「蜘蛛の糸」に関する考察その2
上記の続き・・・
数年前にこの短篇小説を読み返し、私が感じた事・・・それは、主人公を救おうと「蜘蛛の糸」をたらした御釈迦様の、その気まぐれ極まりない上から目線の傲慢な態度に対する、“憤り”・・・であった。
・・・と言うか、この物語の主人公は、実はかん陀多ではなく御釈迦様であると言う事を、私は近年になって初めて知ったのであるが・・・。
そもそも、御釈迦様のした事は、かん陀多を“救う”と言うよりは“試す”行為であり、もっと言えば、罪人の愚かさを見る事によって自身の崇高さを再確認するために、これを行なっているのではないかとさえ思える程の薄汚ない心根に満ちているとしか、私には思えないのである。
つまり、お前は元々、本当にかん陀多を救う気なんかなかったんだろ?・・・と。
もっとも、それまでにかん陀多が犯した罪からすれば、蜘蛛一匹助けたくらいの善行では、あの程度のチャンスしか与えられなくて当然である・・・との見方も出来なくはないが・・・。
しかるに、かん陀多が自分の後を追って昇ってくる罪人達を追い払おうとせず、無事に地獄を抜け出す事が出来たなら、かん陀多はもちろん、後を追ってきた罪人達をも御釈迦様は救う気でいたのだろうか?・・・との疑問も残る。
また、追ってくる罪人を追い払わなかったせいで糸が切れてしまった場合にも、「自分だけが助かろうとしなかった」と言う事を認め、御釈迦様はかん陀多を救う気でいたのか?
蜘蛛の糸が切れてしまったなら、また再び地獄へ逆戻りとなってしまう、そんなオール・オア・ナッシングなシチュエイションの下で、どこの誰が自分以外の者に対して慈悲のこころを持って接する事など出来ると言うのか?
永遠に続く地獄の中に身を置かねばならない人間に対し、その様な余りにも儚い蜘蛛の糸をたらす事によってその心性を試そうとするなどとは、これ以上に底意地の悪い仕打ちが他にあろうか!!
もっとも、乞食の振りをした神様が村人の家を訪ねてどうのこうのみたいに、それが見返りを求めぬ純粋な行為であるかどうかを確かめるためには前持ってネタばらしをすべきではない・・・と言う理屈も解らないではないが・・・。
「金持ちケンカせず」ではないが、手前は安心安全安息の中に身を置きながら、ほんの気まぐれだか気晴らしに、地獄の罪人に蜘蛛の糸をたらすと言う「究極の選択を突きつける」残酷な遊びをくり返す、この御釈迦様とやらの何処に、慈悲のこころが、そして極楽にその身を置く資格があると言うのか!?
人のこころをもて遊ぶにも程がある!!
御釈迦様が存命中、如何に煩悩を退けて修行に励んだのか、その苦難の度合いなど知ったこっちゃないが、手前の方こそ「自分だけが極楽に行ければ良し」とする、無慈悲な人間ではないのか!?
要はこう言う事だろ?
かん陀多は、自らが糸を昇るのと同時に、足元から下に伸びる既に昇った後の糸を、例えば自分の身体に巻きつけていくなどして、他の罪人が後を追ってくる事を防ぎながら上へ昇って行けば、無事に地獄を抜け出す事が出来たのだ・・・と。
すなわち、この悪趣味なゲームにおいては、「如何に自分だけが救われるか?」、その事に対しどれだけ知恵を絞って真剣に取り組んだかどうかが、「地獄を抜け出し極楽に辿り着くための条件」・・・なのである。
よって、これは「慈悲のこころを試す」所業などでは到底なく、実はその全く反対に「無慈悲なこころを試す」所業であり、更に言えば「無慈悲さや利己主義に徹する事の出来る者をこそ救う」所業でさえあったのだ・・・とも言い換えられよう。
そうやって考えて見ると、じゃあ何故、こんな酷い小説が小学校の道徳教育の教材などに用いられているのか?・・・と言う疑問も芽生えてくるのだが・・・。
(つづく)
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