Mr.エレクトの独り言 2013年08月

Mr.エレクトの独り言

自主レーベル及び、日本人中古貴重盤ショップ、『エレクトレコード』オーナー、Mr.エレクトによる独舌日記!!

「日本国民の皆様へ」(国連関連の記述部分を一部改訂)

大量破壊兵器あるある詐欺でイラクを攻撃する口実をでっち上げたり、反政府軍を装ったテロリストを送り込み内戦を起こし、マスコミを使って独裁国家のレッテルを貼り、リビアを攻撃する大義名分を手に入れてカダフィ大佐を公開処刑したあの蛮行が、シリア/アサド大統領に対しても、また繰り返されようとしている。

<リビア/カダフィ大佐関連記事>
■翻訳ミス部分改定済■「カダフィの真実を知ってほしい リビア 新世界秩序 NATO」
■「シロアリ駆除」番外編~「シロブタ駆除」
■「私達の無知と無関心によって大量虐殺は正当化される」
■「打開策が必須」

そう、実際には、世界中のマスコミ報道が連日の様にアサド大統領/シリア政府軍に対するネガティヴ・キャンペーン(政府が悪であるとの刷り込み)を張りまくり、最後には反政府軍と言う名の単なる傭兵テロリスト集団を鎮圧しようとしているだけのアサド大統領/シリア政府軍が一般国民を虐殺したとの嘘情報(化学兵器使用疑惑)まで流し、今回は米軍が、いきなりシリアに猛爆撃を仕掛け、その国のリーダーを惨殺しようと言う訳なのである。

そして更に国を破壊したその後は、復興支援と称してシリア国民に何の権限も無い中央銀行を設立、その国を借金による奴隷支配下に置く算段なのだ。

百歩譲って、その反政府軍とやらが本当にシリアの国民で構成されており(どこにそんな物騒な玩具を買う資金があったのかは知らないが)、独裁政権を倒そうと武装蜂起したのだとしても・・・。

その国にはその国のやり方があるし、その国にはその国の歴史があるし、その国にはその国の文化風習があるのだ。

それを、まずは武装蜂起した反政府軍側を鎮圧し裁判を行なう等の正当な手順も踏まず、その国のやり方や歴史や文化風習を無視して、いきなり破壊しにかかるとは、乱暴過ぎるにも程がある。

ましてや、その反政府軍なる武装組織は、そもそも元から彼らが送り込んだものなのである。

これでは、「家の中で暴徒が騒いで困ってる」と警察に電話したら、乗り込んだ警察がいきなり“その家の主人”をピストルで撃ち殺し、家に火までつける様なものではないか!!

また、政府軍の化学兵器使用疑惑に関して異議を表明しているのが、欧州の銀行家の傀儡国家ではないロシアのプーチン氏だけであり、常任理事国対応協議においても、やはり反対票を提出したのは独立国家のロシアと中国だけである事から見ても、国連なんぞと言った茶番組織が欧州の銀行家の傀儡でしかない事も、ここに如実に示されている。

独立国家を爆撃して良いかどうかを勝手に決めようなんて、国連の存在意義って一体何?

国連は世界平和を推進するためにあるんじゃないの?

ここで一旦話変わって・・・。

何ヶ月か前に、あの“ソーゾー君”氏が引用されていたあるエピソードに、私は強い感銘を受けたのであるが、最近、話の流れから、またそのエピソードを引用した書込みがあったので、ちょっと引用してみたいと思う。

<ソーゾー君関連記事>
■「ソーゾー君の12項目」
■「ソーゾー君の12項目」 その2
■「セールスマンは売国奴」

~以下引用~(1箇所のみ当ブログ筆者が誤字訂正済)

欧州の銀行家の目的は奪い殺し破壊し支配する事。

俺達の全ての権利と財産を奪い奴隷化する事が目的だぜ?
「奪えないなら殺して破壊する」

歴史は連続して起きるぜ?何度同じことを繰り返す気だ?

昔の日本人は抵抗したぜ?結果的に焼け野原にされて壊されたがね・・
だがな、歴史までは消せねーぜ?
日本人=我々の先祖達の戦いの歴史は俺の頭に記憶されてるぜ?

「もう戦争は続けるべきではない・・特攻を行いフィリピンを最後の地にしなければならない。
しかし、この特攻は成功の見込みはない。では何故このような事をするのか?
ここに信じて良い事がある。
日本が危機的状況になった時、日本の若者が命を懸けてこの国を守ろうとした歴史が残る限り
百年後、千年後に日本民族は必ず復活するだろう。」

↑お前らに特攻隊の託した思いは理解できないだろう?

歴史を連続して起きるものと理解され調べられる事を恐れてるのはお前等だアホ。

歴史を知れば予測は出来る。
「人から奪い殺し破壊して支配する為に発案された仕組みは
法制度化されても制度化されてもその目的は変わらない。」

~中略~

お前には「先人が後世の俺達に託した思いや願い」が伝わってない事が良く分かったよ・・

日本人の全てがお前のように歴史を喪失し先人の業績=誇りを忘れた時、先人は無駄死にになり
欧州の銀行家が強制した自虐史観教育=3S政策は完成し日本民族の復活は無くなるだろう・・

~引用終了~

★引用元★
■電脳真理研究室
【中央銀行・発行権】黒幕は銀行家2【信用創造】(このスレのレス894から)

もちろん、神風特攻隊なんぞと言うキチガイ染みた戦法が理に適ってるはずなど当然無いし、もうほぼ敗戦はほぼ確定している様な状況なのだから、更に尊い命を無駄に失う必要などどこにもないはず。

・・・が、しかし、引用文中にもある・・・。

「日本が危機的状況になった時、日本の若者が命を懸けてこの国を守ろうとした歴史が残る限り、百年後、千年後に日本民族は必ず復活するだろう。」

・・・との言葉にも示されている通り、そのために・・・否、何よりもまずは自分の愛する両親や妻や子供、そしてまた自分が生まれ育った町や村の人達の将来(や戦後の扱い)に思いを馳せたがゆえに、彼ら特攻隊員は、自らその若い命を一瞬のうちに散らせる覚悟を決めたのである。

世界で初めて、まだまだそれが極当たり前に行なわれていた時代に、有色人種に対する差別撤廃を国連で訴えたのも、日本だ。

そこで、これらを怖れた米国(=欧州の銀行家の傀儡国家)は、日本に対しては特別に長い時間をかけてじっくりと、日本に住む国民を骨抜きにする計画を実行して来た訳なのである。

日本国民の皆様!!

今回シリアで行なわれている様な、こんな蛮行がこれから先も続けられて良いものなのでしょうか!?

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(私では圧倒的に知識不足なので、もっと詳しく知りたい方は、上記リンク先における“ソーゾー君”氏の書込みを、ご自身の目でご確認頂きたく・・・。)

「夏風邪」

この週末は、夏風邪引いてダウンしてマスタ。(TT)

冬の風邪は、熱いホット・レモンや、おろしニンニク入れた味噌汁飲んで身体暖めて、マスクして大人しく横になってりゃ、そのうち汗と鼻水が大量に放出されてたいてい治るんだけど・・・。

まっ、簡単に言えば寒い冬の過し方をちょっと大げさにエスカレートさせるだけっちゅうか・・・。

だけどその点、夏の風邪ってのは、くそ暑い夏の過ごし方に逆行した行動を取らなきゃならない訳だから、風邪引いてただでさえ苦しいってのに、余計大変だよね。

あと、やっぱエアコン効き過ぎた部屋で生活してると、ホントに汗が出にくくなっちゃうみたいよ。

ほら、OLサンとかがよくなる症状ってあったじゃん?

何だっけか・・・?

う~ん・・・トレンディ!!(オチに意味無し)

「20周年」

忘れてた!!(@@;)

今年は、エレクトレコード創立20年目だったよ!!(^^;)

これまで、色々な事がありマシタが・・・。(:;)

現在、マル秘プロジェクト実現に向けて、色々と計画中!!(^^)b

・・・と言うか。(・。・)

資金繰りのために奮闘中?(TT)

皆様、乞うご期待下サイませ!!(^^)/

2013年度版「現代音楽文化論」

■良書紹介①土田世紀「編集王」
上記のつづき的な・・・

さて、それでは文化が繁栄している状態とは如何なるものかと考えるならば、それは「百花繚乱」に尽きるであろう。

ただしそれは、“表現者の数”ではなく、“種類の多さ”と言う意味においてであり、それこそがその時代や地域の文化度を量るバロメータなのだ。

そう考えるに、誰もがステージに立ちライヴをする事が出来、誰もがCDなりインター・ネット上なりで作品を発表する事が出来る現在の状況は、一見、音楽文化の繁栄の結果と見て取れなくもないが、実際には、「その能力や資格の無い人までもが表現者としての立ち位置を確保出来ているだけ」に過ぎないのである。

要するにこれは、リスナーにとっての音楽の楽しみ方が一つ増えたに過ぎない状態・・・すなわち、それまでは音楽を聴く、CDを買う、特定のバンドを応援したりスタッフになる、写真を撮影したりミニコミ等(現在ではブログやウェブ・サイト)を作り多くの人に紹介する・・・その他が音楽に接し関わる方法であったのが、そこに更に、ライヴハウスに出演し料金表示をする事でプロと同様のスタイルでライヴ活動を行なう(友達に観せる)と言う行為が加わったに過ぎない・・・と言う事。

更に言えば、本来はリスナーの立場に甘んじなければならなかった人達が容易にステージに立ち続ける事が出来る様になったため、「潔くあきらめる」必要がなくなり、もしかしたら音楽を正しく批評出来る良きリスナーとなるはずだった人、もしくはライヴ企画者なりスタッフなりカメラマンとしてその能力を発揮したかも知れない人、ジャケット・デザインやイラストレーターとしての才能を開花させたかも知れない人、あるいは音楽活動を続けるためにやむを得ずやってる労働などではなくもっと別の仕事で成功を得られたかも知れない人もまた、それぞれがその可能性を閉ざされてしまっていると言う事も考えられなくはないのである。

そう言った意味においても、「自然淘汰が無い事」がもたらす不幸とは、とても一言では言い尽くせないのだ。

そもそも、「文化の繁栄=音楽なり演目の種類が増える事」が起きないのであれば、「ステージに立てる人間の数」は制限されていた方が、「切磋琢磨し合い淘汰された後の良質な結果」しか人前に姿を晒す事が出来なくなる訳なのだからして、となれば自ずと、ある程度どの店に行ってもどのCDを買っても、リスナーが「良質な結果に出会う機会が増える事」にも繋がるのである。

しかるに現在の状況は、「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉通り、良質な表現者なり作品を人目に触れにくい様に隅に追いやり、リスナーもまたそう言った出会いから遠ざけられてしまう結果をもたらす元凶となってしまっているのだ。

・・・とは言えもちろん、過去の歴史において、必ずしもその「淘汰のされ方」が絶対的に正しかったとは言い難い。

例えば、宣伝力(=資金力やコネ)と言った音楽表現自体とは無関係な要素の度合いが権威を振るって来たと言う現実も見逃せないし、安易な人気取りが幅を利かせる事による劣化の悪循環、コストを削る事による品質の低下、すなわち“利益至上主義”により、「経済が文化を抑圧・迫害する状況」があったと言う事もまた事実。

しかし、それでもなお、やはり実力のある者が認められる可能性が高いのは当然の事ながら、時流に合わず人気が得られ難いマイナーなものも(真っ当な人生を棒に振る)覚悟さえあれば音楽活動を続ける事が出来、そしてまたそれを成立させる事も不可能ではなかった。

それを解りやすく言うなれば、前者(実力者)は限られた種類の中での本質的な競争に打ち勝って来た者(=品質の維持と向上に貢献)、後者は大手スーパーでは売っていない商品を細々と売り続けている個人商店(=文化の繁栄すなわち品種数の確保と拡充に貢献)みたいなものだとでも言えようか。

ところが、現在の状況はと言えば、宣伝力(資金力やコネ)が無くとも良い代りに、(品質の維持・向上に貢献する)実力が無くとも、そして(文化の繁栄すなわち品種数の確保・拡充に貢献する)覚悟すら無くとも、いくばくかの出演料なり活動資金さえ捻出出来れば、表現者と言う立場を確保出来てしまう訳なのである。

要は、(その職種を蔑視する等の悪意は無いが・・・)単純労働で稼げる程度の金をつぎ込みさえすれば、人気や実力など無くとも、品質の向上や品種の拡充に貢献せずとも、誰もが気軽に文化の体現者なり発信者になれると言う事。

・・・とは言ったものの、学校の教室内を見渡せば、昔は「父親が工場勤めの子」も居れば「八百屋の子」や「薬屋の子」等、自営業(=独自の価値観で仕事をしたり家庭を作る)の子も多かった訳であるが、今は大型店や大手チェーン店の台頭により自営業者は減る一方で、殆どは「雇われ人の子」なのであるからして、その様な価値観が流行の主流を形成している状況の中から独自の発想や新しいアイデアが次から次へと沸いてくるはずなど有り得やしないのだ。

ましてや、ここ最近顕著に見られる、「多数派に所属する事」そして「少数派を疎外する事」によって優越感や安心を得ると行った風潮(同調圧力)の支配・管理下にあっては、「成長=独立の度合い」などではなく、「成長=従属の度合い」なのであるからして、「独自な性質や価値観を育む事」なんぞ忌むべきものでしかないのであろう。

また、言い方を変えるならば、快楽を再生産するプレイヤー(消費者体質的音楽家)ばかりが増えて、独自もしくは新たな快楽を開発するクリエイター(生産者体質的音楽家)が芽を出し難い状況にあると言う事であろうか・・・。

もし仮に、これは良く言われる事だが・・・音楽のジャンルや表現形態は出尽くして、もうその種類は増えない・・・と言うのであれば、品種毎に自然淘汰が行なわれる事によってそのクオリティが保たれて行く方が、まだまだ健全であろう。

・・・がしかし、良くも悪くも淘汰される事が無い時代、もしくは、あるとしても「単純労働が出来る体力と精神力」程度しかクリアすべき基準の無い現代においては、その様な切磋琢磨(健全な競争)すらも行なわれないとなれば・・・。

宣伝力(=資金力やコネ)のある者、すなわち音楽表現自体とは無関係な要素の度合いがますます権威を振るう様になる事は必然であり・・・。

市場を独占するためには、現在売り場に並んでいる商品とは異なる新たな価値観に基づく商品の台頭を妨害し続ける必要もあるゆえ・・・。

音楽のジャンルや表現形態が頭打ちになっている訳ではなく、実際には大型店や大手チェーン店が売れるもの(=大企業が売りたいもの)しか棚に並べない・・・と言うだけの話であり・・・。

音楽のみならず、“経済の支配”による“文化の発展への迫害”は留まる事を知らず・・・。

文化の衰退や停滞は、人々から人生における潤いを失わせ、感動するきっかけを奪い、自ら考える事を忘れさせ・・・。

やがて人々は、集団に従属する事(=独自な性質や価値観を育まない事=種類を増やさない事)のみならず所属する階級を固定される事に安心や喜びを感じる様にさえなるのであろう。

悲しいかな、権威や権利のみ振りかざす実力の無い支配者は、その地位を脅かされる事を恐れるあまり、多様な価値観を認めない。

よって、その様な弱者に率いられた種族なり集団は、予期せぬ事態に対応出来ず、いずれ滅びる宿命であろう。

そして、「多様な価値観による独自な進化=種類が増える事」こそが文化の発展であり、その種族なり集団の繁栄に繋がると言う点を鑑みるならば・・・。

文化の衰退や停滞とは、人間性の放棄であり、亡国の序章に他ならないと、私は考える。

ゆえに、もしもその時代なり地域の文化度が高いとするならば、その定義とは「異なる価値観を認め、互いに尊重し合って共存している状態である事」だと言えようか。

最後に、「良い音楽とは何か?」と問われたならば、それは、集団や特定の階級にヒトを隷従させるためのものなどではなく、独立を志す人間を勇気づけ成長させるものである・・・と、私は答えるであろう。

良書紹介①土田世紀「編集王」

さて、私の人生に多大な影響を与えた本(←つっても漫画だけどね。)とは、梶原一騎原作の「柔道一直線」な訳だが、もっとも当時は「葉隠れ」だとか宮本武蔵の「五輪の書」なんかを解りやすく解説した本なんかも読んでたから、これはそれらをもっと解りやすくダイレクトに伝える役目を果たしてくれたって所だろうか。

そして次に、“気付き”・・・と言うか、頭をガ~ンと割られるくらいの衝撃を受けたのが、福本伸行原作の「カイジ」であり、更に強く共鳴し感銘を受けたのは同氏原作の「アカギ」(・・・と言うより「天」の後半)であった。

それで、今回ご紹介させて頂きたいのは、引越しの最中に在庫の山から初めの方の数巻のみ出てきた土田世紀原作の「編集王」に関してなんだけど、久々に読み直してたら面白くてやめられなくなって続きがどうしても読みたくなり、ちょうど安いのが見つかったもんで中古で全巻揃いを買っちゃったって訳なのであるが・・・。

これの、どこがどう面白いのかと言えば、ただ単に受動的に快楽を享受出来る部分にスポットを当てたい訳では当然なく、自分の立場上、非常に共感してのめり込まされたと言うか、まあ要するにこれって出版業界(←主に漫画)の裏方にスポットを当てたお話なんだけど、その状況や構造が、今の音楽業界と良く似てるんだよね。

まっ、もっとも出版業界だろうが音楽だろうが、どちらも文化だとか芸術だとかに片足を突っ込んでいながらも、経済至上主義もしくは効率至上主義ってやつに支配されきってるって意味においては、そう大して違うはずもないんだけどさ。

だから私はこの本を、クオリティを下げないための努力を殆どやっているのに報われない作家なり表現者の方々へ、そしてこんな劣悪な状況下においてそれでも何とか己が信ずる作家なり作品を支え日夜抵抗し続けてる裏方の方々に、オススメする次第。

・・・と・言・う・か・・・!!

実を言えば、娯楽や快楽を受動的に享受する事のみで満足を得る“消費者”もしくは“消費者体質”の方々にこそ、ホントは、この漫画を読んでもらいたいんだけどね。

すぐ目に入るものや煌びやかなものや美味しそうなものって、そこらじゅうに溢れてる訳なんだけど、それって“認知されて”大手を振ってる訳じゃなくて、“認知させるため”に大手を振ってる訳なんだからさ。

売れてるものを読んでそれを楽しめる感性があれば、そりゃ安心だろうし、大多数の人間が良しとするものを知っておけば、集団内での会話にも困らないだろうけど・・・。

そもそも、国や地域ごとに倫理観や価値観が“違う”からこそ、その国や地域ごとに異なる文化が存在する訳で、更には集団生活に馴染めず迎合出来ないからこそ、自身が生み出した作品を媒介にする事で何とか他者との意思疎通を叶えようとする芸術家が生まれる訳で。

・・・にも関わらず、文化や芸術を売上や人気等の数字で評価したり、その獲得数による順位を発表する行為の、何と愚かしい事か!!

・・・とは言え、現実的にはその数字や順位でしか文化や芸術の善し悪しを判断出来ないだけでなく、まるで当然であるかの如く大多数の人間にそれが認知されているとするならば・・・。

それは文化や芸術の堕落・・・否、そんなものが文化や芸術を評価する基準などでは絶対ない訳なのであるからして、それは「娯楽(外部刺激)に依存した人類の堕落である」・・・としか言いようがない。

何故なら、本来の文化や芸術があるべき姿とは、人類が“あくまでも個別に”その特性なり能力なりを高め成長するためのきっかけであったりその道筋を指し示すもの、もしくは孤独を癒し勇気付ける役割を担うものであり、要は“それぞれが独立し、なおかつ多種多様である事”こそが、最も肝心な要素なのである。

また、既に図書館に並んでる本なんぞ、もう必要ないのであるからして、同傾向ならば更にその奥深くへと細分化して行くなり、あるいはそれまでになかった題材なり観点を指し示すと言った“進化と発展”及び“未知なる快楽の開発”の要素が不可欠となる訳で・・・。

すなわち、文化や芸術が目指す究極の目標とは「人と人との違いを認める社会を作る事」に他ならず、人類がそれぞれ個々に自身の資質なり嗜好を最大限に活かし、その種類が人類の数と同等に・・・しかも独立し成長した個別の人種として多種多様に存在し得る世の中にする事・・・なのではなかろうか・・・とも。

ゆえに、それらを踏まえて考えるならば、「経済的効果や集まった人の数で順位を決める事」、そしてそれを大衆に向けて喧伝する事によって更に人間が持つ価値観の均一化を図ろうする事が、如何に愚かで野蛮な行為であるのかと言うのが解ろうと言うもの。

文化や芸術は、人間を鎖で縛って支配するものでもなければ、人々を檻や囲いに閉じ込めて管理するためのものでもない。

文化や芸術とは、個人の存在を証明するためのものであり、他者と敵対したり迫害する事なしに、自身の独立を表明するためのものなのである。

集団なり大多数に所属する事でしか自己の存在価値を確認出来ない様な人間を、誰が尊敬するだろうか?

一人の人間の価値観なり人生の大部分が、過去の生育環境なりその人が置かれた社会や時代状況によって形作られると言う点に関して、私に異論はない。

・・・がしかし、少なくとも、その“くびき”から逃れるためのきっかけとして文化や芸術が存在するのだ・・・と言う考えを改めるつもりも更々ない。

・・・と、漫画の主題とはいくぶん話がそれてしまったなと言った感も否めないが、「編集王」には、“文化や芸術が経済によって迫害される理不尽な構造”と言う現実の状況が、溢れる愛情とユーモアを織り交ぜながら描かれているのである。

ただ最後に、あえて難を言うならば、(物語内においての)悪役にもまた“理由(なり原因)がある”と言った“救い(もしくは願い)”が込められている点が少々気になりはしたが、しかしこれは作者である土田世紀氏の慈愛に満ちた人柄によるものなのであろう・・・。

この漫画、「編集王」は、群れに属する事及びそれを再確認する事で安心を得る消費者体質の人間が、一時の現実逃避をするための娯楽作品ではない。

これは、何度倒され打ちのめされてもなお、再び厳しい現実に立ち向かうための勇気を指し示す、文化や芸術に関わり支援している人達に対し最大級のエールを送る作品なのである。