが、真の解決を望むのであれば、根本的な元凶を知り、それを正さなければ、いつまで経っても苦しみや不安を打ち消す事など出来ない。

ましてや、それ(破壊や搾取)が偶然や時の流れによってではなく、この世に実在する何者かによる明確な意志を持って行なわれているのであれば。

人間の尊厳を踏みにじる野蛮な人種に抑圧されて生きる事に、疑問や不満を少しでも感じるならば。

自分は年老いて死ぬのを待つだけの身だとしても、貴方が子を持つ親ならば・・・。

「極楽=怠け者の支配する楽園」(「蜘蛛の糸」に関する考察~番外編)

<「蜘蛛の糸」に関する考察>
「蜘蛛の糸」に関する考察その1
「蜘蛛の糸」に関する考察その2
「蜘蛛の糸」に関する考察その3
「蜘蛛の糸」に関する考察その4
「蜘蛛の糸」に関する考察その5(完結編)

・・・さて、改めて「蜘蛛の糸」で描かれた理不尽な仕打ちを考えるに、これは現代社会の“経済至上主義”を現している様な気にもなってきた。

要は、誰よりも早く極楽に到達する事、すなわち誰よりも多くの資産なり権利を先に獲得する事こそが、この争いに勝利するための最大の条件であると言う事。

つまり、勝者は自由にルールを変更する事が出来るゆえ、後から追ってくる者に不利な条件を突きつける事で足を引っ張ったり、権益や情報や教育機関を独占する事で、他の者にはその能力をフルに発揮させない様にする事も出来るのである。

そしていつの間にやら、何も作らなければ何も産み出さない者が、生産者や製造者の作った商品(=資産=労力x時間)を右から左へ動かす事のみで利益を吸い上げると言った構造が出来上がってしまうのだ。

また、その状態こそが、怠け者の支配する楽園=極楽なのである・・・とでも言い表せようか。

ましてや、その力を推し量る目安である“お金”さえをも自由に刷れる権利さえほぼ既に独占されているとなれば、その階級構造の下層であえぐ者達にとってみれば、これを奴隷制度と呼ぶ以外に、何と表現すれば良いと言うのであろうか。

★国外の人間が通貨発行権を持つ事が如何にナンセンスな事であるかは以下・・・
<参考記事>
■「“虚業”無“情”」

・・・となると、江戸時代にあった士農工商って身分制度は、正しかったのかも知れないね。

<注>
(wikipedeiaによると、「1990年代以降、士農工商は身分制度ではなく儒教に基づく当時の概念であると認識が変った」とあるが、ホントかな?江戸時代の優れた統治ぶりを貶めるためだったりして・・・。)

そもそも、考えてみれば“商い”とは、何も作らず何も産み出さない者が、何かを作り何かを産み出す人達が作った商品と商品の交換作業を仲介する事で手数料を得る、言わば中間搾取業に過ぎず、ましてや働き者同士がその労働の成果を必要な物に交換する事をスムーズに行なうために存在する物々交換券たる“お金”を右から左に動かす事のみで結果的に働き者の冨を掠め取る株主や投資家に至っては、もはや駆除すべき寄生虫以外の何物でもないのである。

本来、“お金”自体には実質的な価値などないのと同様に、商人や投資家だけが存在していても何も生まれはしないどころか、それこそ怠け者に行き過ぎた生活保護を支給する様なもの。

何が本当に価値があって、何が本当に大事で、何が本当に必要で、何を本当に尊重すべきなのか?

自分が欲しい物を手に入れるために、誰かが必要としているものを用意する、それが共存共栄=食物連鎖の基本。

「弱肉強食」と言う名の大義名分を振りかざす分をわきまえぬ猛獣も、早々に餌を食い尽くしてしまえば、飢えて死ぬ宿命なのだ。

それにしても・・・。

つくづく思うが、人種間の抗争と言うか偏見と言うものは、理性的ではなく極めて生理的な感覚ゆえ、人々を分断統治(=被支配者に足の引っ張り合いをさせる事で抑圧者に向けられるべき怒りの矛先を逸らさせる政策)するにはもってこいのツールなのだな・・・と。

そのために、日本における被差別部落を徹底的に調査し、出稼ぎに来た渡来人には権力を持たせ、国を追われて逃げて来た者にはこの日に備えて特権を与え現在の内戦状態を作り出した、寄生虫的経済マフィアこと欧州の銀行家の手口には、怒りを通り越して感心さえさせられてしまうと言うものだ。

しかるに、この世を不幸に貶めているのは、人種間闘争でもなければ国家間闘争でもなく、家系間闘争こそがその本質。

よって、昨今推し進められているグローバル化=新自由主義とは、冨や権利を寡占する一族が、構造改革(=国体や文化の破壊=国境を無くす)によって、自分達の配下にある多国籍企業が自由に支配出来る領域を拡大する事、すなわち全人類の経済資本奴隷化を目指すもの以外の何物でもない訳である。

ゆえに、本来はその逆に家庭においても国家においても、「戸締り用心火の用心」・・・要は、外部からの侵略者や寄生虫の侵入を防ぐ事こそが重要であるはずなのだ。

経済は成長し続けなければならないと言うが、それは穴の開いたバケツで水を汲む・・・すなわち外部の寄生虫に冨や資産を吸い上げられているからであり、基本的には国内で冨や資産(=生産物や製造物)がきちんと循環(=食物連鎖)し続ければ良いだけの話なのである。

更には、国内に不足する資源や作物を海外に輸出入する場合においても、いずれも国内で経済活動が成り立っている独立国家同士であれば、どちらかがどちらかの冨を搾取したり食物連鎖を破壊する必要などない訳で・・・。

問題なのは、自国(もしくは自身の家系)の暮らしを豊かにするために、他国の人々の冨を一方的に奪う(=独立を許さぬ)行為であり、それを可能とする構造なのである。

そんな、食物連鎖の輪を乱し、人々を憎しみと奪い合いの地獄に突き堕とす「極楽=怠け者の支配する楽園」の住人に捧げる言葉は一つしかない。

「怠け者、喰うべからず」・・・だ。

「レコード珍宝館」その1

本日の珍ジャケ3点。(画像はネット上から無断拝借イタシマシタ。)

「戦場ではしゃぎ過ぎ!!」
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「重量オーバー?」
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「超美脚!?」
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次回もお楽しみに!!(^^)/

「蜘蛛の糸」に関する考察その5(完結編)

「蜘蛛の糸」に関する考察その1
「蜘蛛の糸」に関する考察その2
「蜘蛛の糸」に関する考察その3
「蜘蛛の糸」に関する考察その4
上記の続き・・・

さて、蜘蛛を殺せなくなる程までに、私の人生にトラウマを与えた、この小説であるが・・・。

私の憤りが向くその矛先は、地獄に堕とされてもなお改心せず自分だけが助かろうとしてせっかく得たチャンスを逃す羽目となった、かん陀多に対してではない・・・と言う事は、もはや説明するまでもないだろう。

やはり、私にはこの御釈迦様のやり口が、どうにも納得行かないのである。

・・・と言うか、それ以前に、あくまでも迷信もしくはフィクションゆえの設定であるとは言え、死後に人間を極楽と地獄に振り分けると言う、その理不尽さに対しても・・・だ。

そもそも、こんなわずかな人間の一生で、しかも生まれた家庭や地域や時代はその人自身が望んだものではなく、その子がやさしい人間に育つか野蛮な人間に育つかと言う点は、自らが選ぶ事の出来ない生育環境からも、大きくその影響を受けてしまうものなのである。

・・・にも関わらず、それぞれ異なる環境に置かれた多種多様な人達が、まるで「それは自己責任である」とでも言わんばかりに、その短い一生のうちに、自らが自らを「極楽に入るに相応しい人間」に育て上げなければならないのだ。

・・・しかし、中には本当に劣悪な環境に生れ落ちた者もおり、そう言う人間にとってみれば、この競争社会で生き抜く事とは、まさしく地獄の底に居て「蜘蛛の糸」をたらされたに等しい状態な訳である。

そんな状況の下にあって、決して自らが進んで堕落を望んだ訳ではないにも関わらず、自分自身を善なる方向に導く事が叶わなかった人間を、永遠に続く地獄に堕とすとは、こんな不公平にして理不尽な仕打ちが他にあるだろうか?・・・と。

・・・もっとも、如何なる環境の中にあっても、自分を変える事の出来る人間は居るであろうし、そうすべきである・・・と言う事も重々承知の上であるが・・・。

しかるに、「それならそうと、事前にそのルールをちゃんと説明しろよ!!」・・・と、私は考える。

もちろん、生きているうちは誰しも自分を救う事で精一杯かも知れないゆえ、「他人に甘えるな」と言う事で片付けられても仕方がないが、それならば、せめて御釈迦様・・・すなわち極楽に入る事の出来た者は、それをしろよ!!・・・と。

もし仮に地獄に堕とす・・・すなわち罰を与える事で、ある一場面で人間が行動様式を変えた所で、それを改心と呼べるのか?

知る者は、知らぬ者に真理を“教える”べきではないのか?

未だその途中なり渦中に居る者であるならばともかく・・・。

自分だけが救われれば、それで良いのか?

自分だけが真理を知り、極楽に身を置く事が出来ればそれで良しとするのか?

運悪くまともな教育を受ける環境を与えられなかった者を見下すのみで、その様な不遇な人達を教育や啓蒙によって引き上げる事もせず、知識や情報を独占する事によって自らのその地位を保つに過ぎない者の、どこが聖人と呼ぶに相応しいと言うのか?

まともな親や指導者であれば、子供や国民が教育を受ける機会を増やそうとするのが当然であろう。

そしてその逆に、自身の権力や地位を保持するために子供や国民を無知で愚かな状態に置いておきたい者は、教育を受ける機会さえも独占しようとするのである。

ゆえに私は、一見、かん陀多の醜く愚かな利己的心性を描いているかの様に思われがちなこの作品であるが、実の所はそうではなく、極楽に居る御釈迦様・・・すなわち独占する事によってのみその権力や地位を獲得し得た特権階級に対する批判精神が、その奥底に隠されているのではないかと思えてならないのだ。

特に、冒頭と文末に描かれた御釈迦様のその気まぐれかつ無慈悲なドライ過ぎる態度に、それが強く示されている様に思える。

ん?・・・そう考えると、これはもしかして芥川氏の失恋経験、成就せず叶わなかった恋心、そしてその対象であった自分に冷たく接する女性への未だ捨てきれぬ執着心が、その創作動機になっているのかも知れないな・・・などとも思えてきたりなんかして。

小説家の創作動機なんて、しょせんそんな所でしょ。(^^)

・・・などと、あまり乱暴な妄想ばかり述べていると、そのうち誰かに怒られそうなので、この話題はこの辺でお開きと言う事に・・・。(^^;)

(おしまい)

「蜘蛛の糸」に関する考察その4

「蜘蛛の糸」に関する考察その1
「蜘蛛の糸」に関する考察その2
「蜘蛛の糸」に関する考察その3
上記の続き・・・

前回は、御釈迦様の為した行為が「慈悲のこころを試す」所業などでは到底なく、実はその全く反対に「無慈悲なこころを試す」所業であり、更に言えば「無慈悲さや利己主義に徹する事の出来る者をこそ救う」所業でさえあった・・・と言う事を述べた。

ところで、そもそも何万里もの距離を、あの拙い蜘蛛の糸を伝って昇ろうと言うのだから、ゴルゴ13並の能力や体力がなければ、とてもこれは無理であろう。

・・・となると、あれは元犯罪者の中から、優秀なテロリスト候補を選び出す作業の様にも思えたりなんかして・・・。(^^;)

そうやって考えて見ると、じゃあ何故、こんな酷い小説が小学校の道徳教育の教材などに用いられているのか?・・・と言う疑問も芽生えてくるのだが・・・。

そこで、私得意の妄想・・・否、推理能力をここで発揮するならば・・・。

そもそも芥川氏が、何故にこの様な教訓的な物語を綴るに至ったのか、その創作動機に、その答えがあるものと思われる。

(注:この時点では、芥川龍之介に関して何ら調査をせず、私が抱くイメージのみで思考を推し進めているゆえ、もし仮に事実誤認のオンパレードであったとしても、とりあえずスルー願いたく・・・。)

おそらく・・・であるが、この小説すなわちこの仕事は、芥川氏にとって自ら望むものではなかったのではなかろうか?

つまり、ある明確な意図を持ったオファーがあったか、もしくは仮にそれが本人の意思であったとしても、それまでの自己の作風に迷いが生じ、世間からの無言の要求に応えるべく、やむを得ず方針転換を図った作品なのではないか?・・・と。

要は、スランプに陥った作家が再び人気や認知を得るためにPTAが喜びそうな一般大衆向けの作品をしぶしぶ書いたのがこの作品であり、ゆえにこれは自らが書きたい題材を選ぶ言わば絵描きの様な仕事ではなく、看板屋的な仕事・・・すなわち、スポンサーからの依頼なり世間からの要求(=売れ線)に応える事を自己の表現欲求よりも優先せねばならぬ、ある種の屈辱を伴う作業だったのではないかと考えられるのだ。

よって、芥川氏のその煮え切らなさこそが、作中においても奇麗事に徹しきれぬ矛盾部分となって表れてしまい、かん陀多を初めとした地獄の罪人達に対する救いの無い残酷かつ悪趣味な仕打ちとして描かれてしまったのではないだろうか・・・とも。

そして何より、私が痛烈なる“憤り”を感じたのは、御釈迦様とやらのその冷たさ、ドライさ、慈悲の無さであり、その気まぐれ極まりない傲慢な態度なのであるが・・・。

実はそれを描く事こそが、芥川氏の本音であり本意であったのではないか?・・・と。

すなわち、落ち目の作家が自分の信念を曲げ、不本意な方向転換を強いられたその軋轢に対するせめてもの反抗心と言うか、完全に屈しきれず燻り残った作家としての意地が、自身の考えを捻じ曲げようとする傲慢なスポンサーなり自分の作品に対し振り返ってもくれぬ冷たく無慈悲な世間の人々に対する”復讐心”となり、その対象として作中に描かれた人物像こそが、あの無慈悲な御釈迦様なのではないかと推測されるのである。

読み返して頂けば解るが、安心安全安息に満ちた極楽で優雅に暮らしていながら、ほんの気まぐれ程度に救いのない地獄の罪人に儚い希望を抱かせる拙い蜘蛛の糸をたらす、御釈迦様のその行為の奥底に潜む残酷さ、それこそは自らが地獄の渦中でもがき続ける芥川氏が、日々受け続けたと感じた世間からの仕打ちそのものであったであろう事は、想像に難くない。

ゆえに芥川氏は、元より人間の傲慢さや無慈悲さを描かんとしたのではあるが、それはかん陀多と言う罪人にではなく、「自分だけが極楽に行ければ良し」=「自分さえ救われればそれで良し」とする世間の人々の無慈悲さを一身に背負ったかの如き御釈迦様の姿に重ね合わせていると言う事なのである。

そう言う意味においては、私や貴方が感じた違和感と言うか腑に落ちなさに対しても、一定の理解や納得が行くと言うものではないだろうか。

そう、この作品こそは、不遇な環境に身を置き運命にもて遊ばれ続ける芥川氏による、せめてもの儚い抵抗であり、無慈悲な世間から受けた仕打ちに対する精一杯の仕返しだったのである。

・・・だとするならば、その様な虐げられた者から発せられた怨み節に満ちた作品が小学校の道徳教育の教材に用いられていると言うこの歪な事実は、如何に学校教育がうわべだけの奇麗事を並べた虚しいものであるのかと言う事をも暴露するものとなってしまっており、その事実こそは、本作中に密かに盛った毒が見事に効果を現し、芥川氏が本懐を遂げたその結果なのだと言えなくもない。

もっとも、それが無意識によるものなのか、あるいは意図的に為されたものであったかどうかまでは、今となっては知る由もないが・・・。

(つづく)

「蜘蛛の糸」に関する考察その3

「蜘蛛の糸」に関する考察その1
「蜘蛛の糸」に関する考察その2
上記の続き・・・

数年前にこの短篇小説を読み返し、私が感じた事・・・それは、主人公を救おうと「蜘蛛の糸」をたらした御釈迦様の、その気まぐれ極まりない上から目線の傲慢な態度に対する、“憤り”・・・であった。

・・・と言うか、この物語の主人公は、実はかん陀多ではなく御釈迦様であると言う事を、私は近年になって初めて知ったのであるが・・・。

そもそも、御釈迦様のした事は、かん陀多を“救う”と言うよりは“試す”行為であり、もっと言えば、罪人の愚かさを見る事によって自身の崇高さを再確認するために、これを行なっているのではないかとさえ思える程の薄汚ない心根に満ちているとしか、私には思えないのである。

つまり、お前は元々、本当にかん陀多を救う気なんかなかったんだろ?・・・と。

もっとも、それまでにかん陀多が犯した罪からすれば、蜘蛛一匹助けたくらいの善行では、あの程度のチャンスしか与えられなくて当然である・・・との見方も出来なくはないが・・・。

しかるに、かん陀多が自分の後を追って昇ってくる罪人達を追い払おうとせず、無事に地獄を抜け出す事が出来たなら、かん陀多はもちろん、後を追ってきた罪人達をも御釈迦様は救う気でいたのだろうか?・・・との疑問も残る。

また、追ってくる罪人を追い払わなかったせいで糸が切れてしまった場合にも、「自分だけが助かろうとしなかった」と言う事を認め、御釈迦様はかん陀多を救う気でいたのか?

蜘蛛の糸が切れてしまったなら、また再び地獄へ逆戻りとなってしまう、そんなオール・オア・ナッシングなシチュエイションの下で、どこの誰が自分以外の者に対して慈悲のこころを持って接する事など出来ると言うのか?

永遠に続く地獄の中に身を置かねばならない人間に対し、その様な余りにも儚い蜘蛛の糸をたらす事によってその心性を試そうとするなどとは、これ以上に底意地の悪い仕打ちが他にあろうか!!

もっとも、乞食の振りをした神様が村人の家を訪ねてどうのこうのみたいに、それが見返りを求めぬ純粋な行為であるかどうかを確かめるためには前持ってネタばらしをすべきではない・・・と言う理屈も解らないではないが・・・。

「金持ちケンカせず」ではないが、手前は安心安全安息の中に身を置きながら、ほんの気まぐれだか気晴らしに、地獄の罪人に蜘蛛の糸をたらすと言う「究極の選択を突きつける」残酷な遊びをくり返す、この御釈迦様とやらの何処に、慈悲のこころが、そして極楽にその身を置く資格があると言うのか!?

人のこころをもて遊ぶにも程がある!!

御釈迦様が存命中、如何に煩悩を退けて修行に励んだのか、その苦難の度合いなど知ったこっちゃないが、手前の方こそ「自分だけが極楽に行ければ良し」とする、無慈悲な人間ではないのか!?

要はこう言う事だろ?

かん陀多は、自らが糸を昇るのと同時に、足元から下に伸びる既に昇った後の糸を、例えば自分の身体に巻きつけていくなどして、他の罪人が後を追ってくる事を防ぎながら上へ昇って行けば、無事に地獄を抜け出す事が出来たのだ・・・と。

すなわち、この悪趣味なゲームにおいては、「如何に自分だけが救われるか?」、その事に対しどれだけ知恵を絞って真剣に取り組んだかどうかが、「地獄を抜け出し極楽に辿り着くための条件」・・・なのである。

よって、これは「慈悲のこころを試す」所業などでは到底なく、実はその全く反対に「無慈悲なこころを試す」所業であり、更に言えば「無慈悲さや利己主義に徹する事の出来る者をこそ救う」所業でさえあったのだ・・・とも言い換えられよう。

そうやって考えて見ると、じゃあ何故、こんな酷い小説が小学校の道徳教育の教材などに用いられているのか?・・・と言う疑問も芽生えてくるのだが・・・。

(つづく)

「蜘蛛の糸」に関する考察その2

「蜘蛛の糸」に関する考察その1
上記の続き・・・

さて、まず初めに、この小説において誰もが考える最も大きなツッコミ所とは、「さんざん悪事を働いた主人公が、人生でただ一度、蜘蛛を殺さなかったと言うだけで地獄から救われるチャンスを得る事」・・・の有り得なさであろう。

しかるに、私はこの不条理な点に関しては是認したいと考える。

何故なら、如何なる制約の下で書かれたのかは知らないが、これだけの短い小説、その構成や文字数にも自ずと限界があるのだから、その導入部分の設定のみに固執してもあまり意味が無いと思われるゆえ。

・・・と言いつつ、未だに蜘蛛だけは殺さぬ様に努めて生きる、その“主題ではない部分”に影響されまくった男が、ここに一人居るには居るのであるが・・・。(^^;)

もっとも、この小説が380ページくらいある大作で、主人公の残忍極まりない悪事をさんざん描いた挙句、クライマックスでこのエピソードが出てきたならば、読者から「何じゃそりゃ!!」とのツッコミを受けても仕方なかったであろう。

・・・ある意味、テレビのクイズ番組に良くある、最後の問題に正解すれば逆転可能な設定・・・みたいな。

・・・と、それは良いとして、実は昨日、また数年振りにこの小説を読み返してみたのだが、文中にハッキリとこう書いてあんのね。

<以下引用>
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、かん陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
<引用終了>

また確かに、小学校における道徳の時間にこれを教材として用いる動機としては、この部分を子供達に教え込もうとの目論見があると言う事も、疑い様のない事実ではあろう。

しかし私は・・・と言うか、成人してからこの小説を読み直した時に私が感じた印象とは、その様な奇麗事を押し付ける教訓めいたものなどではなく、むしろ作者である芥川氏の屈折した本音が見え隠れする、もっとえげつない作品である様に思えて仕方なかったのである。

(つづく)

「蜘蛛の糸」に関する考察その1

皆様もご存知の事と思うが、芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」と言うものがある。

私の通っていた小学校では、低学年の頃、確か道徳の時間だかに図書室でクラス内の生徒全員にこの小説を読ませ、皆に読書感想文を書かせると言う授業があったが、他の学校でも同様だったのではなかろうか。

ちなみに、当時私が感じた印象としては、主人公が一度は救われるチャンスを得たにも関わらず、「自分だけ助かろう」とするその浅ましい心根ゆえに再び地獄に突き落とされると言うエピソードによって、子供達にトラウマ・・・もとい教訓を植え付けようとしているのだな・・・と思われた。

また更に言えば、何とも押し付けがましい、いかにも道徳の時間らしいつくり話だな~・・・とも。

その割には、未だに蜘蛛だけは殺さないようにしている自分が居ると言う事は、公然の秘密であるが。(^^;)

ところが、数年前に、たまたまこの小説を読み返した所、私は大きな勘違いをしていたと言う事に初めて気がついた。

その件に関しては次回に譲るが、ネット上で検索すれば全文が読める様なので、皆様も是非再読される事をお薦めする。

さすれば、長年腑に落ちなかった、この小説によって作者が言わんとする主題が、明確になるものと思われるゆえ。

(つづく)

「憎しみの連鎖」

twitter上でのブラマヨ吉田氏の問題発言について考察。

まず、吉田氏より、タンメンが世間からの批判にさらされている事に対し「正義が悪を挫く勧善懲悪は嫌いだ」との発言があった事に関して・・・。

これはつまり、「いくらそれが正しい事だからとは言え、非難されてる側の意見も聞かず、多勢に無勢で一方的に誰かを叩いて良いものか?」との意味であろう。

それに対して、吉田氏のフォロワーより、「カスがいきがんな。命奪われた人もおんねん」といきなりの侮蔑発言と共に、痩せこけた男性が床に突っ伏した関連画像を添付したリツイート(=他人のコメントを引用し発言する行為)があり・・・。

更に、その発言に対して吉田氏が、「このての人って、なぜこんな物言いしかできひんのやろ。でもおかげで普通の人に感謝できる。ありがとう、食物連鎖の一番下の人♪頑張れよ、食物連鎖の一番下の人!」と返答した・・・と。

それで現在、吉田パッシングが世間を騒がせていると言うのであるが・・・。

なお、その「男性が床に突っ伏した関連画像」に対して吉田氏が「食物連鎖の一番下の人」とおちょくった発言をしたとの誤解もされている節もある様だが、実際には上記の通り、いきなり乱暴な物言いをする人間に対し、吉田氏が公人と言う立場を忘れ行き過ぎた蔑視表現を含む返答をした事が、今回問題視されている発言の本質である。

要は、芸人なり芸能人と言った公人は世間の人からどんなに汚い言葉で罵られても、それに対して自身も汚い言葉で応じるべきではない・・・と言う暗黙の了解があり、その戒律を破ると、更なるパッシングを浴びる羽目になると言う事なのだ。

・・・とは言え、ここでの吉田氏は、怒りの感情を精一杯堪え、自分の芸風を忘れぬ「上手い事言う」返答をしたものと、私には感じられた。

それにしても、何でこう、議論の本質を踏まえない、下世話な論争ばかりが取りざたされるのか・・・。

・・・と言うか、そもそも昨今の芸人ブームと言うもの自体が、こう言った世間の不満のガス抜きをするための矛先(スケープ・ゴート)として仕掛けられたものであるとの考えは、行き過ぎた推理に過ぎないであろうか?

ヨシモトの売れっ子芸人にも、ルサンチマンをたくさん抱えた人が多そうだし・・・。(--;)

ともあれ、百歩譲って、各自治体毎に生保支給人数なり支給額に制限があるならともかく、生保支給を打ち切られた人が死んだその責任は、生保不正受給外国人である“タンメンの母”にではなく、きちんと調査をしなかった役所の人間の側にあるのではないか?

タンメンの母が不正受給しなければ、その人は死なずに済んだとでも言うのか?

よって、もし仮に人殺し呼ばわりをするのであれば、本来は職務怠慢な行政府の役人に対してすべきなのである。

ゆえに、生保支給の調査を厳しく行なうならば、それと同時に、公務員の職務の出来不出来や質に関しても厳しく監査する様にしなければ意味がないのだ。

あと、吉田氏の発言にはもう一つ大きな間違いがある。

それが何かと言えば、そもそも食物連鎖には上下関係などなく、それが鎖状に循環しているからそう呼ばれる訳で、いずれの立場においても、必ず誰かが誰かの役に立っていると言うのが、その構造の真の姿ゆえ、「食物連鎖の一番下」の人間など、実際には存在しないはずなのだ。

よって、正しくは「食物連鎖の輪から弾き出された人」・・・とでも言うべきであろう。

もしくは、階級構造(=理不尽な奴隷制度)は間違いなく存在するゆえ、「最下層階級の人」とでも言うべきであったろうか。

もっとも、ひねくれた吉田氏の事だから、それらをすべて認識した上で、あえてイヤミにユーモアを交えて「食物連鎖の一番下」と言う実際には存在し得ない立場を表現する言葉を用いたのかも知れないが・・・。

いずれにせよ、これら一連の騒動によって、一体誰が得をするのか?

下層階級の不満や怒りは、芸人と言う職業にその矛先を向ける事で解消出来る程度のものなのか?

何のために家族があるのか、何のために地域の共同体があるのか、何のために国家があるのか?

その集団内において、獲物や収穫を公平に分配する事、そして外敵からの侵略や寄生虫の侵入を防ぐためではないのか?

それどころか、集団の内部崩壊をもたらす真の元凶には目を向けず、下層階級における「憎しみの連鎖」による足の引っ張りあいを繰り返すとは・・・。

いつまでこんな事続けりゃ気が済むの?(@@;)/

「無駄な抵抗」(文法ミス訂正済)

最近、つくづく考えるのであるが・・・。

物事を知れば知るほど、自分に知識が付いたなどとは露とも思えず、むしろ自分の無知さや無力さをより一層思い知らされ、絶望感が増すばかりだ。

「外国に行った事がない人間」を、「ハワイやヨーロッパに旅行した事のある人間」が馬鹿にするかも知れないが、世の中には宇宙に行った事のある人さえ居る訳なのである。

そしてまた、「宇宙に行った事のある人間」は、おそらく「ハワイやヨーロッパしか旅行した事のない人間」を見下したり馬鹿にしたりなどしないであろう。

何故なら・・・と、その先は言うまでもないか。

しかるに・・・人間にとって「生きる」と言う行為自体が、何もせず放っておけば刻一刻と死に向かうだけの肉体を、死から遠ざける作業である事を考えれば・・・。

そもそも、「生きる事」とは、「“死”と言う抗う事の出来ない運命に逆らう行為」である・・・とも言えるのであるからして・・・。

たかが絶望を感じたくらいで、いちいち落ち込んでいる訳には行かないのである。

死後に天国や地獄があるなどと言う妄想が宗教の売り文句であるならば、死後に別の世界なり人生があると考えるのも妄想に過ぎない。

私は、「死後=無であると考える」派である。

人間は、死後のために生きるべきではない。

「生きる事」=「死に逆らう事」自体が人間の生きる目的であり、そしてその先の目標として、「自分の生命を“活かす”」と言う事が挙げられると思う。

だから、「死=無」に対する恐怖や、そこから逃れられない絶望感に囚われながらも、人は生きねばならないし・・・。

そう言った恐怖や絶望を乗り越えた時に初めて、「自分の生命を“活かす”」事が出来るその可能性も芽生えてくるのではなかろうか。

・・・例え現実から目を逸らし続けた所で、「死=無」への恐怖や絶望を打ち消す事はおろか、それが無くなる事など絶対に有り得ないのだから・・・。

ゆえに、言い方を代えるならば、「死=無」と言う抗う事の出来ない運命に逆らいつつも、それを受け入れた時に、初めて人は「肉体として存在する自己の生命を持続する事」ではなく、「精神として存在する自己の生命を活かす」作業に取り組めるのではないだろうか。

・・・とは言え、年齢を重ねれば重ねる程、体力や精神力の衰え、そしてその猶予時間の短さから、恐怖や絶望に対する抵抗力=抵抗心も失われて行くもの。

だがしかし、そもそも「生きる事」自体が、「死に逆らう事」すなわち「無駄な抵抗」であり「時間稼ぎ」に過ぎないのであるからして・・・。

しょせん、それが人の一生である事を考えれば、あきらめも付くと言うものだ。

よって、恐怖や絶望にさいなまれて、それらに立ち向かう意志を失ったとするならば、それはもはや人として死んだも同然。

・・・となればまた、一度は死んだ身、何をそんなに恐れる事があろうか。

そう考えてみれば、「死に逆らう事」=「無駄な抵抗」の先にある、「自分を活かす事」とは、何とやりがいのある楽しい作業であろうか・・・と言う事にもなるのである。


よ~し!!それなら、今日も一日頑張るぞ!!(←単純なヒト?)

・・・とは言ったものの・・・。

襲い掛かる睡魔には、なかなか抗えないものよのう。(TT)
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