Mr.エレクトの独り言 2012年10月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「魂の牢獄」その2

■「魂の牢獄」その1

上記のつづき・・・。

子供を自分の言いなりにしたい(=支配下に置きたい)親は、時としてこの様な物言いをする。

「人間は一人では生きられないのよ」・・・と。

そして、その後には必ずこう続く。

「だから、私(親)の言う事を素直に聞きなさい」・・・と。

つまり、それを翻訳するならば・・・。

「貴方は一人では無力なんだから、私に服従(依存)しなければ生きていけないのよ」・・・となる。

確かに、それらはどれも間違いではない・・・否、それどころか、むしろ正しいとさえ言える。

しかるに、そこまで言わなくとも子供と言うのはまだ生活力など持ち得ておらず、親なり親代わりの保護者に生殺与奪件を握られている状態な訳であるからして、本来はそれ程までに世の中に対する恐怖(=無力感)を植え付けなくとも良いはずなのだ。

また、そもそも「人間は一人では生きられない」事もまた真理であり、殆どの人は食料を自身で生産してなどいないし、仮に自給自足の生活をしていたとしても、醤油なり石油なり農機具の製造は他の誰かに依存しているのが現実であろう。

要するに、ここが最も重要なのであるが、「人間は一人で生きられない」という事は、私が誰かの助けを借りて生きていると同様に、その誰かも私なりまた他の誰かの力を借りて生きていると言う事。

すなわち、相互依存(=持ちつ持たれつ)の関係性がそこにはあり、病気や障害を抱えている人、もしくは自活能力の無い子供時代であればともかく、その後も一生親から面倒を見続けてもらうかもしくは誰かに養ってもらえる状況が確保される事など極めて稀なのである。

更に言うなら、もし仮にしばらくはその様な状態を保てたとしても、その親なり保護者とて、いつかは死ぬのだ。

・・・となると、まともな親や、その子の将来を本気で案ずる者であれば、無力感を植え付ける事で子供を恐怖支配するのではなく、「人間は一人では生きられないのだから、貴方も誰か他の人の役に立つ能力を身に付けなさい」だとか、「貴方も誰かの力を借りて生きているのだから、困っている人が居たら出来る範囲で助けてあげなさい」だとかと言った、その子を奮起させる様な自信なり勇気を与える教育をしなければ、ただただ依存心(無力感)のみに支配された大人を、また一人世の中に送り出す結果にしかならないのである。

そう・・・本来は子供の「自信=やる気=原動力」をたっぷり充填して世の中に送り出す事で、その親自身も自分の親や世の中や他人から受けた恩恵を社会に還元していかなければならないと言うのに、この様な「ただ子供を自分の思い通りにコントロール(支配)したいだけの」親は、自信を無くし無力感や依存心でこころをいっぱいにした子供を、遊び飽きた玩具を手放すかの如く手元から放り出すのだ。

しかも、そうしておきながら、自分の子供が何かしらの挫折を味わい助けを求めた時には、「貴方はもう大人なんだからそのぐらいの事は自分で何とかしなさい(解決しなさい)」と、冷たく突き放すのである。(そのくせ世間では持ちつ持たれつの関係性を無視した「自己責任論詐欺」を正当化する風潮が蔓延しているのだから、これがふざけた話でなくてなんであろうか・・・。)

もっとも、その様な親は、自身も世間なり誰かからの抑圧に耐え続けているか、自分の本心を強引に捻じ曲げて誰かしらに服従している場合が多いから、その反動なり復讐心を、この世で唯一自分の言いなりになる弱い立場である子供に対してぶつけるのであろう。

要は、その子供はその親自身が自らの力で解消する事の出来ないストレス感情なりマイナス感情の掃き溜めにされていると言う事なのだ。

・・・とは言え、すべての親がそうなる訳ではないのだからして、まあ良く言えば向上心が強く頑張り過ぎる・・・悪く言えば見栄っ張りで意地っ張りな人間が、自身の私権欲求なり肥大した虚栄心を満たしきれない時に、こう言った状況(負の連鎖)が生まれるのだと考えられる。

よって、そう言う意味においては、その親自身も苦しく不幸な状態なのであると言えなくもないが、そんなに余裕がないなら子供なんか作るなよと言いたいし、もし仮に間違って出来ちゃったとしても・・・。

そんな手前の鬱屈した感情を、自分より弱い立場の、しかも親(手前)の言いなりになるしかない子供にまでぶつけるんじゃねえよ!!

・・・と、私は言いたい。

かくして、そう言った依存心と無力感を植え付けられ、「自信=やる気=原動力」を持たぬまま(・・・と言うか下手をすればマイナスの状態で)社会に放たれた者が目にする光景とは・・・。

おそらくは、廻りに居る人間のすべてが、(その根拠までは伺いしれないものの)まるで自信満々で生きているかの様に見える事だろう。

だが実際には(・・・まあ怠惰でだらしない人間も居るには居るが)、数学は得意だけど料理なんか全然出来ないだとか、足は速いけど頭は悪いだとか、金持ちの息子だけど性格悪いだとか(←筆者の個人的な妬みか?)と言った、皆それぞれ得手不得手を抱えた不完全な存在に過ぎず、しかも持ちつ持たれつの社会においてはそれが当然であり、しかし唯一異なる部分があるとすれば、自信・・・とさえも呼ぶレベルのものではないが少なくとも強い依存心と深い無力感を背負わされていないと言う事くらいであろうか。

・・・否、要は、やはりその“差”こそがすべてなのだ。

更に、その様な「自信=やる気=原動力」を持たぬ者が、仲間外れにされないため見下されないため屈辱感を味合わない様にするために、見よう見まねで廻りの人間の精神状態に自身を重ね合わせようとした時、そこに一体どれだけの労力を必要とするのかと言う事を想像してみて欲しい。

ただし、もちろん手足(=潜在能力)すら無いと言う程の重い障害がある訳ではない。

・・・がしかし、かつての私(←今も?)を含めた彼ら(「自信=やる気=原動力」を持たぬ者)にとってみれば、それはまるで手足に錘や鎖を架せられたままで、幸せな人間の振り(擬態)をする行為に等しいのである。

では、そんな育て方を間違った・・・否、子供に注ぐ愛情すら持ち合わせなかった(=子供を育てる余裕などなかった)親の失敗作(=犠牲者)である彼らが、その「魂の牢獄」から抜け出す事など果たして出来るのであろうか?・・・と言う話になるのだが。

・・・と言うか、親であるとか血の繋がりだとかは、実はそんなに重要な問題ではないのである。

(その3につづく)

「訃報」

先週16日、元マリア観音の二代目ベーシストであった東谷隆司氏がご永眠されました。

氏は脱退後も・・・あれは’90年代の後半頃でしょうか、雑誌「美術手帖」のカラー企画ページにマリア観音を掲載して下さったりもして、ご自身が過去に同バンドに在籍していた事を誇りにして頂いていた様でした。

ここに謹んで、哀悼の意を表明させて頂きたいと思います。

エレクトレコード代表/Mr.エレクト

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P1010001_20121024204500.jpg

<1990年>
◆0311@下北沢屋根裏
◆■0318@新宿アンティノック(非常階段/マーブル・シープ)
0331@高円寺20000V(RUINS/他)
0401@下北沢屋根裏「悶絶和尚の宴第一章」(鉄アレイ/他)
0414@新宿アンティノック
0428@下北沢屋根裏
0526@下北沢屋根裏(JUNKS/他)
0602@下北沢屋根裏(HELLO/BASCODA/NAVAJO)

~以降は確実に東谷氏在籍時~

0705@下北沢屋根裏(バイブメン/安泰ガバメンツ)
0716@高円寺20000V
0721深夜@高円寺20000V(→VAビデオ撮影の日)
0803@京都どん底ハウス
0804@京都大学西部講堂
0806@大阪難波ベアーズ
0807@大阪FANDANGO
~ビデオ第三弾「LIVE in 関西1990年8月3日~7日やったるでぇ~」この頃発売(8月6日@ベアーズの映像)~
0814@下北沢屋根裏(青ジャージ/BLUEZ)
0818@高円寺20000V「悶絶和尚の宴第二章」(三上寛/ゆらゆら帝国)
0914もしくは15@高円寺20000V(THE GOD)
0920@下北沢屋根裏(THE SLICKS/ヴェールヴェー/NAVAJO)
1006もしくは14@渋谷ラママ(原爆オナニーズ)
1019@下北沢屋根裏(ゆらゆら帝国)
1020@新宿アンティノック(非常階段/RUINS)
~VAビデオ「CRY FROM UNDERGROUND」この頃発売(YouTubeにて視聴可能)~

<最新動画追加!!>木幡東介/マリア観音~次回ライヴ情報

■木幡東介「菊のいる空」2012年9月9日@阿佐ヶ谷Yellow Vision
http://youtu.be/3_q5ueI6_UQ
http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=3_q5ueI6_UQ

★次回ライヴは、本年3月に行なわれたマリア観音のライヴにてベースを担当して下さった清水玲氏と木幡東介によるデュオに、水晶の舟様を共演に迎えて行なわれマス。

■Yellow Vision+エレクトレコード共同企画
「科戸の風」

2012年10月18日(木曜日)

阿佐ヶ谷Yellow Vision(03-6794-8814)
http://www5.ocn.ne.jp/~yvision/newpage2.html
杉並区阿佐ヶ谷北2-2-2阿佐ヶ谷北2丁目ビルB1
(JR中央線阿佐ヶ谷駅北口を左、徒歩1分。)

出演

水晶の舟
- official web site -

マリア観音(木幡東介/清水玲)
Rei Shimizu Blog
マリア観音オフィシャルWEB SITE

開場:19時00分/開演:19時30分
料金:2500円(1drink込み)

●皆様のご来場、こころよりお待ちしておりマス。m(_)m

■Yellow Vision+エレクトレコード共同企画「科戸の風」

いよいよ明日となりマシタ!!

水晶の舟様との初顔合わせも楽しみデス!!

また、本日最終リハーサルを予定している木幡曰く、「清水氏の超絶プレイを是非観て欲しい」との事。

10年振りに行なったバンド編成でのライヴを経て更に饒舌となった木幡の弾き語りと、清水氏の超絶プレイが如何なる融合を果たすのか!?

是非お見逃しなく!!

皆様のご来場、こころよりお待ちしておりマス。m(_)m

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<追加情報>

明日、同会場にて木幡東介新作デモCD-Rを発売イタシマス!!なお、手前味噌ではありマスが、本作は弾き語り演奏形態における更なる進化ぶりが明らかに見て取れる作品となっている事を、長くその活動を観てきた私が保証イタシマス!!

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■Yellow Vision+エレクトレコード共同企画
「科戸の風」

2012年10月18日(木曜日)

阿佐ヶ谷Yellow Vision(03-6794-8814)
http://www5.ocn.ne.jp/~yvision/newpage2.html
杉並区阿佐ヶ谷北2-2-2阿佐ヶ谷北2丁目ビルB1
(JR中央線阿佐ヶ谷駅北口を左、徒歩1分。)

出演

水晶の舟
- official web site -

マリア観音(木幡東介/清水玲)
Rei Shimizu Blog
マリア観音オフィシャルWEB SITE

開場:19時00分/開演:19時30分
料金:2500円(1drink込み)

「魂の牢獄」その1

■「コタイサ」
・・・今回は、上記のつづき的なもの・・・。

まず初めに、体力が無い人間にも二種類が存在し、「体力が無い人」と、「体力に自信が無い人」とに大別されるという事を前提として・・・。

つまり、「体力が無い人」は体力のみを鍛えれば事足りるが、「体力に自信が無い人」に対しては、まずは「やる気」と言うかその「原動力」と言うか「可能性に対する信仰」を身に付けさせなければならないのだから、コストのかからぬ幼少期ならばともかく、ある程度成長してしまってからは、そのハードルを越える以前にその眼前に立ち塞がる殻を壊すのは容易ではないのである。

よって、そう言った自分に自信のない人間、すなわち根拠の有る無しに関わらず自己の存在意義を認められた経験の無い人間が、自身なり他者にそれ(自己の存在意義)を認めさせようとした場合に必要なコストは、そうでない人間(=自分に自信のある人)に比べ、膨大な量になると言う事。

・・・否、もっと正確に表現するならば、コストがかかると“思い込んでいる”・・・とでも言い換えるべきか・・・。

よって、鈍感(=野蛮)な人間が、如何に「誰だってやれば出来るはずだ」・・・などと言った妄言を繰り返そうが、そう言った個体差(=現実)を無視し続ける限り、期待した成果が出る事すら望めないどころか、余計に自信をなくすと言った逆効果にしかならない場合も多々あるのだ。

しかるにまた、その様な、置かれた環境に左右されて自信を失わされた者、自己の存在意義を無条件に認めてもらえず愛情欠乏状態のまま育ってしまった者、もしくは親なり親代わりの保護者から受けた抑圧により人間の尊厳を奪われてしまった者、そう言った人達にしか獲得(もしくは到達)し得ない特殊な能力と言うものがあると言うのも、また事実。

すなわち、彼らにしてみればスタート地点に立つ事でさえ困難だと言うのに、更に他者からもしくは社会からその存在意義や価値を認知してもらうためには、それこそ血のにじむ様な苦労を自己に課す必要がある(と信じ込んでいる)のであるからして・・・。

また、その反対に自信に満ちた人や愛情を受けて育った恵まれた人は、例えそれが勘違いや思い込みであろうとも、既に自己の存在意義や価値を他者なり社会から認められていると信じきる事が出来るゆえ、わざわざそれ以上の“何か”を手に入れたり築き上げる必要には迫られてなどいないのだ。

ゆえに、目の見えない人の聴覚や嗅覚が異常に発達するのと同様、欠乏や欠陥を補うためにつぎ込むコストや情熱・・・否、執念こそが、この世に天才を生み出す悲しき構造であると、私は推測するものなのである。

・・・が、しかしまた、そこにも分岐点は存在し・・・。

その様な天才を生む可能性、すなわちマイナスからのスタートを自身に課せられた者であっても、その抑圧なり重圧に負けてしまった場合・・・。

無気力となった人間は、鬱状態となるか、目先の誤魔化しに耽溺し、積極的にせよ消極的にせよ自らの命を粗末に扱う結果となり・・・。

怠惰となった人間は、他人を騙す(=他者の尊厳を踏み躙る)事さえ厭わぬ様になり、更には自分をも騙す(=自己正当化する)様になり、それが奇跡的に上手く行けば良いが、そうでなければ遅かれ早かれ先の無気力状態に陥る事であろう。

しかし、それも無理のない話・・・。

何故なら、水のない水槽でいくら金魚が頑張った所でその生命を維持するのはおよそ不可能である様に、その大元の構造を変えずして自分一人がいくら努力しても、それで報われるのは本当に極々一部の者であり、もし運良くかりそめの権威を得る事が出来たとて、その影響力が社会の構造自体を変えるまでに至らなければ、常に自身の立ち位置は不安定なものでしかないゆえ、自信のない人間は一時も安穏とした気分には浸れるはずもないのである。

・・・言うなれば、それは単に、最高級かつ最高品質のドラッグ(=ごまかし)を手に入れたに過ぎないと言う事。

だがしかし、また別の言い方をするならば、幼少期に愛情なり自信を充分に得られなかった者は、死ぬまでないものねだりを繰り返す人生を送る羽目になると言う事であろうから、それはそれで成功の範疇と言えるのかも知れない。

・・・とは言え、そこから脱け出せる術もないではない。

そしてそれが何かと言えば、「自分で自分を誉める(認める)」・・・と言う至極単純な行為なのであるが、そもそも自信の無い彼らにそれが出来れば元より苦労などないのだ。

では何故、それが容易ではないかと言えば・・・。

要するに、「人間は一人では生きられない」だの、「人間は他者の存在を必要とする」と言う教え・・・否、刷り込み(=洗脳もしくは脅迫)がその大きな要因であると考えられる。

(その2につづく)

「コタイサ」

人には、「個体差」っちゅうもんがありマシテ・・・。

それにはまず、親から受け継いだ体格、体質、体力、その他・・・。

要は、生まれた時点、更にはその後の生育環境によって、人生の大枠は運命付けられると言っても過言ではない。

・・・しかるに、それらはある程度改善可能だったりもするし、例えばモーター・ボート・レースの競技者は身体が小さくないと駄目だったりなんかするゆえに、仮に身体のサイズが小さいなら小さいなりにそれぞれの得手不得手を開発する事も出来よう。

すなわち、決してその時点で幸不幸が決定するのではなく、それはあくまでも選択肢の幅や種類が限定されると言う問題に過ぎないとも考えられる。

ところが、「個体差」を生み出す理由として、実はもっと深刻な問題が存在するのだ。

ご存知だろうか?現役プロ野球選手だかプロ・スポーツ選手だったかの生まれた月を調査してグラフにした所、非常に面白い結果が出たと言うのを。

それは、彼らには圧倒的に4月生まれが多く、その次が5月~6月~7月と順々に減って行き、(28~29日しかない2月が最低ではあるものの実質的には)3月生まれが最も少ないと言う統計結果なのだ。

要するに、これは学校教育における一学年が4月から始まると言う事に起因しており、4月~翌年3月生まれの子供達を同学年として所属させるがゆえに、単純に考えても最大11ヶ月は発育状況が異なる者同士が同列に並ばせられて競わされるために必然的に芽生える差異で、子供時代の1年間の発育の差と言うものは相当な開きがある事を顧みれば、これは大きなハンディ・キャップであるとさえ言えよう。

しかし、これはそんなに単純な話ではないのだ。

確かに、スタート地点における差異が生み出す格差と言うものは大きい。

・・・が、最も重要なのは、子供自身がその時点でスポーツや運動に対して「自信を失ってしまう事」であると、そこでは説かれていたのだ。

言われてみれば、子供に限らず人間なんてものは、自身が得意であると考えるものや親なり他人から誉められた事柄に対しては更に意欲を掻き立てられて、そこに時間と労力を積極的につぎ込むがゆえに、更にそのスキルがアップすると言った具合に、自然とプラスにプラスを重ねる事が出来るもの。

そしてその逆に、成果も上がらず誉められもしないものに対しては自信など持ちえぬがゆえに、意欲や情熱など湧きようがないと言う結果にも容易に繋がるのだ。

ゆえに、ただでさえスタート地点がマイナスなのに、そこへ更にマイナス感情を持ったままで何かしらの改善策を試みた所で、その成果が出るなんて事は有り得ようはずがないのである。

ましてや、マイナス人間がぐずぐずしているうちにも、プラス人間は次々とプラスにプラスを、喜びに喜びを、快楽に快楽を、自信に自信を積み重ねているのであるからして、もし仮にそいつらを追い越すためのエネルギーをそこに費やす事が出来る様な負けず嫌いな人間であれば、その様な過剰なエネルギーはもっと別な、もっと自分に向いている目的なり方向にそれを費した方が得策である事は言うまでもない。

言うなれば、良くも悪くもその人自身の向き不向き・・・ひいては運命を決定付けるものは、生まれた時点での格差もあるが、その後の生育環境にも大きく左右されると言う事。

また、それだけ「自信」、そして「こころの問題」と言うのは人間に大きな作用をもたらすものなのである。

だから、そう言った確かなデータがあるにも関わらず「個体差」の存在を認めようともしない野蛮な人間が、いくら「誰だってやれば出来る」などと言う妄言(根拠なき暴言)に近い精神論を口にしようが、そこに横たわる意識の違いや差異が埋まる事など永遠にないのだ。

更には・・・学校生活における競争や比較と言う名のハードル以前に、家庭環境・・・すなわち子供が親なり親代わりの保護者から受ける教育なり躾なり処遇と言うものは、表面的な言葉や行為そのものの価値や正否だけでなく、それが真の愛情(←自己愛ではく他己愛)に裏付けられているかどうか?と言った精神的な面も大きく、ましてや年端もいかぬ子供にはその真贋を判断する能力など備わっていないのだから、問題は実に複雑・・・否、子育てと言うものは本当に大変と言うか、人生の一部(時間と労力)を捧げる覚悟がなければ出来ない仕事だと、痛感させられる次第なのである。

(ちなみに、ヒカルゲンジ出来ちゃった結婚のムスコは「俺が死ぬか親父を殺すしかない」と発言しており、そこまで自身の置かれた状況を現実的に把握出来ているならば、彼は自らを救う事が出来るであろうと私は考える。・・・と言うか、そんな親なら居ない方がマシだっちゅうの!!)

諸説あるが、生まれてから3歳まではとにかく誉めたり甘やかすのが良いと言う。

すなわち、その時期に認知欲を満たしてやる(=無償の愛情を注ぐ)事によって子供は自信(←例えそれが根拠のないものだとしても)を持つがゆえに、言わば燃料タンクを満タンにしたフラットもしくはプラスの状態から物事に取り組む事が出来ると言うのである。

だがしかし、これがある程度成長してしまうと、子供自身が自分(の存在価値)に自信を持つために(=他者から認知させるために)クリアしなければならないハードルやノルマが増えるし、親がそれをしようにも、赤子の頃なら誉めるだけで済んだから安上がりであるが、大人になればなる程その要求は増大するがゆえに親もそれに対応し切れず(・・・と言うか、下手したら「もう大人なんだから」と突き放す・・・)、かくしてまた一人アダルト・チルドレンが世に放たれ、そしてまたそう言った「自己愛を満たしきれていない人間」が親になり子育てをすると言った悪循環=負の連鎖が繰り返される訳なのだ・・・。

つくづく思うが、人間なんて単純なもので、ただただ「誉められたい」か「認められたい」か「愛されたい」だけの生き物。

ならば、自分が他人に対してそうすれば良いのだが、自分に“無いもの”はあげられないからね。

残酷な言い方をするが、マイナス人間がどれだけの努力や苦労を重ねて自身の能力を向上させたところで、「愛されて育った人間の笑顔ひとつ」には敵わないのだと言うのが現実なのだ。

これから親になり子育てをする方々は、是非その点をご一考願いたいもの。

だからせめて、自分の子供にまで負の遺産を相続させる(押し付ける)のはやめにして、その様なマイナス感情は自身が独りで抱いて死んで行って欲しいと私は願う。

いずれにせよ、「地に足をつける」と言うが、プラスであれマイナスであれその現状を直視し、そこをスタート地点と定める事が出来れば、あとはそこに何かしらを積み上げて行くだけの話。

マイナス感情に振り回される事は、決して自分を幸せにはしないし、他人をも犠牲にするだけだ。

よって、必要なのは「個体差」を認める事・・・すなわち「既に変えられぬ過去=自分ではどうする事も出来ない障害」にいつまでも執着する事なく、そんな不可能な願望や妄想はさっさとあきらめて、そう言った不遇な運命さえをも含めた自分自身を素直に受け入れる(=認めてやる)事であろうか・・・。


<関連記事(未完)>
■「天才論」①「天才と凡人の違い」
■天才論②「天才は、遠くにありて眺むるもの。」
■天才論③「天才と天然の違い」
■天才論④「天才の定義」
■天才論⑤「天才とエリートの違い」
■天才論⑥「魅力と能力」

「自己責任論詐欺」

事故責任はすべて国民に背負わせ、自己責任論を国民に押し付ける、それが現代の身分制度(コネ社会)における特権階級のやり口。

ところで、そもそも“価値”なんてものは、個体それぞれに認識が異なってしかるべきであり、もちろんそれが勘違いであったり思い違いであったりはするものの、寿命等と言った普遍的な事柄を除けば、それがすべて共通する訳ではない。

・・・にも関わらず、それをさも共通認識であるかの如く流布し、刷り込もうとするのが、一神教ファシズム詐欺支配の正体なのである。

そしてまた、詐欺行為の本質を一言で言い表すならば、「大した価値のないものを、さも素晴らしい価値がある様に見せる」事に他ならない。

結論から先に述べるならば、「個人の努力不足」をその原因とする「自己責任論詐欺」を行なう者自身が、そもそも「個人の努力」などと言うものに価値など見出していない・・・と言う事。

すなわち、詐欺師が「価値のないもの」をさも「価値があるもの」の様に見せかける事によって利益を得るのと同様に、「無価値な努力=無駄な労力」を私達に強いる事こそが、特権階級の者達の利益に結びつくって寸法なのだ。

つまり、特権階級にとってみれば、庶民がいくら努力を重ねた所で、現体制(=自分達の地位や権益)を脅かす程の脅威を感じるどころか、むしろ搾取する者にとってみれば、それ(=無駄な努力)以上に美味しい収穫物はないのである。

よって彼らは、構造上の欠陥(=身分制度)には一切言及せず、しかも自分達自身は努力なんぞと言うものにこれっぽちの価値すらも見出していない癖に、生まれつき備わった個体差や運命を乗り越える事の出来ない者の不幸や不遇を「努力不足」の一言で片付けるのだ。

しかるに、そこで問題視されているのは「成果が上がらぬ事」そのものに過ぎず、もし本当に「努力の価値」なんぞを認めているのであれば、「成果が上がらなくてもその努力の量や度合いを評価すべき」であろうし、「努力もせずに現在の地位や権益を獲得している者」に対しては徹底的に非難すべきではないのか?

要するに、自己責任論者は「努力不足」がどうのこうのと言いはするが、その実、努力の量や度合いを推し量る能力もなければ、それ以前にそんなものを評価するつもりなどさらさらない、すなわち「努力の価値」なんぞ元から認めてなどいない・・・と言う事なのである。

・・・もっとも、だからと言って私は、実際に成果が上がらない理由が「本人の努力不足」に過ぎない怠惰な人間を弁護・擁護するつもりも毛頭ない。

重要なのは、「構造上の欠陥(=身分制度)には一切言及せず、問題の元凶や責任を一方(しかも不利な立場に居る者)にのみ押し付ける事」・・・なのである。

それにしても、それならば最初から正直にこう言ってもらいたいものだ。

「成果の出ない無駄な努力なんぞに価値はない」

・・・と。

しかし、当たりくじが出ないと解っている宝くじなんぞ誰も買わないのと同様に・・・。

それがどれほど儚い可能性であろうとも、「自分も努力すればもしかしたら・・・」と思わせなければ、ゲーム(=搾取のシステム)は成立しないのだ。

かくて、個人の私権欲求に過ぎない欲望を美化した「夢」なんぞと言う言葉を弄し、今日も明日も人々は「無駄な努力」・・・すなわち特権階級に上納金を献上する行為に明け暮れるのである。

・・・とは言え、冒頭で述べた通り、そもそも“価値”なんてものは、個体それぞれに認識が異なってしかるべきであり、もちろんそれが勘違いであったり思い違いであったりはするものの、寿命等と言った普遍的な事柄を除けば、それがすべて共通する訳ではない。

・・・のであるからして・・・。

現代の身分制度における擬似(=詐欺)的階級闘争に労力(=生命であり財産)を吸い上げられるためにではなく、あくまでも、生まれつき備わった個体差や運命を乗り越えるために自身を鍛えたり学ぶ努力をすると言うのであれば、そこに価値を見出す事は決して悪い事ではないのではないか?

・・・と、私は考える次第。

いずれにせよ、「価値の有る無し」は、誰かに押し付けられる種類のものではなく、自分自身で決定すべきである・・・と言うのが、今回の主題であろうか。


<関連記事>
■「死んだ部品=階級社会(搾取システム)維持装置」
■「社会の循環構造(=共同体)を破壊する一神教ファシズム支配」